郡衙が国衙の解明から(陸奥真野草原考)小林勇一作
(泉廃寺跡(郡衙))から渡来人の名の木簡!)

鎰取(かぎとり)

鎰取(かぎとり)地名の由来(昔、真野川に架かる御山橋の下流に長い櫃(ひつ)が流れ着いた。村人はこれに鍵を掛け引き上げようとしたが、その鍵が取れて落としてしまった。鍵取の地名はこれに起因しているという

この伝説はなにを物語っているのか、確かにここに長い櫃があった。ここに郡衙がのような倉がありそこに長い櫃があったのだ。その櫃だけが残った。鍵をひっかけてとるというのは正倉という倉には国から鍵が与えられていた。鍵でもって管理するためにである。これが後に各地の神社となった。この伝説はでたらめではなく本当にここに倉がありそれが伝えられたのだ。この鍵は鎰、鉤、鍵と漢字が違う。ここは
鎰であり
遠江(とおとうみ)の伊場遺跡の字を使っている。明確なのは仙台太白の鉤取である。寺や鉤取山まである。そこに多賀城前の国府があったとすると不思議ではないわけだ。

大和朝廷最古の国府と断定 仙台・郡山遺跡 仙台市太白区の郡山遺跡(六五〇−七二〇年)を発掘調査している同市教委は二十八日までに、地方官衙(かんが=役所)では例のない宮殿朝堂院風の建物群から、宮殿にしか見られない直径八十センチもの柱を使った建物跡を発見した。正殿わきに配置した高殿とみられ、同市教委や専門家は、同遺跡を大和朝廷が多賀城以前に陸奥国(むつのくに)経営のために置いた最古の国府であるとほぼ断定。「大和朝廷の地方支配など古代史を塗り替える貴重な発見」としている。(古代・宮城県) [97-09-11]

私の住んでいる印役(いんやく)・山家(やんべ)の地に、天平9年(737年)蝦夷(エゾ)征伐のため、聖武天皇が大野東人(オオノアズマンド)を派遣しました。統治するために印鑰明神宮を参議従三位 大野東人朝臣が創建しました。その時に麹の製法が伝えられ、東北六県の中で、みその縁起として一番古い歴史を伝えている土地です。また、江戸時代の元和8年(1622年)山形城主鳥井忠政は、この印役と山家に製麺と製紙の無税専売を許しております。

東北にも郡衙はかなりある。国衙がそもそも全国でも少ない、多賀城と出羽の国府二つである。仙台市太白区の郡山遺跡(六五〇−七二〇年)であり山形県のは天平9年(737年)になっている。これが不思議に時代的あっていたことなのだ。仙台の方が当然古いのである。その古さも10年くらいしか差がないことなのだ。10年たらずで郡衙の倉などが山形までに建てられるようになった。時間的に一致していることの不思議である。福島県の郡山の郡衙などはそれ以上に古いものだろうか。徐々に多賀城まで大和朝廷が進出したからだ。名取とか亘理に大きな前方後円墳がある。それから陸奥真野からも名取方面に軍団が移動している。宝亀十一年九月廿 行方団□毅上毛野朝[ ]」 の木簡をそれを示している。なぜ仙台の太白区に多賀城の前に国府が置かれたかというとその位置が場所が歴史的順序でそうなったのだ。あれだけ大きな古墳があることはそこが古代が人口が多かった地域であり大きな地元の勢力がそこにあった。だから多賀城が国府になる前にそこに国府が置かれた。その場所に歴史的必然性があるのだ。多賀城以北岩手県辺りになると古墳がないのである。古墳は宮城県止まりでそこから波及していないのは古墳、前方後円墳の祀りごとが伝わらなかったことは大和など南からの文化が岩手県までに波及していない、だからこそ最後までそこに蝦夷の大きな勢力が残り抵抗したのだ。岩手県のアテルイが首領になっていたからそうなのである。本当の蝦夷の地域は多賀城以北であったのだ。宮城の遠田郡小田までが奈良に知られていたようにそこから以北が本当の蝦夷の辺境になっていったのだ。

