陸奥真野の草原の歌の謎
(草原は本当に萱原だったのか、その疑問を解明) 小林勇一


(かや)と読める字には、萱・茅・栢・榧・茆・葭・蚊帳・賀陽・加屋・高陽・賀舎・加悦・鹿谷・賀夜・加夜・可也・嘉陽などあり、草のかや・樹のかや、当て字のかやなどがみられる。

滋賀県の方言で入江のことを(かや)といい、滋賀県高島郡に栢という山村があるが、入り江ではないので、関係ないようである。

(かや)のつく地名

(イ) 栢森・・・奈良県高市郡明日香村大字栢森。近くの天の香具山の古墳から、伽耶より直行した伽耶式土器が出土している。 

東北の小高い森に加夜奈留美命神社がある。祭神はカヤナルミノミコト。飛鳥の産土神である、飛鳥坐神社の祭神も元は、加夜奈留美命であった。

(ホ) 茅野・・・佐賀県富士町。萱野・加屋野とも書く。萱野荘(草野荘)とも呼ばれ、草野氏が居住していた。

(チ)草野川・・島根県松江市。カヤノカワと読む。草と書いて(かや)と読んだ
(リ)萱原・・・三刀根町。草原とも書く。

研究課題
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陸奥の真野の草原というと単純に萱のなびく原と連想する、でも草原郷とか古代で地名化している。ここの摂津の萱野は明らかに萱が繁っている野ではない、野は国であり韓国のカヤの国があった所が萱野でありこの萱は当て字にすぎない、萱が繁っているから萱ではなくカヤ国のカヤをあてた字なのだ。草野というのもカヤノでありカヤの国の意になる場合がある。当て字だからまぎらわしいのだ。滋賀県の方言で入江を「カヤ」というのも不思議である。カヤというのには入江という意味がある。真野の萱原は必ずしも萱原とは限らないのだ。もしこのカヤが入江だとすると真野の入江の原となる。草は萱とは限らない、真野の入江の方が萱がなびいているより美しかった。入江の美しさを言ったのかもしれない、塩崎まで入江でありそこに市庭とか舟着とかの地名が残っている。その入江が印象的であったからカヤを使った。入江の原であり確かにそこに萱が繁っていたかもしれないが焦点は入江の方にあったかもしれない、日本はいたるところ入江が多かったのだ。カヤの人々は移住したときその入江近くに住んだ人が多かった。舟を作る技術などがあり港が住み安いわけである。草原は越前国の足羽郡の草原(久佐波原)になっている。草原と書いてカヤと読んでいない、一方但馬国の法美郡に大草郷があるがこれは於保加也(おほ
カヤ)とカヤがついている。カヤと呼ばれた所は単に草だけではないカヤの国の当て字かもしれないのだ。多分にそういうのが多いことは確かである。越前の足羽郡の草原郷は(久佐波原)にしているからだ。クサハラとカヤハラは同じ草をあてているのに違った意味になっている。草は臭いとなり夏草や青い草のことである。だから草が萱(カヤ)を意味しているかどうか疑問なのだ。ここはカヤの国の野だとか原だとか言っているかもしれない、確かに草原からはイメ-ジしにくいがカヤとするとそれは一様に植物の萱(カヤ)とは限らない、萱野とあってもカヤとつけばカヤの国のことが多いからだ。渡来人が移住して郷名になっていることが結構多いからそうなるのである。例えは伴野という郷名があるがこれは大伴の野であり大伴一族が住む野、国になる。大草(オオカヤ)はカヤ一族が住む野とか原とかなっても不思議ではない、野の場合はその傾向が強いのだ。武蔵国の崎玉郡に笠原郷があり次に萱(草)原郷とあり加夜波良、加也波良となっている。これは明らかにカヤとしている。
また原(バル)は九州地方に多くつけられている地名である。これは(夫余、高句麗、韓・・)など東夷の言葉で彼らの原住地をハン・バル(天、大光明、大原野)と言った。原はもともと騎馬民族系の言葉である。草原を駆けめぐる人達の国という意味があったのだ。草原(カヤハラ)はカヤの国となってもおかしくないのである。草原(くさはら)がむしろ日本人がイメ-ジするもので草原を(カヤハラ)とするのは不自然なのである。だから萱(カヤ)というとき万葉集では草(カヤ)の一字を使っている。草原(カヤハラ)と使っているのはここだけのように思う
。原というのは飛鳥地方にも多い。真神原、浄御原、坂田原、小原、川原、呉原、藤原とかある。ここで注目するのは呉原である。呉の国の原となることがある。原は小墾田の墾と同じように「治める」「平(な)らす」という意味で「野」ではなく早くから拓けた地である。だからこの原となった所に宮が置かれたのだ。だから草(萱)がカヤの国の原ともなりうる。

「原」地名の場合、「邑・郡」などの意を持ち「平」「坪」「評(こおり)」などを漢訳した場合も多くは原の文字を使用する。(古代地名発掘 池田末則)

