日本の中の加耶の不思議

●アガタ(県)が最初の国

加耶(かや)というのはそもそも謎が多い。カヤの意味もよくわからない、もともとはkaが基となってできた言葉らしい。というのはカガヤクとかカガミとかカッカッとなるとかは輝く意味でありもともとは鉄の生産から出てきた言葉ともとれる。加耶は鉄の生産で知られていたし重要だった。笠も韓国語でカッとなっている。笠という漢字は当て字であり関係ないのだ。カヤに当てられた様々な漢字は草でも萱でも鉄の生産と関係しているかもしれない、韓(カラ)もカからきているから製鉄と関係していた。金とか勝(かち)とか鍛冶もそうだし加賀という自体、鉄と関係していた。カワには日の意味があるというのはカは輝くの意味からきているのか、カは例えばカミにも通じている。賀美とかあてられてそれ一語で郷となっている。カミ郷と対をなして資母(しも)郷がありカミとは上流という意味もあるが輝くとか鉄生産と関係しているかもしれない、日本にとって最初の生活の根拠地は山の上、上流にあったのだ。それを一番示しているのが英多(あがた)である、これも阿多とか当て字がいろいろある。アタでもアガタなのである。和名抄で多いのはこのアガタがどこの郡にもあるから最初の国だった。県(あがた)だったのだ。シモはアガタに対して下でありアガタにその国の首長がいた。下田となるとアガタの下の国となる。アガタが大事だったのはそこで稲作が最初に行われたからである。最初は天水を利用して斜面に棚田のように作り水を流していた、自然農法であり平地に大田を作ることはかなりの技術がないとできないから大田はあとから作られた。稲作は川上のアガタから始まった。そこに首長がいたのである。だからまずアガタの首長を支配下に置かないと国は作られなかった。それで賀美(かみ)とアガタが大事な所になったのだ。

『播磨国風土記』の、「餝磨の郡・巨智の里(こち)」の条に、草上の村・大立の丘、右は巨智らが、始めてこの村に居住した。 だからこれによって名とした。
 草上というわけは、韓人の山村たちの上祖・柞巨智賀那がこの地を請いうけて田を開墾したとき、一つの草叢があってひどく臭かった。だから草上とよ
ぶ。

この草上も上(カミ)がポイントであり臭いというのは金屑とか金糞とか金属と関係して製鉄の跡だったかもしれない、そう解釈しないと不自然なのだ。

川はそもそも下るものではない、溯ってゆくのが川であった。上へ上へさかのぼってゆくのが川であり川は原始の道だった。実際に和名抄に川道郷があったから川は道としてとらえていたのだ。それが一番示しているのがアイヌの言葉である。アイヌ語では川口は尻であり川上が頭である。川は上ってゆくものであり下ってゆくものではない、それは人がまず川を上っていった。川を上ってゆく暮らしをしていたからだ。日本の下は川下は湿地帯であり虫や蟹や蛇などがうじゃうじゃいてバイ菌もでて住みにくかったのだ。これは外国でも地中海辺りでも最初の住居は高台にできたことでもわかる。平地はかえって住みにくかったのだ。邪馬台国(やまだいこく)というのも高台にあった。ダイとは高いところだからだ。稲作は水が良くないといい米がとれないからアガタから山田とか小山田とかがいい米のとれる場所だった。

『肥前国風土記・佐嘉郡』に、「郡の西に川があって、佐嘉川という。この川上に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を生かし、半分を殺す。県主の祖、大荒田が土蜘蛛の大山田女、狭山田女に神意を問うたところ、下田村の土で人形・馬形につくり、神を祭れば必ずやわらぐといい、その通りにするとやわらいだ。川上に石神があり、名を世田姫(よたひめ)という。海の神がいつも流れに逆らって上ってきて、石神のところに来るときに、海の小魚もしたがって来る。人はこの魚を畏めば災いなく、食べれば死ぬことあり、云々」とある。
 神社近くの下田山には、17個の巨石が点在し、このうち造化大明神と呼ばれる巨石は與止日女神社の奥宮であるとされ、世田姫が祀られている。與止日女の本来の神体は磐座(神が宿るとされる岩石)であるらしい。


