陸奥真野草原考(7)(移動地名の謎) 小林勇一作

●単純に草原は萱原(カヤハラ)とはならない

○ 草野姫(かやのひめ)
○ 移動地名
○ 萱がなびいていた


草原と名付けられたのはなぜか、単純に草原は萱原がなびいているからと解釈していた。しかしまとめるとこの三つの説が成り立つ。金銅双魚佩が発見された寺内の前方後円墳の下に草野姫(かやのひめ)が祀られている真野明神がある。ここはかなり重要な場所である。つまりここが地元の拠点となるべき地でありここに抵抗したとしたら征服すべきものがいて大和政権が制圧して前方後円墳を作りその有力者に金銅双魚佩を下賜した。第六天の祀られた祠は戦いのあったところとなるからあそこで地元の勢力と戦い寺内に前方後円墳を作った。寺内は一段高い台地だからあそこに昔から人は住んでいた。草野姫(かやのひめ)とあるのは焼き畑などをしていたのかもしれない、ただ草野姫とあってもこれも謎であり草野姫がありそこから草原という里にしたかもしれない、草原とあってもこれを単純に草原(かやはら)がなびいている美しい地だとはならないのだ。地名は実利的につけられる場合が多いしそんなに詩人のように空想的な名がつくことはまれである。だから古代の氏族が移動すれば氏族名と関係して名付けられている。みんな詩人のような発想をしたことに問題があったのだ。そして古代の漢字をあてたものはその漢字からよみとると致命的な間違いを犯す、北海道のアイヌ語を日本語にしたと同じであり漢字を基に地名を見たら致命的な間違いを犯す、草と一字の郷名があるがこれはほとんど草と何の関係もないのだ。草は当て字であた草とあれば日下部氏(くさかべ)氏の草なのである。だから草原とあるからといってそれは簡単に萱の原とならない。草という一字が先にあり次に原とつけた二字にした。もともとは草だけ記されていたのが始まりであり原だけの地名もある。原は単なる村とかを行政単位だったかもしれない、九州に香春とあるがカハルはカワラの意味だった。カワラはもともと香春でありこれは朝鮮からもたらされた言葉である。カハルと発音していたのがカワラになったのだ。遠江国の長上郡に茅原郷がある。これは知波良、加波良となっている。これをカヤハラと読むと間違いなのだ。二つの読み方がありチハラが普通であってもカハラとも読むのだ。川原のことを茅原としているから草原もカハラともなりうる。だから草原が単純に萱の原だとは言えないのである。茅葺き屋根は、最後にハサミで形を整える事から、『刈り屋根→刈屋→カヤ』となったとあり茅、萱は実用的なものとしてあった。刈って屋根を作ることから刈屋(かや)となったというのが納得がいく。萱原がなびいて美しいという発想は古代になかったのだ。萩の歌は130くらいあるから美的に鑑賞したのは萩の方だった。

●移動地名の謎

だから次の移動地名の方が草原にあっている。草原里があった。真野郷とあるから真野郷草原里があった。それがどこかとなるとむずかしい、草野姫からとったとすると寺内になるのかともかく草原里はあった。真野の入江がそうなるのか、カヤというのが入江を意味するとなればそうなる。草を単純に萱とはできないのだ。移動地名とするとやはり武蔵国の埼玉郡の草原郷が有力になる。これももとは一字で草だけだった。それが萱原郷になった。ここはでは萱原がなびいていたから萱原なのかというとこれもわからないのだ。古代では土地の景色とか地形から名付けることがまれなのだ。一見そう見えても違う場合がある。笠原郷と草原郷は和名抄ではもともと並んでいた。これも不思議である。笠原氏とはそもそも何なのか備中の笠氏が一番古いからその系統に入るのかわからない、ただ丹後に加佐郡があり白河郡に丹波郷があるというのもどうしてなのだろうか、白河まで丹波からの移動があったのか、突然そうした遠い国の名がでてくるのも解せないのである。牡鹿郡に吉備系の神社が三つあるのも不思議である。石巻の真野とありあそこもなんらか古いし由緒がある。吉備というとこれも箸塚古墳を特殊器台で囲んだごとく大きな国だった。この吉備に笠氏がいた。そこにカヤとつく郷がありこれは加耶のことだった。この会津の津大塚山古墳の三角縁神獣鏡が発見された。これは吉備から発掘されたのと同范(どうはん)鏡であった。吉備の東国の進出もかなりあった。それがこうしたものを残した。