野より原の方が拓れた国という語感であり草原というのも草(萱)ではなくカヤの国というふうになることもありうる。

明日香の真神の原に・・・・高麗剣 和射見(わざみ)が原の行宮(かりみや)に・・・百済の原ゆ・・・
(柿本人麻呂-199)


これなども原というのは人の手によって拓かれた地でありそこに宮が置かれた。百済の人が拓いた土地は百済(が)原となり呉の人が拓いた土地は呉原となり賀陽(カヤ)の人が拓いた土地は草(カヤ)原となりうるのだ。萱だけを協調すると萱(カヤ)を刈るとして一字になっているからだ。こうみると原の方が野より人の手によって拓かれた地だから国の名前とか一族の名前とかつきやすいことになる。

須々岐神社(長野県)

須々岐水神(すすきのかわかみ)を祀る。
すすき川上流の明神平に奥社があり、ススキの葉の舟に乗って川を下った。

八龍の地に上陸し、古宮に社を設けたと伝承される。ススキの葉は川岸で擦れ片葉のススキとなって、今も神社境内に残ると言う。

針塚古墳は積石塚でケルが住んだと思われる薄町(すすき町)地籍あり、須々岐水神社(すすき神社)がある。一帯は北アルプスを望む景勝地。薄川(すすき川)の扇状地で、古くから稲作が発達していた。


このススキは製鉄と関係していた。川岸で擦れて片葉のススキとなったとか葦となったとか真野の入江にも残っている、あそこで大規模の製鉄遺跡がありカヤとかススキが製鉄と関連している可能性がある。普通日本人の感覚ではススキを姓にすることはないからだ。何か製鉄に関係して名付けたのかもしれない、草(カヤ)原となったのも真野の地域が一大製鉄地域の関係で草原(カヤハラ)となったのであり必ずしも草原(カヤハラ)がなびく地とはならないのである。渡来人の名前は二百年後くらいにようやく日本名に変わっていったという。なぜ薄という姓にしたのかこれも不思議である。そもそも薄をそのまま姓にするという感覚がわからないがこういうことがあった。だから草原(カヤハラ)というのも姓か名前かもしれない、真野とあってもそのあとに渡来系の名前が残ることがある。真野草原氏という姓なのかもしれない、それが地名化することもありうるのだ。古代にはそういうのが多かった。大伴の伴の一字が伴野とか地名化しているのだ。だから渡来系の人の姓が地名化することがありうる。百済野などもそうであり賀陽(カヤ)の国の原があっても不思議ではないのだ。

『日本書紀』には、安閑天皇元年(534)に、武蔵国造の地位をめぐって争いがおこったことが記されています。、武蔵の国造の地位をめぐり、笠原直(カサハラノアタイ)使主(オミ)と、同族の小杵(オキ)とが争ったのです。
オキは現在の群馬県にいた豪族、小熊(オグマ)にひそかに援助を求めました。これを知ったオミは、逃げて大和の朝廷へ行き、ことの次第を報告して支援を求めました。その結果、オキを殺して、オミが国造となることができたので、朝廷へ「横渟」(現在の吉見町付近か?)をはじめとする四カ所を、朝廷の直轄地として献上しました。
 「笠原直」の笠原は、武蔵国埼玉郡笠原郷、現鴻巣市笠原の地名に由来する説が有力です。この武蔵国造の代々のお墓が、さきたま古墳群と考えられています。

笠原というのは大和朝廷川についた人物でありオキは毛野国側に援助を求めた。大和朝廷は大伴氏とか中臣とか蘇我とかであり毛野は物部氏が先に入っていた。蝦夷とは大和朝廷に抵抗したものであり別にエミシというものだけではなかった。ここでは物部氏と毛野氏の争いらしい、物部が大和朝廷に助けを求めた。その後物部が毛野国へ勢力を伸ばしていった。この物部もやがて大伴氏とか中臣(那加)氏とか中臣から藤原氏と勢力図が変わっていったのだ。だからなぜ笠原の次に萱(草)原とあるのか陸奥の真野の草原とはここの郷名の移動であり真野の地域の萱(草)原という場所なのだ。ここには太田という地名もあり原町の中心は実は太田なのである。だから草原というのも武蔵国の同じように地名かもしれないのだ。太田があり草原があるからだ。荏原郡に桜田郷があり桜田山がある。安房国の安房郡にも太田がある。これも別に大きな田があったから太田というのではなく単なる太田に住んでいた人が移住したから太田と名付けた場合が多いのだ。

武蔵国

荏原郡

桜田→鹿島町桜田山

埼玉郡

太田→原町市太田
笠原郷→加佐の国
萱(草)原(加夜波良)→加夜(カヤ)の国→鹿島町真野


だから草原も武蔵国の埼玉郡からの移動地名かもしれないしそこに笠原氏というのが関係していた。これも備前の笠氏は関係あるかもしれない、笠間というのも常陸にあるからだ。萱原(草)原は笠原と並んで急(旧)本に記されていた。埼玉古墳群から発見された稲荷山鉄剣銘の(裏文)に其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人とあり加差披余(カサヒヨ)が笠原になった。この加差は加佐の国のことである。加差→加佐→笠になった。笠原ではなくカサヒヨでありこのヒヨは名前なのだ。