栃木県那須津上村にある「那須国造碑」の碑文に那須直韋堤(いで)の墓碑らしく那須国の国造の韋堤が689年に下野国那須評(こおり)の長官に任命された記されている。その後那須郡領には、この韋堤の一族がの者が代々任命されたと考えられる。(古代の役所)岩波書店

郡衙や郡司の場合は国造が引き継がれていた。地元の有力者が郡司になった。国衙は中央から派遣された国司が来たから全国では少ない、郡衙が福島県でも四つくらい遺跡が発見されている。国府とつく地名がその名残であり近くに国分寺あったりする。国府と並んで寺が建てられた。仙台市の太白区にあるのはそのためである。浮田国造も国造であった地元の有力者の郡衙があったのか正倉があったのかその痕跡を示すものである。浮田国造は後に真野郷の地域に編入された。ただその場所が栃窪にありこの場所が大事なのだ。栃窪は山に近いから水がいい、栃窪でとれる米はうまいから我が家ではそこから米を買っている。水がいいところは米がうまいのだ。そこになんらか郡衙といかなくても倉があり管理する鍵を持つ人がいてかぎとりの伝説が生まれた。もともとは真野川の深い岸にあっとありそれが浅瀬となったことは流れが変わったのである。郡衙がであり国衙がでありそのある場所が大事なのだ。そこはこのようにその土地の要所恵まれた場所にありそこは最も歴史的に古い場所である。この郡衙らしき場所はあとは原町市の泉廃寺跡に移った。こっちのほうが先にあったことは確かであろう。とういのは浮田国造というのが一番古い国だからだ。それは毛野の支配下にあったときあったのだ。

●泉廃寺跡木簡の謎

そして泉廃寺跡(郡衙)の発掘は有力な証拠を提供した。

福島県指定史跡「泉廃寺跡」の東側隣接地に所在します。泉廃寺跡は、古代陸奥国行方郡家(むつのくになめかたぐうけ)跡の推定地であり、発掘調査によって、舘院、正倉院、政庁院、運河、寺院等の諸施設を備えていたことが明らかとなっています。

郷名は「嶋□郷」と読める。平安時代の全国の郷名が記されている10世紀に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、行方郡内に吉名(よしな)・大江(おおえ)・多珂(たか)・子鶴(こづる)・真 (まぶき)・真野(まの)の6郷が記されているが、「嶋□郷」はみられない。周辺の郡にも該当しそうな郷名がみえないことから、8世紀前半には存在したものの、その後『 和名類聚抄』の段階で消滅した郷であったと思われる。

文化財課(原町市)
http://www.city.haramachi.fukushima.jp/bunkazai/bunkazai040224.html

 オモテ面には貢進者である「嶋□郷□□里」(地名)の「□□白人」(人名)という名が記されており、裏面には、ほとんど判読できないが、進上された物品の種類や量が記されていたものと思われる。

ここにも確かに郡衙があった。ではこの嶋□郷 □□白人とは何を意味しているのか、□□里は久慈郡に真野里あったように草原というのも真野郷草原里だったかもしれない、里は文献にのらなくてもかなりあったのだ。それが地名として残っているかもしれない、原町に郷としてなくても大田とあればここでは大田里になったのかもしれない、久慈郡に真野郷があり真野里があった。同じ郡内にあったとすると真野という広がりが各地にあったのか不明である。


●白人の謎



円首刀:「白人」
戦国時代 (475-221.BC).
鋳造時期:同上
趙国
表:漢字銘文:「白人」
「白人」とはすなわち「柏人」のこと。この貨幣が鋳造された都市の名前で、現在の河北省隆堯県または河北省臨城県にあたります。

