時事問題の深層38-2008


相馬発信-小林勇一(小林勇一)
これまで家族の認知症のことでプログで書いてきました。これまでの記録は記事はプログで読んでください
「今日の一句一首プログ」
WHAT'NEW





医療にも民主主義(話し合い)は必要(素人でも話し合いする権利はある)2月20日

グロ−バル化は宗教、哲学、モラルも破壊する−(老子とエピクロスの哲学の共通性)3月10日


茨城(土浦)・8人通り魔殺傷事件はなぜ?(若さのエネルギ−をもてあまし殺人へ)3月24日

チベット問題で問われているもの(戦後モラルなき国となった日本)4月8日

蒙古襲来とにている今(立正安国論を読む)4月18日

南相馬市鹿島区のス−パ−の藤越が6月で閉店に(ショピングセンタ−の是非)6月8日

障害者施設放火で家主の志村容疑者「入居者と折り合い悪かった」6月18日
(ボランティアは偽善になりやすい)


農民が土地を求めた満州に戦争の原因が・8月3日

認知症老人より劣る普通の老人?
(人間の価値は誰もわからない、神のみぞ知る)
8月5日


認知症と生まれつきの知的障害者の相違(知的障害者を虐待は老人の虐待に通じる)8月22日

過度な延命治療の疑問(死は救いであり肉体の束縛からの解放だった)10月17日

グロ−バル化の正体はアメリカ支配だった10月18日

麻生首相の医者には常識がないの発言の深層11月29日

医師はある種、人格形成には恵まれない職業である 
「医師常識欠落」の首相発言
-12月8日

「硫黄島からの手紙」 栗林中将の短歌から (上野霄里氏の鎮魂歌を読む)12月30日



医療にも民主主義(話し合い)は必要(素人でも話し合いする権利はある))

●医者の一方的免責の談判

都立病院の患者権利章典

1.良質な医療を公平に受ける権利
2.人格を尊重され、医療提供者との相互の協力関係のもとで医療
  を受ける権利
3.診療に関して十分な説明、情報を受ける権利
4.治療方法などを自分の意志で選択する権利
5.自己の診療記録の開示を求める権利
6.診療過程で得られた個人情報の秘密が守られ、私的な生活を
  乱されない権利
7.研究途上にある医療に関して、十分な情報提供を受けその諾否
  を決定する権利及び何らの不利益を受けることなしに、いつでも
  拒否する権利
8.医療提供者に対し、患者自身の健康に関する情報を提供する
  責務
9.医療上、理解できないことについて質問する責務
10.他の患者の治療や病院職員の医療提供に支障を与えないよう
  配慮する責務


驚いたのは胃ろうの手術担当の医者である。元気になったので口から食べられないのかと聞いたら怒って「なに、それならもう一度やりなおしで手術はなしだ」手術担当の人の科とは違っていた。そこで説明されるべきなのを聞いていなかったからここで聞いたのだがそれがそういわれると何もいえない、「するかしないのか、じゃしないんだね」で終わりだった。ちょっと連絡して聞けばいいようなものだか科が違うとここでは別になって連絡がないのかもしれない、ともかく最初から喧嘩ごしで頭ごなしに「私たちはこうこうしますがリスクはあります、でも私たちは今説明したようにして納得してもらったのだから死んだとしても責任はとりません、承知したなら署名してください」これ意外は一切聞くこともなにすることもできない、ただ命令に従い平身低頭お願いするだけでいいという傲慢さである。まるで人と人とみていない、ただ患者は命令されかしづく奴隷としてしか見ていない、一言でも何か聞こうとしたら「手術はしません」これで終わりである。手術自体は自信があり失敗はしていないという、でもリスクはあると最大限に言うし現実に死んだ人もいる。しかし老齢ということもありあまり責任は追及しないのが老人医療なのである。ただこの背景には忙しい病院の事情があるのかもしれない、ともかく説明と言っても指定された時間、何分かで簡単に説明して終わりでありそれも一方的だからよく聞く時間もない、やはり仕事に追われるから急いでいるから事務的に強圧的に仕事を処理しているのかもしれない、公立病院ということも関係しているのか、いづれにしろここでは聞くこともできないから一方的に処置されるだけである。それができないなら病院を移ってくださいとか手術はしません、そのまま死んでもしりませんよで終わりになる。何ら要求することはできないのである。金をつつんだりしして謝礼するというのが一般的であり医者も受け取っているのだから患者が要求することなどありえない世界と思う。

私でも患者は認知症をもっているしいろいろあったから寿命ということで責任など追求しないのである。責任を追求される恐怖症になっているのかもしれない、でも大手術とも違うし危険はあっても他の手術とは違うのだからそこまで言うことがあるのか?まるで神のごとく私は手術してやる、患者や家族は何もいうな、失敗しても責任は全くないでいいなというのもあまりの傲慢さには唖然とするばかりたった。神様なら失敗はしない、失敗するから人間なのであり老人だからそういう点は大目にみる。それをともかく一言もいえない、一方的に命令と要求で終わりである。まず人間の尊厳死を書いてきたがその前に全く医者によって人扱いされない、尊厳も何もない、ただ手術するものが神のごとくその技術者の前に平身低頭しなければならないとなるとこんな医者とか病院には行きたくない、でも簡単に移ることはできないとか弱みがあるからまた何もいえずがまんする他ないとなる。モンスタ−ペイシャントのことを言っていたがそんな人がそんなに要求できる人が医者にいるのか?モンスタ−ドクタ−はいてもモンスタ−ペイシャントはまれである