この笠原とは加佐の原でありあとに出した韓国に多い加佐の国からの移住した人々が名づけたこともありうる。太田-笠原(加佐)郷-萱(草)原は明らかに一つに結びつく、もし笠原郷が加佐の国を意味していれば笠女郎と結びつく、笠氏の一族から直接に陸奥真野のことを聞いたのである。だから草原(かやはら)は埼玉からの移住地名であり草原(かやはら)がなびいていたとは限らないのである。毛野国と大和政権の対立のなかで千葉県や茨城県、福島県と大和政権が進出してきて陸奥の真野郷がその基点となったからこそ大和に奈良に知られるようになったのだ。その中に明確に渡来人のカヤとかカサがかかわっていて草(萱)原という地名が移動したのであり草原がなびいているとは限らない、草(萱)原という郷名の移動なのである。その中で船がなんらかかかわっていた。

埼玉の津にをる船の風をいたみ、綱は絶ゆとも、言な絶えそね     

この津から船で移動してきた一群がいたかもしれない、そして船木郷というのがありこれは伊勢船木氏と結びついている。船の技術をもっている一団の移住があった。

笠朝臣麻呂の歌に

筑紫観世音寺造りの別当(かみ)沙弥満誓が歌一首

鳥総(とぶさ)立て足柄山に船木(ふなき)伐り木に伐り去(ゆ)きつあたら船木を0391


船と関係した歌が残っていてそれが譬喩歌の中に笠女郎と並んで存在していることは重要である。これもなんらか深い意味、つながりあって組み合わせられたのだ。ただ訳もなく並べたのではない、これら一連の歌は密接な関連があり並べられたのだ。笠氏は船を作る技術をもった人とかかわっていた。真野の入江に船で来たというとき草(萱)原のカヤが入江を意味するというときこうした一連のもののつながりがてでてくるのだ。

六世紀以降、土饅頭や横穴古墳、つまり朝鮮式の群小古墳が目立ってふえてくるが、これは渡来人系の新興の有力農民層の家族墓である。東国にもこうした群小古墳群多く分布しているがこれは東国に移住する渡来人系の氏族の数が増し、彼らの勢力が伸長した事実を物語っている。

彼らは農耕集団であり武力集団であり騎馬集団、であり航海、水軍集団であった。装飾古墳がそれを物語っている
(永岡治、古代東国物語)

真野の入江の山にはこの横穴古墳が多いのだ。つまり渡来人が入江を中心に住みそこに家族墓を残したことも考えられる。渡来人が技術者として蝦夷征服、東国支配に深くかかわっていたのだ。もし真野の入江に入ってきた人達が渡来人だとすると草原(カヤハラ)は単なる草原でない、カヤの国の原となる。武蔵野笠原氏とはあの稲荷山鉄剣とともに葬られた人物だともされるから笠原氏はカサの国の系統が交じっていたし毛野国が支配していた陸奥真野に武蔵国から派遣されたのかもしれない、ともかく関東には渡来人が集団で移住した。その一団が陸奥真野の入江に船で移ってきたのかもしれない、太平洋は無理だという説があるが常陸辺りは深い入江があり霞ヶ浦は海とつながっていたし磐城には大きな船の残骸が発見されたとか入江伝いに点々と来ればヤハな船でも可能かもしれない、シ-カヤックで日本一周した人がいたりと意外とヤハな船でも沿岸伝いを船できているのだ。沖縄で西表島をカヌ-で一周した人は途中キャンプして貝を拾って焼いて食ったというから驚きだ。カヌ-の一番の危険は潮に流されることである。だからかなり海岸沿いから離れないように慎重に行かないと潮に流される。だから入江が必要なのである。その入江が日本には多かったのだ。いたるところが入江だったのである。いづれにしろ船の入る入江で真野は知られたのだからそう考えざるをえないのだ。現実太平洋沿岸には馬や船を描いた装飾古墳があるのは九州系統の装飾古墳と一致しているからこうした武力集団が先達として入ってきて在地の毛野国に割り込んできた。そのあとに大和の政権が和邇氏系統の小野とか真野とか大伴氏とか阿部氏もそうなるのかともかくこの装飾古墳系の一団も大和政権に組み入れられた。真野の入江の草原(カヤハラ)郷が最初にあった郷であり次に大和政権が入ってきてこの装飾古墳系の一団が大和政権に組み入れられ毛野が支配していた蝦夷地域は大和政権の配下になった。草原郷→真野郷と移行したのである。
霊亀元年(715)相模、上総、常陸、上野、武蔵、下野六国の富民を陸奥に配し
天平9年(737)常陸、上総、常陸、上野、武蔵、下野の騎兵千人を陸奥へ派遣し

