40-2009
(小林勇一)
これまで家族の認知症のことでプログで書いてきました。これまでの記録は記事はプログで読んでください
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モノ余りカネ余り家余り土地余り人余りの不況10月9日
投資信託で大損した責任は誰に?10月14日
2010
既得権を奪われるものの犠牲(小沢は既得権の破壊者)1月13日
製糸工場女工の労働から働く価値観の変化を歴史的に考察2月10日
野犬も参加して吠えたギリシャのデモについて5月10日
口蹄疫問題の深層は何か?(牛肉を食べることが必要なのか5月24日
鳩山首相の人間的資質を批判することの疑問6月1日
集団化、組織化、序列化、・・・は人間の業(戦争の原因も)8月12日
モノ余りカネ余り家余り土地余り人余りの不況
●焼け野原から始まった戦後の経済
戦後焼け野原になったとき文字通り日本には何もなくなっていた。そこに戦争から帰ってきた男たちがあふれ団塊の世代が生まれた。不思議なのはなぜ焼け野原でも何もないのに子供を生んだのか、自然の摂理だからおさえられない、貧乏の子だくさんであり性のエネルギ-はとめられない、貧しい国では子だくさんではないか、避妊を知らないからそうなる。しかし性のエネルギ-はいつも一定なのかもしれない、むしろ先も見えない焼け野原でよくそれだけ子供を産んだという不思議である。私の父は牛乳をもらうために行列して並んでいたとか子供を育てる食料もない時代によくそんなに子供を産んだものだという不思議がある。その当時はみんなそうである。最初にはじめた三文店屋だったが最初の店はモノがあれば何でも売れた、モノを買えれば売れたのである。ただ買う金、資本がないと店も始められないから苦労したのだ。モノがないというとき家庭には粗末な飯台が一つあって食事していた。その他電気製品などはない、暖房はまだ炭だったのである。後進国では今も日本と同じ光景が見られるので興味深い、インドではバラック建ての店でわずかなものを売っていた。あれでも商売が成り立つということは焼け野原から出発した日本と同じだった。袋は新聞紙だった。家でも母が新聞紙で袋を糊付けして作っていたのだ。商品はお菓子でもバラ売りであった。今も駄菓子屋に行けばわかる。ともかくモノを並べれば売れた時代だったのだ。インドのベナレスに行ったとき、そこではまだ炭が使われていたが牛糞が燃料として干されていたり家の中をのぞいたら白黒テレビで子供がゲ-ムしていた。つまり現代の電気製品もすでに入っていた。ベナレスは大都会だからそうなっている。今では明らかにテレビはカラ-になっている。古いもの新しいものが併存しているのがインドであった。牛糞が燃料にしているというときこれは太古からそうだったのだからインドではまだ太古のままの生活をしている人がまだ農村部では多いのだ。ベナレスではガンジス川の辺りで死体が薪を積んで焼かれているのも異様な光景である。まさに太古から現代まで混沌として併存しているのがインドである。
●モノ不足カネ不足家不足土地不足人不足の時代
この時代はモノがないだけではない、あらゆるインフラも整備されていない、道路は舗装されていないから埃りがたつ、舗装されていないとき車が通るとさらにひどい、橋も木の橋でありヤハな橋でぐらぐらする橋だった。今どこにでもある鉄骨の頑丈な橋はなかったのである。江戸時代とにていたのだ。木の橋だから橋は常に流されやすい、江戸時代の橋の絵には流されて橋がない絵が多く残されているのはそのためである。日本では台風やら洪水が多いからである。木の橋では流されてしまうのである。道路自体粗末だから輸送は鉄道が主役だった。その後急速に車社会に移行したのである。団塊の世代はあらゆるものが供給不足の時代だった。猫の手も借りたい時代である。焼け野原の何もない時代からはじまったからである。朝鮮戦争がありその時アメリカ軍に供給する鉄製品が不足していた。その鉄が日本にはなく鉄屑を集めていた。子供のとき鉄屑を拾い小遣い稼ぎをしていたのである。朝鮮戦争を契機に日本は工場もふえて生産力があがってきた。ただモノがない時代だからモノさえ作り市場に出せば飛ぶように売れたのである。またこうして生産力があがると人手不足の時代になった。モノはいくら作っても売れるのだから地方から金の卵として中卒の若者が都会の中小企業に集められたのである。つまり高度成長の時代は今とは逆だったのである。モノ不足カネ不足家不足土地不足人不足の時代であった。それが今ではモノ余りカネ余り家余り土地余り人余りの不況となった。若者がモノを買わないというときモノがあふれ満たされているから買わない、あらそるものが余っている、供給するものが過剰でありそれを消費するものがいない、少子化はそれに拍車をかけている。この辺でも家を建てる土地は整備されているが余っている。家が建たない、また中古の家もあるが売れない、そして廃屋が街中でもあり目立つのである。高度成長時代なら例えば商店街に土地があけば誰かがその土地を利用して商売をはじめていたが街中でも土地が利用されないのである。ショピングセンタ-とか別な方で土地が利用されているが土地も家も利用されずに余っているのが現代であり都会ではマンションが売れないとか余っているのだ。中古の家が700万軒もあり売れないとかそれだけあらゆるものが供給過剰であり売れないのである。
●金余りの時代
また金余りの時代でもある。焼け野原の時代は三文店屋をはじめるのにも資本が金が必要だがそのわずかな金を調達するのが大変だった。銀行は担保がないと貸してくれない、今は逆に金余りの時代である。金が銀行にあっても貸してもうけることができない、それだけ起業してもうける人がいない、今銀行は何のためにあるのか?金をあずけても利子もつかない、銀行自体の存在意義もなくなっている。銀行員は昔は律儀で社会的に信用あるものとして通じていた。今は銀行は何のためにあるのかわからない、ただ他人の金を集めて有効利用していない、銀行は社会にとって必要なものかどうかとかなっている。だからタンス預金が増えているのである。銀行から金下ろせなくなるとか信用されていないのである。金余りというときどこに金余っているのだとなるがタンス預金が30兆とかあるとか老人は膨大な金を貯金している。それは常に言われているし本当である。でも老人が消費しないから不景気なんだというのも一理ある。老人側から言うと国民保険くらいでは7万にも満たないのだからそんなでは生活できないとなり貯金している。一分の恵まれた人しか保険はもらえないからだ。日本人は老人でも大金持ちはまれである。小金持ちが多いから大きな投資をできないから金が回らず不景気になっているともなる。自分にしても小金持ちであっても消費する投資する額はしれている。それよりこれからもし20年生きるとなるとその資金はない、国民保険ではたりないとなると貯金を使えないとなるのだ。また高齢化社会はでは老人は働かないでもらうだけであり介護でもただ若者が積み立てる金を使うだけであるとか不満が多い。老人余りの時代でもあり今や人手不足で吸収された重宝された団塊の世代は重荷となっているだけである。だから団塊の世代の風当たりはこれからも一段と強くなる。老人も供給過剰なのである。昔のように少なければ尊敬されたが今は数が多くなると重荷になるだけだとなる。
ではどうしたら不況から脱出できるのか、アメリカの不況で輸出もままならないのも打撃である。いくらモノを作っても売れない、日本ではいくら消費を活発にしようとしても少子化や高齢化で限界がある。では外国だとなるがこれもうまくいかない、そういう閉塞感が今日本では大きくなっている。それが顕著に現れているのが建築土木関係だろう。家が建たないから仕事がない、これまで公共事業関係で建築業者が田舎ではふえすぎたことも要因である。建築土木業界は人材余りなのである。庭を作ってもらった人は腕はよくても仕事がなければその腕も活かせないのである。土建関係は全国的にそうなのである。公共事業が無駄でも行われてきたのは仕事を供給するためである。無駄だといってもそれで潤う人々がいるからそうなる。でも無駄なものを必要ないものを作りつづけることはできない、それで日本経済が破綻するというのもわかる。
戦争に突入したのもドイツでナチスが台頭したのも失業であえ不況のせいだった。日本でも経済的要因があった。満州に移住したのも日本国内に仕事がなくなっていたからだ。明治維新のときも武士は失業したがなんとか北海道がフロンティアとなり開拓民となり吸収した。過剰な人員に仕事を与えることが必要になる。明治以降人口が増えてゆけばそうなる。その増え方は急激だったからだ。ただ満州への移住は戦争の引き金となったので問題だった。現代は逆に日本に人が入ってくる、一千万人移民を受け入れるというのもそのためである。グロ-バル化で今度は外国から安い労働力が大量に入ってくれば人余りは過剰な人員がでてきて行き場がなくなる。その人たちは外国に行けばいいとか日本から追い出されるかもしれない、世界からみれば人余りであり少子化といっても日本だけのことだからだ。
●現代の閉塞感、抑圧感
供給過剰というときモノ作りや土建関係ではそうであるが一方で供給不足に陥っているものがある。介護とか医者とか病院とかがそうである。こうしたものは福祉関係だから景気を良くする方向には向かない、介護する老人が増えてその負担ばかりふえてそこに人材がいくら投入されても景気はよくならない、ここもだから給料はあがらない、余りに給料が安いのでやめる人が多いのもわかる。ここも閉塞感、抑圧感が強いのである。日本は今やあらゆる分野で閉塞感、抑圧感が増大している。その大きな要因があらゆるものの供給過剰だという不思議である。供給するものが多いが消費するものが少ない閉塞感なのである。飢餓なら食うものがないどん底の閉塞感である。モノがなくて苦しむのはわかるがモノがありすぎて貧乏感が増大しているのだ。
従業員の休みを増やすと中小企業はコストが上がってやっていけないと指摘が出る。しかし、社会全体でこれだけ供給過剰になっているということは、仕事をしているが空回りしている労働が大変多いということ。働くほど供給が増え、消費需要は落ち、事態は悪化する。
休みを増やすという発想は、個々の企業経営者からは絶対に出てこない。政府が決めるしかない。多くの先進国は法律で決めている。”
http://www.h5.dion.ne.jp/~hpray/shakai/keizaimondai/riron-seisaku/koo/koo-hukyou.ht
働くほど供給が増え、消費需要は落ち、事態は悪化する。・・・・これなども働く人が多すぎる、供給することが多すぎて消費が伸びないというのも焼け野原から出発した日本では考えられない世界になっている証拠である。働きすぎているから働くのをやめて遊べというのもあらゆるものが余っているからこそ言えることである。働いている人ばかりいたら消費する人がいないなら景気はよくならないというのもあらゆるものが余っているからこそである。現実に空家が多いんだからもはやその空家を使用する人の方が価値がある。値段は安くなっても無料でもしょうがないとまでなるかもしれない、人に住んでもらうことの方が優先される。人が住めば空家も活きてくるが人が住まなければ空家は何の価値も帯びてこないのである。なぜ八つ場ダムのような天文学的無駄なダム作りをしなければならないのか?ともかく土建業者に仕事を与えなければならない無駄でも仕事がなければ失業すれば食べていけないとなっているからだ。でもそんな無駄をしていれば日本は破綻するということで民主党政権に変わった。エジプトのピラミッドは奴隷の強制労働ではなく失業対策の労働だったというのもうなづける。余った労働を吸収する仕事を与える公共事業だったという。ピラミッドはとてつもない無駄だというとき八つ場ダムも同じであったのだ。戦争も公共事業という側面があった。ただ戦前はモノ余りではない、モノ不足からの戦争であった。米すら満足に食べられない時代であった。今はどうしても米が食べられなくなるとかならない、モノ余りからあらゆるものの供給過剰からの不況であり閉塞感なのである。
極端な話がモノ余り人余りになるともはや仕事がないとなると八つ場ダムのようなものを作るより手当ては出すから休んでくれとかなる。なぜなら仕事がないないと仕事をあえて自然破壊になるまでの仕事を作り出すより金を出すから休んでくれとまでなる。休まない限り余った人手は仕事を探しつづけるからだ。その圧力が政府を動かして無駄な公共事業へ金を使うことになるからだ。だから個々人の需要を増やすには住宅などで大幅な値下げや政府の援助も必要となる。公共事業よりそうした個々人レベルの需要を増やすのがいいとなる。そのために民主党に政権交代したのもわかる。
少子化のためと若者も金がないで消費が伸びない、老人は金はもっていても老後の不安で消費しない、
老人はあまりモノを買わないし今の時代子供もあてにならないとか金をもっていないと不安だからである
投資信託で大損した責任は誰に?
