瀬戸内海から韓国へ(遣新羅使を思い)

小林勇一

大畠の駅?

かなり下関に近づいている
この春田の景色は良かった
かなり奥深い所に隠れるようにあった


はつに見ゆ島に桜や汽車の行く

沖に船島に桜や山陽線

島々の囲む入江に春田かな



誰か棲む入野奥の春の山

前後するが尾道を出て広島に入野という駅があった。この入野は日本各地にあり日本特有の地形である。野は平らなものが野ではなく斜面も野である。谷の奥に入り込んだ野は斜面でもある。日本では山が多く山の間の奥に入り込んだ所が多い。谷間の奥の野というのは多いのだ。入畑(いりばたけ)とは家から遠い山の中にある畑とあり入野に作った畑となる。入野という地形は日本にはどこにでもある日本的な地名なのだ。三毛入野命(みけいりのみこと)は入野の地名をもとにしているから古くから入野という地名はなじみあるものだった。海に面しても入野はあるがやはり海の側でも常に山が迫っていてその山の間の谷間の奥は入野になる。海に面している場合海と連続して入り江となり野になったのかせしれない。地形を見ればわかるだろう。入野という地名は多いのだ。

 吾(あ)が恋はまさかも悲し草枕多胡( た こ )の入野の奥も悲しも 3403

これは栃木県の多胡であり旅をしてきてさらに谷間の入野の奥に棲む人を思ったのだろう。今回の自分の旅はどこまでいっても春の山が見えた。これは韓国までつづいたのだ。韓国も70パ−セントが山だから日本の風景とにていたのである。

瀬戸内海は外から見ると景観としては美しいのだが生活的には山村の過疎と同じ状況にあるらしい。四国新聞の記事の連載を読むと島が産業廃棄物になったり高齢化になったり海の汚染とか漁業の衰退とか様々な工業化の歪みが海にも影響している。青松白砂の景観も極端に減少している。外から見る限り景観は同じなのだが海に生きる生活は失われている。これは山村でも同じであり何か景観としては一番美しい所が工業化の影響で生活そのものが衰退化しその美しい景観とは裏腹の状態になっている。明治頃までは風待ちの港として栄えた所が結構あったが動力船が遠るようになり衰退したとか自然の条件に適合して人間の生活はあったのだが工業化はそれを歪めてしまった。海は森とも山とも関係していた。森の腐食土の栄養分が海に流れ魚を育てていたとか自然とは海とか平地とか森とか別個のものではなく必ず一体となって存在するのである。


  
遣新羅使を思いて


韓国紀行ではあるが韓国に行くまで実は韓国と関係しているのが日本なのだ。これがヨ−ロッパとかアメリカと違う点である。万葉集の遣新羅使の歌を読んで行くと昔を偲び今を考えることができる。歴史とは常に昔を思い今を考える作業なのだ。昔と今は連続しているのだ。韓国の場合地理的にも歴史的にも密接なのである。


鏡なす 御津の浜びに大船に 真楫しじ貫き 韓国(からくに)に渡り行かむと 直向ふ 敏馬(みぬめ)をさして 潮待ちて 水脈( み を )びき行けば  沖辺には 白波高み 浦廻より 榜ぎて渡れば 我妹子に 淡路の島は 夕されば 雲居隠りぬ
さ夜更けて ゆくへを知らに 吾(あ)が心 明石の浦に
船泊めて 浮寝をしつつ わたつみの 沖辺を見れば
いざりする 海人の処女は 小船(をぶね)乗り つららに浮けり暁 (あかとき)の 潮満ち来れば 葦辺には 鶴(たづ)鳴き渡る 朝凪に 船出をせむと 船人も 水手( か こ )も声呼び
にほ鳥の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ
吾(あ)が思(も)へる 心なぐやと 早く来て 見むと思ひて
大船を 榜ぎ我が行けば 沖つ波 高く立ち来ぬ