2.人格を尊重され、医療提供者との相互の協力関係のもとで医療
  を受ける権利

3.診療に関して十分な説明、情報を受ける権利
4.治療方法などを自分の意志で選択する権利
5.自己の診療記録の開示を求める権利

7.研究途上にある医療に関して、十分な情報提供を受けその諾否
  を決定する権利及び何らの不利益を受けることなしに、いつでも
  拒否する権利
8.医療提供者に対し、患者自身の健康に関する情報を提供する
  責務
9.医療上、理解できないことについて質問する責務


これが全くないのだからやはりあの医者や病院にしても問題があった。特に説明した医者には相当な問題があった。

●実験台にされて焼身自殺した患者

手術をした病院は開腹手術か腹くう鏡手術かを患者が選べず、腹くう鏡手術だったものの、助手は腹くう鏡手術の経験がなく、執刀医は助手としてA回、執刀医として@回の経験しかなかった。
裁判所はちゃんとした裁判を行わず、和解ですませようとした結果、この大腸ガンの男性が自分の命を犠牲にした。


経験がないものにやらせたのだから実験台だったのだ。だからミスは予想されたのだから病院の責任は重い、手術には治療にはミスが命取りになり厳しく問われることがあるからあのような口調になるのもわかる。もし経験のない人がやりますよと言っていたら患者は同意しなかっただろう。そこにすでに医者と患者の話し合いがない、一方的に実験台にされた。もちろん本当のことを言ったらこんなことはできない、医者は失敗したときどうしようとしていたのか簡単にごまかすことができると思ったのかもしれない、病院には権力があり訴えられても大丈夫と考えそうしたのかもしれない、現実裁判に不満だった患者が自殺したのはそのためだった。どんなに理不尽でも病院や医者にたてつくことはやはりむずかしいのである。ただ医者側にすれば経験を積むためにやらせた、最初は誰も経験がないから経験積ませないといけないかやらせた。医者には科学者にはそういう実験が必要でもやはり実験台にされるのは理不尽だとなる。日本の原爆投下も原爆の効果をみるアメリカの実験だったとか言う人がありそうだとするとこれほど人間を冒涜した罪作りなことはなかった。日本人に対するアメリカ人の恐るべき命の軽視があったとなる。

医者は人間を人間として扱わない、物として扱うことがあるのだ。そこにはすでに人間に対する一片の尊厳もないのだ。だから病院では尊厳死などありえるのか?そもそも医者が人間の尊厳など微塵も考慮していないなら病院で尊厳死なとありえないのでは?ただ物として延命したり実験台にしたり機械や物として扱っても技術的に優れていれば病気も直ることはあってもそれと尊厳の問題は別である。

「お前を手術してやるのはオレの腕だ、オレには何もいうな、ただ平身低頭してお願いするのがお前だよ、ただ失敗してもオレは責任はとらないよ、そのリスクは説明したし承認してもらったからな・・・」

こんなふうにしてまで医者に平身低頭して医者を神様のように扱わねばならないのか、自分のことだったら死んでもこうした医者にはみてもらいたくない、手術してもらいたくない、死んでもいいとなる。なぜならその前に人間の尊厳が著しくそこなわれてしまい精神的に活かされていない、それまでして医者をたてねばならないのか、そんなに医者は偉いのか?そんな医者はいくらでもいると医者に詳しい人が言うからめずらしくないものかもしれない、モンスタ−ペイシャントなどありえない、モンスタ−ドクタ−はどこにでもいる。医者が全部病気を治せるわけではないのに科学とか医者とかが神のようになった現代を象徴しているのかもしれない、でも人間の体を直しているのはその人のもっている体力でありその補助をするのが医者であり医者が全部病気を治すことはできない、神でもないのだから直すことはできない、でもみんな直せるように錯覚させてこれほどの傲慢になっているのか?技術も権力だからどうしても権力をもつものは奢りそして弱みをもつものは虐げられるのが世の常だとなる。

●手術の上手な医者が一番偉い?