●郵便局、銀行にも責任があった
投資信託で70万円は損している。1500円の時買ったものだからこれは元本をとりもどせるのはいつの日になるのか、結局郵便局でも投資信託を苦情が多くやめたように組織的な株を知らないものに対しての騙しだった。証券会社-郵便局-銀行が結託して株の素人から余った金を巻き上げようとする詐欺的商売だった。銀行というと昔は律儀で真面目な人がなる、信用される堅い職種だった。地域の信頼も厚いものだった。銀行員と結婚すれば間違いないとなっていた。今銀行は利子もつけないし何か社会にとって有益なことをししていない、今度はもうからないからと株を知らない素人に株を売りつけ手数料をてって利益を得ようとしたのである。証券会社と郵便局と銀行は結託していた。そんなのみんな自己責任だよと言えばそれまでだがやはり組織的な大がかりな売り込みをしたのだからやはり郵便局や銀行に責任がないとは言えない、やはりそれで信用を落としたことは間違いない、株はそもそも専門家しかもうからないとかそういうプロのものであり素人を巻き込んだのは詐欺だったのだ。そこには素人はどうせもうけさせない、素人の金でプロがもうけるのが株だ。そういう明らかな意図が働いていた。確信犯的詐欺だったのだ。
「株があがったらまたとりもどせますよ・・・長い目で見ていてください」これも決まり文句だがこれだけ損すると株が低迷ししていたらそうとはならないみたいだ。これも騙しのテクニックだったのだ。すでに投資信託をする騙しのテクニックはマニュアル化されて銀行員に教えられている。長くおけば手数料がいつまでも入るから長くおいた方がいいとなるだけのことで長くおいても株が上がるとはかぎらない、でも今売ると損になるからそうしているほかないとなりさらに手数料はいつまでも入るからこれほどいい商売はないなとなる。銀行は株が上がろうが下がろうが手数料が入るのだから関係ない、損しない商売だったのである。
そして結局銀行が責任何一つとることないのだから何を言ってもいいともなる。銀行は責任ない商品なのだが収入がありその商品をすすめいてるのだから責任がないとは言えない、でも責任をとる必要ないからすすめるのである。しかし銀行でもそれで損しなかったというとそうでもない、銀行は信用第一にしていたがその信用が失われたのだ。金儲けのために嘘もつく、そういう人たちが銀行員だったのか信用できないな、金もあづけるもの信用できないとか銀行に対して不信感をもつようになった。この世では嘘と騙しは多いけど郵便局とか銀行は信頼される場所だった。その信頼を失ったことはやはり商売では大きな損となるかもしれない、そこまで考える余裕もなく追い詰められていたというのも実体だろう。人間は追い詰められれば誰でも嘘をつく、銀行も同じだったのだ。ただこの問題は組織的騙しだったことが問題だった。カルト宗教も組織的壮大な騙しである。人間は大きな詐欺、騙しには弱い、大東亜戦争もこれも為政者の騙しといえば騙しになる。戦争に勝つ、大義の戦争だとか新聞でもあおったのは組織的騙しともいえる。騙された方も悪い、むしろ庶民も積極的に戦争を賛美して推進したのだから自己責任だとなっている。
●巨大化した組織的騙しに人間は弱い
騙しというとき医療の分野でもインフレインザをこんなにあおるのはワクチンを売るためだとか言う人がいる。薬を売る会社は薬をうるために過剰に騒がせる、不安をあおる。庶民はそもそも常に素人だから専門家がそう言われればそうなのかと過度に反応する人もでてくる。飲まなくていい薬でも高くても飲んでしま。これは抗ガン剤でもそうらしい、抗ガン剤はきかないとしても助かりたいから利用するのだ。マスコミでもテレビでもある薬の宣伝をしている、この薬はそんなにきかないこともありますよなどと言えば宣伝を頼む方では金も出さないから薬剤会社とマスコミは結託して騙しているともなる。これは大がかりな騙しだから組織的な騙しだから抵抗するのはむずかしくなる。あなたのような素人にわかりますか、説明できますかと言ったらできないからだ。
つまり情報は常に操作されているし株となるとすでに素人には真の情報も知ることができないし情報を分析することもできない、だからプロにまかせる投資信託がいいとなりこれもだまされたのである。例えばトロピカルジュ-スというのがコンビニで150円で売っていた。これは他で見つからないのでここでしか売っていないものかと思った。他のジュ-スはコンビニで50円高いしス-パ-でも売っていることはわかっていた。このトロピカルジュ-スはここでしか売っていないと思っていた。でもあるス-パ-で百円で同じものを売っていたから他のジュ-スと同じだった。コンビニはこれだけ同じものでも高いのだ。こういうのは知らないから損したのだがス-パ-をよくみていればわかることである。だからこんな損をしつづけることはしないだろう。でも株となると素人にその情報の見極める手段もないから素人はやるべきではない、簡単に知り得ようがないからだ。投資信託なども素人に知り得ようがない商品である。選ぶこともできない、医療分野でもそうである。こういうものは簡単に適正値段か判断できないのである。でも庶民は金をもうけたいという下心があり一方は病気への不安と病気を治したいという切実なものがあるから騙される。これも実はカルト宗教団体の場合ともにている。ここにも組織的な壮大な騙しがある。大臣にもなっている、有名な人も入っている、真面目な人もなっている、有名な大科学者もなっている、マスコミで悪いことは言わない、この国のすでに一〇人一人は会員だとなればそれでも信じないのかという強力な圧力になる。
そもそも人間は万能ではないし弱みをもっているからだまされるのだ。素人でわからないことが現代ではあまりに多すぎるからだ。真実を明らかにするべき報道関係も信じられない、公正ではない、なぜならやはり組織的な騙し詐欺にも加担するからである。あくまでマスコミも営利企業であり自社の不利なことは報道しない、広告費で経営しているのだから宣伝する会社の悪いことは言えないのである。
●嘘をつかないで生きられない社会
人間はこの社会を生きてゆくのにそもそも嘘つくなと教えられてもそれすらできない、ある組織に従属して働くとすると銀行員は律儀な真面目な人がなるものだと思っていた。でも今やその中では組織的な騙し嘘をつくことを強要されている。そんなことはしていないと言ってもやはり何かしら良心の呵責を感じているだろう。何かの組織に従属して生きることは組織的な騙しに加担することにもなる。つまり人間は嘘をつかずに生きられないとなる。本当に嘘をつかず生きること自体至難の技でありそんな人この世にいるのかとまでなる。証券会社とか銀行は今や虚業であり人をだましてもうけるということに気づいた。そもそも今回の不況そのものサブプライム問題が証券員の世界的騙し、詐欺だったことに世界で気づいたのである。世界が一部の証券会社の組織的騙しにのせられたのである。それはアメリカ発でありアメリカ政府にも責任があった。アメリカのお墨付きがあって成し得たことだからである。いくら政経分離だと言ってもアメリカという巨大な国を背景にして成された詐欺だから世界中がだまされたのである。そうした巨大なものになると詐欺も詐欺ではない、正当化されやすいのだ。大東亜戦争も詐欺だったというよりアジアの大義だとか主張されるし誰も責任はないともなる。巨大化すると誰が責任だったかわからなくなる。JALの問題にしても地方の空港は政治家のためにやったとかJALの私企業の問題ではない、政府の責任だから国民の税金で政府の責任で負担すべきだと主張される。地方の住民も空港を作ることでは推進したのだから責任あるとなる。
巨大化するとき誰も責任はとらない、そのツケは国民に回ってくる。国民全部の責任だったとなる。要するに国民全部の責任だったということは誰も責任ないということなのである。何でも巨大化すれば責任の所在ははっきりしなくなる。赤信号みんなで渡れば怖くないとなる。多数になれば不正も許される。個人の犯罪だと厳しく問われるが巨大化した組織的犯罪の責任は誰もとる必要がなくなる。要するに大衆社会は無責任社会になりやすいのだ。でもそのツケは大衆に回ってくるし誰も責任をとらないですまされないのだ。自分も結投資信託で大損して騙されたとしても責任はとらされたのである。他の人も同じだったのである。。個々人の嘘とかは厳しく問われて罰せられることもあるが巨大集団化するともはや罰することもできなくなる。大勢が正しいとなり誰もとめられなくなる。それが民主主義の欠点でもある。でも誰かが責任をとらされる。今回も無知であった民衆が責任をとらされた。結果として証券マンや銀行マンは信じられれない職種だとなり評価を落としたことにもなったからそれでもうけてもいいとはならないのだ。
既得権を奪われるものの犠牲(小沢は既得権の破壊者)
不況の声(インタ-ネットより)
酒販店転廃業・倒産等の実態調査
全国酒販組合中央会、酒屋の組合の発表した「酒販店転廃業・倒産等の実態調査」によりますと、平成10年3月から20年8月までに倒産あるいは転廃業した酒販店は53,997件で、自殺、失踪、行方不明は3,490件とある。
もともと酒販免許が守られていた平成の5年くらいまでの酒販店は130,000店。この内の40%強のお店がやめて、自殺、失踪、行方不明は2.6%にものぼる。
http://www.marukawaya.com/nikki/nikki2008/2008_8.html
(建築関係)
個人一級建築士事務所で
200万、売り掛け100万
事業税控除で事業税0
家作と駐車場のあがりは家作の外壁改修に飛ぶ予定
売り掛けはもう諦める部類に属してる
事務所、自宅が持ち家じゃなければとっくのとーに終わってるorz
今は建設業界はひどい有様だよ
職人は請け負い業者って扱いで仕事が無い間は当然呼ばれないからその間無給(失業保険も受けられない)
たまに仕事あっても一日で片付けろといわれて2日分くらいの仕事を残業して終わらせても残業代なしで一日分の日当しか貰えない
もらえる給料も不景気で昔の半分くらい
土建にかぎらずどんな仕事だって
影響は多岐にわたるよ 当たり前だろ
公務員だって給料削減したら 地域経済に与える影響は大きい
特に地方ではいいお客さんは公務員しかいないって地域が多いしな
また、私が知り合った方で、建築関係の自営から、便利屋さんになった方がいます。私は、会社の除草やちょっとした、土木工事をやってもらっています。その方は、人当たりも良いし器用なので、年配の夫婦や、一人暮らしの高齢者などに、色々頼まれるようです。今は、人手が足りないときはバイトや、シルバー人材なども使っているようです。
小さな修繕は職人さんに直接頼みたいというニーズは、景気が悪いからこそ一層高まります。しかし、リフォームってのはキライだ
せがい なら直してまで使えよ
バブル以降のはゴミだよ 死にそうなジジィに服だけ着せ替えても 長生きなんてするかい
元受けからの仕事ばかりが仕事ではありません。
是非、営業ツールを自分なりに作ってみて、外回りをしてみてください。
結構仕事ってあると思います。
当社で住宅のリフォーム
会社にビルの1角を貸している。
その住宅リフォーム会社はいまとても忙しい。 受注がさばききれないほどの超繁忙。
世の中が不景気で、新築住宅を買えない層がとりあえずリフォームで我慢しょうと考えているようだ。
6人の営業マンはフル稼働。 「ビル内の展示ブースをもっと拡充して」、「職人も新規に募集して」と景気のいい話してくれた。
地方都市はそんなもの、衝撃でもなんでもない。
ハローワークの求人なんか月収が10万円台の半ばが多い。
仙台圏以外の東北で、勤め人として年収400万稼ぐとしたら、
公務員か中央の企業の現地拠点か、資格系・専門職とか、
中小で課長くらいの役職にでもなってないと無理じゃないか?