山下秀一 - 古代貨幣と古器物

http://www.bekkoame.ne.jp/i/ge6128/hjj.html

【社公】しゃこう=(@土地の神。鎮守の神。 A生来、まゆや髪の毛の白い人。)を見 白髭神社や高句麗氏の若光(ジャクコウ)を思い出しました。 中国の夏王朝の禹王は中国への渡来人らしく父の名は口鯀(クこん?)黄河の治水に失敗し堤防の人柱にされたらしく【口・日・白・兄?】など白川静氏の字解での口(さい)=神への祈りの文である祝詞(のりと)入れる器の形とされています。話が逸れましたが禹の祖は【匈奴(胡えびす)】・狛(はく=(白人?)・こま)族とのつながりを感じます

無題ドキュメント

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban5.htm

の白人とは一つは「樋放」、「頻蒔」、「白人」、「こくみ」(瘤や疣)、「昆虫の災い」、「高津神の災い」、「高津鳥の災い」、「畜仆」、「蠱物」などを加え、国津罪と呼んでいる。また、『日本書紀』「推古天皇二十年(612)」の条では、「(前略)自百儕國有化來者。其面身皆斑白。若有白癩者乎。惡其異於人欲棄海中嶋。然其人曰。若惡臣之斑皮者。白斑牛馬不可畜於國中。亦臣有小才。態構山岳之形。其留臣而用。則爲國有利。何空之棄海嶋耶。其辭以不棄。(後略)」と記し、体の奇型を忌む傾向が見て取れる。「其の面身、皆斑白」は、『延喜式』の「大祓」の祝詞に記される「白人」であろうと推測される。これは白癩者でありらい病だったらしい、もう一つの系統として白人とは「柏人」で中国の都市の名とすると都市の名が刀の貨幣になっているとするとこれは中国系の趙国となるがこれは中国から直接ではなく朝鮮半島を経由しているから朝鮮半島の人だろう。ここが高句麗の瓦が発見されたとするとそうである。高句麗、高麗(こま)系統の人となる。病気の名前つけるはずがないからだ。ただ病気は細菌類は外国からもたらされることがあるから白人にはそうした意味もあるかもしれないがともかく渡来人の名であることはほぼ間違いないのだ。

シロでありシラギとか明らかに渡来人がここに来て住んだのだ。この和泉廃寺跡から福島市の信夫と同じ高句麗の瓦がでてきたことでもわかる。これは福島市の方から移住して来た人々である。それにしても嶋□郷とかまぶき郷とはなんであったのかマブキとは真金吹くとかからきており製鉄族がここに移動した、その一団が住んだ郷なのだ。嶋□郷とは久慈郡に志万(しま)、真野里、神前里とありこれと関係しているのか、久慈郡に漆文書で発見された。二つ並んでいることは郷が移動したのかもしれない、そのあとがわからないからなんともいえないがそれにしても志万(しま)、真野が並んで存在する不思議である。久慈郡からの移動があったのか、それは真野と一緒だから真野郷が置かれて嶋□郷が置かれたのだ。地理的には真野郷の隣が嶋□郷でぴったりするのである。地理的に真野郷と隣り合って泉廃寺跡があるからだ。丹波国に志麻郷があり島物部神社がある。この反乱者の一人の賀茂角足(かものつのたり)が藤原氏に味方しないでほしい勢力者の中に坂上刈田麻呂、高麗福信、牡鹿嶋足などがいた。牡鹿嶋足は優れた人で出世して高い位を授かった。後に道嶋宿禰と改姓した。


道嶋氏は、元来、牡鹿郡の郡領に任命される家柄であったが、その一族の嶋足が中央政界の政変であげた勲功によって中央官人として立身出世するのにともない、陸奥国内でも最大の勢力を誇る豪族になっていく。道嶋氏ははじめ丸子氏を称したが、地位が上昇するにつれて牡鹿連(753年)、牡鹿宿禰(764)、道嶋宿禰(764)と氏姓を変えた。この氏を蝦夷とする説もあるが、道嶋大楯がアザマロを夷俘と侮辱したことや、姓が連・宿禰で、蝦夷に与えられる公ではないことからみて、蝦夷ではなく、坂東などから移民してきた氏族であろう。
古代の東北 アザマロとアテルイの英雄物語 2
http://komanoyu.hp.infoseek.co.jp/Aterui07.html