医者もいろいろで、二言目(ふたことめ)には、僕が助けた、僕が直した、誰それの失敗の後始末をしてやったと吹聴する傲慢な先輩がいた。私は正反対で、何百例手術に成功してもそれは当然で自慢はよくないと思う。それだけに、術後一人でもこじれると自分が患者と入れ替わった方がましだと思うくらい落ち込んでひどく憔悴した。そこでどんな手術でも悔いのないように、ベストを尽くしたと言い切れるように心掛けた。患者と家族が手術を受けるか否かかなり迷うことがある。そんな場合は私の方から中止にした。こじれる率は1パーセント以下でも、もし手術してうまくいかなかった場合、患者も家族もやらなければよかったと後悔するに決まっているからである。
http://www.hfc1969.com/takkan/slife078.htm

こういう医者は謙虚なのだろう。誰にでも神様でないのだから失敗はある。ただ医者にはミスが極力許されないという厳しさがある。ミスすれば患者は死ぬし致命的損傷もある。手術はどんな手術でも命にかかわることがある。

こじれる率は1パーセント以下でも、もし手術してうまくいかなかった場合、患者も家族もやらなければよかったと後悔するに決まっているからである。

今回の手術は大手術ではないからあれほどまでに家族に言う必要があったのか全く解せない、胃ろうはやらなくて後悔するような手術ではないと素人には思った。ただ医者は患者は素人であり素人の要求や意見を極力拒否するからあのような理不尽な言い方になった。あのようにリスクのことを最大限に言えば手術に不安がありやりたくなくなる。実際はそんな手術ではなかった。もし手術してうまくいかなかった場合・・・・そのリスクの確率がどれくらいあったのか?確かにインタ−ネットでも胃ろう手術で死んだ例はある。今日の手術の結果でも88才の衰弱した老人はダメ−ジを受けたようだ。でも私の家族は体力はあったしそういうことは考えられなかった。その老人はやせ細っていたのである。私の家族はまだかなり太っていた。死線をさまよって一カ月たって信じられないほど体力が回復したのである。今回手術したのは説明した人ではなかった。三人同じ手術したのだから一人ではできない、別な先生だった。説明した医者が病室からでてきたのでてっきりその人が手術したのだと思い礼をした。ともかく今回のことは医者や病院の一端を知るものとなった。医療には山ほどの問題があるし介護問題もそうである。医者にも聖人ではないからえげつない医者はいくらでもいる。そういう人はどこでも回りにいるしめずらしいことではない、ただあまりにも度が過ぎていたので驚いたし医者の理不尽さ、傲慢さに驚いた。医者は傲慢になりやすい仕事なのかもしれない、医者はやはり患者にすれば神様のように頼る存在になりやすい、そして治療してもらうのだから何かといいにくいとなる。一般的に病院でも医者でも傲慢になりやすい科とかがあり特に手術の腕は差ができるから傲慢になりやすいかもしれない、オレは手術ができるとなると病院でも鼻が高くなる。一方病院でもいろいすな人がいる。看護婦から食事の世話をする介護士とか便のとり方の汚れ役の人もいるしいろいろである。序列的には手術のできる人が一番上になるのかもしれない、そこの病院でも脳の手術では評判の人がいるというからそれで集まる患者もでてくる。今は看護婦と介護士というのがいてこれの軋轢もでている。介護士は医療ができないから低くみられるとか不満がある。病院もまた人間社会の縮図なのである。

●医療にも民主主義(話し合い)は不可欠

本来なら、どんな外科医に当たるかも平等であるべきなんだ。
それを自分が病気になりゃ、自分だけは助かりたい、下手くそには
やられたくない、とか思うわけだろ? 払う金が平等のくせに、なんで
得られる結果に不平等を求めるんだ? バカも休み休み言え!

藪医者、タケノコ医者、土手医者、ひも医者、
どんな医者に当たるかは、その人の運命ですな。(藁
病院によって、大きく違いがあるし。
名医のいる病院でも、全員が名医じゃないからね。
患者側の機会均等と、医者側の機会均等、
一致することは永遠にないのかもね。(藁

患者の権利を主張する人が多いんだけど、
現在の保険診療では、患者は最低限の権利のみを保障されてる
と考えるべきではないだろうか?
病院にいって、一番の名医に診察される権利とか、
一番うまい医者に手術される権利とか、そんなもんはない。
病院やその科のチーフの責任において治療を受ける権利は保障されてるけどね。
それが国民皆保険、医療の機会均等の理念だろ?違うか?

知ってても謙虚に振る舞う患者。これは一番怖い。だけど、知識を振り回すバカは
所詮医者には相手にされねぇぜ。ホントそれだけは止めた方がいい。
竹久とか言うアホチンスキーが一番わかってないのはその点だ。とにかく
どんなに知識を付けたって、所詮あんたらはシロート。オレたちはプロだ。
バックグラウンドの知識量が全然違うんだよ。一夜漬けの知識を振り回すのだけは
止めときな。医者に嫌われて、いい医療を受けられないことだけは保証しとく。
これだけは煽りじゃねぇぞ。

http://cocoa.2ch.net/hosp/kako/996/996388894.html

素人にしても説明くらいしてもいいはずである。説明も拒否、ただリスクの説明をしてどんなことがあっても手術の責任はとらない、納得しないならやりません、帰ってくださいとなると全く患者は家族は話し合うことなど全くできない、これは民主主義社会に反する医者の一方的独断ファシズムにさえなる。素人でも話し合い、納得し合うことはありうる。

「ずいぶん、元気になったのですが口から食事少しでもとれないですか?試しに水でも飲ましてみることはできないですか?」
「それは前の科で決まっていたはずだ、じゃ前からやり直しだ、もう手術はしない」
「・・・・・・・」
「お前は何も言う必要はないんだよ、何するもプロがやることだから素人の言い分は何もない」
「・・・・・」
「リスクは説明した、何かあっても合併症で処理して医者側の責任は問うなよ、ところで老人の寿命はいくつだね」
「・・・・・・・・・・」

