見落とされた島々の歴史 小林勇一 (著作権者)
(太平洋ネシア連合の意義)−Asian united ocean
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いてくる
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である
宮沢賢治
インドネシア、ポリリネシア、ミクロネシア、・・・・ネシアはギリシャ語で島の意味である。なぜギリシャ語にしたかというとギリシャは島からなる国だったからだ。島と島を結び海洋国家となった。船を操り地中海沿いに植民都市を拡げた。ナポリとかニ−スとかはネオポリス、新しい都市というギリシャ語から来ている。そこではギリシャ神話の神の像やイルカなどのコインが発見されている。遠くはペロボネス海峡を通り黒海にでてオッデッセという地名も残している。オデッセの冒険談で島に漂流して数奇な運命に合うのも島があったから漂流しても救われたのだ。ギリシャ近海は点々と島が点在する、島で結ばれた世界なのだ。クレタの文明が最も古いというのもそれを示している。島はたいがい遅れているのが普通だがギリシャや地中海では島が文明の起源になっている。沖縄の島々も鉄器が入ってきたのが14世紀頃であり新しいのだ。それまでは木の農具を使っていたし原始的生活でもあった。
刀、鉾、弓矢、槍のようなものがある。そこには鉄が少なく、刃は皆薄、く小さい。多くは骨や角でこれを補っている。(隋書琉求伝)
この書が沖縄をさしているかはともかく鉄がないから骨や角で補っていたというのはリアルである。というのはこれは明らかに縄文時代から石器時代から鉄器時代に移るときにそうなった。石器時代と鉄器時代が一緒になってしまった。これがリアルなのだ。
古代はゴホウラや芋貝で腕輪を作った。螺鈿の材料となる夜光貝はこれを九州にもってゆき石の鍋を交換したとか石の鍋が重宝されたのも石をくりぬく鉄がないから石の鍋すらなかった。鍋というのも結構生活には重要なものであり私の町にも「鍋冠山(なべかんむりやま)」と鍋の形をした山があるのも古代に鉄の道具が入ってきて名づけられた古いものかもしれないのだ。ただ単に形が鍋ににているとも思えないのだ。
平安時代の10世紀頃、日宋貿易が行われ、日本の商人たちは交易品の調達に琉球に来るようになった。螺でんの材料となる夜光貝を求めてである。これと交換するために日本商人は長崎産の滑石製石鍋をもたらした。この石鍋は、沖縄の諸々の遺跡で発見されており、南は波照間島の遺跡からも出土している
この鉄が入り鉄の農具を使うことにより飛躍的に米の生産などが増加して城(グスク)が各地にできるようになった。鉄の農具により開拓も進んだのである。最初は日本本土と同じく水の豊富な山に田を作っていた。日本本土では県(あがた)である。次に下の沖積地に下りてきて田を作った。その時から水不足が大きな問題となりノロの女性が雨乞いすることが多くなったという。つまり米をとることが城(グスク)を作るほどの富を貯えることになりそれと同時に日本と同じように覇権の争いとなりしのぎを削る戦いがあった。最終的には首里城に決着した。あのグスクはその興亡を伝えるものである。近接してあることがその証拠なのだ。
なぜ女性が最初に日本本土でも「邪馬台国」でも神女として力を持ったのか不思議だがおそらく漁業中心の世界では男は海に出かけるとしたらそこで男の漁の無事を祈るのは女性である。女性が祭祀の中心となった。それとなぜか邪馬台国時代でも卑弥呼だけでなく女酋長が各地にいたのだ。みちのくにも与那国にも中央政府(首里城)に反乱を起こした女酋長がいた。女性が力を持っていたことがこれでもわかる。古代には男軍と女軍がいたのだ。古代の女性は逞しかったといえばそれまでだがそれだけではない、なんらかの社会的背景があったのだ。というのは農耕中心の世界になると男中心の世界となり権力構造が出来上がり女性は付属的存在となる。農耕は米は特に定期的に収入が入り税金となるので権力を安定的に維持できるが漁労社会は魚はいつでもとれるということがなく例えばニシンの盛衰のごとく定期的な収入とならないから安定的政権を維持できないのだ。
沖縄で不思議なのは歴史も実際は14世紀頃からしか正確にわかっていないことである。それでも無人島ではなく貝を食う縄文時代からやはり人は住んでいたのだ。しかしよくよく地図を見るとパラオとかミクロネシアとかインドネシアとかフィリンピンから台湾から沖縄の琉球弧というのは日本列島までつながっている。途中に実際は小さな島が点々とありその島づたいに行けば航海できるのだ。小さな島というのは見落とされている。これが盲点なのだ。与那国島から台湾までは百キロくらいでありなんとか大きな船でも島づたいに行けば航海できる。与那国島からも百キロくらいで波照間島とか西表島とかが見えてくる。島を目印として島を港としてポリネシアやインドネシアやフィリンピンからも日本列島まで来れる距離なのだ。これが意外と見落とされている。与那国島と最初に交流があった記録に済州島だというのもうなづける。島と島は結びあうのだ。済州島でも対馬でも島は中継地点として船が交通の主役の時は大事だったのだ。つまり現代人はこれを船で航海する機会がない、飛行機で行っているから実感としてわからないのだ。