シルバ−センタ−
「こんな収入ではとても生活できない。入会するかどうかは帰って考えます」。元消防士の男性
は説明会終了後、会員登録しないまま会場を後にした。説明会で、会員の平均的な収入が月3・5万円、就業日数は月5、6日と聞いたからだ。
鶴川理事長は「シルバーは高齢者の生きがいづくりが主目的。臨時的、短期的で軽易な仕事が原則で、生計維持は保障できない」と話す。
時給650円×4時間月20日出勤、2人募集のクリーニング受付バイトの面接行ったら
既に40人の面接待ちワロタ
歯医者
歯科医はここ数年でワープアにされた。 歯科医を大量に増やす政策がとられたために数が増えすぎ歯科医全体が没落する結果になった。 次は弁護士がワープアにされつつある。
現在ロースクールで法律家を大量に養成中だ。
みんな年収100万円台に落とされるんだ。
(水商売-風俗関係)
俺 パチンコ屋の真正面で働いてるが、確かにじーさん多いわ・・・
平日の朝からパチ屋に並んでる
あと最近すれ違う人の平均年齢がホントに高齢化してる気が
(水商売-風俗関係)
彼氏がスナックとかのカラオ
ケのスピーカー取り付けの仕事なんだけど
水商売が冷えきってて、
全然仕事ないんだって。
冬のボーナスはゼロだと思う。
先日、都心の繁華街で飲食業を営む友人と飲む機会があった。
居酒屋等の酒と食物を提供している店舗においては、まだそれほど大きな売上げ減少では無いようだが、
深夜終電以後の営業については、もう営業を止めている店舗が多くなってきたとの事。
売上げ減少の大打撃を受けている飲食業では、やはりキャバクラ系接客業がヤバイらしい。。。
店舗面積と雇用キャスト数の多い大箱では、平日の安定利益は全く望め無いほどに陥っている。
この業種に多くの店舗を賃貸している不動産会社から聞いた話だが、
今年になって、とにかく家賃の滞納が増えているとの事。
家賃の滞納が見られる店舗では、やはり給与支払にも遅れが生じている店も多いとの事。
衰退業種と云われている業種だけに、中途半端な営業スタイルのお店は当然ながら
淘汰される時代になる・・・
特に接客業においては、業績不振に陥った場合、金融機関からの補填融資が受けられ難いのが常識。
一旦、悪循環に陥った場合、経営者の余力資本が尽きれば、撤退を余儀なくなされてしまう。
私の友人は比較的まだ余力があるだけに、同業者から店舗買収をお願いされてばかりだと云う。。。
今月の連休や飛び石連休に新宿に立ち寄る機会があったが、
もう今や夜の歌舞伎町の活気は全く無くなってしまっている。
株価の暴落が続けば、本来多くの遊興費を遣う資本家達も徐々に遊びを控えてしまう。
http://ameblo.jp/nerima/entry-10145538155.html
札幌見聞録がカメラを首から下げてススキノを歩いていて思うのは
中年以降の姿が極端に少ないことだ。若い男女が酒を飲まず
ススキノにいるというのもどうかと思うが、活気のなさは日に日に
強まっているように見える。中高年は疲れているのだろう。
仕事では過酷なノルマを課され、同僚と息抜きに飲む機会さえ
減っているのだろう。失業に怯え、無理難題を押し付けられても
従うしかない現状に、不満はあっても家庭のためを思って転職や
退職を選べずにいるのだろう。気勢を上げることすら忘れたのか。
http://blog.livedoor.jp/sapporo24/archives/cat_82753.html
(会社経営者)
俺は会社を経営している。
ご多分に漏れず、資金繰りは相当厳しい。
確かに良いときもあった。だが、悪いときも当然ある。
経営環境が良いからといって、従業員を大きく上回る様な報酬を取ったことは無い。
なぜなら、会社は生き物だから、悪いときに備える必要があるからだ。
経営者とはいえ、家族共々倹しい生活をずっと続けている。
そして今、繰り返すようだが、資金繰りは厳しい。この5ヶ月間、自分に給料は支給してない。 従業員の給与を最優先しなきゃいけないから。しかし、税金と社会保険料はしっかりと取られる。これを滞納するわけにはいかない。会社の与信と社会責任に反するからだ。
私は会社を経営している
先日、娘の誕生日だった。何も買ってあげられなかった。
だから、妻と一緒に、家にある適当な生地をアレンジし、ワンピースを作った。
そして、それをプレゼントした。娘は心底喜んでくれた。無邪気に喜んでくれた。
それを見ていると、涙があふれてきた。止まらなかった。
妻に申し訳ない、娘に申し訳ない・・・と。
従業員の休みを増やすと中小企業はコストが上がってやっていけないと指摘が出る。しかし、社会全体でこれだけ供給過剰になっているということは、仕事をしているが空回りしている労働が大変多いということ。働くほど供給が増え、消費需要は落ち、事態は悪化する。
休みを増やすという発想は、個々の企業経営者からは絶対に出てこない。政府が決めるしかない。多くの先進国は法律で決めている。”
うちは月収15万。これで夫婦と私、母(75歳)、大学生、高校生の子供たち、5人で暮らしています。
年金とか健康保険で毎月6万弱を払い、残りの9万で生活してます。
母は遺族年金受給者で月3万円ほど。これは母のものです。
私は大病をして後遺症があり働けません。
会社で成功しても家庭が空虚なものであれば、まったく意味がありません。
たくさんのお金を持っても、大きな家に住んでも、高級車に乗っても、それは心を満たす手段になり得るでしょうか?
質素でも大切な人と手を取り合って笑って生きていけることに勝る幸せはあるのか?と考えるわけです。
外国人労働者の影響
東京近郊の倉庫や工場などが密集しているとこに住んでるけど
10年くらい前まで普通に日本人が働いてたのに
今は日本人を探すのが苦労するぐらい外国人だらけ。
あの光景見ると、表面上、景気は回復しているのに
どうして雇用が改善されないのか、よくわかる。
でも田舎ほど中国人研修生
が最低賃金以下でわんさか働いている現状。
仕事が無いのではなくて、
経営者が日本人募集しないだけ。
(マンホ−ルで働く人)
働いたら、負けだったのか。
俺はマンホール開けては中に入る仕事をしているが、
もう腰をいつやられるか心配で心配で。
着ている服は役所と同じだから公務員と思われているかもしれんが、
派遣会社からの契約社員で、保険も、年金も手取りの17万から出さなければならない。
腰など痛めてしまったら、労災も出ないだろうし、会社からは放り出されるだろうし
考えると鬱になる。
もう安月給でマンホール持ち上げて臭い中に入るの嫌なんだよーっ。
こんな仕事についた俺はまさに負け。
働かない方がまだいいかも。
お前らは知らないかもしれないけど、
ゴミの収集って、あれも民間の外部業者で、ものすごい安い値段で働かされているんだぜ。
あいつら公務員じゃないんだぜ。知らなかっただろう。
不動産−土地関係
それなのに、3000万以上する家をローンで年率3%以上も払って買う怖さを考えてみてください。
日本人の悪しき習慣「みんながするならうちも」。
もう、やめませんか?
今の日本には中古住宅が700万戸もあまってるんです。
そして、30年もすると、価値がゼロになる、それが日本の家なんですけど。
わかってローン払ってますか?