「私たちは患者は認知症ももっているし高齢なのでそれほど責任は問うことはないですが・・・・」


これさえ言うこともできなかった。話し合いが拒否されているからこうなったのだ。これは医者の責任ではなく免責を言っているのでありこれさえ言うことができなかった。

「ああ、そうですか、それなら承知ですね、ミスすることはそんなにないと思いますよ、ただ老人ですから体力のない人は極まれに死んだ人がありますがね、あなたの家族の場合体力があるから大丈夫でしょう・・・」

これだけでも会話ができればこちらの言うことも聞かれて相互に納得できたはずである。これは別にむずかしい理不尽な素人の要求ではない、そもそも話し合いが拒否されることはすでに人格も人権も何も否定されていたのである。民主主義というと医療などと関係ないように見えるが都立病院の患者権利章典のようにこれは民主主義社会の基本でありどこにでもあてはまる。裁判でも適応される。相手の言い分を全く無視された世界は人格の人権の否定であり民主主義社会の否定である。これは明らかに医療の分野でも適応できる問題である。患者にいろいろ問題があるにしろ人格を否定されるような言い方が納得できなかったのである。そして民主主義社会は自由な発言の平等と権利が必要である。出版とかマスコミにはないからインタ−ネットで発言しているのも民主主義には報道の自由があるべきだからそうなる。報道の自由というとき個人にもあてはまるが今までは個人の発言する場はないからインタ−ネットで発言することは民主主義の発展につながるのである。インタ−ネットでは病気の情報は多岐であり役に立った。認知症を調べたときからいろいろと役に立った。インタ−ネットが医療の分野ではまちがいなく成果があった世界だったのだ。モンスタ−医者にあったのが不運にすぎないとなればそれまでだがやはりそれだけではすまされない問題があったのである。

なぜ回復したのに「胃瘻」がすすめられたのか?(病院から転院させるため・・・)プログへ

この背景には医者の傲慢があったが病院が国の政策を非常に実行していたからだった。金にならない金にならない老人の病人の切り捨てがすでに実行されていたためであった。



グロ−バル化は宗教、哲学、モラルも破壊する−(老子とエピクロスの哲学の共通性)

●生活の基本の食の破壊

グロ−バル化はあまりにも様々なものに影響しすぎた。それは一個人では計り知れないものとして世界化した問題でありこれは自然にも甚大な影響したし地球温暖化とかにもなった。自然に影響したというとき食の問題はその土地土地にcultivate(耕す)ものとしてculture(文化)があった。深く土地に根ざしていたものが文化だったのだ。世界で一様にコカコ-ラとかハンバ-グを食べていたりするのも文化の破壊だった。身土一体とかその土地でとれたものを食しているのが体に一番いいというのも文化であった。日本の長寿は海産物を基にしているからだというきもそのためである。グロ−バル化の影響はあまりにも多岐にわたっていてもはや修復できない元にもどせなくなっいるように深刻なのである。中国ギョ-ザ問題でもそうである。エタノ-ル開発による小麦不足、食料の世界的高騰化もそうである。すべてグロ−バル化の問題として起こってくる。こういう時代は20世紀に極端化した現れた。その時はまだ国レベルの国際化であったが今や庶民の生活に直結してグロ−バル化が甚大な影響を与えている。味噌とか醤油の材料になる大豆自体がほとんど輸入だということでもわかる。日本の文化だと思っていたものもその材料自体が外国のものだとなると純粋に日本の食とはいえなくなっている。文化と食が直結しているのは江戸時代であれば食は全部国産でありそれも自給自足的だとなると狭い範囲のその土地でとれたもので生活していたからである。そこが文化の基となっていたのだ。

下町一帯の神田上水、多摩川上水、千川上水も、みな土中の伏樋を堀り捨てて鉄管にしてからは神田児(かんだっこ)の産湯の水もなくなったわけで江戸っ子と移住人との限界の崩れてきたのも上水によって暗示されているのはおもしろい

芝で生まれて神田で育ち今は火消しのまとひもち

しるし袢纏をつけてまとひをかついで走り出す、しかしこれもやがて洋服にヘルメットのようなものに変わる(折口信夫全集−30)

産湯は文化だった。その土地の水はみな違っていたのだ。水道によって文化が破壊されたのである。その地域地域で水も風も違っていて方言がありそれが文化であった。つまり文明は鉄道でも自動車でも飛行機でも地域の文化を破壊するのである。風でもその土地によって多様な表現があり方言として残っていた。それがグロ−バル化すると東西南北というおおざっぱな方角をさすものとなる。

●宗教、哲学、モラルの破壊

現代の問題を考えるときも歴史をふりかえらねばならない、グロ−バル化もいい悪いにしても歴史的発展の必然として生まれてきた問題である。現代文明の問題も歴史的にふりかえってみて見えてくるものがある。文明とかグロ−バル化にすでに2000年前から警告していた宗教者、哲学者が現実に東西にいたということ自体驚きである。今ならわかるがそんな2000年前にそういう思考をしていた人がいたこと自体これは古い問題ではない、文明発生自体から疑問に思っていた人がいたのである。文明とはそれだけ古いのである。老子の「小国寡民」の理想郷もあの巨大中国から生まれた思想なのも皮肉である。でも老子の時代は中国の人口は一億人くらいだとすると十分に今からすると小国寡民だったのである。

