瀬戸田にて

次の朝瀬戸田に行った。前に一度来ていい所だと思ったのでまた行くことにした。やはり瀬戸内海の古い島ということの感じる所だった。桜が満開であり桜が散っていた。あの古びた石段がなんとも年期を感じて趣きがあるのだ。

   瀬戸田の春

船は瀬戸田に着きぬ
三重塔の島に高からず
朝の桜に眩しく映えぬ
上り行く石段古りて
真昼静かに花の影
ゆくりなく鶯は鳴きぬ
はらはらと花は散りにき
この島に眠れる人や
その墓の海を臨みぬ
はらはらと花は散りにき
その石段古りて我が下りぬ
この島に常夜灯も家をも古り
その狭き暮らしの道や
燕は去年の古巣に帰りぬ
瀬戸内海に船の行き来の絶えず
春の山陰に漁村のありぬ
ああ 穏やかなる瀬戸の海かな
なお知らざる島に漁村は隠りぬ
いずれの日にかその島を
心おもむくままにねんごろに
我は訪ねん誘わるごとに・・・・


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海光り朝穏やかに木々芽吹く

島々に木々の芽吹くやカモメ飛ぶ

鶯や石段古りて三重塔

春の暮瀬戸田のあわれ常夜灯


この常夜灯の上は蓮の花であり仏教と関係していた。これは珍しいのではないかと思った。

瀬戸の島海穏やかに春の山

朝桜光りまばゆし三重塔燕の群れのまた飛びまわるかな

春日さし潮の流れて塔の上に今来し燕飛びまわるかな

瀬戸田なる島の古巣に帰燕かな

三重塔の上を今来た燕が盛んに鳴きあい飛び回っていた。瀬戸田の一番高い所に登ると本当に景色がいい。景色もいいし情緒のある所だと思った。すでにアゲハなども盛んに飛んでいた。詩に書いたようにあの辺の島を自転車で走ったら気持ちいいと思った。島は今はどこも橋が架かっていて陸づたいに行けるのだ。ただ島は舟を利用するのが旅の情緒がでる。

花影や島に眠れる海見えて

瀬戸の海島影いくつ春霞

沖に船海の光りて春田かな

島の入り江の奥や春田かな

海に向き社の古りぬ瀬戸の村

まわりみな春の山々瀬戸の島

春の瀬戸親島子島沖に船

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島の間に潮流激し朝桜

島をぬい朝潮早し春の朝

今回はこの潮の流れに驚いた。どんどん潮が流れている。瀬戸内海は潮の流が激しい海峡なのだ。島と島の狭い海峡は流れが早くなる。鳴門の渦潮もできるのもうなづける。神武東征で導いたのは珍(うず)彦という吉備の人であった。うず彦というごとくまさにうずのように流れる瀬戸内海の激しい潮流を意味していたのだ。潮流を知る海を知る人だった。瀬戸内海は外から見ると遠くから見ると湖のように穏やかに見えるが近づくと激しく渦巻くように流れている海峡なのだ。この潮流が歴史を左右したことがあった。平家と源氏の戦いでこの潮の流れが勝敗を左右した。インタ−ネットで調べたら源氏は海に通じていないのに勝ったのは相手の海に通じている平家に味方した水軍の長たちを殺したからだという。そういうこともありうるほど海は導く人が大事になるのだ。

そもそも海流は知ることとらえることはむずかしかった。だから黒潮であれ船はとんでもない所に流される。海流に流されてそうなるのだ。例えばなぜ出雲があのように大きな力を持ったかというと新羅と近く古くから交流があったためである。韓国から漂着するものが山陰に流れ着くことが多いというのは黒潮が流れているからそうなるのである。海流のことはわかりにくい。またどういうわけか慶州で大阪の人と出会った。その人はスコットランドが好きで何回も行っているという。スコットランドは寒いではないですかと聞いたらそうでもない、メキシコ海流によりあたたかいという。アイスランドも寒い所かと思うとメキシコ海流によりあたたかい面があるとあった。相馬に来た密航船は日本海の方に行くはずだったがどういうわけか太平洋側に来てしまってつかまってしまった。潮の流れによってそうなってしまったのだろう。海というのは潮の流れとか風に非常に左右されやすい。だから風待ちの港とかが必要になりいろいろ風について知ることが大事なのである。それが生死を分けたりするからだ。