みなさんが一斉に家を買うのをやめたとき、仕組みが変わります。
俺は地主の跡取りで、土地の収益が年収1200万あるけど、固定資産税、個人事業税、市県民税、国民健康保険で700万の納税してるし、
建てものの補修費用や保険や雑費で300万かかるし、200万しか手元に残らんから月にしたら生活保護レベルなんだけど
もう土地なんか手放して生活保護受けて暮らしたいよ…
(農業関係)
農作物が高いとかアホがいたが、
中間搾取がひどいだけで農家の儲けなんて雀の涙。
市場に出しても酷いとニンジン一本あたり三円とかきゅうり二円とかだぜ。
乳牛は恐ろしいほど忙しい・常人では耐えられない
黒毛和種は知識と体力が必要、牛に殺される可能性が高い
豚は儲かるがマジ臭い常人が作業できる限界を超えている
鳥、まず常人は不可能、徹底した衛生管理完全なミニマムコンパクトな業界
既得権の崩壊による犠牲
日本は高度成長からバブルと経てきてやはり規制の上に政府から利権で守られてきたところが窮地にたたされている。酒販業が深刻なのもここも塩の専売と同じで利権を独占していたから競争もないから楽な仕事だった。それが自由競争にさらされたとき一溜まりもなかった。
JALの問題でもそうだった。政治家の利権獲得のために族議員が跋扈して無駄な地方空港を作らせたのが原因でありそのつけが実際は国民に回ってきた。それは国民が要求したことだから年金も税金でもらえるべきだとなる。その年金も馬鹿高いから反発される。公共事業も何もないときは必要不可欠なものとして金を注ぎ込んだ。最初の内は乾いた大地をうるおす雨のように公共事業は有益なものだった。それがだんだん無駄の部分が大きくなった。その無駄を無駄とせず公共事業は拡大化していった。それはすでに住民の要求、ニ-ズよりゼネコンや地方の土建業者などのために公共事業は拡大化した。ダムの事業もそうだった。公共事業が常に景気のために奨励された。必要がないとしても地方経済でも公共事業の果たす役割は大きいしそれで地方では金が回っていた。建築関係もそうである。家一軒建つことは相当な需要をひきだすのである。医療とかは住民の切実な要求としてあるが公共事業は事業者の要求のためになっていった。その典型的なものがJALだった。地方空港など住民が必ずしも望んだものではないしそれで景気を良くすることにはならないことは見えていた。それでも作られてきたことはやはり政治利権であり土建業とかに仕事を与えるためだった一面は今となれば否定派はできない、だから民主党がコンクリ-トから人へと政策を変えたのも時代だったのだ。既得権益が高度成長→バブルとともに拡大化しつづけた。それはもはや止めることもできなくなっていた。借金はふえつづけてもとめることもできなくなっていた。それが巨大なツケとなって国民に返ってきているから悲鳴をあげている。
既得権益は創価など宗教団体にもあった。ここも高度成長とともに拡大化して利権の温床となった。宗教を利用して税金を払わないで巨大な宗教ビジネスとして無税が拡大化した。他の宗教団体にしても既得権益者であることは変わりなかった。マスコミ関係もそうだった。テレビであれ新聞であれ出版界も既得権益者でありその利権を守るためにあった。それがインタ-ネットとかで電子ペ-パ-化がすすめられると自分達の権益を守るために出版社同士が団結して既得権益を守ろうとしている。新聞などはその内容より毎日一軒一軒に配ることで既得権益者となっていた。だからマスメデアが何か重要なことか重要な人物かを選ぶのであって一般民衆が選ぶことではない、どんな人でもテレビに出れば重要人物のように見えるし影響力をもつのである。新聞もテレビも大勢の人に目に触れるからそれだけの影響力がでてくる。それは広告でもそうなる。一時に何百万という人の目にふれることは宣伝効果も抜群だとなるからだ。そうした既得権が電子化でインタ-ネットなとで危機にさらされる。つまりこれまで既得権として持っていたものが失われてゆく変化の時代になった。そういう時代に衝撃を受けて自殺まで追いやられる。でもこれまでの既得権を維持させてそのままにしていたら国が破綻するという危機感からやはり民主党政権に変えてみようとなったのである。その方向性は時代でありまちがっていないから民主党を支持して自民党はジリ貧になった。公共事業を減らすとかなくせではなく金の回す所を変えるということなのだ。でも日本自体がそうした既得権の構造ができているときそれを是正するのは国民も自覚していないし大きな犠牲が生まれるし抵抗もある。明治維新のように武士の既得権が失われればそれに抵抗する武士がいて西南戦争が勃発したようにである。社会を変えること、社会の転換期に犠牲もまた生まれるのだ。誰もそんな犠牲者になることなど納得しないからだ。理屈でわかっても自分たちの利益を利権を守ろうとするのが社会なのである。これからはそうした大きな利権となる事業は縮小される。そうするとNHKでどうしたら売れるかというス-パ-のことをとりあげていた。そこで客のニ-ズを掘り起こす作業をしていた。それも一人一人に対してこの客はこれを買うなと察知したらその品物をその客が目にするところに運んでいた。そこまでして個々の客のニ-ズに答えるようになって売り上げを伸ばそうとしている。それまでしないと売れない時代になった。消費者のニ-ズが何なのか方が大事になったのである。これが売れるだろうといって大量に作り売ろうとしても売れないのである。いくら不況でもモノ余りだから昔と違っているのだ。
既得権を奪われることの抵抗(小沢は既得権の破壊者)
http://blog.goo.ne.jp/capitarup0123/e/1ebc8983fd48335ffbd33b645bf137a3
製糸工場女工の労働から働く価値観の変化を歴史的考察
●絹織物の歴史
徳川家康の籏布に新田義貞(徳川家の祖先といわれる)の旗揚げの由来で縁起の良い桐生絹が使われました。その数は2,410疋、これを1日で織ったというので、2,410台の織機があったという証になるという説もあります。ご存知のとおり徳川家康が大勝を果たし、江戸時代になると、その吉例から桐生の機屋は幕府に請願する文書に必ず「東照神君御在世之砌、御籏絹献上之御吉例御由緒之地」と前書きしたそうです。
http://www.kiryuorimono.or.jp/htm/gaiyou2.htm
関が原の戦いは日本最大の正に天下分け目の戦いだった。その物語の一つとして旗にまつわる話が残っていた。相馬野馬追いも旗祭りであり旗は戦場で重要だったからこうした記録が残っている。戦争があり好景気になりもうけるということがあったのは今も昔も同じである。日本は大東亜戦争では大損したがその後の朝鮮戦争やらベトナム戦争は特需となり日本の復興の手助けとなったのである。
絹織物は当時の輸出品であり外貨を稼ぐものだから当時の女性の働き場は絹織物の工場だった。養蚕は昔からの産業だったから江戸時代からの継続があったのだ。絹織物の工場は各地にあり女工は各地から移動していた。近くの人は竿竹売りから誘われて行ったという、丸森にも女工が死んだ墓があったり絹織物の女工の話は無数にある。母も一〇年間原町の機織り工場で働いた。たくわんと味噌汁だけの粗末な食で働いた。よく病気にならなかったと言っているから病気になった人もいた。その多くは結核だった。その仔細は良くわからないが昼休みに遊びたくて早食いして死んだという女性の話をした。これは冗談かと思ったが30分間では確かに短い、それまでの働く時間が長いからそうなった。これは今でも別にある。流れ作業の単調な時間はただ休みだけが楽しみでありあとは機械になることだったからだ。早食いして胃腸を悪くして死んだのか、そういうことばせありうるのかと思った。「外出の制限、氷水一杯飲みに出る自由もない」・・・こういうことは確かにあったのだろう。一方で「女工へのアンケートで、検査は泣いたが、待遇を悪いと感じた人はほとんどいなかったと、きちんと書いてあるし。」これもいろいろな見方がある。当時の倫理観として親のために仕送りできた。親のためになったということがあった。その頃子供は親のためになること親孝行することが労働の目的でもあった。だから女性より男が望まれるのである。今とはまるで違う、子供は労働力として産むということが後進国ではまだある。中国の研修生は今でも親のために仕送りできることで働いている。女性の地位が低いのは労働力とならないからである。ところが製糸工場ができたとき女性が労働力となり親のために働いて金まで送ってもらうとなると親も喜んだのである。母も製糸工場で十年働いたからその労働の重みはあるしこの頃はみんな女性は製糸工事で働いていた。絹織物はアメリカに主に輸出され日本の文明開化の資金源となった。何も輸出するものがないとき絹織物だけが輸出産物になっていたからだ。
●丸森の女工の墓群
丸森町の女工墓
http://www4.atpages.jp/tatuo/0029rekisi.htm
佐野製糸工場は,明治18年,佐野理八によって丸森町金山に建てられた。以後52年間,良質の生糸を生産し,アメリカへサノカンパニーシルクとして輸出するほどの大工場となる。
この生糸関係商品(生糸・絹織物・蚕種)は、幕末から明治初年の貿易品の60パーセント以上を占め、日本の産業が急速に発展する明治末期から、昭和のはじめにかけても生糸は日本輸出総額の3分の1をくだることはなかった。
ここに石垣だけが残っている。明治だから江戸時代からの継続として石垣作りにした。新潟から来たのは新潟はもともと雪国だから越後獅子とか出稼ぎの国だった。江戸時代からそうした悲劇が伝えられていた。これだけ20前の女性が死んでいるのだから何か悲惨な感じはいなめない、でも当時は結核は国民病だから製糸工場で働いたからそれが原因で死んだとは全部はならないようだ。強制的に連れてこられたというより自ら志願して来た人たちでもある。桐生に竿竹売りに誘われて製糸工場に行った人は自ら志願して行った。野麦峠でもかえって農業だけでは家に留まっていた方が悲惨だったということもある。その当時の経済状況は今とは比べることができない、高度成長時代の金の卵とも通じるものがあった。 中国の研修生とも通じている。
女工と結核
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20051029/p2
いづれにしろ日本は資源がない、輸出するこものがないとなると経済的に悲惨になる。戦後の高度成長はすべて電気製品であれ車であれ輸出あってこそであった。それは今でも日本ではつづいている。日本は輸出するものがなくなるとき経済的には豊になれない宿命を背負っている。その輸出の最大の恩恵を受けたのが高度成長時代であり団塊の世代だった。その後はグロ-バル化経済の中で日本が輸出で稼げないととなると豊にもなれない、困窮してくる。そういう時代がまた来つつある。
