陸奥の真野の草原の歌の謎が解けた!
(小林勇一)
●武蔵国崎玉郡の草原郷の謎
草枕 旅を苦しみ恋ひ居れば、可也(かや)の山辺にさ男鹿鳴くも(巻十五 三六七四)
伽耶の国は早い時期に滅亡した。その滅亡の歴史の跡が日本に点々と記された。日本でもだから伽耶は新羅、百済などからすると史書に記されることが少ない、神話の時期にあたる。伽耶は歴史の最下層に沈殿してしまったので日本でもわかりにくいのだ。天皇の起源が伽耶にあるというのもその古さを物語っている。図1に書いたカヤと呼ぶ古代地名は伽耶に由来している。これで注目したのは出雲国→伯耆国→因幡国と山陰の海岸線をカヤとつく地名と安曇郷とか宗像郡とか海人族の移住がみられることである。この海人族の移住は長野県の安曇からさらに福島県の安積、安達にまで及んでいた広範囲なものであった。そこに明らかにカヤとつくのは伽耶と関係していた。それは最下層の古層の歴史として残ったので神話の領域として残された。多(おお)氏と伽耶も結びついていて海人族の宗像や安曇族も一体化して日本の国土の最下層に定着してその古層を形成した。大草(おおかや)とは大伽耶のことであり萱とは何の関係もないのだ。伽耶があり大伽耶は別な国として韓国にあった。それぞれが国の名前だったのである。
小伽耶(そがや)−大伽耶(うがや)− 鵜葺草葺不合命 (うがやふきあえずのみこと
)伽耶の国から来たのである。
稲荷山古墳の鉄剣に記された文字に意富ヒコ 加差ヒヨがいる。この意富は多(おほ)氏であり加差は笠であり笠原氏となり大和の大王に使えたものに武蔵に物部意富売布連(おほ)がいる、出雲の松江市の中心街にある「売布(めふ)神社」があるから出雲に由来した名前である。畿内の軍事氏族の物部氏や大伴氏が多氏のあとに入ってきた。
新野教授によると「天穂日命は出雲臣、武蔵国造、土師連の遠祖である」この天穂日命の末裔とする氏族は島根、大分、高知、三重、神奈川、千葉、東京の国造クラスの豪族として分布していてその分布地をたどると出雲から日本海を西航し、関門海峡を経て豊後水道をぬけ、四国沖で黒潮にのり太平洋沿岸を北上する航海ル−トがうかびあがる。
埼玉の津に居る船の風を疾み綱は絶ゆとも言な絶えそね (万葉集)
これは安定した港ではない原始的な港であり船をつないでもそれが切れてしまうような危うい船着場にすぎない、でも船が入ってきていた。武蔵に草原郷があったことはここにはるか出雲からのオオ氏の移動してきた移動地名とも考えられる。草原郷はここにしかないことは武蔵国の崎玉郡から最初に陸奥の真野郷に移動してきた人たちがいたのかもしれない、歴史的順序としては陸奥は毛野王国の支配下にあり浮田国造は最初の国の名だった。武蔵国で発見された稲荷山古墳の鉄剣は毛野につくものと畿内政権の大和につくものとの抗争があったことの証明である。畿内の大和政権から鉄剣が与えられて権威とされた。その畿内の大和の政権を担ったのが先に物部氏であり次に大伴氏だったのである。武蔵国は大きな国として独立していたが常陸は空白の地域としてありそこに最初に出雲の意宇氏など北九州の勢力が入ってきて先達となった。そのあとに畿内の大和政権の軍事氏族の安倍氏や物部氏や大伴氏が入ってきた。大伴氏が一番新しく常陸を治めてそこに石岡郡に真野里とあり大伴氏により真野郷という地名が行方郡とともに常陸より移動してきた。しかしその前にすでに草原という地名は港の地名としてあったと思われる。それは出雲から移動したとすると
「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)がありこの阿太は安達太良や安達の地名と同源である。安積は安曇族と関係しているとなると海人族の宗像市などともに九州から出雲、瀬戸内海と海人族の跡は残っているからそれらと一緒に草原の地名も移動したのである。意富(オオ)氏と「阿太加夜神社」は草(カヤ)原という地名はセットととなって武蔵に移動して陸奥の真野郷に移動した。真野という地名と草原は異質である。常陸から移動した跡は明確でも常陸に草原の地名はなく跡づけることができないからである。海人族が海のル−トを求めて最初に真野につき草原と命名した。その時真野郷という地名はなかったかもしれない、草原という入江の港の地名だけがあった。それは出雲から出た意宇しによってもたらされたとなる
●棚倉で抵抗した賊の謎
久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む
