真野草原は草原(萱原)でなかった(続編) 小林勇一作
(狩猟採集や焼畑から稲作へ変わる過程から)


狩猟採集から稲作に変わる過程から考察

日本の歴史は本来稲作とともに始まった。なぜかというと稲作は税として徴収できるのに都合が良かったからだ。税が確保できなければ国はできない、税が国の基本であり定期的に安定した税が入らないとしたら国そのものが成り立たないからだ。だから稲作の前には国家はできなかった。縄文時代でも狩猟採集経済だから国家できず蝦夷は稲作民族の大和に対抗したが敗れたのだ。稲作が基本ということから日本の歴史を見るとわかりやすいのだ。スサノオは稲作に反抗するものだったし蝦夷もそうだった。稲作に合わない生活形態だから敵対するものとなったのだ。ちょうど中国が遊牧民と敵対したのは稲作と遊牧という生活形態が合わないからであった。万里の長城を作ったのもそのためである。稲作民族として国が起こりその過程で追いやられたのが縄文人とか焼畑の民とかである。これは日本の歴史を見ると明確に現れているしわかりやすいのだ。

生剥 いけはぎ 生きたまま獣の皮を剥ぐ行為。
逆剥 さかはぎ 獣の皮を尾の方から剥ぐ行為。
以下の「屎戸」までは、スサノヲ命の狼藉としてに語られていたものである。
阿離 あはなち 田の境の畔を壊して稲作を妨害する行為。
溝埋 みぞうめ 田に水を引く溝を埋める行為。
屎戸 くそへ
真木の灰 まきのはい 檜や杉などの木を焼いた灰。


こうしたことは狩猟民族がしていたことであり稲作民族にはタブ-であった。灰というのは焼畑でありこれも敵対する人達だった。稲作に障害になる人達が排斥されたのだ。常陸の蝦夷が排泄物で問題になったのは稲作には排泄物は必要ではない、邪魔になったからだ。焼畑も排泄物を利用していなかった。焼いた灰を使っていたからだ。だから灰も必要ないものだった。だからそれらを使うものは禁止されたのだ。仏教が入って動物を殺す狩猟も禁止された。蝦夷との戦いとは狩猟とか焼畑から稲作を普及するための戦いであったというのが一番わかりやすいのだ。

黒鷲、神衣姫(かむみぞひめ)、草野灰(かやのはい)保々吉灰(ほほきはい)、阿邪爾那姫(あざになひめ)、栲猪(たくい)、神石萱(かむいしかや)、狭礒名(さしな)陸奥国・八槻(福島県東白川郡棚倉町

そして問題はこの狩猟採集を中心とした蝦夷に焼畑農耕をもたらしたのは渡来人だった。ここが大事なのだ。焼畑農耕段階で渡来人が入ってきたということが日本の歴史を複雑にしている。武蔵(ムサシ)のサシは焼畑のことであり佐須もそうである。そこに渡来人が大量に流入したのである。加耶という国がありカヤは萱・茅・栢・榧・茆・葭・蚊帳・賀陽・加屋・高陽・賀舎・加悦・鹿谷・賀夜・加夜・可也・嘉陽などあり、草のかや・樹のかや、当て字のかやなどがみられると様々な当て字がある。その一つに草や萱もあった。そしてなぜ大和朝廷と戦った土蜘蛛や蝦夷にカヤとつく女酋長などがいるのかこれは明らかに加耶と渡来人の一部がすでに焼畑など通じて日本土着の縄文人と融合していたのである。草野灰(かやのはい)は加耶の灰であり栲猪(たくい)の栲(たく)朝鮮語で白であり、狭礒名(さしな)のサシはムサシのサシと同じく焼畑をさしている。
ホホキハイは出雲風土器に「法吉郷 郡家の正に(丁度)西 十四里二百三十歩 神魂命の御子 宇武加比賣命が 法吉鳥と化して飛び渡り 此処に静まり坐す 故法吉と云う」
鶯のこととしている。伯耆の国と関連しているのかやはりある地域をさしている。草野とあると草をイメ-ジするがカヤは加耶の灰であり保々吉灰は伯耆の国か地域名である。厩戸皇子(聖徳太子)は死後、母と妻の菩岐岐美郎女(ほほきみみのいらつめ)と三人一緒の墓に葬られたと伝えられています。ホホキは場所の名か一族の名、鶯族のト-テムの部族かでありホホキミミとなったときホホキ(鶯)族とミミ族が一緒になった部族連合である。それが後に大和政権内に取り込まれた。黒鷲は鷲をト-テムとする部族でありアザニナ姫のアザはホクロであり黒子のある姫となり神衣姫(かむみぞひめ)は