●製糸工場の歌
明治の御代のはじめより くるまのめぐりをやみなく
くりだすまゆのいとたえず 浅間の山ともろともに
ひびきとどろく汽笛の声
はるけき海のあなたより おほくのたからひきよせて
国富をませる富岡の 御荷鉾(みかほ)の山は高けれど
なおも名だかき製糸場
かよわきものの手さきなる わざよりなれる糸すじに
みくにの富をつなげれば 妙義の山はたえなれど
ましてくすしきわざぞこれ
しばしばみゆきあふぎつる ほまれをながくおとさじと
引き出す糸のひとすぢに かぶらの川のいときよき
心あはせてつとむべし
(『製糸工場のエートス』山崎益吉・日本経済評論社・p275-277)
「ひびきとどろく汽笛の声」とはこの頃汽車の時代であり運ぶのは汽車だった。 「はるけき海のあなたより おほくのたからひきよせて国富をませる富岡の・・・・・」これは今の豊田-トヨタに通じるものがある。「かよわきものの手さきなる わざよりなれる糸すじに」この時、支えていた労働の主力は男性ではない女性だった、それも10代が最も多かったということが悲劇性が強調される所以である。「引き出す糸のひとすぢに かぶらの川のいときよき」これは工場内で働いているから川で織物を晒し流すとかいう江戸時代の風物詩とかにはならない、「工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。」工場はなかなか自然の風物と一体化するようなものではなかった。それは近代の工場はみなそうだった。工場はどうしても今でも非人間的な場なのである。近代化した労働は呪われた側面が大きくなっていったのである。それが公害となって現実化した。この歌も左翼的には搾取された、日本帝国主義により人民の搾取だとかなる。江戸時代も左翼からは搾取された人民は奴隷だったとなる。つまり支配者側の論理でありそんなきれいごとではすまされなかったというのも一面である。「かよわきものの手さきなる・・・」その手さきの仕事の成果はただアメリカ人の贅沢に使われた、日本の富国強兵の戦争の武器に消費されて戦争で虚しくされたとか反面としてある。ただそこで仕事した女性はアメリカや国のことはわからない、ただ親を楽させたい、親に仕送りできたということで働く意義を自覚した。これは今とは正反対である。親は今や子供のために奴隷化して使役されている。そのギャップが大きすぎるのだ。働くことが端を楽にさせたいということからはじまっている、それは親を楽にしたいということでもあった。それが働く一番の子供の動機だった。人は果たして国のためにとか働き尽くすのか、明治維新以後は国のために奉仕するとか国のために命を捧げるとか過剰な国意識を背負わされたのである。それは欧米に追いつけということが最大のテ-マとなっていたからやむをえない面はあった。
今は働く動機はまるで違っている。国のためでもない、会社のためでもない、地域のためでもない、結局自分のためである。自分のためであり自分の家族のためである。それに仕事に生きがいを追求しようとしたらそれも自分のためである。生きがいが追求できないから仕事をしないというニ-トやフリ-タ-もそういう意識なのである。高度成長時代は会社人間企業戦士となったけど今はそれも全部ではないにしろ否定されている。 この歌はいい詩にしてもやはり極めて国家的であり国家高揚させる歌なのである。
我が親の生活(たつき)は貧し
山越えて遠く製糸場に我も勤めむ
苦しけれども親の喜ぶ顔
我が稼ぐ賃金は我が物なり
国のためならず我がためなり
国のために働くというのは強制された論理でありやはり自分のために家族のためにとかの動機が強い、国のためにという論理はやはり支配者側、為政者側の論理なのである。とにかく明治以降は国の意識が過剰に大きく背負わされた。それは靖国神社の英霊の是非に今も通じている。それほど国の意識が過剰になったからこそ国の御霊として祀らねばならなくなった。国に命を捧げたなら当然そうなる。では国で人の命の価値を贖うことができるのか?そういう深刻な問題が継続しているのである。逆になぜ働くかということ働くことが共同意識をもたらすときそれが希薄になっているのも現代なのである。国のためが戦後会社のため企業のためになったけどこのことに対しても今になると不満があり団塊の世代などは会社のために犠牲になったからと子供には個性的な生き方をしてほしいということがニ-ト、フリ-タ-の増大になったのも矛盾している。それは国のために犠牲になった人たちの言い分と同じである。会社の英(社)霊として祀ってくれとまでは言わないが そういう論理がある。結果的に今度は逆に日本が中国などからの追い上げで衰退してゆくとき、個性的生き方というのはほんの一部の贅沢であり余剰であり許されないという国家主義がまた出てくるかもしれない、欧米に追いつけ追い越せで必死に国家主義で来たのが国家が衰退するのをそのまま見過ごしていいのかともなるからだ。働くことはともかく何であれ公の部分と個人的なものとがある。この公の部分が戦前までは国でありあとは会社や企業となり現在はどちらでもない、個々に分散してしまった。いづれにしろ働くことのモラルが形成しにくいのが現代なのである。それでも働くことの価値と意味を追求するのが人間である。
●働く価値と意味の変化
人間は最初に働く意識として共同意識としては家族でありその延長が部族であり日本では村である。村のあとに藩が所属する公となった。明治維新後は過剰な国意識が作られた。それは欧米に追いつく追い越せが国是となったからである。働くことも国のためである。江戸時代の藩なら藩意識であり主君に尽くすことが公へ奉公する奉仕することだった。それが国へ変わった。藩が主君なら国の主君は天皇になり天皇に仕えることが国に仕えることになった。天皇のために死すということは国のために死すことであった。それが働く共同の価値と意味であった。
戦後は会社に忠誠を誓う、会社があたかも藩のようになった。国はなく会社第一主義になった。企業戦士とかなるとやはり会社が藩であり会社に猛烈社員として働くことは戦場で命を懸けて戦う侍と同じだった。だから会社では終身雇用となり侍と同じ様に身分を保証したのである。
そしてこの日本の会社は高度成長の波にのり世界にエコノミックアニマルとして恐れられたのである。一方で企業戦士と働いた人たちは主に団塊の世代はすべてがそれて良しとはしない、何か自己を犠牲にするものとしても働いていた。国のために犠牲になった人たちと同じ感覚があった。それでその子供には自由に生きて個性を伸ばした生き方がいいとなりニ-トとかフリ-タ-の増産となったのである。共同労働は家族でもやはり何かを誰かが犠牲になることである。自分の個性を伸ばしたい、才能を活かしたいとしてもみんなができるわけがない、私は画家になりたいとしてもわずかの人しか実現していないだろう。高度成長時代の団塊の世代などがそう思うようになったのはある程度豊かさを実現して余裕ができたからそういえる。自分のできなかったことを子供にはしてもらいたいとなる。中学しか出ない親はどうしても高校くらいには行ってもらいたい、今は高校ではなく大学になっている。大学をでなければ標準でなくなっているからだ。ただ団塊の世代などは高度成長時代であり別に自分の個性を伸ばす生き方もできたのである。でもそうした生き方を今のようなニ-トとかフリ-タ-とかの生き方は全く容認されていない、そうなったのはほんのわずかな人でありアウトサイダ-となるほかなかった。そういう価値観は容認されない、企業戦士であることが全員一致の価値観だったのである。会社の犠牲になったとか今言うのは国の犠牲となったと戦争を否定しているのと同じ感覚なのである。なぜならその時はまだ自分の進路を選ぶこともできたからである。
今働くということは国意識も会社意識も希薄になりグロ-バル化のなかで世界意識が生じてきたがこれが何なのかはまだ明確ではない、そして逆に家族意識、自己意識が働く動機となっている。国でもない、会社でもない、家族のためであり自己実現のためである。だからベ-シックインカムを唱える人たちが出てきたのも必然なのかもしれない、自己意識、自己満足のために働く、強制されるのではない、自己の生きがい充実のために働くということになる。そうなれば芸術、学術分野では発展できる。出版関係でも売れなければ出せないとなればいいものは出てこない、インタ-ネットを見ればわかる、今や郷土史関係、医療分野などでは本に出された知識とひけをとらなくなっているのだ。でもみんな無料で知識を出している。ベ-シックインカムになれば働かない人ばかりで社会が成り立つのかとなるがこういう分野では収入がなくても生きがいのためにやる人は多いのである。大正生まれとか高齢の人は働くことしか能がないから働かせればいいというのはまさに働く価値の変化なのである。遊ぶこと趣味などに価値を見出せない世代である。そういう人は高齢でも働かせよということは今までにありえない価値観なのである。働かねば食っていけない時代働くことが何であれ唯一の価値観であった時代だからだ。そういうことは今でもいくらでもある。庭師は自分の納得のいく自分の庭を作りたいと思っても他人の庭ばかり金になるから作っているとか自分のしたいことを納得したいことをできないのが多いからだ。自己の満足といってもそれは様々であり利己意識とも違う、相手に奉仕(サ-ビス)して生きがいを感じたとか介護関係、福祉関係では働く動機になる。環境問題では砂漠に木を植えるとかグロ-バル意識で働く人もでてくる。他にも海外援助などで働く人もグロ-バル意識で働くことになる。それは国意識、会社意識とも違う新たな働く意識なのである。ただこれも世界的企業として自然を破壊するものとして否定される。世界企業にはモラルがない、ただ利益を目的としているとして否定される。ただこれだけ経済でもグロ-バル化すれば何らかの世界意識が形成されるのである。その途上に現在はある。グロ-バル化の反動として逆に村の共同体意識に戻ろうとすることが起きているのもわかる。グロ-バル化とはマイナスとして様々な固有の国の文化の破壊でもあったからだ。地域貨幣というのもその現れである。国意識-会社意識-グロ-バル化で地域が全く破壊されたからそういう意識が出てくるのも当然である。介護や福祉、医療関係では村意識が隣近所の共同が必ず必要になっているからだ。グロ-バル化した結果として村や地域意識、家族意識、自己意識が働く動機として見直されているのである。世界の人が国籍に関係なく共に働くとうことはそれなりに意義がある。共同意識が芽生えることは否定できないのである。
野犬も参加して吠えたギリシャのデモについて
反逆の犬 Rebel Dog ギリシャ暴動のシンボルとなる
http://blog.hix05.com/blog/2010/05/-rebel-dog.html
●ギリシャの国民性がデモの原因?