古代では川は道であった。アイヌでも川は道であり身体になぞらえて川口は頭であり川上は尻になる。その名づけ方は川を上流から下るのではなく下流から上ってゆくからそうなった。久慈川が長い川であり常陸からつづく道だった。この川沿いは黄金の道、鉄の道でもあった。
八溝山は、続日本後紀の、承和3年(平安初期の836年)の条に八溝黄金神に・・・奉り、国司の・・に応じて砂金を採得せしむ。能く遣唐使の資を助け・・
資源を求めて川上に上ってきたのだ。当時の山は資源を求めて人々が上ってきたのである。金砂郷などがありその名残を地名に残している。久慈川は鮭が上ってきたし鮎もとれたから川の幸(さけ)があるところだった。サチではなくサケとしているのは鮭と関係しているのか?鮭、黄金、鉄の道として古代の川だった。潮舟としたのは川船と対称的なものとしてそうした。川船にのっていたが今度は潮舟に乗ってゆくというのを強調したのかもしれない。ともかく幸豊かな土地だったのである。
この久慈川を上ってきて矢祭山に入ると岩盤が剥き出しになり山も岩が表面に突き出ているのである。茨城北部から久慈川沿いの東白川郡一帯は、岩盤地帯になる。だから日本武尊を初めとする数多くの大和朝廷の東征軍はこの久慈川を登ってきた時、初めてこの景観を見てこの地を石背郡、お隣を石城郡(こおり)とな名ずけたとすると地形的なものから国の名が名づけられたのか?
「陸奥国風土記逸文」に
土蜘蛛ら力合わせて防ぎ、猪を射る弓矢に、鹿を射る弓矢を岩城に連ね張りて官兵を射ければ官兵すすみえず・・・・
ここに書かれた岩城が国の名になった。岩城がありその後ろにあるから岩背であり岩代もあるから岩城中心として名づけられた国名だった。行方郡のナメカタは地形的なものであるが移動した地名は地形的なものと必ずしも関係していないのだ。岩城郡は勿来の関があるごとくこちらがわではなく太平洋岸そいに進出した人たちによって最初の国が形成された。海から入ってきた人たちがあり山から入ってきた人たちではなかった。
阿武隈高原にも入るから地形が変わってくる。地形が変わることは自然の障壁となり境界となる。ライン川は大きい川だからロ−マとゲルマンの境となった。日本ではたいがい山が障壁となる。ここが争いの場となったのは地形的要因が大きいのだ。地図は立体的に見る必要がある。久慈川をさかのぼってくると山々の狭間になり棚倉の地域で広い平野にぬける。ここを突破すれば広い中通りの平野に出ていけるのだ。そこでここに蝦夷の一群が集結した。
棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という
生業として黒鷲のト−テムは狩猟であり、神衣媛とあれば機織りであり阿邪爾媛、梯猪も麻とか梯猪は木の皮で布を織ることであるとすると機織りを仕事とする人たちが多かった。草野灰、保々吉灰は焼畑とすると焼畑が多いのはわかる。ここは山々の狭間から平野が開ける場所であり畑作に適していた。それで「入り野の種蔵」と呼ばれ種籾をツトコに入れて分けた。都々古別(ツツコワケ)神社があった。それでもこんなに布や衣を作る人たちが多いのはなぜかとなる?これらの仕事は女性が多い、女酋長もいたから女性の仕事にたずさわる人が多かったのか、この中で神石萱というのはわかりにくい、神の石を信仰する萱(かや)となるから伽耶と関係しているかもしれない、伽耶の人々がこの中に入っていたことが考えられるのだ。これほど衣に関係しているとなると原始的生活でもないのである。
景行天皇の熊襲征伐の記に
厚鹿史(あつかや)とせ鹿文(せかや)の兄弟がいた。王である熊襲武には市乾鹿文屋(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の二人の娘がいた。
このカヤは間違いなく伽耶に由来するものだろう。蝦夷の地域にも伽耶(カヤ)がいた。伽耶の国の人は日本に来たのが一番古くその最下層の渡来人でありそれはもはや土着民と一体化してその出自もわからなくなっていた。その後継の新羅とか百済とか高句麗はわかっているからだ。ここに伽耶がわかりにくいものとなっていたのだ。
真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