この話はアガタに賊がいて大和朝廷に敵対するものが蟠踞していて征服を阻止した。つまり山にはその奥には常に征服されない賊が残るのだ。アフガニスタンでもそうである。山の穴に隠れて抵抗がつづく。この話は極めて日本を象徴する伝説である。大山田女、狭山田女という山田に女性酋長がいたのである。女性酋長が古代に日本に多かった。それは卑弥呼が女性だったように母系社会、母権社会だったためである。

ここに鏡は女性象徴に加えて井戸、ヒサゴ形の壺へと結びついて、豊穣と多産を約束する聖母神が支配する神聖な景観にはたいてい壺と鏡が見られるようになった

トン族の生殖崇拝文化
http://www.fgo.jp/~dong/081chapter8.pdf

鏡は女性の命だとか三角神獣鏡が特別重宝されたのは邪馬台国の首長が女性だったためである。これは今でも女性にとって鏡は大事だから別に不思議でない、日本の首長は天照大御神であり女性なのである。女性は最初豊穣の象徴として崇められたのである。それは世界に共通している現象でありめずらしくない。
下田村は大和朝廷に征服されたがそのアガタでは征服されない賊が残った。川上に石神がありというのも象徴的である。日本古来の文化は石を祀る、石を加工する文化だったという説があり石が尊ばれた。磐座(神が宿るとされる岩石)といのうは正にそうである。石神が各地にあるのはそのためである。石の呪術性を尊んだ。石を神として祀る信仰があったのだ。

日本書紀に出てくる熊襲、土蜘蛛、蝦夷などと呼ばれる人達の名前に興味がありますので、先ず景行紀に登場する、先住民らしき人達のリストから: 景行天皇年紀 名前 場所 備考

12/09 鼻垂 菟狭川上 征伐される。参照耳垂
12/09 耳垂 御木川上 征伐される。参照耳垂
12/09 麻剥  高羽川上 征伐される
12/09 土折居折 緑野川上 征伐される
12/10 青 鼠石窟 稲葉川上で征伐される
12/10 白 鼠石窟 稲葉川上で征伐される


川上に賊がいた。川上に生活基盤のある賊がたむろしていた。そこがアガタであった。そこはまた鉄の生産される場所でもあった。だから大事だったのだ。加耶から移住した人は鉄の生産で原住民の中に入り込み神石萱とか一体となっていた。加耶は日本に来た朝鮮人では一番古いからだ。この川(かわ)というのも不思議である。香春とあるがこれはカハルではなくカハラだとしている。春は当て字であり本来はハリとかパルとかパルとか韓国系の言葉なのだ。パピプペポとなるのがなんか韓国系の発音なのだ。カハラは朝鮮語のコホリに(評)、群村の意味としている。コホリ(評)は日本でも一番古い単位の村のことであった。日本の村の単位も韓国に由来していた。カハラはまたカヤハラにも通じている。草原となっていてもそれは当て字であり読み方もわからない、漢字からイメ-ジすると古代は間違いやすいのだ。だから草原というのは一つの村のことを里のことをさしているという見方が自然なのである。村がマルという韓国語の変化したものだとするとその基本的な単位が韓国語だとするといかに韓人が主役になったかわかるのだ。日本人が単位の村だったらそうならないのだ。アガタは日本人の最初の村であり日本語である。しかし村は韓国系とすると村を主に形成したのは韓人だとなる。カヤハラのハラはそもそも村という意味だった。もう一つシマというのが村をさしていた。敷島の・・・というときそこは人が固まり住む村だった。シマは南方系である。草は最初は和名抄には草としか記されていない、二字をもって好字とせよと通達があり二字にした。草(加耶)だとすると原はそもそも村の意味であり草原は加耶郷の原-村となっても不自然ではない、こっちのほうが古代では自然なのである。ただもともとはそういう意味でも加耶は忘れられて草原は萱原となったことはありえる。加耶というのが忘れられて草は萱になっていた。