陸奥の真野の笠女郎の歌が750年とされるとありその頃盛んに陸奥に武蔵からも兵が派遣されたり開拓のために渡来人や金属精錬の技術者が派遣されたりと人の移動が激しかったのだ。その陸奥征服への基点が真野だったのである。

毛野→物部→(装飾古墳系、渡来人)→草原郷(笠原郷)(阿部氏)→真野郷(大和政権)


この順序で寺内の前方後円墳の主に金銅双魚佩が大和政権から与えられた。阿部氏はこの装飾古墳とかかわっていたという説がありつまり阿部氏にこの装飾古墳系の人達は大和政権に掌握されたのだ。稲荷山鉄剣銘の乎獲居(オワケ)」は「杖刀人首」として、近衛府の長官のような役割を果たし、天皇を護衛しており、400年代の埼玉県周辺は、朝廷に服属していたことがわかる。これは阿部氏であり装飾古墳系の人達は阿部氏に服属するようになったのだ。装飾古墳系の人達はかなり早い時期に真野郷に入り基盤を作っていた、そこに阿部系統の埼玉郡の笠原郷や草原郷が移行された。ただこの所はまだかなり謎である。装飾古墳は謎が多いのだ。このように真野地域でも勢力争いがあったのだ。



また不思議に当時の植生とも気候とも一致していることである。次の図を見ればわかる。


弥生時代前期(2200年前)の植生 安田

この図でも植生というのが大和政権の進出に影響している。毛野王国が支配した地域は落葉広葉樹林帯で森が深く開拓しにくかった。そこには焼き畑とか狩猟とかを生業とする人達が住んでいた。だから不思議に武蔵国とか上総とか下総とか常陸から海岸沿いに陸奥真野まで大和政権とかが進出しやすい開拓しやすい場所だった。陸奥真野が車輪梅の南限の地だとか珊瑚の化石が発見されたりとあたたかい地域だった。気候と歴史が一致しているのだ。稲荷山鉄剣が発見された埼玉古墳群もそうした気候的条件で開拓しやすかったから大和から来た人達と従来の毛野王国支配のものと争いとなった。つまり武蔵国→上総、下総→常陸→太平洋海岸線は開拓しやすい場として結ばれていたのだ。この辺がまた装飾古墳が多いことでも一致している。その人たちは騎馬にたけ船の操作にたけた人達だった。その人達が九州の人達だとするとどうしてここまで来たのか謎になるが当時の政治状勢が磐井の反乱とかが関係していたのかもしれない、船の操作術にたけていればこの地域は入り安かったのである。福島県でも中通りでも安達太良までが万葉集に残っているから大和政権に奈良に知られた境界線だった。

なぜまたここにこだわるかというとどうしても草原を萱原としたときそんな荒寥とした地域を一女性が面影に偲ぶまで想像するだろうか、恋の歌だとしたら詫馬野の紫草は女性的だから「紫草にほえる・・・」とかイメ-ジする、この歌は染める紫草ではなく紫色の花に重点をおいたから紫色した花を紫草と言った。では草原(かやはら)というのは東北のイメ-ジにはぴったりなのだが果たして女性が思うものとしては余りにも荒寥として恋の歌にはふさわしくないのだ。また誰かに聞いたとしても「陸奥真野は草原(かやはら)が一面になびく美しい所です」などと教えるのか?むしろ陸奥真野の草原という入江の地域が我々の手によって拓かれました、そこは大和の国の基点となりました。その入江は美しい所ですとか伝えるのが普通である。草原(カヤハラ)が美しいとか伝える美意識がその頃ない、草原となっているからかってに想像してしまったのだ。また草原(カヤハラ)になっている所は日本全国でめずらしくないから陸奥真野だけがとりたてて草原(カヤハラ)として印象に残る面影に残るほどに美しい場所とするのは不自然なのだ。

草野、萱野という言葉は日本ではひんぱんに使われている。しかし草原となると原だから広大な感じになる。広く平らな地域が想像される。野と原ではかなり感じが違う。ノハラはノは傾斜地でハラは平らな処だから日本にはノハラとなる地形が多いが一面に萱がなびいて原になっている地域が少ない、山が多いから傾斜地の野が多くなるからだ。草原と表現したことは珍しいのである。屋根にふく萱は萱野とか萱場とか山でとっていたのである。そういう地名が山に多いのだ。だから草原となるとモンゴルの草原のようなものをイメ-ジするのだ。だからここで草原(かやはら)と表現したことが問題になるのだ。笠女郎の歌は非常に繊細な歌が多い、平山の小松、夕陰草とかかなり高官の大伴家持に遠慮しているのた。


君に恋ひ甚(いた)もすべ無み奈良山の小松がもとに立ち嘆くかも(万4-593)

我が屋戸の夕陰草(ゆふかげくさ)の白露の消(け)ぬがにもとな思ほゆるかも(万4-594)

夕されば物思(も)ひ増さる見し人の言問ふ姿面影にして(万4-602

伊勢の海の磯もとどろに寄する波かしこき人に恋ひ渡るかも(万4-600)