かけまくもかたじけなき天照皇大神も、みづから神の御服(みぞ)をおらせたまひ、其御妹稚日女尊(わかひるめのみこと)も、斎機殿(いみはたどの)にましまして、神の御服をおらせ給ふ事、日本紀(:日本書紀)

特別な神が着る御服のことである。ではなぜ土蜘蛛と呼ばれるものにこの名がついているのだろうか?邪馬台国の卑弥呼が女性だったごとく土蜘蛛と言われる賊はもともとそうした巫女とかの流れをくむ古い日本の女性酋長だった。だからそれが受け継がれたのだ。女酋長は巫女は特別の衣着ていたのである。

オモ(母)は朝鮮語でオミであり臣(オミ)になる。母系社会だったのが女性は臣下になっていった過程がここにある。カヤは一番古くから日本に流入してきていた。カヤはまたカラでもあった。焼畑を通じて同化した系統と稲作をもたらした系統があるのか、稲作は国家の管理に基づいて行われたから稲作関係の言葉に朝鮮系統は少ない、米がパプだったり全然発音が違うが焼畑関係に韓国語に通じるものがある。渡来人の言葉がそこで用いられた。稲は米は朝鮮系統から入ったのではなく南方経由、柳田国男の南方の島づたいに伝えられたのかもしれない、一方焼畑は朝鮮系統がかかわっていた。

佐野山に打つや斧音の遠かども
          寝もとか児ろが面に見えつる(東歌)


 この「斧音」は木を伐る音で、時代からすれば、畑を開墾するための木を伐る音だろうという。さらに、万葉集を見るとその木の代表は「榛(はん)の木」で、成長の早い榛の木は焼畑に関わる重要な木であるという。榛名山、榛東村などの地名の意味が、万葉の時代の生活とともによみがえってくる。榛というとなじみがないが焼畑に関係していた。榛原とかも多い、つまり生産から離れてしまうとその名もなじみがうすいものになるのだ。和紙作りのための木もそうだし今では漆をとる木も忘れられてゆく、生産から離れてゆくとき自然も実際は忘れられ死んでゆくことになるから問題なのである。

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火の中にたちて 問いし君はも

さねは実であり種でありサシは焼畑であり焼畑の光景の中で歌われた。関東地方は焼畑の盛んな地域だった。渡来人が入り開墾したからである。大和からするとすでに稲作になっていたからその生活形態がなじみのない異様なものに見えた。だから対立するようになった。カヤとはそうした焼畑族の中に同化した加耶の国の人達だった。

古いトルコ語にカヤシ(親戚)がありこれは朝鮮語のカヤと類似する形である。(大野晋)

遊牧民系の言葉でありカヤは一族の意味である。カヤハラは血のつながる一族が住んだ場所なのである。

厚鹿史(あつかや)とせ鹿文(せかや)の兄弟がいた。王である熊襲武には市乾鹿文屋(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の二人の娘がいた。

このカヤも加耶の国の人の意でありヤマトに対立した人々に加耶の国の人々がいたことは確かである。アツはアツミであり海人族の安曇(あづみ)族かもしれない、二つの部族とかを合わせたものなのだ。吾妻(アヅマ)山などのアヅマも安曇族の移動で名付けられた。最初はその一族の名がつくことが多いのだ。セは兄であるから日本人の兄としてカヤ一族が結びついたのがセカヤかなのである。イチは山の辺の道が幾つか遺(のこ)す市(いち)の地名は、山の神を斎(いつ)く場(には)、 山人たちと交易した聖なる場のなごりでしたとありイチは古い場所の名、地名である。著しい(いちじるしい)はじるしいとシルシでありイチという場に行けばいちじるしく物があふれているから転じてイチという地名が一になったともとれる。これはイチという場所と加耶が結びついたのである。

これはいかにカヤが日本の神話まで形成する時代から入ってきていた証拠である。他にもすでに日本に土着化していた渡来人の集団がいたのだ。それらが大和朝廷と敵対するようになったのは生活形態が稲作と反するものだから対立したのである。カヤというのはだからかなり古い層にある言葉であり日本に定着した言葉である。これは萱ではない、カヤの国の人とかカヤ族という意味である。昔の最初の言葉は一部族が強固な血縁関係で連帯して住んでいるト-テムである。だからその部族の名はト-テムである。部族名が最初の国名でありそれが外と内を分けるものだった。あれは犬族だとか猿族だとかなる。カヤもまたそうでありカラもそうである。それらはハラカラ(同胞)となるごとく一つの腹から生まれたものでありそれがカヤでありカラでありカヤは萱の意味ではなかった。だから草原が萱原となるとは限らない、朝廷からの通達で地名を二字の好字にせよとあり草(久佐)や草(加夜)の一字が草原になったのである。だから草原はあくまで当て字であり当て字は誤解をうみやすいし信用できないのだ。だから草原(加夜波良)となっていてもそれは萱原とは限らない、事実萱原村というのが確かにあったが非常に少ない、もっと萱原という地名があったもいいはずであるが少ないのは不思議である。草野というのは今でも多いが萱原を地名としていることはまれなのだ。草野もクサノでありカヤノのということも少ない、つまりカヤというのはカヤ一族という意味がうすれ忘れられるにしたがい杉原とか萩原とか植物名の原に変化した。