この歌の残る吉備にカヤとつく郡があり地名も多い、ここに伽耶国の鉄を作る一団が定着して大和王権と対立した。行方郡に真吹郷とあったのも製鉄の盛んに行われた場所だからである。出雲も対立した強大な国だが吉備もそうだった。会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型であるとあり会津まですでにその力が及んでいたのか、意外と遠くまでその足跡は記される。大和王権に統一されまで各地の国がありそれらを大和王権に服属統一するまでの歴史のうねりが各地にあった。北九州の磐井の反乱もそうだった。日本の建国には外国の勢力が特に韓半島の勢力が大きく影響した。天皇が伽耶国から出たというのもそれを語っている。津軽から援軍を頼むというのもそんなに遠くと関係していたのかということが疑問になるが靺鞨(マッカツ)国から起こった渤海国などと親密な交流があり津軽には明らかに異民族が住んでいたのである。それらの影響が東北全体に及んでいた。蝦夷は大和王権に逆らうもの達の意でありそういう人たちは組織化されなくても各地にいたのだ。それは非常に広範囲に存在した。その中には異民族も交じっていた。そもそも蝦夷(エミシ)とは中国の唐の中央政府だったものが言った言葉である。蝦夷は高句麗、靺鞨、渤海とか今の満州地域を含めた広範囲な地域が蝦夷なのである。だから日本海は秀吉の時代まで蝦夷の海となっていたのである。
石渡先生は・・・『崇神王朝の時代の倭国は、筑紫・吉備・出雲・毛野などの日本列島各地の諸伽耶国系王国と朝鮮半島南部の伽耶諸国からなる、ゆるやかな政治的連合体でした』
伽耶国の影響は日本の建国時には大きかったのであるがその後その跡が化石のようになってしまった。草原(かやはら)という地名もその一つだったのである
日本列島大地図鑑−小学館を変える
地図は立体地図でないとイメ−ジできない、山の狭間から平地にでてくる
この感じがこの地図だったらイメ−ジできる、他にも地図は具体的にイメ−ジできる
著作権の問題があり各自参照するほかない、これは変えているから著作権違反にならないだろう。
宣伝もしているのだからいいと思うけど・・・・
●海からの道としての真野郷草原。
神武天皇の東征の神話も多氏の事跡を基に作られたとか神武天皇の前に神八井耳命(多臣の始祖)が支配する国造の系譜がある。これは全国に及び道奧石城國造もそうである出雲国に「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない、それがなぜ陸奥真野の草原郷にあったのか?埴輪文化も陸奥に伝わってきたが磐城の神谷作古墳の人物埴輪は畿内の埴輪に見られる貴族をモデルにしたものらしく一方相馬の丸塚古墳の埴輪は庶民的な表情のもので違っていてこれは関東系統だとなると武蔵国から移住した人たちがもたらしたものとなり武蔵国にある草原郷の移動も考えられる。原町区の桜井古墳は関東系統だとか関東地方とこの辺の埴輪は関係があるとかもあり先に関東地方の影響を受けたのかともかく先に草原があり次に大和朝廷系の大伴氏などが入ってきたのである。磐城と相馬地域でも文化の相違があったのだ。それは移住した人たちよる相違だったのである。岩城(磐城)には早くから大和王権の官人が入ってきていたのかもしれないという説もそうなのかと思う。
筑紫なる にほふ児ゆゑに 陸奥の 可刀利娘子の 結ひし紐解く
こんな浮いた歌を万葉時代に歌うのはそれも辺境の蝦夷で歌うのは大和から派遣された官人であり想像で戯れに作ったのかもしれない、磐城と真野郷は今は距離的には近くても当時はかなり離れたものであった。
関東の武蔵国との関係が先にあったとすると草原と真野郷より前にあった地名ではないか?草原という一地点の地名は行方郡−真野郷と記される前にあった。草野姫(かやのひめ)が祀られている地点がそうであり草原という地名は真野郷や行方郡より古くからあったのだ。行方郡−真野はあとから常陸から移動した大和朝廷系統−大伴氏などに率いられた人たちの移動によって名前がつけられた。その前に一地点の地名として草原が先にあったのではないか?地名でも広い地名よりよリ狭い一地点の地名が先につけられるし大事になる。大和(ヤマト)そのものが非常に狭い一地点名がやがて国の名までになったからだ。人名的に考察すると物部意富草原とかなる。
真野というのもこれは畿内から大和からもたらされたものである。草原を萱の原としたがこれはそういう地名ではなくもっと歴史的に奥深いものとして東北の辺境に記された地名である。
『茲に日本武尊、即ち上総より転じて陸奥国に入る。特に大鏡を、王の舟に懸け、海路より葦浦を廻り、玉の浦に渡り、蝦夷の境に至る・・・・・・』