相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後(しりへ)に額(ぬか)づく如し(万4-608)

剣太刀(つるぎたち)身に取り添ふと夢に見つ何の徴(しるし)そも君に逢はむため(万4-604)



伊勢の海の磯もとどろと伊勢の海のことは聞いてこのように譬えで表現した。伊勢の海は荒い海だと知られていた。では陸奥が草原として知られていたのか草原なびくところとしての陸奥だったのかそのような認識が大和の人々にあったのかどうかここが定かではない、紫草は明快であるが草原に関しては不明である。萱野とか草原は大和だろうがどこでも秋になれば見かける風景なのだ。古代は今とは全然違う一面に萱原なびく風景はいたるところにあった。珍しいものではない、だから陸奥といえば草原になるのか?そこが疑問なのだ。それも陸奥の真野という非常に狭い地域が草原として象徴されるものなのか、詫馬野は紫草として象徴されることは明らかである。しかし陸奥の真野が草原として象徴されるのか疑問なのだ。ともかく身分が高い人との恋は禁止だった。身分がもの言う時代だったから余計にそうなのだ。当時は身分の故に憧れるということがあった。それも最高の高官なのだ。剣太刀でも立派なものを身につけていたのである。

また不思議なのは草野姫神を祀った所が金銅双魚佩が発見された古墳の下にありあそこが真野郷の中心地域となった。とすると草野神とはカヤの国の神ともなりうる。ここに書いてあるように草はカヤであり野は国のことだとあるからだ。そこに笛が収められたという。この笛は横笛でありこれが福島県玉川村江平遺跡から発見された。この笛は祭りに使われていたし真野首(まののおびと)という人は芸能を韓国から来て伝えたとかあり芸能も韓国(カラクニ)から入って来たのだ。芸能は今のように娯楽ではなく祭事に必要だから価値があった。真野郷でもそうだが古代は渡来人がかかわる率が大きかった。なぜかというと芸能であれ技術をもった人が渡来したからである。服部(はっとり)とか衣服でもそうだし池を作る技術者は道守(みちもり)とか金属精錬技術者や黄金をとる人々とかそういう技術者集団だったから重きを成したのである。大和朝廷の軍を悩ませたものに土蜘蛛とか土着の勢力があった。


黒鷲、神衣姫(かむみぞひめ)、草野灰(かやのはい)保々吉灰(ほほきはい)、阿邪爾那姫(あざになひめ)、栲猪(たくい)、神石萱(かむいしかや)、狭礒名(さしな)陸奥国・八槻(福島県東白川郡棚倉町)

灰とでてくるからこれは焼き畑を営んでいた人達である。栲猪(たくい)は詫馬野(詫馬野)とか栲衾新羅国のように白い色であり白猪のことである。タクというのはコウゾの花として万葉にものっている。白い衾
とは真床追衾 (まとこおふすま)、これは天皇になる儀式である。白い衾につつまれ天皇の霊を受ける儀式なのだ。新羅にかかるからこれは新羅から伝わったものになる。これは北方の遊牧民の儀式であり新羅に伝わったのだ。他に赤衾とか青衾とかもあるから白い衾は天皇になる儀礼の衾で特別神聖なものだった。それぞれに神社があり衾田の道とか奈良にあり万葉の歌も残っている。衾郷というのもある。
東和町に白猪森とあるのもこうした人達が抵抗したのかもしれない、ただ神石萱は不思議である。カヤとあればカヤの国の人ともなるからだ。ここにもすでにカヤの渡来人が入っていたかもしれないのだ。蝦夷のなかに物部氏が入っていたり渡来人が入っていても不思議ではない、蝦夷とは大和朝廷に逆らう人の意でありいろいろな人がいても不思議ではないのだ。

例えば大伴家持の従者の余明軍もそうだし滋賀郡に真野郷があり並んで大友郷がありここに大友村主(すぐり)という有力者が住んでいた。天智天皇の母がこの人の娘だったか中央に影響力があった。
母は、百済系の渡来人大友村主の娘との説を採っています。近江に都を遷したのも大友村主の本拠地だからという説です。


つまり天智天皇のさざなみの志賀の都は大友氏が近くにありそれを支えとしていたとするとかなりの勢力があったのだ。大友村主(すぐり)のスグリは韓の国の言葉である。それが真野郷の近くにあった大友郷である。また常陸国の久慈郡には真野郷と神前郷があるが滋賀郡には神前(崎)郡がある。那賀郡に朝妻郷があり近江の坂田郡に鍋冠山祭りで有名な朝妻郷がある。こうした地名は移動している。一気に陸奥まで来たのではなく途中にその移動地名を残しているから近江辺りの真野なのかどうかは別にしてなんらかの人々の移動の跡なのだ。特に古代の郷名は有力な証拠になる。