ギリシャという国がどういう国なのか、過去の栄光に生きているだけの国となっている。ギリシャは工業化の時代に産業はない、観光中心の国でありヨ-ロッパの保養地になっている。観光客には優しい、空港からのバスに無料でのせくれた。観光でしか食べていけないから観光客を大事にする。その観光客が世界的不況で来なくなると大打撃を受ける。収入になるものがないからだ。ギリシャについての印象はロバと菜の花と遺跡の国だった。春に一面に菜の花が咲いていたから日本の昔の景色とにていた。そして島が多くそこにはロバが使われている。荷物を運ぶのに使われている。ギリシャにもそれなりに近代までの歴史がある。古代だけではない中世でもビザンチン文化など役割を果たした。でも現代はフランスとかドイツなら現代の産業があるけど今は何もない、菜の花畑が広がっているだけなのかとなる。そしてギリシャの栄光の時代のギリシャ人と今のギリシャ人が関係あるのかとなるとわからない、ギリシャの彫刻のような女性がいたから確かに一部は血統的につながっているのだろう。でも古代のギリシャ人と今のギリシャ人は別物なのだろう。エジプトでもアラブ系が入ってきたのだからもともとのエジプト人ではないしギリシャもスラブ系が入って来たとするともともとのギリシャ人とは違っている。
ギリシャはそういう印象だったがなぜあのような激しいデモになったのか?それは明らかにギリシャの国民性が原因している。アテネでデモを見たがそのデモが激しいので驚いた。あんなに激しいデモを見たのははじめてである。だから今回は死者まで出す激しいデモになった。
そして興味を覚えたのは野犬まで警察官に逆らってデモに参加して吠えていた。その犬がデモするギリシャ人の英雄とされているのも不思議である。ギリシャ人は日頃は外国人の観光客をもてなす役割であるがデモになると激しいものとなる。今回は特に国が破産するような危機だから死者まで出た。ユ-ロ-圏内に入ったからEU全体の問題となったから世界的に危機が波及した。でもあのように激しいデモをするべきなのか世界的に見て疑問があるだろう。全部が国の責任とは言えないし公務員の高い給料をカットするのはやむをえない措置である。それに逆らっても国がそうなのだからどうにもならない、一部の不正ならわかるが国全体の問題であり国の財政上負担できないのである。それに対して激しいデモをしてどうなるのか?、何かそれによって解決するのかとなるとならない、その救済策はドイツとかフランスとかの大国の財政援助であり日本でも援助するのだからギリシャの政府の責任ではないのだ。無益な悪あがきのデモとも世界からは見られる。
●怒りの感情が戦争へ
「男も女も老人も子供も王侯も民衆も同じ感情を抱いていた。全民衆がごくわずかな言葉に煽動され、煽動者を凌駕した。ただちに武具と炎を求めて散って去り、隣国に対して宣戦が布告されあるいは国民同士の戦争が宣告された。」セネカ-怒りについて
人間は怒りで共感することが多い、日本の戦争もこれにあてはまっていた。マスコミだけの責任ではない、民衆も怒り熱狂していたのだ。それが悲惨な結果におちいった。フランス革命も民衆の怒りが過度に爆発して犠牲を生んだ。宗教団体の内部でも怒りが共感を呼び激しさをます、遂には殺し合いにもなりかねない、中国や韓国の日本の反日デモも実際は政府にしくまれたものでも怒りの感情で一致して日本に憎しとなり暴動にまでなる。それを焚きつけたのは政府だったのである。そのデモによって何を解決しようとしていたのか?ただ怒るために怒るということがある。不満分子を怒らせて利用するということがある。アメリカが日本に原子爆弾を落としたのもこの怒りであった。真珠湾爆撃への怒りがアメリカ人を感情的に一体化させて最後は原子爆弾でその恨みを果たしたのである。アメリカは9・11のニュ-ヨ-クの飛行機のテロの時もそうだっ。怒りがアメリカ全土で燃えあがりもはやとめることがでなくなっていた。その怒りに乗じて
イラクへの攻撃が正当化されたのである。実際は危険な兵器などなかったのである。もうそうした怒りの感情をとめることができなくなっていた。日本の戦争のときもそうだったのだろう。国民全部が感情的になり戦争に突入したのである。人間は結局個人的にもそうだが自制の心がなくなると常に危険な状態になる。認知症になると前頭葉の理性で自制する力がなくなり感情が爆発して抑えることができない、怒りも抑えることができない、そして暴力となる。これが国単位だと戦争になるのだ。自制心が失われたとき暴力になり戦争になるのだ。もうちょっと冷静になろうと言っても無駄なのである。
●動物も人間に感化される
今回犬が興奮して警察官に向かっていったというのもわかる。回りの激しいデモをみて興奮した。それが警察官より民衆のデモの方についたのは民衆の方のデモが激しかったからである。その渦のなかにいて興奮したのである。人間の勝手でデモしている民衆の味方だとかしたのは民衆側の勝手な見方である。動物は人間に感化されやすい、ペットはすでに人間と同じようになっている。介護までするとなると人間より人間的となり家族の一因となり今や墓まで作られる。もしそのデモで野犬が死んだら英雄に祭り上げられる、これも人間の勝手だとなる。そういうことは戦時中に行われた。無垢な犬まで人間の勝手な戦争に利用されるのである。人間が暴力的になるとき犬も同調して暴力的になる。犬も人間の犠牲となる。
「どんなに獰猛な獣でも、人間との暮らしが一緒の暮らしが長くなると生来の暴力性を保持できない、どんな猛々しさも丸くなり穏やかなものの間で忘れ去られる」セネカ-怒りについて
ギリシャ人の今回のデモはこれと正反対だった。人間が凶暴化すると動物も犬も凶暴化するのだ。それを英雄としたりするのも人間の勝手である。戦争では人を多く殺した人が英雄になる。普通の平和な世界だったら殺人鬼だが戦争では英雄になってしまうのだ。動物には自制心がない、回りに左右されやすい、自制心は理性の働きであり認知症でも前頭葉の理性の働きが失われるから感情だけが突出して怒りがむきだしになり暴力になるのだ。人間の弱点は自制心がなくなるとき暴力になり戦争になるのだ。その犠牲は余りにも大きかったのである。石とか樹の詩で書いたが自然は自制心がある。だから無駄な暴力はしない、石とか樹とか大地は争うことはない強い自制心をもっている。人間は自制心がないから無駄な暴力の争いをする。それが集団的になるとき戦争になるのだ。それは宗教団体でもそうである。団体だからこそ感情的になり外部に敵を持ち攻撃することで一体感を高めるのである。これはどこの国でも同じである。国を一体化するのは理性とかの自制心ではない、外部に敵を作り敵愾心をもやすことで一体化を作り出しているのだ。人間の問題はいかに自制心をもちうるかにあった。そのために暴力ではない法律で争いを解決しようとしたりいろいろしてきたのである。人間は自制心を学ばねばならない、作り出さねばならない、自制心のタガがはずれれば認知症のように暴力だけになってしまうのである。宗教とか哲学の役目は自制心をもつことにある。大衆とかの煽動にのらないことなのだが宗教団体はだめである。最も煽動されやすい人たちでありそもそもマインドコントロ-ルされているのだから上からの命令で動くロボットととなっているのだから感情的に煽動することはたやすいのである。中国も言論の自由がないから日本への激しいデモを政府がたきつけたのである。
死亡した3人はアテネ中心部の銀行の行員で、30歳代の男性1人と女性2人。女性の1人は妊娠中だった。デモ隊の男が銀行に火炎瓶とガソリン缶を投げ込み、逃げ遅れて窒息死した
デモした方ではなくデモをした方が殺害したのだから同情できない面がある。これは正当化できない、やはり殺人罪になる。実際は誰がやったかはわからなくなる。どさくさにまぎれてわからなくなる。ここに集団的行動の怖さがある。誰か特定のものではないみんなでやんたのだから罪にならないとなるのだ。
口蹄疫問題の深層は何か?(牛肉を食べることが必要なのか)
●日本には肉牛は向いていなかった
魏志倭人伝に牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が(すま)ないとある。日本には牛、馬、羊はいなかった。日本は漁業で魚介類を食べる民族だった。狩猟文化でも家畜化することはなかった。イノシシを食べたとしても豚として家畜として飼う文化はなかった。これは他の国との大きな文化の相違なのである。回りが海で囲まれているから必然的にそうなった。家畜を飼わないという文化がない国は世界でもめずらしいのである。それだけ特殊な国であり家畜がない国は文化的にも根本的に違ってくる。大規模な奴隷制もないのもそのためだった。奴隷とは家畜化することと関係していたからである。外国では牛、馬,羊を飼う必然性があったのだ。草原があればモンゴルのように馬が走るには最適だから自然条件でそうなった。無理やりそうしたわけではない、羊でもそうである。羊はわずかの草があれば生きれる便利な動物だから砂漠地帯でも飼われて食料源となる。それも自然条件からそうなったのである。だから動物を飼って殺して食べるのは良くないとはならない、そうしなければ自然条件の悪いところでは生きていけないからだ。
でもインドでは牛は食べてはならない、タブ-となったのはなぜなのか?猿も神の使いとされて大事にされている、そのタブ-にも大きな意味があった。砂漠地帯では豚を飼わない、豚を食べていけないというのはそれなりに自然条件から合理的なのである。
かつて、砂漠の中では豚肉を十分に調理するだけの燃料を用意することが難しく、そのために、多くの人が豚肉をナマの状態で食べ、その寄生虫に冒されたためではないかということです
http://blog.goo.ne.jp/aqua_regia13/e/743eec38706a43356a97847288ddcf9e
昔から伝えられるタブ-とかは全部迷信とかではない、人間の長い生活の経験からその土地独自のタブ-が生まれたのである。長子を重んじるのもそこには深い意味があった。兄弟が平等に財産を分けるのは確かに一見合理的であり近代的だとなるが現実問題として長男をたてないと家が乱れることがあった。だから徳川幕府でも長子が将軍を継ぐことにこだわった。これは世界的にみなそうなのである。家でも国でも乱れるからそうしたのである。
●世界中で牛は過剰になった
今回の口蹄疫の問題の深層は何なのか?これも結局奇々怪々になっているが本質的にはグロ-バル化の問題であった。牛自体食用とした歴史は日本にはない、醍醐という牛乳を飲んだ歴史は古代にあった。牛肉を食べることは明治以降にはじまったのでありこれもグロ-バル化の結果だったのである。なぜ日本でもこんなに牛を食べるようになったのか?そんなに牛を食べる必然性があったのか?それが疑問なのである。栄養的にもそんなに必要だったのか?牛肉がなくても今や豚から鶏肉から何でもありで栄養が不足するということはない、栄養過剰の方が現代の問題なのである。なぜこんなに全国で牛が飼われているのかも疑問である。牛乳やヨ-グルトは必要にしろ肉牛がこんなに飼われていることが理解できないのである。牛乳にしろ過剰になり生産調整して廃棄されていた。日本全国でこんなに肉牛が飼われるのだろうか、これはやはり必要からではなくむしろ農家の方で米とか野菜だけでは経営が成り立たないから牛を飼うということもあった。地方では道路が必要でもないのに公共事業として無駄な道路を作るのとにている。そんなに道路が必要でないと言っても地方では経済が公共事業で成り立っている面があり業者が困るから無駄な道路を作っている。多分に牛にもそういう事情が働いている。