海流−風−鳥−島−星−船−木


これらに通じることがう航海民には必須だった。鳥は天鳥船というごとく島に陸に導く役割を果たしたらしい。ノワの方舟の鳥もそうだった。鳥はやはり航海では水先案内になった。星もそうである。北斗七星が妙見信仰となり非常に重要な役目を果たした。韓国の博物館で見たが北斗七星の旗を船にたていたものがあった。さらにつけたすと船の材料となる木も大事であった。レバノン杉が丈夫で船に欠かせないものとして珍重されたように大事であった。とにかく日本というのは実際は陸地ではなく島であるということがポイント手ある。九州でも四国でも本州でも北海道でも実際は島であり日本列島全体が島なのである。この島はインドネシアであれフィリッピンであれ台湾であれ沖縄であれ点々と島として結ばれているのだ。日本の祖先が島伝いにやってきた人達だったことは確かである。日本の国産み神話が淡路島とか佐渡が島とか小さな島伝いに日本列島に来たことを物語っている。その中に対馬と壱岐があるのは韓国から渡ってくるのに必ず寄ったからである。佐渡が島があるのは日本海側の黒潮にのると着いてしまった島といえる。宮廷儀礼の重要てものに八十島祭りがあった。天皇の治める多くの島々の精霊を天皇に身体に付着させるという儀礼であた河内王朝から難波で行われた。つまり島の連合体であり海人族の水軍の連合体が初期の王権を作った。仁徳天皇陵などが難波にあるのもそのためである。島が大和政権を作る基礎だったのである。

天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ 柿本人麻呂

陸ではなく大和島なのだ。古事記のオノコロ島は小さな島の神話が日本の神話になったのである。
これは何も日本国内のことではなくづっとインドネシアからポリネシアから島伝いにやってきた人達だったからだ。盛んに日本語がポリネシアに由来するというのもそのためである。枯野というのは船はカヌ−だというのもそうかもしれない。つまり海流はとんでもない遠くから運んでくるのである。そもそも稲葉の白兎がワニにだまされたというがワニは中国にも韓国にも台湾にもいない、極めて南国的な動物である。アメリカの博物館で見た南洋の船はワニを船首とする。ワニをイメ−ジしたものだった。船首をドラゴンにしたものは中国系である。その船は河から生れたのである。中国の龍はワニのことだったという説もある。ワニは鮫だという説もある。でもワニとサメは明確に発音が違うのである。ともかくなぜここにワニがでてくるのか不思議である。つまりかなり南から伝わった伝承なのではないかワニは日本人にも韓国でも中国でもなじみのある動物ではないのだ。和邇(ワニ)氏というのも大きな氏族であり海に関係した人達が渡来したのだろう。ワニ氏のワニは丸部であり○のことでこれは船の旗印になったとか海と関係しているのだ。対馬の和邇津とはワニ氏一族がよく寄港したから名づけられた。和邇氏はまた近江の小野とか真野浜とかあの辺に移住した。そして和邇氏は丸子であり丸子部がかなり各地に移動した。丸子町(マリコ)あり東北にも移住した。その中に小野一族真野一族もいて真野の萱原の真野という地名になった。ただ和邇氏はかなり古いから小野系統に属する真野氏かもしれない。万葉集に地名が読まれることはそこがかなり有名な意識化された所であった。そんな東北の一地域が知られるに余程のことがないかぎりありえないからだ。陸奥の小田は黄金がとれたから知られたのであり何か特別な意味があったのだ。

とにかく日本人は最初そうした漂着した人達でありそれで日本語の起源がポリネシアだというのもそうかもしれないとなる。日本人の起源がわからないのはそうした海流にのってとんでもない遠くから流れ着いた人達でありそれで大陸のような連続性がなくなり記憶が失われた。ある人が盛んに日本人はタルシンの船にのってやってきたユダヤ人だというのもそのためである。最初に海流にのってとんでもない遠くからやってきた人達がいたということなのだ。コロンブスにしてもジパングを目指して別な島に到達した。全然目的をはずれた場所だった。アメリカはあとで発見されたのだ。海は海流や風の影響でそういうことになりやすいのである。


熟田津(に き た づ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎてな 8

月と潮の天体的知識がありこれはその背景に百済救援のための宗教行事だった。天皇に代わって額田王が詠んだ。つまり国家的に百済の救援を鼓舞する軍歌の意味もあった。だからこの歌は大きな背景のある天皇の気持ちを詠んだ歌だった。天と地と人事、歴史の決断の鬨の声を挙げるような大きな進軍の歌に思えるのだ。これが女性が歌ったということも女性が古代では巫女を務めたように神事を司ることで神秘化された。その後は女性は脇役でしかなかった。政治にはまつりごとには口だせなくなったのだ。天然の現象に通じて力を持つということは古代にはかなりあった。神官はエジプトでもインカでもそうであった。日の皇子ということは聖(ひじり)は日を知る、天然の現象に通じたものだったからである。また諸葛孔明も赤壁の戦いで風の吹くのを予言して火攻めで勝利した。天然の現象を味方にした時勝敗が決まったのだ。天然の現象は神意でもあったのだ。今ではこの天然を操作するのは人間であり科学であるとさえなる。科学がまるで天然を越えたもののように君臨しているのである。風とか潮の流れとか考慮しない世界である。しかし白鳥であれ燕であれどうしてあんなに遠い距離を方向を失うことなく飛べるのかなど自然の驚異は解明されていないし一羽の鳥の方が機械より神秘であり驚異なのだ。以前として解明できない奇跡なのだ。



流れる潮

遣新羅使の歌

(2)小林勇一