理想の国とは、小国で人口が少ない国である。
文明の利器があっても、使わせないようにし、
人民にいのちを大事にさせ、
しかも遠くに移動しないようにさせる。
そうすれば、船や車があっても、それに乗る機会が無く、
鎧や武器があっても、見せびらかす機会がない。
昔のように、人々は縄を結んで文字の代わりとし、
質素な食事をうまいと食うようになり、
質素な服をりっぱだと思うようになり、
質素な住居に落ち着くようになり、
質素な習慣を楽しむようになる。
隣国は互いに見え、鶏や犬の鳴声が
聞こえるほどの近さにあっても、
人民は、老いて死ぬまで行き来することはなくなる。


質素な食事をうまいと食うようになり、
質素な服をりっぱだと思うようになり、
質素な住居に落ち着くようになり、


質素を説いているのも今のグロ−バル化とは全然違う、世界のグルメを目指してあらゆるものを食している日本とはまるで違っている。これほど世界から輸入して食べる必要があるのか、日本だけでも十分な栄養の食はとれる。それより糖尿病とか栄養過多の病気で苦しんでいるのが日本なのだ。そこに文明とグロ−バル化の歪みがある。着るものもでも物の生産でも情報でも過剰になりすぎている。世界を知るべきだというが世界の情報をもれなく知り理解すること自体不可能なのである。江戸時代の不思議は乗り物までも国で制限していた。だから駕籠という原始的な乗り物が主要な乗り物だったというのも意外である。江戸時代の鎖国は善し悪しがあるが反グロ−バル化の見本なのである。日本一国だけですべてをまかなう一つの宇宙としたからである。日本という小さな国がさらに三百近い小国(藩)に分かれ、現状維持を是とする中で人々が生活してきた江戸幕藩体制は、本質的な部分で小国寡民に近かった。華美をいましめ質素倹約の思想にならざるをえなかったのだ。それは徹底して資源を無駄にしないことにつながった。それが現代の過剰なグロ−バル化の浪費社会とは正反対なのである。

●制限なきグロ−バル化社会に平静は得られない(エピクロスの哲学の意味)

これは別に東洋の哲学としてあったというのではなく西欧の基であるギリシャにもあったのだ。ギリシャではそもそも現代に通じる科学が起こった所として記念されるがその時は科学と宗教、哲学は分離していない、科学を探求していても宗教、哲学者であった。ピタゴラスは数学者ではない、宗教の創始者でありエピクロスも科学者ではない、哲学者であった。学問として科学という分野はなく宗教、哲学が科学だったのである。

自然のもたらす富は限られており、また容易に獲得することができる。しかし、むなしい憶見の追い求める富は、限りなく広がる。

欲望のうち、あるものは自然的かつ必須でもなく、むなしい憶見によって生まれたものである

貧乏は自然の目的(快)によって測れば大きな富である。限界のない富は大きな貧乏である。


ギリシャではなぜか江戸時代のように無制限の富とか拡大化したものを追求しなかった。極めて制限されたものの中に美と真を追求した。だから建築でも巨大化せずその土地にマッチするように制限されていた。これはロ-マ文明とは違っていて江戸時代とにていたのだ。ロ-マは常に巨大化拡大化だから現代と通じていたところがあった。アメリカ文明もロシア文明もその無際限の国土から資源も無限だとなり制限鳴く無限に拡大化膨張してゆく行動の国であった。西部開拓の延長がアメリカの世界支配につながるというのもそのためである。アメリカという国は確かにインディアンがいたとしてもそこは無際限の処女地、無から有あ生み出す新天地であった。中国にはすでに小国寡民の思想が生まれたことがあったがアメリカにはない、そこはホイットマンが生まれすべての存在が肯定される世界だった。何かを否定されるということのない世界だったのである。無制限の世界は地平まで広がりさらに大西洋から無際限の征服に向かっていった。アメリカは制限を知らない国である。制限されることに美は生まれ無制限な豊穣に美は生まれない、俳句というのもその短さのなかで制限されているから日本的文化としての美が凝縮されて表現されたのである。