武蔵国の稲荷山の鉄剣銘にはカサヒヨという名が記されている。カサは加佐であり笠に通じている。それが笠女郎とつながるとするのは短絡的にしても不思議な取り合わせなのだ。古代において郷名がかなり移動していることにヒントがある。それは和名抄にないにしてもそうである。泉廃寺跡から嶋□郷という木簡が発見されたことでもわかる。新しい郷がここにあった。それから里というのもかなりありそれは一つもわかっていないのだ。地名が古いとするとき里であったものがあるかもしれない、例えば桜田山とあるがこれも桜田里だったかもしれぬ。というのは桜田郷が和名抄にありこうした地名も移動地名かもしれないのだ。真野郷桜田里があったのかもしれぬ。他に新田川の上に信田沢がありこれはシダでありシダは物部系であり新田川のニイタもニイタ物部という物部系の氏族名でありそれが全国に新田川のル-ツである。新田川流域は物部系らしくそこに桜井古墳がありあの辺は物部系が支配していて桜井古墳は物部系の首長なる人がうまっている。物部吉名という人がいたが吉名郷というのは物部系とすると吉名郷は新田川沿いにあった。大江郷というのもどこかわからないが常陸の行方郡の(大枝郷)からの移動地名とみるのが筋である。


播磨の大田という地名由来は、昔、呉勝(くれのまさる)が韓国から渡ってきて、はじめに紀伊国名草郡の大田村に至った。その後、一部が摂津国三嶋の賀美郡に移り、さらに揖保郡大田村に移った

大田は大きな田は最初渡来人によって作られたからのである。大きな田は簡単に作れないからだ。かなりの土木事業になったからだ。実際は相馬で発見された田は小さな碁盤の目のようになっている。大きな区画では田は作れなかった。だから大田は渡来人が移動して開拓した。長田などもそうである。山田、小田は作りやすいが大田は作りにくかった。渡来人と共に大田の地名も移動しているのだ。だから原町市の大田もそうかもしれない、タカ郷はあの辺だったかもしれない、太田川は前は高川であり多珂神社がある。竹水門というときタケはタカでありあそこがヤマトタケルの伝説の地かもしれてい、竹水門(タケミナト)から上陸したとあるからだ。なぜあそこかというと新田川付近は桜井古墳があり在地の勢力がありそれで迂回したのである。ちょうど神武天皇が難波から入れず吉野からヤマトに入ったように迂回したのかもしれない、真野郷でも戦いがあった。その場所は第六天だからちょうど在地の勢力下にあった前方後円墳が作られた寺内の下になっている。それと同じように桜井古墳がある新田川からは入れなかった。

●タカ(多珂)とは何なのか

タカとはなにかというと高麗のことだという、高句麗系統の人達が建てた郷がタカであり北九州には高句麗の影響が大きい。高萩のタカもそうだしタカとつく地名が高句麗由来だとすると高句麗人はかなりの勢力であった。装飾古墳も明らかに高句麗系であることがはっきりしている。高句麗人が装飾古墳をもたらしたことは間違いないのだ。それをまねて作ったので稚拙になったり荒々しいものとなった。装飾古墳は船とか馬とか狩猟の絵とかが躍動的に描かれており船と馬は明らかに東国の蝦夷制圧に先導的役割を果たした。それが武蔵国の高麗郡とか設置された理由である。羽山横穴古墳が原町市のタカ地域にあるのも高麗の人達があの辺一帯に入り込み支配した。物部は地図で示したように新田川沿いに勢力を持ち先住者だった。桜井古墳の主は物部系だろう。真野郷の寺内の金銅双魚佩の埋められた前方後円墳は高麗系の渡来人だったかも知れぬ。白人という木簡の名が出たから有力にはなる。