この嶋氏が行方郡の泉廃寺跡(郡衙)の嶋□郷□□里と関係あれば牡鹿郡の石巻に真野という地名が移動したとも考えられる。嶋一族とともに移動したのである。真野里であれば文献には残らないのである。
神護景雲三年
十一月二十五日 陸奥国牡鹿郡の俘囚、少初位上・勲七等の大伴部押人が次のように言上した。
 伝え聞くところによりますと、押人らの先祖はもと紀伊国名草郡片岡里の人ということです。昔、先祖の大伴部直が蝦夷征伐の時、陸奥国小田郡
嶋田村に至り、住みつきました。その後、子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚とされました。幸い尊い朝廷が天下を治められるめぐり合わせとなり、優れた武威が辺境を制圧しているのを頼みとして、あの蝦夷の地を抜け出てから、すでに久しく天皇の徳化のもとにある民となっています。そこで俘囚の名を除き、調庸を納める公民になることを申請します、と。
これを許可した。


この人は遠田郡の人である。遠田郡の隣の登米郡に行方郷があったからこれは明らかに相馬の行方郡の人が移動したのだ。黄金がとれたのは遠田郡の小田である。その小田に嶋田村があったということは泉廃寺跡の嶋□郷は嶋田かもしれない、その他遠田郡には真野公遠田郡真野公営山47人が賜姓された。こう考えると嶋□郷は嶋田郷であり□□白人は高麗白人かもしれない、高麗福信という人がいたからだ。つまり製鉄や黄金をとる人々が渡来人中心にして移動してきたのだ。

すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く (大伴家持)

続日本記の716年に駿河、甲斐、などから高句麗の渡来人を今の埼玉県の日高町の高麗の郷に千数百人移したとあるからこれは大変な数なのだ。それから北方の古代という本で鈴木武樹という人がなぜ防人をわざわざ東北から選び朝鮮半島の防備としたのかそれは筑紫や九州の人々が朝鮮半島と通じあっていたからだという説を出している。磐井の反乱がそうであり新羅に応援されて大和朝廷に反乱したりするからそういう説も一理ある。古代は渡来人が枢軸にあり2割くらいは渡来人が一郡をしめることがあるみたいだ。これは技術集団でもあるしかなりの存在感をもっていた。福島県で渡来人の高麗系統は中通りから来たことは間違いない、なぜなら信夫の郡衙跡で発見された瓦が高麗系統で同じものが植松廃寺跡(郡衙?)でも発見されているし途中の阿武隈高原の東和町にもその跡が濃厚だからである。だから真野の入江は装飾古墳や横穴古墳などの痕跡があるとすると船で来たのオオ氏の一族だったかもしれない、それらは海のほうから入ってきた。ただそれらがどう草原、加耶の国と結びつくかはまた謎であるが草原も久慈郡からの移動地名があるように移動地名なのはほぼ間違いない、ただ文献に記されなかったのだ。消えた地名なのである。



道嶋氏というのはこの嶋□郷と関係あるのかどうかわからないが嶋と名がついた有力者がいた。これも地元の人ではなく移動してきたとするとそういう人が移動して郷名になったのか牡鹿の石巻にはやはり真野という地名が昔から真野草原の地として江戸時代に知られていた。ともかく有力な一族が移動するとそこに一族の姓が郷名になることは古代では良くあることなのだ。そして和名妙にものらない消えた地名、郷名が結構あることなのだ。その一つに草原郷もあったのかもしれない、地名は古いから文献に残らなくてもすでに古代にあった地名はつづいていることがあるからだ。