むなしい憶見の追い求める富は、限りなく広がる、・・・限界のない富は大きな貧乏である

むなしい憶見の追い求める富とはこれはグロ−バル化によって一般化世界化したのである。株がそうである。株というのはもはやなにものかわからない得たいの知れない怪物でもある。グロ−バル化した経済自体が怪物であり誰もその正体をしりうるものはいない、どんな天才経済学者でも知ることはできない、だから天災のように世界恐慌がサブプライム問題のように突然起きてきて翻弄される。むなしい憶見の追い求める富によってふりまわされているのだ。そこでは常に平安がかきみだされる。グロ−バル化の経済は限界のない富を追求しているのである。だからかえって心はふりまわされ貧しくなっている。平静は得られず株の乱高下に一喜一憂していなければならない、こんなことは過去にはなかった。株には富という実体がなくてもむなしい憶見の追い求める富として追求するからそうなっているのだ。小国だったらその富は目に見えているからそのなかで江戸時代の小藩のようにやりくりするほかない、その為に飢饉がくると被害は大きくなった。小国寡民がすべて肯定されるものでないにしろグロ−バル化とは規模が大きすぎるからもはやその実体は誰も知ることができない、実体を知ることができないからむなしい憶見の追い求める富を追求するようになる。やはり経済は江戸幕府の小藩というより一国が基本として統制するのがいい、その中で特に日本くらいの国なら江戸時代のように食もまかないるし資源はないにしろエネルギ-だって工夫すればまかなえる。グロ−バル化は食にしても中国のギョ-ザ問題のように常に不安材料をかかえることになるからだ。

インタ−ネットなどの情報のグロ−バル化も世界規模のむなしい憶見を追い求めることになる。テレビであれ映像の伝達自体が様々な憶見、イメ-ジを拡大化させる。テレビでもすべての情報を伝えることは不可能である。ある部分をとりあげればそこだけが目立ち誤解をうむ。全体を放送することは不可能だからだ。実際百分の一くらいしか放送していない、あとは放送されないまま残されているのだ。ともかくは現代は実体を誰も知ることができないから憶見の世界が広がりやすいのだ。巨大化したものは実体を知ることは不可能である。宗教団体でもそうであり巨大なものは怪物化して憶見だけがふくらんでゆく、宗教団体でもやがて世界を支配するとかむなしい憶見で活動している。オウムさえ日本を支配するオウムの王国になるとか思っていたから創価は完全に世界は創価になるというのも内部でも外部でも思ってしまうのである。ギリシャの民主主義が狭い地域の人と人が顔を合わす範囲で行われていた。現代の民主主義は規模が大きすぎるから機能しない、それ故にマスコミに支配される情報独占の時代となった。ラジオによりナチス支配が起こりマスコミによりテレビにより現代の大衆支配があった。インタ−ネットの制限よりマスコミこそ制限されるべきものだった。巨大なものは弊害が大きいから宗教団体でも制限されるべきなのである。自由社会は制限することが苦手である。資本主義社会もここに制約と制限とか節約とかの思想を導入することは本質的に受けいれないから問題なのだ。人間はすべてにおいて自由はありえない、自由はすべて制限されたもののなかでの自由である。結局制限できないからこそ世界恐慌とかの破綻が必然的にやってくる。その前に富の無限の拡大化、憶測による投機を制限すれば世界的破綻などないのである。




茨城(土浦)・8人通り魔殺傷事件はなぜ?
(若さのエネルギ−をもてあまし殺人へ)


「誰でもいいから殺したい」「早く捕まえてごらん」と通り魔男…無類のゲーム好き引きこもりで人付き合いなし
"家族は県警に「ゲームが好きでよくやっていた」「人付き合いはあまりない」と話しているという。
 部屋にはテレビゲームが10本、漫画本が100冊ぐらいあったという


若さというのは無分別であり時にエネルギ−が噴火口のように爆発する危険性がある。この青年の若さのエネルギ−はゲ−ムになっていた。在日とかは関係ないだろう。ゲ−ムに熱中することが青春だったのだ。これも極めて現代的である。ゲ−ムしか熱中することがないという青春の不毛があったのか?でも若さはいつの時代でも暴発の要素をはらんでいる。団塊のゲバ棒をふりまわした学生運動も若さの暴発でありたいして意味は探求されず行動が先行した。それを言うなら日本の太平洋戦争自体も若さの暴発だったかもしれない、若さは暴発する、とめることができない、それがゲ−ムに向かったのだがゲ−ムではものたりなくなったのだ。それが転じて人間殺傷ゲ−ムの狂気に向かった。こういう若さの暴発、若さのエネルギ−をもてあますことはいつの時代でもあったのだ。それがいい方向に向けば明治維新のように国を変える原動力となった。私自身をふりかえっても創価カルトに費やされた学生時代がそうだった。若さのエネルギ−を余暇をどこに向けていいのかわからないのだ。ただこれも学生運動とたいして変わりなかったのかもしれない、若さのエネルギ−を発散する場所を求めていたのである。これはオウムなどのカルト団体にもいえる。だからその動機は必ずしもわからないでもない、別な方に若さのエネルギ−が向けられていたらこういうことは起こらなかった。でもそれがなかなか見つけられないのが現代なのである。若者にとってあるとき自堕落な平和より戦争にひかれるのもわかる。現実にまれではあるが戦争したくて兵士になり銃をとって戦地で戦っている人もいる。そこは生きるか死ぬかとなるとゲ−ムどころではない、ゲ−ムでは人を本当に殺したり殺されたりしないからである。ゲ−ムで人を殺すのと殺されるのはあまりに違いすぎるのだ。戦争というのも若さのエネルギ−を発散する場所になり肯定されるということもありうるのだ。人間はそういう刺激を求める動物である。ロ−マのコロッセウムの野獣と人の殺し合いを見せ物にした「パンとサ−カス」もそうではないか、大衆は人殺しをみて興奮し余暇を費やしていた。それがゲ−ムに変わっただけだともなるがゲ−ムでは若さのエネルギ−は発散できなかったのだ。