ではなぜカヤとつく人名や地名が明確ではないのか、それは加耶は百済などに押されて早めに姿を消した謎の国なのだ。その本当のことはわかっていない、早い時期に日本に来て土着化したから蝦夷とか日本の原住民と融合してしたからかえって土蜘蛛とか蝦夷の酋長にそれも女酋長にカヤとつくのが多いのだ。あとは百済とか高句麗(高麗)、新羅が日本に入りその足跡を残した。カヤは余りに早い時期に日本に入り同化していたのである。だからカヤはなじみがない、カヤはカラとなった。カヤは地名的にも人名的にも印象が薄いのだ。でも草(クサ、カヤ)の二つの系統がありこれは草は日下部でありもう一つ加夜としたのは萱ではなく加耶の国のことをさしている率が高い。草(カヤ)郷は加耶郷であった。それが草原とした結果、草原(萱原)との混同が起きたのだ。加耶の原と言ってもそれは陸奥真野草原が加耶族が移住したとかではなくそもそもの意味がそういうものでありそれが住民の移動と共にもたらされた。ともかく草原は萱原がなびいていたから萱原ではなかった。
一族のカヤであったのが草(久佐)であったのがわすれられて一般的に草野とかになった。草(クサ)も元は一字でありこれは明らかに日下部氏(クサカベ)氏から来たものであり草とは何の関係もないのである。草岡神社などあるがこれは草の岡ではない、日下部氏を祀った神社なのだ。カヤも前はそうだったのである。だから陸奥の真野草原はあくまで地名であり場所であり草原(カヤハラ)は萱がなびいている地とは限らないしその可能性が強いのだ。もし草原が淋しいと状態を書いていれば疑うことなくそうだった。ただ単に住所のように陸奥真野草原となっているからまぎらわしくなった。もう一つは常陸の久慈郡とか武蔵からの移動地名であり草原(かやはら)に住んでいた人が名づけた村の名であった。だから草原里がありこれは古い地名だったが消えたとも推測できる。草原里がありそのあとに大伴氏などがきて真野郷を設置したとき真野郷草原里となった。真野郷とともに草原里も移動してもたらされたかもしれない、原町の石上(石神)とか信田沢も物部系の移動でもたらされたらしいから地名は古く移動しているのが多いのだ。地名はそれだけ有力な証拠ともなるのだ。泉廃寺跡から発見された木簡のように消えた地名はかなりあるからだ。それは萱がなびいているからではなく単なる住所なのである。場所を言っているのであって草は萱ではないのだ。

これは朝鮮語の解釈例であり

磯城(師木)シキ     ‥‥ シキ = 石に囲まれた聖域、山城、村邑
 層富(添) ソフ、ソホリ ‥‥ ソホリ、ソフリ = 都
 高尾張   タカヲハリ  ‥‥ タカヲ = 小高くなった所。 ハリ = 邑
 和珥    ワニ     ‥‥ ワニ wannim = 王様
 磐余 イハ・フレ→イハレ ‥‥ フレ = 村邑、聖地 → ハル、フル、ハラ
 葛城    カツラキ   ‥‥ ? カルラ = 加羅(弁韓)。 キ = 城
    
 飛鳥(明日香) アスカ   ‥‥ アを安羅とするか、ウル語 as とするか。
                 アスカをイシャク<司祭>の転とするか。
                 枕詞「飛ぶ鳥の明日香」
 草香(日下、孔舎衙) クサカ‥‥ ク = 大。 サカ = 村

 
ここからさらにつづく、つまり朝鮮語系統は村とか国とか王とか一族とかに由来しているのが多いのだ。これを読めば朝鮮語系統もかなり日本語化していることがわかる。草原でもそれは後の人が自然だけを見てそう想像したのであり最初に名づけた人々は自分の村とか国とか王とかそういう名付け方がほとんであり自然を見て名付けたのは後の世のことである。自然を基にしたとしても一族の名となったときはそれが自然の景色と関係なくその場所の名となる。北海道の伊達町は伊達町の人が移住したからでありその土地の景色とは何の関係もないのである。ただ草原という当て字が自然の景色にとられやすいからまぎらわしくなったのである。

ここはかなり参考になるし私の説の裏付けになった。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ipsenon/kk6.html#S44

もどる

次へ