●加耶の謎は深い

加耶というのは最初の渡来人の集団であった。加耶→加羅→辛(韓)となった。日本で地名化しているのはカラが一番多いのだ。加羅の前進は加耶なのだ。アガタと辛(カラ)が必ず一郡のなかにあるのだ。いかにカラが日本に影響したかわかる。しかしカラもまぎらわしいのだ。カラとなっているからすべてが辛(韓)ではない、和名抄にあるのはそうであるがその他はわからない、つまり加耶が草の字があてられ萱になったようにカラというのもそうである。百済とか新羅とか高句麗(高麗)と言った明確な国より日本に同化されてしまった辛(韓)だからまぎらわしくなったのだ。それはとりもなおさず任那が日本国の発祥の地、倭人が住んでいた国というごとく日本の一部という面もあったのだ。巴型土器がそれを代表している。加耶や加羅の地域に日本で作ったものが輸出されていたのである。これが如実にその深い関係を示している。だからカラと言ったときそれは百済とか新羅とか高句麗(高麗)とはまた別な感覚であり日本に同化した一部としての辛(韓)でありヤマトと合体したカラであり一体不二となった一つの国なのである。だからこれらを渡来人として全く別なものとしてとらえることはまた問題である。渡来人、外国人とも言えないほどヤマトに同化したカラなのである。

「日本の場合、4世紀に至っても伽耶から鉄を輸入して使っていました。それは当時の日本では鉄を生産できる技術がなかったためです。しかし、皮肉なことに伽耶土器系統の須恵器が日本で生産される 5世紀から、日本は自ら鉄生産を始めています。このような日本の変化は単純な偶然の一致だけなのでしょうか?その頃 日本で発掘された鉄板は伽耶の鉄板と全く同じ規格、同じ形態を見せています。その上、兜のような 戦争用遺物も伽耶と同じ形なのです。」

「彼ら帰化人が東国に伝えたものは馬の技術、須恵器、瓦、織物、紙などがありますが、製鉄技術を持った人々もおそらくいたでしょう。馬と鉄は切り離せない関係にあります。馬の蹄鉄は鉄の技術がなければできません、し、轡も然りです。馬の技術は、当時地方に勢力をのばしていた地方豪族たちや、在庁官人のなかに取りこまれていき、のちの東国における武士団の成長に関わっていったのでしょう。平将門や平忠常があっという間に房総や周辺国を制圧したのも、馬の機動力の賜物です。
 
まず馬を飼う牧は渡来人によって作られたのだ。加耶の人がそれにかかわったとしたら草原とは加耶の原でありそこで加耶や加羅の人々がかかわったのだ。草原というときだからこれはカヤがなびいているだけの原っぱではない、渡来人が馬を飼った原ともとれるのである。加耶の国から発掘されたのと同じもの、古墳から発見されていることがそれを如実に語っている。

三重町の菅生八幡神社の神官の神田さんに伺った話では、平安時代末期に先祖がこの地に来たときに土谷と共に従ってきた麻生家では、昭和の初期のころまで、毎年正月には「かや(茅)」で箸を作り、それで食事をしていたということです。先祖が山道を苦労して旅をしてこの地に来たことを偲んでという風に言い伝えられているそうですが、私はこの「かや」は、「伽耶」ではなかったかと考えています。遠い先祖が海を越えた「伽耶」の国から来たことを、「かや」の箸に託して子孫に伝えようとしたメッセージではなかったかと思います。

土谷新聞メ-ルより

ここで大事なことはこのように加耶と萱が混同していることなのだ。加耶の国のことが萱となりそれが伝説化して加耶→萱として伝えられるまでになっている。だから草を萱としても不思議ではないがもともとは加耶の国のことを言っていたのだ。和名抄の草とかカヤとつく郷は加耶と深い関係がありそこは重要な場所で発掘されてもいる。韓国の小加耶(そがや)に久嗟(クサ)という地名がある。コサというのもある。韓国に似た地名が結構あるのだ。地名自体韓国起源に移動してきているのだ。だから草という当て字をしたがそれは草を意味しているとは限らないのだ。