人間は20で狂気になるというとき真実だと思う、20代で人間は狂気になる。また逆に20代で狂気にならないものは正常にもならないという逆説がある。人間は一度狂気にならないと正気にもなれない、青春は自らのエネルギ−の発散を求め狂気と化す、この青年は自分で自分のエネルギ−を制御できなくなっていたのだ。これは個人的狂気だが集団的狂気というのもある。戦争中がそうだったしカルト宗教団体も狂気である。狂気は常に個人にも団体にも内蔵している。本当の狂気は人間を英雄にする。そういう狂気なら青年は社会のひんしゅくをかっても成すべきなのである。社会に拘束されるべきではない、社会の拘束を打破するのが青年だからだ。青春のエネルギ−を発散する場所は現実社会にありバ−チャルなゲ−ム世界にはないのである。そこでは満足しえないからこそ今回の事件が起きたのである。これからもこうした事件は起きてくる。別に現代だから起こったことでなく青春のエネルギ−をもてあました事件は起きていた。ただそのエネルギ−を向ける対象がゲ−ムになっていたことが違っていたのだ。若者は行動の意味の探求よりも行動そのものに向かう、初めに行動ありきでありそのあとに意味があるのではなく反省があるだけだとなる。なんのためにそんな行動をするのかというとただ行動のために行動している。もてあますエネルギ−を発散させるためにしている。暴走族もただエネルギ−を発散するために集まり騒いでいるとなる。でもここにでも青年がエネルギ−を発散する場所は今なら自転車世界一周とか個々にやるべきものはある。ゲ−ムでは発散しきれないのだ。いくらやってみても小さなテレビ画面の枠の中で起こることでしかないからだ。

地球は世界はもっと広い、それに挑戦しぶちあたるべきだった。登山だってあるし平和の世界でもやることは山ほどあるはずである。政治的には無関心になるのが現代だが個々にはやるべきものがふえている。青春はまたそのエネルギ−を浪費しやすいのである。自分自身もカルトにのめりこんでそうだった。浪費すらならいいが殺人になり一生をふいにしてしまう。これは個人としてみると狂気であり許されないものではあるが集団で戦争したのも狂気の面があったのだ。狂気は個人にも集団にも常に内蔵して暴発する危険性をはらんでいるのだ。エネルギ−をもてあます青年を狂気に駆り立てることはたやすいことでありそれがカルトなのである。宗教団体であれ政治団体であれ青年をまきこむ団体はカルト的要素が必ずあるのだ。意味もわからずただしゃにむに突進して行く、上の人の命令なら何でも従う、一票とるためにどんなことでもする、青年はカルトにとって不可欠でありカルトに熱中しやすいのである。カルトとは何を求めて行動しているのかわからない、ただ行動する団体なのである。それはナチスともにている。その中には明らかにこの無差別殺傷事件のように青年を無謀な行動に走らせるものがある。それは戦争がそうだったともいえる。社会がなぜこうした戦争のような狂気に陥るのか?それはやはり社会の個々の価値の探求の中で満足しえないものがありアジアのため、アジアの正義の実現とかそうした大きな価値観の中に自らの命を賭けた、まちがったカルト的なものがあっても集団的狂気としてそうなったともいえる。ただ今回の事件は個々の青春が分化してゲ−ムに熱中して発散しきれず暴発したのである。こういう事件はこれからも起きてくる。なぜなら豊かになり余暇をもてあます青年がふえすぎたからかもしれない、ニ−ト、フリ−タ−の時代はそうした人が多いのである。だからこうした若者を徴兵して軍隊で鍛えろというのも一理ある。青春のエネルギ−をこうした無益なものに向けさせない効果はある。青春の暴発するエネルギ−を制御する効果はある。いづれにしろ青春は狂気であり真に狂気になるものが正気になる。だから青春はみんな天才的であり平凡でも天才を生きているのだ。青春をすぎたら全く普通のありふれた人になってしまっている。青春は誰でも反社会的になりそれが行動にもなる。青春の無謀なエネルギ−は影をひそめ一家の親に治まって社会の組織の一員として部品として抵抗なく勤めるようになっているからだ。反社会的になる社会からはみだすことは実際は相当怖いことなのだ。それが一時的にでも青春時代は自然と反社会的にみんななる。それが異常な犯罪にもなる。犯罪は反社会的なことだからだ。反社会のエネルギ−が革命ではなく犯罪に向かうのも青年の特徴なのである。


事件前に、自分の携帯電話から、もう1台所有していた別の携帯電話に、「おれがやることがすべてだ」「おれが神だ」などとする電子メールを送っていたことがわかった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080325-00000031-yom-soci