「エ−ゲ海は静かな海でもなかった。夏の晴天の折でさえも、風が白波をたて航海を不快にするほどだった。それにもかかわらずいたるところに、この時代の小さな船を入れるにふさわしい避難場所があり、島と島の距離は島影を見いだすまでに一つの陸地を見失いほどのものであった。」(ポ−ル・オ−ファン−地中海の歴史)
「ここでは索具の用はなく、重りの石を海中に投ずることも、ともづなを結ぶこともいらず、ただ浜に船を乗りあげ、水夫達が船を出す気になり、順風が起こるまで待てばよい、港の奥では岩の下からわき出る清冽な水が流れその回りをポプラが囲んでいる。」(オデッセ)
これは私もイタリアからギリシャに行くとき船で経験したのだ。ものすごく海が荒れたのだ。イギリスの若者は吐きぱなしだった。そしてやっと雪の残るギリシャの山が見えたときは感激だった。エ−ゲ海も結構荒れる海だったのだ。しかし島があれば船が停泊するのに適した入江やちょっとした湾があればその島で水も補給して航海はつづけられるのだ。
例えば沖縄でもこれは同じである。
島影が水平線上に沈む距離までくると距離の単位になる。その距離を(島を座らせる、水平線上に沈ませる)、この距離を基準に一島座らせる、二島座らせるとか船乗り言葉ができた。(沖縄風物誌−中本、比嘉)
at a distance の距離である。島が視界の中に入っていれば安全なのだ。島が視界から離れると海に沈むと目印を失うから島からの距離を常に計っている必要があるのだ。これは船に乗れば素人でもわかるし島が頼りになる、目印しなることは海では必然である。エ−ゲ海では陸地を見失わないように常に島がある。それが太平洋とかアジアネシアの相違である。アジアネシアは地中海やエ−ゲ海からすると広すぎるから島と島が強く連結しなかったとも言える。しかしアジアネシアも確かに存在したのだ。
史書に記された「崑崙人」が来たというのもこれがベトナム、カンボジア、インドネシアなどとのつながりから考えられるし日本の古事記でも
淡路島。
次に四国。次に隠岐の島、そして、九州を生んだ。
次に壱岐の島を生み、対馬を生み、佐渡を生んだ。
次に、オホヤマトトヨカキヅ(大倭豊秋津島:本州)を生んだ。
この先に生んだ八つの島を大八島国と言った。
この後に、児島半島を生み、小豆島を生み、次に、大島を生んだ。
次に姫島を生み、五島列島を生み、男女群島を生んだ。
ここで不思議なのは本州を生んだあと、小さな島を生んでいることである。これは非常に小さい島である。小さい島は船の中継地点として重要だったのだ。五島列島まで入っているが奄美と沖縄がないのは沖縄と本土の交流が14世紀以降と遅かったこともある。ただ平安時代から言葉が残っているように本土から移住していたのだ。とにかく航海するとき小さな島も航海の目印として重要なのだ。だからよくよくポリネシアからインドネシア、フィリンピンから台湾のなかの小さな島についてはわからないし見落としている。これらもネシアの道として海の駅のごとく点々とある。こういうところには今はなかなか行けないし地図を見ていても見落としているのだ。九州から沖縄に船で行けばわかるが途中わかkらなかった島があることに気付くのだ。島というのは船で航海するものでないとわかりにくい、見逃すものなのだ。
とにかくこれは島伝いに航海して来た人達の息吹を伝えているのた。確かに中国の影響が大きいから中国中心のアジア史となるが日本の場合はやはりその最初はネシアを伝いネシア文化圏があった。それは過去のものかというと現代でも一つの文化圏、新しいアジア圏として歴史を構築する意義があるのだ。日本の戦争も大陸よりこの海をめぐる戦いに敗れた。アメリカにより海を制覇されて敗れた。日本が目指すべきは実はこのネシアの連合体だったかもしれぬ。大陸に進行したのは失敗だった。いづれにしろ太平洋ネシア共同体みたいなものの中心に日本が位置するのが将来的にも世界戦略としても地理的、歴史的に正当性がある。中国の台湾や海への進出を防止するものとなる。ただ問題はこれはアメリカぬきで今やできない、中国が分裂すればいいのだが今の状態ではアメリカに頼らざるをえないのがジレンマである。
賢治の詩のように「決せられた南の風」とは南から意を決して渡ってきた人がありそれが日本列島へたどりついた。日本の起源は南であり北ではない、海を渡ってきた南の人達である。大陸経由で来たのはそのあとである。言葉も南が起源なのだ。宮沢賢治というと北であるがこれがどういう経緯で書かれたのかはわからない、彼は南への志向でなく北の志向が強かったからだ。沖縄にも行っていないのだ。想像だけで書けるところがすごいのだ。今の詩人は世界の果てまで見聞できる。そこから想像して書くのと全然世界を知らずに書くのとは違うものとなる。いづれにしろ海と島はまだまだ未知の分野でありかえって海を盛んに利用していたのは古代よりさらにさかのぼる縄文時代だったというのもその古さを物語っている。海はまだまだ科学でもその他でも未知の分野なのだ。そもそもどうしても海を流れる潮流については実感としてわからない、風については実際に体で感じた。沖縄を一周して島々を船でめぐり海の風を十分に感じた。しかし潮流を感じることはヨットのようなものに乗ってみないとわからないだろう。普通は実感として体で感じないとわからないものが多いのだ。海の広さであり深さであれそれは知り得ないものである。もちろんこれを本当に詩にできるもきもいない、あまりにも大きなテ−マだからだ。
崑崙人
http://www.honeyfiber.com/otafukuwata/otafukuwata2.html