技術力などで渡来人が蝦夷侵攻の先導役だったのだ。仏教もその一つだった。これも蝦夷を従える一つの思想であり道具であった。仏教には単に思想だけでなく伽藍を作ったり仏像を作る技術など単なる技術ではなく文化が一体化したものでありそれは教化するためにも支配するためにも必要だったのだ。その先導役が渡来人であり蝦夷では高句麗系が大きな役割を果たした。第六天が仏敵とされたのはそのためである。第六天というのは関東に多いから関東でも第六天は仏敵とされその祀りは廃止された。大量の製鉄跡が発見された鳥打沢遺跡も仏教関係のものを作っていた。武器ではなく仏教関係の道具が作られていたのだ。つまりここではさほど武器は作る必要がなくなっていたのかもしれない、武器が作られていたのは久慈郡の方だったからあの辺ではまだ武器が作る必要があった。まだ勿来の関辺りで抵抗する蝦夷がいたのである。郷名は子鶴は地形から名付けられた。真吹郷は製鉄関係から吉名郷は物部吉名とかがいたから氏族名からタカ郷は渡来人関係から大江は常陸の行方郡からの移動地名である。嶋□はわからないがこれも一番有力なのは久慈郡からの移動地名である。嶋はいろいろあるが久慈郡が志万と真野郷が並んでいるから有力なのだ。二つ並んでいるときは何らか深い関係にある。中村郷と松浦郷も並んでいるからこれも二つ一緒に移動したかもしれない、磯部自体がこれも移動地名なのだ。各地にある磯部は移動地名なのである。



常陸国 行方郡 鹿島郡 那賀郡 久慈郡 多珂郡
小高 中村 朝妻 志万 伴部
(大枝郷) 松浦 真野
神崎
大田

陸奥国 行方郡 宇多郡
吉名 長伴
大江 高階
多珂 中村
子鶴 飯豊
真吹
真野

この表のように行方郡で一番関係あるのは久慈郡であった。志万□郷が泉廃寺跡から発見されたからこの志万(嶋)はわかりにくいが久慈郡からの移動であることは志万、真野とならんでいることで有力である。他に鹿島郡に中村、松浦とあるがこれもそのまま相馬に移動したのかもしれない、松浦から陸奥の方言の万葉の歌が一首でていてこれが松浦だというとなると松浦もかなり古い地名なのだ。真野の隣が真吹であり子鶴の隣が多珂とすると大江の隣は吉名になる。多珂と吉名の間に大江があるのか、しかし志万郷が出てきたからこれがどこになるのか不明である。

松ヶ浦に 騒ゑ群ら立ち 真人言 思ほすなもろ わが思ほのすも

吉名郷は物部吉名という人がいた。

世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今集雑下、九五五、物部吉名)

これも偶然の一致なのかどうかわからないが平安時代で吉名という名がありそれが物部氏一族のものであった。ただ物部系だとすると地図と一致するのだ。

原町史談なる本によると《原町市高》は多珂神社の当て字で竹水門は《高川》(現太田川)の河口(港)の事とある。又《多珂神社》は上陸した
武尊が戦勝と治安を祈願して高の古内の地に神殿を創設したものである とある。この神社は延喜式内社で極めて古く由緒あるもので「さもありなん」である。同じくこの由緒ある式内社がこの他に行方八社として
高座 日祭 冠嶺 押雄等五社が集中しているのである。その内の一つ《日祭神社》は武尊が平定祈願してこの地(大甕)に祭壇を設け天照大神を勧請鎮祭したものであり、又《大甕》の謂れもその祈願の際の 祭壇にお神酒を入れた器(甕)に由来していて 神と人(大和政権と蝦夷)の住む境の印として大甕(かめ)を
埋め祭壇(日祭)を設けた大変由緒ある名前であるとしている

陸奥歌枕の旅
http://www7.plala.or.jp/t-aterui/fukushima/f-mahukinosato2.htm


原町市の高地域は歴史的には重要な地点であった。それはどうしても高麗と関係していた。渡来人が勢力を持った地域がタカ地域なのだ。那賀郡の朝妻郷はこれも移動地名なのだ。

