晩秋韓国紀行 小林勇一
下関から韓国に行く船の中だった。
韓国語で話合っている人がいた。一人は日本人に通訳をしていた韓国人だった。
「私は戦争中、韓国の上等兵に仕えて戦いました」
「・・・・・・・・・・・・・」
比較的若い韓国人が隣の中年の韓国人に通訳している、その人は京都の山科の人と言っていた。その三十代の韓国人とは会社で取引があるのか何かわからないが通訳の人は隣の人にしきり伝えていた
そこで私は思いだした。戦争に参加した人は韓国も日本人も人種差別なく同等に扱っていたと。だから軍隊では差別なく能力があるものは幹部になることもできた。一方階級社会であるイギリスやヨ−ロッパはアジア人を同等の人間とはみていない、人種差別があり人間とみなさず軍隊でも幹部にするようなことはない。日本人は韓国人もアジア人も同じ日本人にしようとしたのだ。そこが創氏改名とかその他神社を建てるなどで反発をくらった。日本人はそもそも異民族にどう対処していいかわからなかったのだ。天皇というのはそういう異民族を一つにまとめるためのものであったが外国では通用しなかった。蝦夷というのも天皇にまつろはざるもので化外の民であったのだ。蝦夷と同じように天皇に服させる手法をとったのが反感をかったのである。韓国はむしろ日本に文化を伝えたという自負があったからだ。
隣には若い人で神戸の人だった。あとであの地震がありその神戸の人がどうなったのか気にかかった。その人が神戸の人であったことであとで「ああ、神戸の人だったのか、もしかしたら地震で死んだこともありうるな」と思ったのである。神戸には中華街の南京街があり中国人や在日の人もかなり住んでいるし朝鮮学校もあり在日の人もかなりの数死んだし中国人の留学生も死んだ。神戸についてはよく知らなかったがあの地震があって以来いろいろのことが報道されるので知識が増えた。ともかくあんなことになるとその時全く誰も予想つかなかったのだ。神戸とか大阪は国際性豊かな所なのだ。神戸からでて天津に行く船の中では中国語を話しして仕事帰りの人がいた。留学生も多く中国語が飛び交っていてこっちは話せないので困った。京都の人で中国に商売に行く人もいた。仕事で行き来している人が多いから中国との関係も深いのである。中国友好の会長の一人であり名刺をくれた。
下関にはアメリカ国籍で在日で日本人国籍の子供を持つ人が話題になった。これでアメリカ国籍・在日・下関と検索したら松田優作という俳優の人を語るホ−ムペ−ジがでた。こういうふうに検索がうまくいくとインタ−ネットも面白いのだ。検索の言葉ででて来るものかまるで違ったものになるのだ。これは確かにねらったものがでてきたといかる。これはなかなかないことである。在日で差別されたから日本人なりたくないアメリカ国籍をとるために留学した。そういう同じ動機の人が下関にはいたのだ。これは日本人にはわかりにくいことである。母国の韓国に行けばいいのだがアメリカだということがその複雑さ物語っているのだ。下関には在日の人が1・7パ−セントいるという。とにかく大阪や神戸、下関、福岡でも南は外国との交流があり明治維新が薩長連合軍から起こったのも必然だった。会津は山国であり保守的になる。海外にうとくなるのである。関西では海外に出る人が多い。中国でもアジアでも関西弁しゃべる外国人が多いのだ。外国に容易に溶け込む歴史的メンタリティがあるのだ。フランスで一年以上働き中国人の胡という苗字の人と結婚してアルジェリアで石油関係の仕事にたずさわる人がいたり国際性豊かな土地なのだ。伊達政宗はヨ−ロッパに使節を派遣したがあれは例外的なものだろう。みちのくという土地は国際性にともしい土地なのだ。
韓国の釜山についた。初めての海外旅行でどうしていいかわからなかった。一緒に行きませんかという人がいたのでついてゆくことにした。その人は一度韓国に来た人であり海外に詳しい人だった。まえに泊まったという安い宿に泊まった。次の日は釜山観光だった。駅前に薬罐にお湯を入れコ−ヒ−を売る婦人がいた。ポラロイドをとる男の人もいて少し日本語が話せた。
落葉せし釜山の駅前ポロライドの老人あわれ日本語も忘れしと
キンパプというのり巻きを売る婦人もいた。韓国でもノリは売っているのだがノリは日本の文化である。食に関しては韓国は大陸的である。肉料理が主であり肉食の文化なのだ。豚の頭を神前に供えたり動物を神に捧げるのも大陸の文化である。武寧王陵の摶のア−チの墓室から銀の匙と銀の箸が発見された。中国でも韓国でも箸は長く太いが日本では細くなる。より繊細になるといえる。日本では匙と椅子の文化がなかった。中国は椅子の文化があり胡座(あぐら)とは絨毯の上に座ることからきている。胡は騎馬民族、遊牧民をさしているのだ。モンゴルが入ってきて肉料理も伝えたらしい。騎馬民族の文化が濃厚なのである。チマチョゴリにしても原色であり派手でである。大陸の文化はメリハリがハッキリさせる文化である。日本のように曖昧なものをきらう。輪郭がはっきりしたものを好むのだ。
大陸では塔がかかせない。広大な大地に目印のように塔は欠かせないものなのだ。塔という人工的な明確なものが必要だったのだ。バベルの塔は呪いとなったが大陸では塔はその広大な空白を埋めるものとして不可欠なのだ。ピラミッドも塔の一種だった。というのは最初の塔は階段状のピラミッドだったからだ。砂漠のような何もない所では人工的な山が必要になる。空白を埋めるものが必然的に必要となったのだ。それは人間の精神にとって自然である。どこまでも何もない世界は精神を不安にするのである。だから塔が精神を安定させる目印として必要なのである。
釜山観光は太宗台(テジュンデ)という松柏のきれいな対馬も見えるという海岸だった。初めて韓国側に立って日本の方を望んだのは感激だった。
太宗台(テジュンデ)に松柏の緑海望み対馬の見ゆと秋深まりぬ
韓国側からの視点で日本をみるとまた違ってみえる。なぜ外国に暮らした人がグロ−バルな視点をもてるのかといえば外国の大地に立っているから自ずと母国を客観視できるからである。日本にいれば日本側からしか世界が見えないのだ。次の観光は博物館であった。そこで見た王冠は心に沁みた。というのはその王冠が滅びた伽揶の国の形見だったからだ。伽揶の国から移住した人々が可也(カヤ)山を望む所に定住したのだ。伽揶と大和は特に対岸の太宰府の設置された所とは頻繁な交流があったのだ。巴型の銅器はそれを物語っている。これは鉄を手に入れる見返りとして日本から輸出されたのである。伽揶は早く滅びた小国でありその残されたものは少ない。だから釜山で見た王冠一つがその形見として心に残ったのだ。
草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさを鹿鳴くも 3674
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つづきは第二回の韓国旅行の後です