貝のエッセイ(小林勇一)

貝にまつわる話は多い。そもそも貝は最初装身具とかに使われたもではない、食料だった。縄文人の常食は貝だったのだ。貝を毎日とっては食っていた。その貝の肉を食って捨てた貝殻が山のようになり後の世に貝塚として残されたのだ。

常陸国風土記』には大ハマグリをすくって食べる巨人の話が書かれている。捨てられた貝殻は山のように積もり岡となってそこは「大櫛の岡」と呼ばれるようになった。この岡が「大串貝塚」(水戸市)で、貝塚は国史跡となっている。相馬郡の新地の手長明神も手の長い巨人がいて貝を食っていた。なぜ手の長いとなったかというと貝塚の山を発見して後の人がその山に驚き名づけたのだ。というのは海からかなり離れた所にありそこで海の貝がとれることは不思議だったからだ。だから海まで手を長く伸ばした巨人がいたということになる。これは他でもそうであり縄文海進で海が陸に深く入り込んでいたのだ。とにかく海辺に住んでいた人間が最初に食ったのは貝だった。貝は一番とりやすいのだ。これは女性でもできる仕事である。魚をとるとなるとこれは舟も必要になり結構大変なことになる。釣りするにしたってむずかしい。簡単に魚を食料とすることはできなかった。貝は一番簡単に食料になった。貝と人間との関係はだから密接だった。装身具とかまじないとかにしたのは後でありまず食料としてあったのだ。


3880 香島嶺ねの 机の島の 小螺(したたみ)を い拾ひりひ持ち来て
   石もち つつき破はふり 早川に 洗ひ濯ぎ
   辛塩に ここと揉み 高坏たかつきに盛り 机に立てて
   母に奉まつりつや 女めつ児の刀自 父に奉りつや み女つ児の刀自


このシタタミが食料になる貝だった。石でもってつき破るというのも原始的である。これも鋭い石で簡単にできたのだ。早川は流れの早い所ですすぎ塩でもんだというのもすべてその場ですぐに口に入れることができたのだ。ここでは焼いていないから生で食っていたらしい。このように貝は最も手短に食料になるものだった。カヌ−で西表島を一周した人も貝を食ったというのだ。貝は手っとり早く食料になるのだ。

シタダミとういと神武東征の唄で有名である。

「神風(かむかぜ)の伊勢の海の 大石にや 這(は)ひもとへる 細螺(しただみ)の 細螺の 吾子(あご)よ吾子よ 細螺のい這ひもとへり うちてしやまむ」

これからわかるように海での生活感覚が山に入ってももたらされたのだ。四国の吉海町の下田水(しただみ)港というのが地名としても残っている。

これは実用としての貝であったがでは宝貝などが重宝された、また貝が食料以外に装身具とか呪術とか貨幣として重宝されたことである。これはどちらかというと遠い国との貿易品として利用された。なぜなら食料としての貝も売買されそれは近くの市場で今もフィリッピンでは行われている。だからあながち沖縄の貝が中国の貿易品として古くから売買されていたという柳田国男の説が空想ともいえない。第一なぜ貝のつく字が多いのか、貝に執着することになったのか、これは今の感覚ではわからない、つまり信仰とかが大きくかかわっていた。宝貝のとれる所、東南アジアからインドにかけて宝貝の熱烈な信仰があったのだ。貝から子供が生まれたというタイの民話も宝貝とお産が関係していた。

昔々古宇利島に少年と少女が住んでいました。二人は天の神様が毎日降ろして
くださる餅を食べて暮らしていました。時がたち二人は残りものを蓄えることを覚えました。それで神様は餅を降らす事をやめてしまいました。何度もなんども神様に餅を降らしてくれるよう頼みましたが、願いは聞きいれられませんでした。それから二人は毎朝浜に出て魚や貝をとり、働く事の苦しみを学びました。

この民話は聖書の創世記とにている。聖書が変質して伝播したのと餅が入ってきてその餅のありがたみが如実にでている。米より餅は菓子のようになっているからうまかったのである。餅はハレの食物だった。もともとは貝や魚をとってくらしていたのだ。

宝貝は別名子安貝とも呼ばれ、古代エジプトをはじめ、オリエント世界、中国などの考古学調査でよく見られる海産貝である。世界中に185種とも202種ともあるといわれ、そのほとんどが太平洋とインド洋に生息している。古くから貝貨として利用され、大陸の内陸部奥深くに住む人々にとって今も昔も、宝貝はことのほか大切な文字どおり宝物に違いない。スウェーデンの地質学者であり考古学者であったアンダーソンは、「1924年に中国の甘粛省を旅行していたとき、昼食に立ち寄った中国人の家で女主人の子供が頭に宝貝をつけて走りまわっているのを見て、1ドルでその宝貝を売ってくれるように母親に頼んだが、彼女はどれほど払ってもこの貴重な護符を売ることはできないといったふうな印象で私の申し入れを断わった。」と、著書『黄土地帯』に記している。ヒンドゥークシュ山脈の奥深くに今なお息づいているという。