薩摩 久佐
大隅 鹿屋 鹿屋
肥後 天草
備中 草壁 賀夜郡
播磨 草上
出雲 草原 大草 意宇郡
伯耆 蚊屋
但馬 賀陽 大草(於保加夜)
能登 草見
越前 草原
近江 蚊野
大和 茅原(千原)
摂津 草野(すすき)駅 萱野郷
美濃 草太
遠江 草前 茅原(加波良)
尾張 草津(かやつ)萱津駅
武蔵 草原
(加夜波良)
埼玉郡
上総 草田

この表は草とカヤとついた郷とか里である。カヤというとき草を使うより別な字を使っている。武蔵だけは草原(加夜波良)と明確である。草田もカヤタである。久佐波良と書いてあるのもある。草原で加夜波良と書いてあるのは少ない。大和、奈良や河内に見当たらないが奈良にはカヤナルミ神社がある。

加夜奈留美命神社    鎮座地:奈良県高市郡明日香村大字栢森字堂ノ上358    御祭神:加夜奈留美命。加夜奈留美は、高照姫の一名だという

この神様は出雲の神様なのだ。「賀夜奈流美(かやなるみ)命の御魂を飛鳥の神なびに坐せて、、、」とあり飛鳥に鎮座したというのも不思議である。
栢森(かやもり)とあるがこれは加耶の森である。加夜奈留美命が祀られて栢森(かやもり)になったともとれる。
出雲には他に松江市の大草郷は国府跡らしくかなり由緒ある場所であったことが発掘でわかった。大草はクサとよむとなるとカヤとは関係ないがカヤだとすると大はオオであり草は加耶であり二つの国が合体したことを示す名である。加夜神社が下のようにありカヤも深くかかわった国なのだ。
「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)
「加夜神社」   (出雲風土記、神門郡)
「井草神社」(出雲風土記、飯石郡。三刀屋町伊萱の伊草神社
「阿太加夜努志多伎吉比賣」 (出雲風土記、神門郡)
「賀野里」 (かや)(播磨風土記、飾磨郡)
「鹿屋野比賣神」 (古事記、野神の名前。岩波ではp58)
「加悦郡」 かや、と読む、丹後の一地方 
「草野灰」(かやのはひ) (陸奥風土記、八槻郷)
「神石萱」(かむいしかや)(陸奥風土記、八槻郷)
「市鹿文」(いちかや)他、(景行紀)
「韓人山村等上祖 柞巨智賀那」(参考)(播磨風土記、飾磨郡)
「賀奈良知姫」(参考)(先代旧事本紀p107、葛木土神の剣根命の娘)
「うがや・ふきあえず」 
「伊可古夜日女」(参考)(山城風土記。丹波国ノ神野ノ神、と)

千葉の八千代市萱田遺跡群が,平安時代に書かれた『和名類聚抄』と言う本にのる村神郷(むらかみごう)になるのか,論議の分かれるところですが,墨書土器に書かれた「草」や「村神」は,草田(かやた) や村神が,当時人々に認められていた地名であったことを証明していると考えられます。

この草をカヤと読んでいる、これも由緒ある場所だったかもしれない、カヤとつくのは加耶と関係していてそこに古いものがうまっている。全部があてはまらないにしても加耶と関係しているものはありうる。大隅国の鹿屋市は間違いなく加耶であろう。
その中心に笠之原という地名がある。笠という地名は別に笠とは何の関係もない、これも加佐であり韓国からの移動地名である。カサ、クサ、コサ、・・・これらの地名は何かにているのだ。製鉄に関連した言葉かもしれない。武蔵国の埼玉に草原郷と笠原郷が並んでいるのも不思議である。笠原とはもともと笠之原である。笠氏が治める土地となるのだ。加耶と笠(加佐)は一体となっている節があるのだ。此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」の詔は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命がこの笠置山の頂上で発せられたもののようである。笠木山もあり笠というのは加耶や加羅(韓)と一体となって移動したのである。