●泉廃寺跡の位置の謎

泉廃寺跡が郡衙がとするとなぜあんなに海に近いのだろうか。推測できることは金沢とか大規模製鉄遺跡が近くにあり鉄の生産を管理していたのだろうか、地理的に見ると海に近いからあそこは米を作るのには適していない、米はアガタ(県)が適していた。英多(あがた)という郷が必ずあるのはそのためである。浮田国造の最初の郡衙とみられるのが栃窪にあるのはそのためである。あの辺は行方郡では米作りには適していた。水がいいからだ。一方泉廃寺跡は米作りというより鉄作りにかかわりあそこに郡衙が置かれたとしか考えられない、桜井古墳も海に向いている。その前に小さな方墳がありそれはさらに海に近い所にあった。なぜこんなに海に近い所に置かれたのかそれは製鉄に関係して置かれたとしか考えられないのだ。では金沢とかに船がついたのかあそこでは入江でないとしたら海岸では船は入りにくい、真野の入江の方が入りやすいからそこから入り寺内の高台に前方後円墳を作りそこから金銅双魚佩がでてきた。大和系統は高い丘にまず前方後円墳を築くというからそうなるのか、でもここで米を徴収していた、□一石□□十一日とあるのは米を集めて倉に収めていた。米を中心に集めていたのかただ新田川付近からとは思えないのだ。あそこは米をとるには適していない、塩気がある低地ではないか、八沢浦のような所なのだ。真野郷のとなりが鉄を生産した「まぶき」郷であり真金吹く吉備・・・真吹(まぶき)になるからだ。真吹とはマブで坑道の穴とか真吹炉とか江戸時代までも製鉄するのに残っていた言葉だった。岩手県に大麻部山(おおまぶやま)があるがマブは坑道の穴である。鉄をとるために穴を掘ったその入り口の穴である。これをアイヌ語で説明していた人はあまりにも知識がかけている。マブもいろいろ当て字していた。間府とか間歩とかつまりこの真吹(まぶき)は製鉄族にとっては古代から受け継がれてきた言葉である。真吹郷は真野郷のとなりの金沢や泉廃寺跡(郡家)があるところに間違いない、あとは子鶴郷がわかっている。でも他に吉名とかの名がなぜでてきたのかわからないし嶋□郷は泉から離れた大田とすると泉よりは米はとれた。米を収めに泉の郡家まで来たのだ。

それにしても嶋□郷は嶋田が可能性が高いがそのあとの□□里とは何なのだろう、金沢里なのだろうか、それもわからない、もしかして草原里なのか、あの辺が草原里でも不思議でないかもしれない、米を収めたとすると大田里かもしれない、久慈郡からの地名移動で
志万郷→嶋田郷 真野郷→真野郷 大田郷→大田里となったのかもしれない、すると大田里というのは原町市の大田になるのか?あの辺に住んで米を収めたのだろうか?嶋□郷の場所も不可解である。人名では狛造か高麗ではないか、これはかなり有力である。間違いなく渡来人の技術者が来たのだ。だからそこに渡来人の呉原とか何か加耶原でもありえないことではない、桜井古墳は在地の首長が葬られたのだからその近くに郡衙が置かれたのも一理ある。最初は浮田国造の地域が開拓された。そののち大規模な鉄生産が始まり郡衙が移されたのだ。植松廃寺跡の瓦が信夫郡の腰浜廃寺跡の瓦と一致するのもそのためである。それは高句麗系なのだ。植松廃寺跡についてはわからないが鉄生産が盛んになりあそこに郡衙を移したのか、郡衙は駅家(うまや)の役割もあったがここではそれはない、むしろ津とか港の位置にあった。ただ海岸は波が荒いから船をつけるには適していない、だから真野の入江が利用された。でも金沢の近くに大船という地名があるのは何なのか、大船が通るからそんな名がついたのか?大内のソガ船が絶えず船がさかのぼる所だからソガ船というのも不思議な名なのだ。そんなに船の行き来があったのか、それがいま一つ証明されないのである。運河があったというのは何なのか、船を入れる運河なのか、船が関係した津の役割があったのか、良くまだわからない、ただ陸奥真野草原は真野の入江かどうかは断定されない、今回の発見で郡衙のある所かもしれない、ただ真野郷という地域とは多少違っている。真野郷、真吹(まぶき)郷、嶋田郷となりあいあったのか、これも木簡の発見でわかりにくくなった。思わざるものがでてきたからこの解明はむずかしくなった。ただこれはかなり有力な証拠であるから深く検討せねばならぬのだ。