東の大海のの浜辺に、漂着した大船がある。長さは十五尺、幅は一尺余り。朽ちくだかれて、砂にうずまったまま、今も残っている。淡海のみ世、国土を探し求めるため派遣する船として、みちのくの岩城の船大工に命じて作らせたものである。
八世紀にまとめられた常陸風土記にある、香島郡多珂港の条で今の茨城県鹿島海岸にあたる。磐城国ではすでに大きな船を造る技術をもっていた人たちがいた。磐城から真野郷までの船の航行はこれからもありうる。海から入る地点、拠点として草原があった。ただ海から入るといっても船が航行したのはかなり短い距離である。磐城から入江をつなぎ短い距離を航行してきた。短い距離を航行して歩きやすい陸地を歩いたりもした。船だけではない、船はある一部分を足として使ったというのが予想される。日本の海岸地帯は北海道の釧路湿原のように湿地帯が多く歩くのには向いていない、北海道に明治に入った開拓者の一段は船を利用していたのだ。それも一区間を船で行き歩いて入って行ったのである。長い距離の船の航行はかなり危険であり遭難も多いが短い距離なら航行できる。だから船の航行は船引、船越など船を陸地に引き上げてまた船で海を行くとかしていた。宗像氏や安曇族など海人族が移動したとなると船を作ることも操作することもできたのである。最初にオオ氏系の海人族が入ってきて草原の地名を残し次に畿内の大和系が入り古墳を造り金銅双魚佩を残したのである。地名は一地点名が古いのであり広域的な地名はあとからつけられる。福島県でも福島市があって福島県になっているのだ。広域地名はあとから一地点の地名が拡大化したものなのである。真野郷というとき真野というのも狭いにしろ上真野まであり広い、草原は一地点名である。ただ歴史的にそれが重要な意味をもっていたから残ったのである。
日本列島の有力な港市には、それぞれの国から来て、それぞれの国の産物を優先して交易する、それぞれの集団的居留地があったということと、それらは、有力な港市の原住勢力と利害関係を調節し合ったり、監視役を置いたりしながら交易活動をしていたということです。
http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/folder/757235.html?m=lc&p=6
草原の草(かや)が入江だとすると海岸線沿いに草原がありそこは港だったところが多かったかもしれない、「出雲国造神賀詞」(賀夜奈流美(かやなるみ)命の御魂を飛鳥の神なびに坐せて、、、」とあるナルミは鳴水(なるみ)鳴海のことだというが確かに水がなるとは海に押し寄せる波の音になる。カヤが入江だとするとその外には鳴る水、波の音が聞こえるのである。だからカヤナルミとはカヤは入江でありナルミは波の音になる。草原は漢字からイメ−ジするとどうしても萱原になってしまう。
山幸彦の 火遠里命 ほおりのみこと が、 綿津見神 わたつみのかみ の娘 豊玉姫
とよたまひめ を娶って産まれたのが、 鵜葺草葺不合命 うがやふきあえずのみこと
火遠里命は産鉄族のことでありそれが海の神と合体して鵜葺草葺不合命が生まれた。カヤというのは入江とか港とと関係してつけられた地名の匂いがするのだ。草原も当時真野入江が深く入り込んでいて船着という地名や市庭の地名が残っているのは交易の地点として草原は早くから知られていたのである。
追記−参考
多氏渡来人説
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/C-IL-Oouji.html
多氏は伽耶から来た渡来人であり製鉄技術を伝えた。古事記の撰者が太安麻呂という多氏の一族であったのだから多氏の事跡がいい伝えが古事記に反映されたのだ。
参照地図(古代国名)
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0101e.htm
陸奥真野草原考へ
http://www.musubu.jp/kashimamanotakuma1.htm
相馬郡郷土史目次へ
相馬郡郷土史関連(プログへ)
http://musubu.sblo.jp/category/96059-1.html
相馬の製鉄遺跡群(飯村均)を読んで(
(南相馬市の金沢製鉄遺跡の土器にあった「今」の陰刻の謎)
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