東京編
神宮の森に晩秋の日ざしかな
神宮の喫茶店に休み散る木の葉時は流れて東京にありぬ
神宮の森に木の葉の散れるかな吾も歩み入り東京に泊まる
東京というと上野であったが今回は新宿に泊まり明治神宮の森を歩いた。ここを歩いたことは一回くらいである。東京のど真ん中にこういう森があることは貴重である。学生時代ここで生活したがそれも余りにも遠い。東京といってももはや今はいつも旅の帰りに一時よるだけである。青春も夢のように過ぎさりこのとらえどころのない大都会にも様々な人生があるのだろう。東京が首都だという時やはり皇居の存在は大きいのかもしれない。日本の中心がそこにある。国には中心が必要だし東京に来るということは政治であれ経済であれ中心にくるということに意義がある。京都は昔はそうだったから京都が政権争いの凄惨な争いの場になった。天皇がいる御所があったということである。やはり天皇は日本にとって大きな存在だったのだ。京都は今は文化都市でありそうした政治的な重みがなくなった。その違いは小さいようで大きいのかもしれない。皇居はやはり日本の中心ということに意義がある。国会もそうだが皇居もその上にある日本の中心としての精神的象徴でも意義がある。というのは中心があることはそれが精神的象徴でも国が安定するからだ。中心がない国は乱れるのである。
富士山のように国にも中心なるもの軸が必要なのである。確かに天皇にも問題あったが天皇を日本からとりさると国が乱れてしまうことは確かである。権力争いがむきだしになる可能性があるのだ。天皇はそうしたむき出しの権力争いを治める役があったことは確かである。天皇の起源そのものが水争いを治めたことから始まるとか権力のバランスをとる役だったのである。ここに七五三のお参りに来ることは地方とは違う意識が持つかもしれない。写真ではよくわからないが七五三のお参りに来た人が写っている。やはり日本の中心にいるという感覚である。東京を遷都する運動があるが政治と天皇は日本の場合切り離せずあるから東京が精神的に空洞化することを東京都では恐れているがそれは天皇、皇居まで移動すればそうなる。天皇と政治の舞台を分離して移動することは日本の場合うまくいかない。やはり一緒にあったほうか政治はしやすいことは確かだろう。