●郡衙、国衙と万葉集

では国衙とか郡衙がでは何が行われていたのか、そこは役所だったのだ。でも古代の役所は国府には細工所、鍛冶工房、市場、船着場、学校などがあった。国府は川岸にあったりそこに舟着場があり交通の便のいい要の場所にあったりするからそこが古代の駅にもなった。鍛冶工房では武器が作られていたから武器庫でもあり軍団の役目もあった。藤の蔓で作った雑器などが郡衙に集められそこから国衙がに収めた。そこが駅馬となったとすると「井」という木簡が発見されており井戸があった。その井戸を利用して接待したのが


 鈴が音の早馬駅の堤井の水を賜へな妹が直手に

の歌である。そこは国から派遣された官吏が泊まる宿でもあり接待される場所でもあった。明石郡衙から郡衙の館に泊まった国司が御馳走を要求することが良くあったらしい。「女召 付里正 丈部麻々呂」とあり女性が国司を接待していたのだ。これは



郡山の采女の歌の

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾思はなくに

の歌にあるごとく郡衙や国衙は国から派遣された国司が泊まる場所でもあった。今でも中央から派遣される役人はいるし優遇されている。この女召というのには何か国司の傲慢さを感じた。だからこうした歌ができた。采女の悲劇もあったから権力者の傲慢さはどこでもあったのだ。今では官僚でも役所で女召という感覚はないからだ。もう一つ面白かったのは郡衙や国衙が関所の役目を果たしていた。740年に聖武天皇の美濃行幸に随行した大伴家持は歌っている

不破の行宮にて、大伴宿禰家持がよめる歌一首

 関なくば帰りにだにも打ち行きて妹が手枕巻きて寝ましを

貴族役人たりとも容易に関をこえて往来できなかった。古代からこれほど通行が厳しかった。農民が乱りに他国に出たりできないようにするためとされるが古代から律令国家になると農民は国からかなり管理されていたのか戸籍も作られていた。越前まで辺りは大伴家持が国司として派遣されたようにかなりの往来があったのだ。

塩津山うち越えゆけば我が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも 笠金村

馬での行き来がかなりあった。越前までは今の東海道のようになっていたかもしれない、というのは古代は日本海との交流が密であったからだ。古代は日本海が表であった。日本海を通じた交流が頻繁だった。渤海との交流もそうだし古代は日本海が朝鮮半島の交通路だから出雲が巨大な勢力となったのだ。だから越前から継体天皇が出てきたのだ。武生とか能登に国府があるのはそのためであり明確に歴史的跡としてたどることができるのだ。大伴家持がここに五年間もいたことはそれだけここが古代において存在感のあった場所だった。その他国府は当時の祈祷の場所でもあった。「古代の役所」山中敏史、佐藤興治(岩波)に浜松の伊場遺跡のことが詳しく書いてある。浜津郷にあり墨書土器に港湾管理人である津守の使用した可能性がある。「百怪呪符」木簡は中国朝鮮半島伝来の陰陽(おんみょう)道の呪い札で津守が航行安全を祈願したとものと書いてある。津守には陰陽(おんみょう)道に通じた渡来人が多く起用された。つまり津と港湾や船に関係するものにも渡来人が多かったのだ。病人の祈願もしたから病院のような役目も果たしていた。古代だからなんでも屋になってしまう。一つの機能ではない多様な機能を一つの役所で行わざるをえないのだ。いづれにしろ郡衙とか国府の役割は古代では重要だから要となるから知るべきだろう。






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(狩猟採集や焼畑から稲作へ変わる過程から