●朝妻郷の謎(なべかんむり山の由来)

奈良県御所市の北窪遺跡から、銀製のかんざし等が発掘されたそうですね。「渡来系の技術者集団・朝妻氏と密接な関係がありそう」と書かれていました。また、天武天皇が680年に「朝嬬(あさづま)」を訪れたという記事が「日本書紀」にあるそうで、「天皇を受け入れられる施設」である規模の大きさを示すような、整然と並んだ掘っ立て柱跡の列も見つかったそうです。さて、それでは「渡来系の技術者集団・朝妻氏」とは?
平城天皇−阿保親王−(在原)行平---(あいだの6代省略)---(近江坂田郡司)行康−(朝妻兵衛尉)行綱、という系図が見られ『正倉院文書』に、勝宝二年(750)正月に朝妻望麻呂は工人三人とともに銅鉄工として造東大寺寺司に出仕しているそうで、ここにも「朝妻氏は金作・銅工・鉄工の技術をもっていたことがわかる。」とされています。


とんでもニャ〜Mの推測 2
http://easyclub.web.infoseek.co.jp/tonde2.htm

朝妻とは渡来人の名でありそれが郷名になったのかどうかわからないが元は奈良にあり万葉集に歌にもなっている。この朝妻が近江のなべかんむりやま祭りのある坂田郡にある。これは製鉄工人の移動なのだ。朝妻郷はこれらの製鉄集団とともに陸奥まで移動してきたのだ。そして真野まできてなべかんむり山と名付けた。つまり真野公山46人が遠田連を賜姓されたとあるがこれは朝妻の製鉄工人の一団かもしれない、真野郷に来てここで働いたので真野という土地の名を姓にしたのである。真野郷に来たとき真野の人となっていたのだ。金銅双魚佩というのはこれらの工人によって作られた可能性もある。というのは近江の高島の古墳からも金銅双魚佩が発見されているからだ。かんざしを作るなどかなりの技術をもっていたからだ。ただ時代的にどうなるのかなどわからない、でもこの朝妻は製鉄工人集団であり陸奥に移動して来たことは間違いない、朝妻郷を常陸で名付けたが陸奥に来て真野を名乗るようになった。この朝妻と笠女郎と草原の歌がどう結びつくのか不明だがなべかんむり山と簡単には思いつかないし坂田郡のなべかんむり山祭りと関係してなべかんむり山と名付けたのである。朝妻郷とあるところはこうした渡来人の移住した郷である可能性が高い。第一朝妻というのは変わった名でありこんな名を土地につけることはないからだ。不思議なのは吉田金彦氏が朝妻の湊のあった所の詫摩野を紫草の地としている。九州ではなく近江の詫摩野を笠女郎が歌ったとしている。それはなにか朝妻郷と因縁がでてくる。陸奥真野郷に朝妻からでた一団がなべかんむり山となづけたとするとそうなる。つまり詫摩野と真野は全然関係ないものとして歌われたのではなくなんらか密接な関係があり歌われたし一連の譬喩の歌はなんらかそこに出ている人も関係が深いのだ。近江の朝妻が詫摩野だとするとなにか辻褄があうことも確かである。身近に知っている詫摩野でありそして朝妻の製鉄工人が移動した陸奥真野郷という地域が結びつくことにもなる。ただなぜ笠朝臣麻呂(沙弥満誓)が太宰府と関係して歌を出しているのか、笠朝臣麻呂という人も無視できない、笠としてし同じように出ていることはやはり密接な関係がありただの偶然ではない。ただ鍋冠山(なべかんむり山)が朝妻の一団の移動によって名付けられたとすると笠女郎の歌も陸奥真野についての情報を得たともなるのか、いづれにしろ詫摩野というのは九州にしても歌われても違和感がない、紫草ですでに有名だったし木簡に記されて平城宮に運ばれてきていた。しかし陸奥真野はなにかそうしたものもないしなぜそこが知られたのか知ったのか不可解なのである。こうした朝妻の製鉄工人達との交流から聞いたのか突然遠い陸奥のことがでてくるからわかりにくいのである。

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陸奥の真野の草原の歌の謎が解けた!
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