最初日本に来た加耶族は可也山辺りに住みそれからなぜか宮崎に移動した。そこが神話の地となった。その間に熊本とかあり天下る地ではない、別な勢力がいたためだろう。それが百済の熊津(クマナリ)のクマ信仰を持つ人々だったともなる。
大加耶+安曇(あづみ)海人が奴国に導いたという説がありこれはアツカヤという土蜘蛛のアツはやはりアヅミのアツでありカヤは加耶なのだ。

これらの名前の後半「鹿文」と、陸奥の「神石萱」の最後の「萱」、特に「市鹿文」と「石萱」の酷似は、九州の熊襲と陸奥の土蜘蛛の間で名付けの慣習に何らかの共通性があったことを推定させます


土蜘蛛リスト
http://homepage1.nifty.com/moritaya/tutikumo.html

熊襲の中にカヤ族が交じっていた。それが九州と陸奥で同じ文化をもっていたらしいというのも不思議である。装飾古墳などで九州と陸奥は関係していたからそうした名付け方がとられたのかもしれない、石を祀っていたのは縄文人である。加耶族は非常に古い、福岡県の可也(かや)山が加耶から移住してきた人達が最初に住み着いてその名がついたように古いのだ。そこに支石墓もあった。加耶族が最初に住み着いた場所が可也(かや)山近辺だった。ではなぜ大隅国に鹿屋(加耶)が移動したのか、そこで動乱があり追われて大隅国に移ってきたともとれる。どういうわけか加耶というのは大和朝廷と対立する関係になっていた。出雲に加夜が多いのもそのためである。出雲は大和と一番対立した国だったからだ。吉備もそうだった。ここもカヤの国の人々の根拠地だったし鬼退治の鬼は加耶族がまじっていたのだ。支石墓というのも石の文化だから石の文化も加耶からもたらされたのかもしれない、神石萱の萱は当て字であり加耶の可能性が高いのだ。アザニナ姫というのがいたがこのアザは各地に地名があり産鉄族が名付けたものであった。蝦夷の中にはすでに鉄を作っているものがいたのだ。それはカヤ族などが技術をもってすでに蝦夷の住民の中に同化していたからだ。草原とあるがこれもなんとなく製鉄族とも関係している匂う地名なのである。

では九州や出雲や備中の動向が陸奥真野と何の関係あるのかというと装飾古墳とか横穴古墳は九州系や出雲系統とされている。宮城県南部から相馬地方北部の横穴は山陰、出雲地方の意宇型と同類と「日本の横穴墓」池上悟で発表している。意宇(おお)氏は出雲の中心地に横穴古墳を作り支配的位置にあった。装飾古墳と横穴古墳は突然東北の辺境に同じものが作られている不思議があるのだ。だから九州や出雲の政治的動向が東北に無関係だったとは言えない、白河郡に丹波郷があるのもなぜか、丹波の人々が移動してきたからとしか考える他ないのだ。かえって古代は国ができていないから移動が激しかった、移民が多かった。開拓のために移動してきた、鉄を求めて黄金を求めて移動してきたのである。だから製鉄族が多いのだ。

磐城の横山古墳群出土の三葉文環頭太刀は加耶地方からもたらされた遺品らしく畿内政権による渡海派兵で磐城地方の豪族と関係していた。(福島の古代遺跡)