讃岐の那加郡に良野(吉野)真野郷があり行方郡にも吉名郷と真野郷がある。吉野と吉名はにている。物部吉名と言う人がいたからこれから名をとっている。安芸国の佐伯郡に山懸(やまがた)郡に宇岐郷がありこれは山形県の置賜(オキタマ)郡と関係があるのか置賜は浮田だという説がある。佐伯郡蝦夷を捕虜として捕らえて移住させた所とあり山形県から移してここに郷名となっているのか不明だが宇岐郷があり物部系が移ってきているのだ。陸奥国の信夫郡に安芸郷がある。九州にも宇岐郷があった。これは物部系統であり物部が先行して存在した。そのあとに大伴一族が勢力を延ばしとってかわったのである。不破郡に大部(大伴郷)と真野郷がある。常陸国の鹿島郡に中村郷と松浦郷がある。これはセットになり移動しているのだ。白髭というのも大伴氏に従属した部民らしく渡来人なのである。白髭は真髭(まかみ)となり真壁(まかへ)となる。そして行方郡には真野郷があり真郷(マカ)という郷があった。これはおそらく白髭→真髭→真壁と変化した真髪のことだろう。渡来人の郷がここにあったということなのだ。勝とつくのも勝部(すぐりべ)のことであり渡来人の集団が作った部であり郷である。鹿島町栃窪の勝子橋はなんとよむかわからないが勝とつくのは渡来系なのである。唐神とあるのも唐の神であり渡来人系が祀った神があった。古代郷名で辛家(韓家)、辛科とか勝部(すぐりべ)、辛犬郷まであった。韓の犬まで来ていたのだ。犬まで連れてきているのだ。だから馬も連れてきた。カヤとつくのは渡来系である。カラとかカヤは同一の渡来系の言葉である。韓家というのは韓人の家があるからそうなった。これが九州に多いのも納得がいく、高麗というのは関東周辺に多い。カラとかカヤとかつくのが多いから草原のカヤがそうした渡来人系統のカヤを意味している場合があるからカヤは一概に萱(カヤ)とは言えないのである。これが陸奥の真野の草原がカヤと関係しているとするとそこに笠氏がいて賀陽の国があったということは笠女郎は笠氏の娘であり譬え歌に笠氏の沙弥満誓がいるということはつながりがでてくる。譬え歌に出ていた人は笠氏と笠女郎と何か深い関係かあるのだ。笠原は笠がついているし笠系統なのか笠間というのもある。


常陸国真壁郡は物部一族の大売布命の後裔、久自国造(常陸国久慈郡を領域とする国造)の一族白髪部(のち真髪部と改姓)が開発した地域であった。」

ここでは物部一族と白髭が結びついているが大伴、真野郷と渡来人の結びつきが強くセットになって移住してきているのだ。物部と磯部も組になって移動している。一体となり郷名は移動していることが多いのだ。備中国の都宇郡に真壁郷があり辛人里とありこれは明確に韓人であり真壁は韓人の里であった。行方郡のは間違いなく真(髪)か(真壁)であり渡来人の郷だった。安房国に伴部とあり大伴郷白髭部がある。大伴に従属して白髭部があったのだ。上総国に馬野とあるが真野でありこの辺に小野真野氏が国司ではないが朝廷から派遣されている。山辺郡に草野とあるがこれもカヤノでありカヤの国と関係して名づけられた名前かもしれない、草野は当て字であることがあるからだ。武射郡の片野は明らかに河内国の交野である。

讃岐の満濃池(真野池)は渡来人が作った池かもしれない、こうした大規模な工事は渡来人が請け負ったのである。最初は百済王敬副とか百済を名乗った人がいた。後に大伴氏とかに従属するようになり大伴姓になったのである。今でも李とか朝鮮名を名乗っているのは百済か新羅の子孫であるという誇示がある。古代においては技術者集団であり文化的優位な面があったからそうなったのであり現代はむしろそれがないから問題なのだ。古代では技術集団だから大和に来てもこの人たちは優遇されて重きを成したのである。金銅双魚佩は渡来人の技術者集団が作り配られたものかもしれない、これは韓国にもあり一つの魚であるがさらにこの魚佩は遊牧民からもたらされたらしい。海の魚ではなく河の魚であった。いづれにしろ古代は深く渡来人がかかわったことを考慮せねばならぬ。

宰帥大伴卿(大伴旅人(の大納言に任(め)され、京に入らむとする時、府官人等、卿を筑前国蘆城駅家(あしきのうまや)に餞する歌

韓人(からひと)の衣染(そ)むといふ紫の心に染(し)みて思ほゆるかも(万4-569)

からあゐ  韓藍・辛藍・鶏冠草は鶏頭の花でありカラとつく言葉が多いのもカラの国の色に染まっていたからである。明治から戦後のアメリカからと日本は欧米一色に染まったように古代は韓国の色にそまっていたのである。紫というと韓人が使っていることが目についた。だからこの紫草を使って染める技術そのものが韓人によって伝えられたのである。紫草という植物もその当時稀少だったから九州からわざわざとりよせて収めさせた。だから詫馬野はその稀少な紫草をとれる所として都の人に知れ渡り記憶された。紫草のにほえる標野とは紫草がとれる所だからその花を守っている野守がいた。紫の色を帯びた衣をつくることはまた天皇の権威として必要だったから珍重された。紫の衣を着ていればそれは東西で同じように権威を象徴するものとなったのだ。それは下々の着る衣服ではなかった。だからそれは一段と鮮やかに映えるものだった。その当時現代のような色の氾濫はない、紫の色はかなり目立つ色だったのだ。