子安貝は安産の願いと密接に結び付いていた。昔はお産の時、母親自体が死んだり、子供も死ぬのが多かったのだ。人間も生物であり自然界では信じられないほど卵や子を生むのは生存の確率をふやすためである。人間も同じだった。多産が普通でありたいがい8人くらい子供を生んでいる。しかしその中の半分くらいしか生き残れない、墓誌を見ると一歳とか二歳で死んだ子供の名が記されている。その数は非常に多かった。自分の母方の兄弟でも半分くらいしか生き残っていない、今でもアフリカとかアジアの貧困国では多産なのは自然条件が厳しく生き残れる子供の数が少ないからである。そういう習慣がつづいているからである。

貝というのが沖縄に本当に中国人が買いつけに来たのか、貝(かい)とは買うになる。売るは貝の字がついていない、貝とは買うものとして認識されていた。もっぱら買うものが貝だったのかもしれない、買うとはまた換えるとも共通していた言葉だろう。

貝を貨幣としたのは殷(いん)代であり貝は殷の民の貨幣だったという。これが青銅のコインが出てきてから貝の価値は低下した。貝をとりにきた殷代の人が沖縄の宮古島に定住して農耕するようになった。殷の人は商と称した、つまり商人として辺りにも知られていた。(沖縄の歴史と旅−陳舜臣)

銅のコインが出るまで貨幣の変わりとして通用していた。貨幣は金とか銀や銅の前に貝だったというのも不思議なことではない、マルクスの貨幣論を読めば貨幣になりうるものはいろいろあるのだ。だから最初の貨幣が貝であっても不思議ではない、石が貨幣になった例もある。実用的でなくても貨幣の役割をになうのだ。この貨幣の役割をになった宝貝は子安貝であり信仰とも結び付いて重要な貿易品となった。日本の銭が真ん中に穴が空いているのは財布などない時代、襟にかけていたのだ。これは玉や貝を数珠のようにかけていたのが習慣となり襟にかけるようになった。これは柳田国男の指摘である。確かにパスポ−トやカ−ドを首からつるすと一番安全である。置き忘れることもないからだ。だからこれは別にまじないとか素朴な時代の祈りとも関係なく盗まれない、また自らも忘れないようにするにはいい方法だったのだ。最初の貨幣『和同開珎』がまじないとして使われたと考古学的にも説明されるようになったのも貨幣は単に売買のためではなくまじないとして使用さられていたのだ。
「糸に吊るされた子安貝とマリア・テレサの銀貨との等価が毎週水曜日に市場で公示された」(人間の経済学)ボランニ−
子安貝は世界的に広まり重要な交易品となっていたことは確かであり宝貝を今のようにただ美しいからというだけでとらえることはできない、その広まる範囲が珍重された範囲が世界的だからである。

竹取物語の燕の巣からとろとした子安貝は九州の隼人を通じてもたらされた。隼人は大和朝廷に反乱する民だった。竹細工にすぐれている南方系の民で琉球弧の島伝いに移動した人達かもしれない、ベトナムは今でも竹の細工にすぐれている。竹が今でもいたるところに繁っている。竹の国でもある。銅鐸もあれも南方系でありベトナムには銅鼓というのがあり銅鐸と形がにている。泡盛も南方系なのだ。沖縄までくると台湾からフィリピンに東南アジアがかなり身近な存在になるのだ。それは海を通じて結ばれていたからだ。メコン河の観光のガイドが海へ流れる河口でここから日本に通じているというのもそれなりに実感を帯びたものである。メコン河をさかのぼるとアンコ−ルワットに行き着くからそうした一つの文化圏としてつながりを見いだすとアジアが一つだというときそれなりの意味を帯びてくるのだ。

船下りて貝を買いにき宮古島月の照らせし夏の夜去りぬ

那覇行きの船が2時間以上も宮古島にとまり下船できたので貝を買った。中国の殷の人が貝を買いに来たのが宮古島というのも不思議である。宮古の八重干瀬(やびじ)には、宝貝を産する、これは月頃に一回浅瀬になり珊瑚が海面に出るのが見られるので有名である。宝貝のとれる場所だったのか謎である。

http://www.ne.jp/asahi/ssd/calcium/kanji.htm
(貝の漢字の説明)

http://www.bekkoame.ne.jp/~hujino/no38/38matsuzaki.html
(ヒンドクシ−の宝貝)

http://uraken98.cool.ne.jp/rekishi/reki-sekai005.html
(お金の歴史)

http://www.inet.co.th/cyberclub/masakata/tm2.html
貝王子スト−ン(タイの民話)

引用が多くなったがインタ−ネットはリンクしてゆくと知識がリンクしてゆくからそれだけでも貝の世界をリンクして作品になるのだ。これは外国までリンクしているのだ。貝についての研究がリンクしてゆけばそれだけでも論文になるかもしれない、なぜなら知識は広大だから必ず個人で調べること自体足りないものがでてくる。貝に関心ある人がインタ−ネットでは知識や経験を出し合い貝のリンクを作り出そうとしているのだ。


貝という字はこの二つの貝をイメ−ジして作られた。他の巻き貝とかいろいろあるがこの二つが貝という字を作ったのである。他にも美しい貝はたくさんあったが貝の字を作ったのこの二つである。一つは食料として多い貝の形でありもう一つは宝貝でありこれはまさに貝の字そのものなのだ。宝貝には安産とか子安貝としての信仰がインド、東南アジア、中国、琉球弧、日本と幅広く伝播したものである。