鏡なす」と瀬戸内海を表現している。外から見ると鏡のように平らできらきら春の光にきらめいていた。これは今も同じである。真楫(かじ)しじ貫きとは常に楫をしじぬく海にいくつもの楫をさして漕ぐ常套語である。みんなして漕がない限り前には進まないのだ。「潮待ちて 水脈( み を )びき行けば」とは常に潮を待ち進む、風を待ち進む、「暁 (あかとき)の 潮満ち来れば 葦辺には 鶴(たづ)鳴き渡る」潮が満ちると鶴が飛び去ってゆく、それと同時に船も漕ぎだしてゆく。「大船を 榜ぎ我が行けば 沖つ波 高く立ち来ぬ」必ず大きな波が立ってくる。それは何か恐ろしく感じられる。飛沫にもぬれるし船もかなりゆれる。この古代の船に乗ったら本当に恐いと思う。絶えず沈没の危険がはらんでいるのだ。何か詩にしているかのんびりな感じがするが実際はもっと危険な切羽詰まったものであった。その辺のリアルな状況は伝えられていない。「沖辺には 白波高み 浦廻より 榜ぎて渡れば」沖には波が高いから浦伝いに進む。瀬戸内海はこの浦になった所が多い。波が高い所では古代の船では危険である。だから浦伝いに慎重に進んだ。風待ちの浦の港がいたる所にありそこで休み休み進んだのだ。
 
月読(つくよみ)の光を清み神島の(いそま)の浦ゆ船出す我は 3599

夜に進むのは危険なのに何故だろうか。潮にのること潮が満ちた時の方が優先された。それだけ潮にのるということが大事だった。この辺は現代の感覚ではわからない。もう一つ磯廻というのがポイントである。磯伝いに船は進んだのだ。

  石隠(いそがく)り岸の浦廻に寄する波辺に来寄らばか言の繁けむ1388

  
この浦廻という言葉が20くらい万葉集にでていた。これは日本の海の特徴である。浦を廻る船である。浦伝いに行けば常に陸地が見えるのだから安心なのだ。沖には常に波立つ故恐れたのだ。問題は新羅に行くのに黒潮の流れる玄界灘をわたらねばならないことである。壱岐−対馬によるとしてもこれが最大の難関だった。まともに外海の波にさらされたらどうなるのか。ここに疑問が残る。これほとに沖の波を恐れて進んだものが外海に出てどうなったかということである。その辺の事情はよくわからないのだ。

佐婆(さば)の海にて、忽ち逆 風(あらきかぜ)漲浪(たかきなみ)に遭ひて、漂流(ただよひ) 宿 (ひとよ)経て、のち順風(おひて)を得、豊 前 国(とよくにのみちのくち)下 毛 郡(しもつみけのこほり)分間(わくま)の浦に到着(つ)きぬ。ここに艱難(いたづき)を追ひ怛(いた)みて、よめる歌八

浦廻より榜ぎ来し船を風速み沖つ御浦に宿りするかも 1646

風に流されて漂着したのである。こういうことは古代の航海ではよくあったのだ。風とか海流に翻弄されるのが多かった。そして雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)が壱岐で疫病のため死んだ。

 おほきみの 命 (みこと) 畏 (かしこ)み大船の行きのまにまに宿りするかも3644

この人だけでなく他にも死んだ人はいる。水夫のことは語られていないがその中にも死んだ人がいたかもしれない。身分制の社会だから貴族は大君への忠誠があったが下々のものはあまりなかった。防人にしてもおほきみの 命 (みこと) 畏 (かしこ) と言ってもいやいやながらであり家族の方が大事であった。それを隠すことなく歌っている。ところが前の戦争の時にはそんな女々しいことは書くなとか手紙まで検査されていた。強制的であったのだ。個人的心情と団体や組織の心情は違う。個人的心情は本心に近く団体や組織に属して表現するものはほとんどそこに人間の真情はでてこない。辻本議員も組織を守るために自らの真情を曲げた。前の戦争の疑問は美辞麗句で語られて個人の真情がでていないのだ。中国とか韓国に謝れとかは言わない、何故なら中国、韓国にしてもチベットとかベトナムでも殺戮したりしているしやはり国自体が善である国などないからだ。ただ戦争自体は植民地解放だとかそんな美化されるものとはどうしても思えないのだ。そこにかかわったものの真情はでていないのである。殺したくなかったがやむを得ず殺したとかも言っていない。ただ正当化されることには納得いかない、もしそれがアジアの大義としてン納得いくものならいいがそう思っている人はいないのである。問題は中国とか韓国にもある。中国韓国にしても罪なきものでないからだ。まるで自分の国が何の罪もない国のように日本ばかり攻めるのもおかしいのである。そこに複雑なことは確かであるがそもそも戦争の生々しい真実の姿が語られていないということは問題である。ともかく新羅に到着せずして死んだ