では陸奥の真野の萱原とはなぜ都の人に知れ渡ったとすると草原がなびいているだけだったらそうなるわけがない、草(カヤ)は入江でありそこに舟があまた出入りする入江でありその入江が美しいから伝えられた。そこに曽我舟のソガはさかのぼるという意味でありここを絶えず舟がさかのぼったから名づけられた。確かに船が
真野の入江の奥深く入る地域なのだ。そんな地名が残ること自体不思議であり舟の出入りがかなりあったのだ。その頃船なんか太平洋は浪が荒くできなかったともなるがでもただ草原だけがなびく荒寥たる地域だけだったら都の人が面影にまで偲ぶ地とはなりえない。何かまた他に別な要素があった。それが入江の美しさであり船が出入りする場所であり他に何かあった。有力なのは武蔵国の萱(草)原郷の郷名の移動である。地域名であって必ずしも萱をさしてはいないのだ。紫草だったら匂うとか色に出るとかなるが草原に関してはどういう状態の草原なのかわからない、なびいているのか淋しいのかただ固有名詞のように住所のように使っている。陸奥真野郷字草原・・・のように住所のような表現であり一面に草原がなびくということを想像するのだが実際使用した側は単にその場所を言っているから固有名詞のようにその場所を指摘したのである。万葉集でも草(カヤ)という一字で使っているのが多い。草原(カヤハラ)という表現では使っていないしそうした光景も少なかった。草野という表現はあるにしても草原(カヤハラ)という表現は余りないように思う。草原(くさはら)がむしろ日本人がイメ-ジするもので草原を(カヤハラ)とするのは不自然なのである。だから萱(カヤ)というとき万葉集では草(カヤ)の一字を使っている。草原(カヤハラ)と使っているのはここだけのように思う。
(奥山の磐本菅(いはもとすげ)を根深めて結びし心忘れかねつも)
では磐本が地名としてもその根を深めて結ぶという具体的な情景がを歌っている。紫草にしてもそうだし他もそうである。真野の草原の場合は草原がどういう情景なのか浮かんでこない、ただ草原という固有名詞、住所のようにしか記されていないのだ。そうすればむしろカヤの入江となり何かその方が面影にして見ゆというのにあっている。ある美しい印象に残る光景、場所のことであり萱が一面になびいている原ではない、印象に残る場所をさしていたかもしれないのだ。


 我が背子は仮廬作らす草(かや)無くば小松が下(もと)の草(かや)を苅らさね0011

 大名児を彼方(をちかた)野辺(ぬへ)に苅る草(かや)の束(つか)のあひだも吾(あれ)忘れめや0110

 葛城(かづらき)の高間の草野(かやぬ)早領(し)りて標(しめ)指さましを今し悔しも1337

 紅の浅葉の野らに刈る草(かや)の束の間も吾(あ)を忘らすな2763

 み吉野の秋津の小野に刈る草(かや)の思ひ乱れて寝(ぬ)る夜しそ多き3065

 川上の根白高草(ねじろたかがや)あやにあやにさ寝さ寝てこそ言に出に3497しか

 岡に寄せ我が刈る草(かや)のさ萎草(ねかや)のまこと柔(なご)やは寝ろと言(へ)なかも3499

 天なるや神楽良(ささら)の小野に茅草(ちかや)刈り草(かや)刈りばかに鶉を立つも3887


万葉時代の草(かや)をどんなふうにみていたかというと仮廬を作る草(かや)であり苅る草(かや)であり草といえば刈るとなる。草(かや)は実用的なものとして生活に使うものとしての草(かや)だった。草野(かやぬ)というのがあるがここに一つしかでていない、草野という地名は多いが万葉には草をカヤと読んで野とした草野は一つしかないないのだ。草野はたいがいクサノとしか読んでいないのだ。草野(かやぬ)は一つしかないということは草(かや)というのは刈るものであり一面になびいて美しいなとか忘れられない光景だとかいう美意識は生まれていなかったのだ。茅草(ちかや)のチは千という意味だから一杯繁っているという見方があった。これも原という見方はない、原となるとかなり広い見方なのだ。管というのも笠にするとかの実用的なものとして見ることが多かった。菅原とはあるから菅の方が原としてし見ている。根白高萱というのは根が白い高い萱となるがこれも一面になびいているというより一部の草(カヤ)なのだ。一面に繁っているとなると葦原のような光景、葦の方が多く歌われている。それでも葦原と歌っている原とついているのは一首である。

葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす

葦原の 瑞穂の国に 家無みや また帰り来ぬ

葦原の 瑞穂の国に 手向(たむけ)すと 天降(あも)りましけむ

葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国


草原はないが葦原はこれだけあった。葦原郷も一つあった。日本は葦の繁る入江水辺がと多かったのだ。それにしても草野(かやぬ)が一つしかないことなど草原(カヤハラ)と表現することは万葉時代には一首しかないし草原(かやはら)というように見ることもなかった。葦原はあっても草原(カヤハラ)はなかったのだ。つまり草野(かやぬ)と見るの一首なら草原(カヤハラ)と表現することはまれだしありえないとさえなる。それもまじかに見たものではない、想像したものとすると草(かや)は刈るものとしてしかその頃見ていないのだ。だからそういう発想をすることがありえるのか大きな疑問なのである。

マは美称でその土地の由緒あることを伝え、その土地の良い土地として称える語、それが真野である。(吉田金彦)

いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ (巻3・283)
いざ子ども大和へ早く白菅(しらすげ)の真野(まの)の榛原(はりはら)手折りて行かむ(万3-280)

真野の枕詞は白菅である。水辺に生えるものだが萱とはかなりイメ-ジが違う、その葉や茎をミノや笠にした。笠というと笠氏が関係していたのかとも思う。笠氏は笠とは関係ない、カサという字があてられていた。丹波国に加佐(笠)郡があった。この加佐郡に志楽(シラ)郷がある。これは新羅だから笠氏は新羅系だったかもしれない、だから笠朝臣が筑紫の観世音寺の別当沙弥満誓となって筑紫で新羅と貿易にたずさわり綿を仕入れたという設定も成り立つのである。笠とあれば笠をイメ-ジするように当て字になると全然違ったものになる。笠氏は笠ではない、加佐なのだ。カヤというのもだからまぎらわしいのだ。このカヤというのは山に一面に生えてなびいているのが多い、山には萱場があり萱は山でとり屋根などにふいていたのだ。

近江の真野には御真津日子訶恵志泥皇尊(みまつひこかえしねのみこと)祀られてをりこの御真津が真野になったらしいと吉田金彦氏は言っている。
五代孝昭天皇が「御真津日子訶惠志泥命(みまつひこかえしね)」であり鹿島町の行方郡の浮田国造は崇神天皇五世の孫とある。志賀高穴の宮とあるから滋賀県である。そこに宇岐(ウキ)郷があり物部氏の神社祀られている。この真津が真野の起こりだとすると天皇の名が起こりであり地形とか関係ないことになる。この系統に(春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高君、壹師君、近淡海国造の祖)がいる。真野氏という姓は春日小野真野氏となり小野氏などに吸収された。

加佐は韓国に地名が多いことは驚きである。これを調べた人がいた。(兵庫の地名、落合信彦)


この著の説で面白いのは神奈備(かんなび)山はカンナベ(神鍋山)だという、鍋ににた山であり鍋を作っていた製鉄集団がいたとか近江の坂田郡の朝妻の鍋冠山に通じるものがある。鍋を作る集団がいた。それで神鍋山となった。

ともかく古代は渡来人の影響が大きかった。天皇自体が韓国から移住してきたというように渡来系が大和の国造りに大きな役目を果たした。だから草原(カヤハラ)のカヤも渡来系の移住があったとしても不思議ではないのだ。陸奥の真野のカヤ(カラ)の人の住む草原(入江)は草(カヤ)の地はは面影に偲ぶほど目に浮かぶとなる。そこには親しい大伴家持が蝦夷を平らげるために行った。萱がなびいている植物ではない場所をさしている。それは武蔵国の移動地名だからだ。移動地名は単にその場と関係なくつけられる。北海道の伊達町とか広島町なんかも全然のその場景色とは関係ないのである。この混同が古代の地名にもおきやすいのだ。

このカヤにこだわると笠朝臣の出の備前のカヤが笠女郎の出であり父親は笠朝臣でありだから譬え歌のなかに沙弥満誓(笠朝臣麻呂)と並び笠女郎の歌がでていたのである。これは深い因果関係がありのせられたのだ。この筑紫の沙弥満誓から詫馬野(たくまの)郷の紫草のことを教えられ歌にしたことは想像がつく、この一連の歌の中にあることは有力な証拠であり近江の笠氏や米原の詫馬野は紫草と関係あるのかどうかわからない、そこは入江村とあり入江だった。そういう所には紫草は生えない、高地に生えるし紫草はその頃か稀少だった。蒲生辺りの高地には生えていてのだ標野として野守に守らせていたのかわからないが平地や入江には紫草は生えない、やはりカヤの国の人々が入ってきた備前が有力である。ただ詫馬野と陸奥の真野はなんらかの関係があり並べられた。それが何なのか詫馬野(真野)、真野という地名の共通性によるからであろう。この真野がどちらも非常に遠いということがポイントである。そこにかえって歌の魅力が生まれた。岩本菅は近いのにあっている。しかし想像するのは遠い所がより効果的である。笠女郎の歌には地名をよみこんだのが多いというのは確かであろう。

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