牛を飼うことが世界で日本で必要なのか?九州の牛が売れなくなれば東北の牛が売れる。これは小沢の陰謀だなどというまで言う人がでてくる。そんなことはありえないにしてもそれだけ牛が過剰になっているからそんなことを言う人がでてくる。外国でも牛は過剰であり牛肉を日本に売りたい、だから外国の陰謀だとかともなる。事実、アグラ牧場とかが発生源とされ韓国の研修生が牛の精子を盗んだとか水牛を持ち込んでチ-ズを作るということからその水牛が感染源だったとかとりざたされる。その経営者巨大宗教団体が経営にタッチしているとか騒がれる。そこで口蹄疫が発生したのがわかっても隠蔽されて広がったとかインタ-ネットに報道されている。これは全くのデマではない、やはり地元でそのことを知って怒っているからである。
●グロ-バル化が食文化を破壊した
そこで責任のなすりつけあいが起こっている。民主党は政治主導だから民主党が責任だ、赤松農水大臣が外遊で対策を怠ったとかいや官僚が怠慢だったとか、宮崎県の東国原知事が悪い、責任のなすりつけが起こっている。結局それぞれに責任があったが責任のなすりつけになっている。この問題からいろいろなことが見えてきたことである。そこには様々な人たち、団体がかかわっていたからである。これは単に口蹄疫のバイ菌の問題ではない人間の問題になってきたのである。口蹄疫がアグラ牧場で損失を恐れて隠蔽されとすればその隠蔽はなぜだったのか?背後に宗教団体やら政治家が介入して韓国の研修生も関係してグロ-バル化の問題となる。利害関係がこれも複雑にからまりあって生じた問題なのである。そこに宗教団体がかかわってくるとなるとさらに複雑化する。宗教団体は巨大な権力機構であり経済的にも政治的にも深く利害と関係してくるからである。口蹄疫問題はやはり単なる細菌(ウィルス)の問題ではない、グロ-バル化の問題として露出したのである。インフレインザでもワクチン騒ぎがあり背後にそのワクチンを売る製薬会社の陰謀だとか言う人がいる。それもそうなのかと最近そういう情報にインタ-ネットでは触れるので信じるようになった。医療関係でも背後に巨大な利権が動いて売るために操作されることがあるのだ。必要でない薬を飲まされるということがあるのだ。
つまり今の世界はこうした利害関係でグロ-バルに動いている社会だからそうなる。オ-ストラリアでは日本が鯨を食べるなとか批判しているけどそれもオ-ストラリアの牛肉を飼って食べろとなると利害関係で動いているのである。だからオ-ストラリアの牛肉は輸入するとか運動することになる。鯨は日本のような海に囲まれた国では海の幸であり恵みだった。鯨を食べる必然性が自然条件の中にあったのだ。だから世界から鯨を食べるなというのは一方的なものである。
文化の破壊なのである。食文化でもグロ-バル化して文化(culture)の破壊が大規模に行われた。土地に根ざさして地産地消ししてきたのが文化である。だから鯨は日本では海の恵み神の恵みとして食べていいものなのである。それは羊や牛や豚を食べる国と同じことなのである。
羊をかわいそうだから食べるなとは言えないと同じなのである。日本自体でもすべてで牛を飼うを必要がある必然性はなかった。牛乳や乳製品なら北海道などがあっていた。ここでは稲作をしていないからである。日本の国の中で適している地帯とそうでない地帯が食として必ずあるのだ。それを無視して日本全国で牛を飼うということに無理がある。これもすでに利害化しているから牛をやめたら何で食べてゆくのかとなる。それだけ牛に依存している農民がふえすぎたのである。牛肉を食べる必要がなくても農民にとって世界の牛肉生産地にとっては牛肉を食べてもらわないと困るという問題がその根にあるのがグロ-バル化の経済の問題なのである。
●老後は食の関心が高まる
60代以降になると肉食中心の食から油ぽい食から淡白なものに変わりやすい、今回自分が胃酸過多が長引いたのはやはり老化で胃腸全体が弱くなったせいである。もともと胃腸が悪いにしてもこんなに長引いたのは老化が原因している。そして食に注意を払うようになる。なるべく胃腸にいいものとなると肉食ら良くない、日本古来からの食である魚介類や野菜中心の食生活が健康食でありそれが日本人の長寿につながっている。牛肉は良くないにしろ牛乳とかヨ-グルトや乳製品はいい、それで肉食することの代わりのエネルギ-が供給される。食で一番いいのは新鮮なことである。野菜でも農家の人なら農薬を使わない新鮮な野菜を家の前の畑からとって食べれば一番いい、魚にしても近くの海でとれたての魚を食べれれば一番いい、ス-パ-の魚は古くなっているから安くてもいいとはいえない、蔵王のヨ-グルトはあっさりしていい感じがした。これも近くでとれる。近くでとれるものは新鮮だからいいとなる。ただ蔵王のヨ-グルトはこの辺では売っていない、牛乳はコンビニで売っていた。もっと近くでとれている牛乳もある。南相馬市でとれている牛乳もある。ともかく食は旬のものが日本でいいというのはその季節で一番新鮮なものだら良かったのである。その時冷蔵庫もないから自然条件で必然的にそうなったのである。現代は自然条件を無視した生産が行われるからそこに無理が出てくる。
高齢化社会というとマイナスの面だけが語られるがかえってこうした食の問題でも老人に向いた食は若者にも実際はいいのである。肉ばかり中心の食生活では長寿になるからどうかわからない、今の老人が長生きなのはかえって貧しい時代に生まれたからだという説もあり過剰な栄養をとっている団塊の世代などからは長寿でなくなるかもしれない、栄養過剰で長生きできない、現代の問題はあらゆるものが過剰なのである。寿命を伸ばす延命治療もここにも経済的利害で無理やり長生きさせられたりと何か自然ではない、不自然なことが多すぎるのだ。道路も過剰、栄養も過剰、牛も過剰、情報も過剰と過剰化社会で苦しんでいるのが現代なのである。
つまり消費する方で困るのではなく生産する方で困っているのだ。牛肉でも牛乳でも米でも過剰で困っている社会なのである。だから必要でないものを買わされ食べさせられてかえって病気にさせられているというのが現代の文明の矛盾なのだ。
鳩山首相の人間的資質を批判することの疑問
●マスコミには鳩山首相をこきおろす資格がない
鳩山首相は苦労をしらない、大富豪の家に生まれ何の苦労もしていない、小遣いは一千万単位とか庶民とはかけ離れているとかいろいろその人間の資質について批判される。「宇宙人」で浮世離れしているとかその悪口はきりがないし庶民にとってはそうしてこきおろすことが面白いし楽しい、だからマスコミで面白おかしく時の最大の権力者をこきおろすのである。要するにそれが民主主義だから悪いとは言えない、中国だったらそんなに共産党の支配者をこきおろしたら刑務所行きだし即銃殺刑でありデモしたら天安門で軍隊出動になり虐殺されたのは知っての通りである。民主主義でないからそうなっている、言論も自由ではないからそうなっている。一方で民主主義の国家ではこの逆が常に行われる。権力者への悪口雑言がたえまなくでてくる。これまではマスコミ中心にしか行われなかったが今はインタ-ネットで絶えることなく悪口雑言がでてくる。それはしかたないことだがマスコミに関しては批判されるようになった。麻生首相のとき漢字が読めないとなんとかマスコミは激しく絶え間なくこきおろした。今度は一時は民主党をあれほどもちあげたのに民主党をこきおろし鳩山首相をこきおろしている。こんなに掌をかえすようにただ大衆受けする煽動をするのがマスコミである。その言動には誰も責任を持たないのがマスコミなのである。その時々で右にも左にもなる。軸がどこにあるのかわからない、その時々で色が変わるからマスコミこそ一番信用できないとインタ-ネットで盛んに批判することができるようになったのは民主主義の前進だった。
●民主主義で責任があるのは指導者を選んだ方である
君主制なら貴族制なら上に立ち指導するものに重い責任がある。庶民は従うだけだからである。だから武士は責任をとり切腹させられた厳しい処罰があった。でも民主主義では誰が責任者なのか?それは指導者ではない、指導者を選挙で選んだ人なのである。民主党を選んだなら民主党の意向に従うことになる。鳩山首相にしても「私のことをあれやこれやいうけど選んだのはあなたたちであり私があえて成ったのではない」といえる。戦国時代なら実力者がなるが民主主義では戦国時代のような実力者、兵(つわもの)が指導者になるわけではない、だから鳩山首相にはそもそも首相になる資質がないからやめるべきだとは選んだ人は言えない、誰でもいいというわけではないがその資質をそれほど責めることはできない、では誰か代わりにやったら劇的に政治を変えられるのかといったらそうでもない、結局君主制でとないからだ。君主制や独裁制だったら鶴の一声で決まる。でも民主主義は誰が決定権があり誰が責任を持つのかと言ったら指導者ではない、指導者を選んだ方なのである。民主主義ではそういうことを自覚している人は少ない、たかが一票であり責任をとるなどと考えて投票している人はいない、つまり大衆民主主義となると誰も責任を持たないのである。だからただ指導者をその資質がどうのこうのとか難癖つけたりこきおろしたりして楽しむ。それを煽動するのがマスコミでありそれで視聴率をかせぐのである。むずかしい政策論議ばかりしていては面白くない視聴率がとれないからである。結局自民党にしても民主党にしても政治を劇的に変えることはできない、アメリカの軛からも簡単に離れないことが証明されたのだ。そして以前として大衆に媚びる手法も変わっていない、タレント頼りの票集めは自民も民主も同じであり幻滅した。それは自民や民主のせいではない、そんなことして票をとれるからそうするだけである。馬鹿な大衆から票をとるにはタレントがおにあいだとなるからだ。票がとれないなら権力もとれないからだ。パンとサ-カスで票を人気をとるしかない、それはロ-マ時代もそうだったら人間の本質は変わらないとなる。
●戦後はアメリカの従属国として出発した
鳩山首相の資質は指導者にふさわしくないというのは言えるのだろう。でも戦国時代ではない、信長のような人がなれと言っても無理だしそんな権力をふるえる時代ではない、権力をふるえるのは誰なのか?実は首相の資質より権力をもっている権力をふるえる人に問題があるのではないか?日本はアメリカに敗戦してからマッカサ-に支配された敗戦国でありそこからアメリカ支配が行われてきた。あれだけの敗北をしたのだからアメリカに従わざるをえなかった。だから戦後の政治はアメリカの従属国であり独立国ではなかったのである。そこが原点でありその延長として現在があった。だからGHQ支配の時からの歴史をふりかえる必要がある。法律さえアメリカの従属国として作成されたのである。それがすべて悪い法律というのではなく自主的に日本人が決めた法律ではなかった。その他言論でも本でも取次ぎが一括管理して出版できないようにしたり言論統制が行われた。それで共産党は一時暴力革命を目指していた。アメリカに対抗するにはそうならざるをえなかったのである。アメリカの従属国として60年以上もあった。そしてアメリカの従属国として自民党が50年間も権力の座にあり官僚と密着して日本を支配したのである。田中首相のとき中国と国交を回復したときアメリカによるいやがらせでロッキ-ド事件がしかけられた。アメリカの航空会社の幹部が証人に立ったことでも明確である。今回もその延長としてアメリカからの軛から脱せられないものとして沖縄の基地問題があった。鳩山首相の資質とは何ら関係ない、民主党の政策はアメリカの従属国から脱することであり官僚支配から脱することでありそれを支持したのも選挙で応援したのも国民である。それがアメリカの圧力で挫折したのでありそれが鳩山首相の資質とは何ら関係ない、誰がやっても同じでとないか?
