九州旅行(阿蘇編)

清冽に湧き水絶えず阿蘇に雪

米塚の謂われを語り秋の暮

高原の風の冷たさ秋の蝶


旅に暮る阿蘇の農家に干し大根


朝の空澄みにけるかな山頂に雪の冷たくりんどう見つけぬ

高原に牛と馬いて広々と風のそよぐや朝の雪の嶺

煙吐く阿蘇にはや雪生々と地球の熱にその純白

山頂に望むはるかな晩秋の下界は見えぬ山の静けさ

米塚


阿蘇は雪だった。例年より早い雪だった。九州なのに寒かった。今年は早く寒くなっている。みちのくに帰っても寒いからヒ−タ−をつけ放しである。11月でこんなに寒いのはめずらしい。帰りに火山博物館によったがここは800円でつまらなかった。博物館は見るものがないのにつまらないものがある。金沢の忍者屋敷は800円で高いと思ったがそうでもなかった。いろいろ見るべきものがあった。博物館はつまらないものがある。これも結構な金をとるなら見せるものを作るべきだろう。
安くても面白いものもあったからだ。この入場料も合計して一万くらいかかったかもしれない。この博物館で時間があったので裏山を歩いたら雪が残りリンドウが咲いていた。これは発見だった。やはりまだあたたかいから咲いていたのかリンドウは遅くまで咲いていることがある。阿蘇には外国人がかなりきていた。鉄道の時刻表も英語で書いてあった。九州に来た外国人は阿蘇に来るらしい。朝晴れわたり遠くの山まで全部見えた。気持ちがよかった。阿蘇から高千穂に行こうかと思ったが時間がなくなったのでやめた。私鉄が走っていて高森から行けるとか言っていた。この私鉄には乗った。白川水源という湧き水を見た。阿蘇には湧き水が多い。でもあそこにはいかがわしい店があっていやになった。こんこんと清らかな水は絶え間なく湧きだしている。しかしその回りには金運がつくとかなんか欲望のギラギラしたものがとりかこむ。これは今の宗教団体とにている。本来宗教は聖なるものだったのだがその回りをこの世の欲望のむき出しのギラギラしたものによって占領されてしまったのだ。ただはるか遠くの山を望んだ時は下界は見えずその山だけが映えて静かな朝を迎えていた。

熊本−博多−東京

熊本の市電に秋の夕日かな

柿なりて熊本古りぬ市電かな

秋日和通りながめつ市電行く

二本(ふたもと)の古木動ぜぬ秋の暮

ふたもとの古木に秋の夕日さし石垣固き熊本城かも


秋の日の夕陽の染めてあわれかな筑紫の旅路ここに終わりぬ


阿蘇から熊本に帰り市電にまた乗り公園を歩いた。あそこには古いいい木があった。市電も年季が入ったもので古い街にとけこみ情緒があった。あのゆっくりと街を通るのがなんともなくいいのだ。人間的なのだ。
一つの視点としてバスがコミニュテイバスとあったごとく共同で使うものでありバスも市電も汽車も実は共同に使う乗り物という側面がある。しかし自動車は個人用であり家族用であり共同で使うというものがない。それでコミニュテイ的感覚がなくなる。そんな違いがある。市電は深く街自体に溶け込んでいる。東北で市電があるところは見当たらない。仙台にもないし市電は南の都市に多いみたいだ。旅に行ったら市電には必ず乗るべきである

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