ともかく新羅に到着せずして死んだものはあわれだった。いづれにしろ歴史にはそうした無念を残して死んだものがいくらでもいる。個人的にも庶民的にもそうした無念はいくらでも残っている。留学にしても自分達の世代ではほんとうに大金持ちしかできなかった。今では一割くらい留学しているのではないか、海外旅行にしてもそうである。こんなに気軽に行ける時代は本当に恵まれている。それが当たり前だと思っているかもしれないがやはり過去を思えばそれがいかに恵まれていることか考える必要がある。雪宅麻呂の無念の霊が自分の背後についてきたように思えたのだ。
「あなたはいともたやすく新羅の国の都に来ましたね、私はね、私はその都に着く前に死んだですよ、その都を見ずに死んだんですよ、この無念がわかりますか、・・・・・」
確かにその霊が背後についていたのだ。

壹岐(ゆき)の島に到りて、雪連宅滿(ゆきのむらじやかまろ)が、忽ち鬼病(えやみ)にて死去(みまか)れる時よめる歌〔一首、また短歌〕
   
   すめろきの 遠の朝廷と から国に 渡る我が背は
   家人の 斎(いは)ひ待たねか ただ身かも 過ちしけむ
   秋さらば 帰りまさむと たらちねの 母に申して
   時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと
   家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず
   大和をも 遠く離(さか)りて 岩が根の 荒き島根に宿りする君 3688

反し歌二首
 
  石田野(いはたぬ)に宿りする君家人のいづらと我を問はばいかに言はむ 3689


  宿りするとは挽歌で墓石の下に入っているという意味とありつまりここになんともあわれなものがあった。せっかくここまで来て死んでしまい家の人にも伝えようもないということである。当時にすれば家の人すら飛行機もないので簡単に来れないから墓参りすら来れないとういう事情もあった。どうしても距離の感覚からくる切実さが理解できなくなっているのだ。
 
新羅(しらき)へか家にか帰る壱岐の島行かむたどきも思ひかねつも 3696


大和から壱岐の島まで行くとすでに新羅より遠い。家に帰るより新羅の方が近い。でもその二つの間でどっちへ行こうかと行き悩んでいる。今のようにすぐに飛行機であれ汽車であれ家に帰れない時代だから余計思い悩む。せっかくここまで来たのだからどうしても行きたいとことがある。その心境が良くでている歌である。


 春の慶州へ

我が船は海そわたりぬ
韓国の山を望みて芽吹く樹々
風のそよぎて一路行く
古の都の慶州や
五陵の王の誰なれや
三十一代の王の続く都と
思えばあわれ万葉の昔
大和の遣新羅使の一人
途中島に哀しきや病に死す
新羅の都の地踏まず死ぬ
まこと万里の波濤越える旅
その船の粗末にて
真楫しじ貫き水夫の厳しき
新羅ははるかに遠き
慶州は今し春盛りなり
春の山四方に映えて
ここは韓国の国のまほろば
樹々芽吹き桜咲き満つ
しかしあわれはこの地を踏みえぬもの
新羅の王にまみえざるもの
などか悔しきその念のここに伝わる
韓国はその昔誠に遠き国
船は激しき波にゆられゆられ
外国の地を目指し心高鳴る
大和と韓国は争いまた結びぬ
連翹の黄の眩しく映えて
我は更にその首都のソウルを目指しぬ



       慶州にて

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