それだけアメリカの圧力が強力であり官僚(検察)支配がアメリカの配下に組み込まれていたということでとはないか?検察の権力と戦おうとしたのも民主党であり検察がアメリカの支配下にあるから大きな摩擦が起きたのであり正義とか法律は関係なかったのである。
●首相の資質だけで政治は左右できない
鳩山首相の悪い面が強調されるがいい面もあるのではないか?あれだけ恵まれた人だから権力に固執したり権力に執着したり権力への野望はないだろう。池田大作のように学歴コンプレックスから世界中から博士号とか勲章を集めたりする必要はない、つまり権力欲が大きい人はそもそも権力者になるべきではない、権力は必ず腐敗するというとき権力を望む人が権力をもったら当然そうなる。それでどこの国でも権力をもてば権力者は豊かな暮らしができる。中国でもソビエト連邦でも共産党の幹部は権力を持ち堕落した。そして権力者は神にまで祭りあげられたのである。鳩山首相は指導者として優れていないというがでは民主主義の社会で誰が指導者になりうる資質を見抜けるのか?指導者を選ぶ人自体、タレントが指導者でいいと選んでいるではないか?資質的にタレントがいいと思って選んでいるのか?そもそも首相にどれだけの権力が付与されているのか?実際は官僚が支配しているとしたら首相にすべての権力はない、解散権などは首相一人で決められるとしたら大きな権力であるがその他はどれほど首相一人で決定権があるのか?そうしたことは不明であり情報も官僚に操作されて沖縄の基地移転問題は官僚にはめられアメリカの言う通りになったというときどんな資質の人でも首相でも決定権はないとしたらどういう資質の人でもできないとなる。アメリカの意向を組む人でない限り首相は勤まらないとなる。現実そうなったから首相一人の裁断ではできない、権力を操作するのはもっと背後の大きな力だったとなる。民主党が政治主導でやるというとき官僚支配を国民も嫌っているからそうなった。それを実行しようとしたらやはりアメリカや官僚の抵抗にあいそれにマスコミが同調して鳩山首相への批判となって集中したのである。そういう観点から政局も見るべきでありただただ鳩山首相への罵詈雑言に終始していたら選択をまた誤るのである。民主主義の負の部分は余りにも無責任なデマゴ-グが起こりやすいことなのだ。そのデマゴ-グの先頭にたっているのがマスコミだから始末が悪いのである。それにのせられる民衆も悪いのだからどっちも悪いとは言えない、鳩山首相にしたって「一体責任あるのは誰ですか、民主党を選んだあなたたちではないですか?すぐにまたあなたたちは変えるのですか、四年間は何かあれまかせられたのですから任期を全うします・・・」とかも言える。アメリカでは途中で指導者が変わらず四年間責任をもって大統領が中心にして政治を行うからである。 そんなにまた次々に頭をすげかえても結果は同じになるのではないか?民主党に失望したことは確かである。タレント候補に頼るのには失望した。では今度はみんなの党になるのか?選ぶ党がなくなっているのだ。みんなの党でタレントは擁立していないから好感がもてるが結局第二民主党だと言う人もいる。
するともうどこに投票していいのかわからないのが今度の選挙になってしまう。ともかく四年間はやらせるほかない、選んだのだからそうするほかない、また自民公明にもどるのか?それだけは嫌だとみんな思っているのだから選択が他にないからである。
集団化、組織化、序列化、・・・は人間の業(戦争の原因も)
●人間は上に立つために命懸けになる
「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」
<イエス・キリスト 新約聖書 ルカの福音書 22章26節〜27節>
人間の業とはこの逆から始まっている。だからいつまでたっても平和はない、自分が上に立ち従わせたい、支配したい、給仕させたいのである。なぜ偉い人になりたいのか?地位ある人になりたいのか、それは人格的に優れた人になりたいということではない、社会的に権力があり人を支配する立場になりたい、もちろん給料も高い地位につきたい、ともかく人の下になり給仕するような人にはなりたくない、そのために勉強するし努力を惜しまない、人の下にたち給仕をするような人にはなりたくないという一心で勉強して努力しているのが人間の現実なのである。
東大を出れば高給取りや官僚への道が約束されている。高級官僚になれば天下りとか高給取りになる。なぜ勉強せねばならないのか?と親でも先生でも聞いたら高給取りになり社会的地位があり楽するためだとしか教えられない、そこには国のために尽くすという志などはない、戦争中は確かに大きな問題があったが自分一身の利のために命を犠牲にしたのではない、強制されたといえばそうなるがでも戦後のような功利主義一辺倒ではなかった。学問はただ利だけを追求するものとなったのが戦後だったのである。それで受験戦争とかが今でもつづいている。それは学問を追求するというより利を追求する、一流大学に入ればいい会社に入れて安泰だとか収入がいいとか利だけが追求されるのである。
●オウム真理教で過激な行動した人の理由
人間は下働きで一生終わりたくない、給仕にはなりたくない、そういう一心でみんな勉強して努力しているのである。人間の努力は全くこの反対のための多大なエネルギ-が費やされてきた。下になり支配されたくないから戦争もあった。そして人間の業として集団化、組織化、序列化が必ず行われる。人が集れば派閥ができるというのもそのためである。人間はなぜ集団化、組織化すればかならず序列化する。上に立つものと下になるものが必然的に生じる。集団や組織はそうしなければ維持できないだろう。「俺はオマエより上だ、俺はオマエの上司だ、お前は俺の命令を聞く、従うだけの人間だ、俺に仕えるのがオマエだ・・・・」必ず集団化、組織化すればそうなる。絶対に下になりたくない、命令されるだけの給仕として仕えるような身分にはなりたくないということで全精力が費やしているのが人間なのである。これは集団であればどこでもそうだろう。カルト宗教団体でも普通の社会より厳しく序列化した上下の関係が軍隊のように作られた世界である。オウム真理教の事件のとき幹部がみんな高学歴だから上から認められない、それでサリンをまく派手なことをして認められ幹部になりたかったと言ってひた人がいた。殺人までして上にあがりたい、幹部になりたいという上昇志向があのような悲惨な事件を起こした。背後にそういう個々人の上にたち支配したいという欲望がそうしたのである。カルト宗教団体では必ずそういう序列化した軍隊組織になっている。上に上がるためにしのぎを削っているのである。組織内部で権力を得るための闘争が行われているのだ。こういう集団化、組織化は厳しい序列化になり他の集団に対して排他的になる。そしてこういう組織はカルト宗教団体でも他者対して非情になる。自分たちの集団、組織を守るために批判したりすると非情になり攻撃してくる。それは人間とは思えないほど非情になる。そういう犠牲者がたまたま現実にここで書き込みしたのでわかった。その恨みは余りにも大きなものとなっていたのである。これはすでにカトリックでの宗教裁判などで歴史的にあまりに残酷だったので政教分離の法律ができたのである。
●戦争の原因も内部の人間の組織化、序列化から起こる
戦争がなぜ起こるのか?その原因を集団化、組織化、序列化という内部に起因していることは確かである。戦争の原因がただ対外的に国と国の対立だけで起こりうるものだろうか?すでにその国々の内部に戦争の原因がある。それは集団化、組織化、序列化でありその内部で人の下になり給仕するようなものにはなりたくないという一心で上に立ちたいということで必死に努力する。その上昇志向が戦争に結びついてくる。戦争もまた相手に支配されたくない、下になり給仕のようにはなりたくないということから起きてくる。上に立ち支配して給仕にする、それが欧米でも同じであり日本もそうだった。中国でも韓国でも国という集団も組織も内部で序列化して階層化、ヒエラルキ-化しているからそうなる。戦争の原因が単に国と国の対立ではなく集団化、組織化している内部から必然的に起きてくる。ナチスでも内部から軍隊化してヒエラルキ-化して今度は対外的にその軍隊組織が他国を支配するためにその国の集団組織以外の人なら殺してもいいとなるのだ。戦争の原因は人間の業として集団化、組織化、序列化、ヒエラルキ-化にあったのである。これは上野霄里氏が集団、組織を徹底して批判して遂に寒山拾得のような人物を本当の人間らしい人間として浮き彫りにした。人間社会はそもそも集団化、組織化、序列化していないところはないのだ。もしそこから脱しようとしたらその人間はアウトサイダ-となり誰も存在すら認めないしかえって狂気に人間とされる。でも狂気は集団化、組織化、序列化、ヒエラルキ-と化している方にあったのである。それが歴史の残酷な事実だった。
●共産主義の粛清の悲惨が人間の業の深さを証明
ソビエト連邦でスタリ-ンの粛清やレ-ニンの革命でもいかに信じられない犠牲者が出たか?
中国の毛沢東の文化革命でどれだけの人が死んだのか?その数は何千万とか粛清されて消された。ある時ソビエト連邦の時代、書記が死んだとき神のように祀られた葬儀が放送された。これはカルト宗教団体と同じである。宗教でなくてもそもそも人間が集団化、組織化、序列化するとき同じパタ-ンになるのだ。その犠牲者は余りにも多すぎた。カンボジアなどの犠牲者もそうである。そこには骸骨の山が積まれていて後世の歴史の証として残されている。その原因は人間の業としての集団化、組織化、序列化によって引き起こされるのである。集団を組織して結束を保つためには批判するものには容赦なく粛清されるのである。人間は上にたちたい、下にありたくない、ましてや給仕になるようなものにはなりたくないという一心で人を殺すことも容易にするのである。これが人間の業としてあり凄まじい殺戮が行われてきた。人間は神のようになりたいというとき集団、組織化、序列化、ヒエラルキ-のなかで一番上にたちたいということなのである。絶対に下になり仕えるような給仕にはなりたくないということなのだ。つまりすでに人間は集団化、組織化するとき人間の序列化がヒエラルキ-化して組織自体非人間的なものに変質する。それはオウムであれ創価であれ真光であれみな同じ体質でありそういう体質は変わらないのである。集団化、組織化、序列化、ヒエラルキ-化する人間の業としてその内部に戦争の原因があるから人間社会から戦争はなくならないのだ。外部に相手の国に起因しているのではなく内部に起因しているから戦争をなくすことがむずかしいのだ。
ヒエラルキー(ドイツ語: Hierarchie ヒエラルヒー、英語: hierarchy ハイァラーキ)とは、階層制や階級制のことであり、主にピラミッド型の段階的組織構造のことを指す。 元々は、聖職者の支配構造であった。かつてのカトリック教会や正教会などが、この言葉の現代的意味において「階層的な」組織を持っていたことに起源がある。
注意-集団化、組織化などの批判は上野霄里氏の本を読んで深く検討してください