いづれにしろ日本が最初にかかわりをもった国は加耶なのだ。だからカヤはすでに日本と一体化してその原住民とも一体化していた故に大和朝廷の賊とされるまでになっていた。そこには朝鮮半島の複雑な力関係が日本にも反映したのである。真野の入江には横穴古墳がありそこに描かれていたのは家だった。ということはそこに住み着いた人々がいた。草原郷か里があったのだ。その横穴古墳は比較的新しいから製鉄にかかわった人達が住んだのかもしれない、それは一部渡来人であったかもしれぬ。白人という泉廃寺跡の木簡の白とは何か不明だが一つの推理として製鉄にかかわる職名だったかもしれない、白金とか白とつくものに製鉄族がいたからだ。千葉県の木更津市の額田郷の白駒とかもそうである。白駒は白高麗なのだ。白い高麗人となるが白とか青とかも族とされたがこれも製鉄族であろう。青はオオ氏の当て字だというのが谷川氏である。オオ氏は出雲の中心地域に勢力をもっていた。出雲はオオ氏の国だった。このオオ氏が陸奥磐城に深く関係していた。青が大和朝廷に敵対したとなると出雲の中心地域を支配したオオ氏は大和から敵対的に見られ国譲りが行われたことになる。カヤ氏族とかオオ氏族は早めに日本の歴史から消されたのだ。青は製鉄に関する言葉である。白人にはただ謎が大きすぎるから解明はこれからの課題である。
王女は王に言った。「私は太陽王朝アユタ国の王女です。姓は許、名は黄玉、年は16歳です。国の父王と母后が、夢に天の上帝にお目にかかったそうです。上帝は、駕洛国王金首露王は天が遣わした神聖な王だがまだ后が決まっていない。あなたの王女を送り、妻とさせるように、と言ったそうです。父母と別れ、金首露王が待つ駕洛国へ向けてすぐに発ちなさい、と父王に言われました」

 「そこで父母の言葉に従い船に乗り、遠くここまでやって来ました」と告げた。
 王は、「私は生れ落ちた時から神聖な王女がこのようにやって来ることを既に知っていた。だから臣下たちが王妃を迎えるよう願ったが、今までこの時を待っていた」と答えた。

 後日、金首露王8代の孫は、王と王后が結婚した場所に、許王后の冥福を祈るため王后寺を建てた。

 このことを今に伝えるものがある。金海の許王后陵墓にある婆娑石塔は、この時アユタ国から水神の怒りを封じるため船に乗せてもってきたものと伝えられている。このアユタ国とは、マウリア王朝時代にガンジス川左岸にあった。

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  カラ・カヤは魚を意味する古代ドラヴィダ語で、古くはカラ(カラクとも)、後にカヤとも言った。王女の故郷アユタ国の紋章の一つに双魚紋があり、ヒンズー寺院などにも見られるそうだが、金首露王陵の納陵正門にもこの紋章がある。この魚は罪を洗い流してくれる信仰の象徴の意味があるという。また、カヤには牛の意味もあるそうである。
 既にお気づきの方もいられると思うが、日本書紀に記載のスサノオが行った新羅の地ソシモリは、牛の頭の意味。伽耶山はソシモリで、牛頭山である

これも不思議な話ではないか、加耶のル-ツがインドまで伸びていた。古代は意外と交流が広かったのだ。国というのが明確にないから移住する人が多かったのかもしれない、自然に恵まれて外国人でも入り安かったのだ。強固に国ができてしまいば入りにくいのである。いづれにしろ加耶は謎の国であり解明がむずかしい。でも草原を単純に萱原とするのは間違いであることは確かである。古代の歴史の広い深い背景の中で考えるべきものである。
この金銅製双魚佩は近江の高島の古墳と藤ノ木古墳と真野古墳と千葉県の木更津にしかでていない、韓国でも一つのもであり双魚になっているのは少ないしこれはかなり豪華なものなのだ。高島町の家型古墳も立派だし藤の木古墳もその華麗な装飾品には目を見張るものがある。これだけのものを辺境の陸奥真野にもたらされたことはやはりここがかなり重要な地域だったのである。ただこれがどういうル-ツでもたらされたのかまた謎である。双魚は豊穣を願って作られたものであり中国にもありインドにもあり各地にある。エジプトの船の絵と九州の装飾古墳の絵がコピ-のように一致しているのか人の交流があったからなのか偶然なのか、偶然がありえないとしたら人の交流の結果もたらされたことになる。だからこうした伝説も一概に否定できないのである。あれはもしかしたらインド経由でもたらされたものかもしれない、インドを通じてエジプトがもたらされたのか、エジプトの蓮(ロ-タス)の花が、インドの仏教で用いられた。ギリシャの彫刻が仏教の仏像の基となった。何か交流があり生まれたのだ。世界史になるとさらに謎が深まるのだ。

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