こんな意味不明のことを理不尽な殺人した若者が言っていたことがよくあった。これは自らの思想と行動の混乱から自らがカルト化していたのだ。集団でカルト化して異様な宗教団体の長を神格化するのと逆になっている。自らが思想のカルト化してこうなる人も現代に多い。思想の混乱に陥りやすいのが現代なのである。まず指標となるべきものをもつことがむずかしい。回りにあるほとんどの宗教は今やカルトだしあとは商業主義、マスコミに煽動される情報世界なのである。まともなのはアウトサイダ−となるがそれは社会には存在させられないからだ。「おれがやることがすべてだ」「おれが神だ」これは別にこの人だけではないニ−チェやヘンリ−ミラ−や上野霄里氏も言っているのだ。もしこの思想を実践すらならこういうアウトサイダ−の天才と同じになっていたのだ。青春の無知と傲慢はこうなりやすいのだ。これは個人がカルト化して一線を越えてしまった事件だともいえる。未熟な自分を頼りにしたときこうなったときそれが本当の殺人になっしまった。成熟した大人としての制御がなくなった、キレてしまったとなる。



チベット問題で問われているもの(戦後モラルなき国となった日本)

●仏教は江戸時代に死んだ

チベットのデモの中国政府の弾圧は世界的にも国内的にも波紋が広がっている。チベットを理解することはむずかしい、世界からみると同じ仏教国だから理解し合えるのではないかというがそもそも日本では仏教は祖先崇拝とか檀家宗教とか本来の宗教ではない、江戸時代に寺は様々な面で経済的にも優遇されたし幕府の役所の一部と化していた。武士の立派な墓を守るのが寺だった。寺はまた密集して作られた、寺町とかあるのは他国からの防衛のためだというのもあり城を守る一部として寺があった。江戸時代は神社は幕府から冷遇されたから廃仏毀釈で仏教を弾圧したというのもわかる。つまり権力的特権が得られない恨みがその原因であった。宗教は経済的権力的特権と深く結びついていた。宗教は飯の種であり純粋に宗教を追求することは江戸時代からはなくなっていた。神社でも仏教でもご利益宗教でありその延長上に現代のカルト宗教団体もある。今は観光宗教であり葬式宗教であり祖先崇拝宗教と化していることはみんなわかりきっている。だから宗教が最もモラルを追求するものとして発生したがあとはご利益だけの追求となった。日本にある無数の地蔵でもほとんど病気の直ることを祈る庶民の切ない願いがあった。今地蔵信仰が廃れ医者や病院詣でになったのは合理的である。確実に効果があるからそうなる。頼るべきがない時代は地蔵や薬師堂とかに祈るほかなかった。だからチベットの宗教が何かを理解することはむずかしい、仏教の純粋なものが残っているかもしれないからだ。なぜそうなったかというとやはり隔絶された地理的環境がそうした古いものを残したのである。

●創価は中国に日本を売り渡す

中国のチベットのデモの弾圧問題が世界中に波紋を広げている。なぜ日本は同じ仏教国なのに中国に抗議しないのかと見られる。でも日本は仏教国ではない、江戸時代で仏教は死んだのである。その死んだ仏教が檀家制度とか制度として残ってきたのである。それに新興宗教は創価でもカルトであり政治経済にかかわりご利益、権益を追求する。なぜあれほど中国に傾倒するのか、やはり政治的なプレゼンスでその権力を拡大化するためにそうしている。創価は常に政治力を駆使して日本を支配する野望をもっていたし今もそうである。世界広宣流布などというのも世界が創価の支配下になるというカルト宗教の野望であり妄想である。創価は世界に拡大化している。そういう妄想を信じさせるために国際政治を利用するのである。創価は日本という国も中国に売り渡す団体である。一私的団体なのだがその一私的団体が国を代表して国を売り渡すことはありえるのだ。創価に支配されたらそうなってしまう。だから今回の胡錦濤首相が池田大作とあいば創価の力をみせつけることができる。でも今回は裏目にもなる。なぜ仏教界は創価はチベットのデモの中国の殺戮に対して批判しないのか、そもそも創価と仏教は関係ないのである。仏教は権力支配の道具であり飯の種なのである。要するにモラルは全くゼロなのである。モラルとか義とかなるとこれは崇高なものであり犠牲を強いられる。だから利だけを追求するトヨタや中国でもうけている会社にはありえない、国すらそのモラルがないのだ。だから日本の首相すら当たり障りのないことを言うだけである。オリンピック自体崇高なモラルを謳っていても現実はその精神は今はない、国威高揚に利用され商業主義に汚され本来のフェアなスポ−ツ精神は何もない、中国にとってオリンピックは国威高揚の手段であり格差社会とかを隠すためのエベントであり手段にすぎないのである。中国が世界をリ−ドする国になったということを示して国内問題をかき消すためのものなのである。


「中国様、コキントウ様、私たち創価会員は長く中国と友好を計ってきました
私たちは中国様に逆らうことはありません、チベット問題など小さいことですよ
同じ仏教国といっても私たちとは何ら関係ありませんよ」
「そうか、創価のことは信頼している、その友好は長いから」
「私たちの望みはもし私たちが日本を支配したら日本もさしあげます
日本より巨大な中国様が大事ですよ、ただ忘れないでください、
創価が中国のためにどれだけつくしたか、故に人民会堂では創価の代表に送らせてください、そして中国の下僕としてお仕えします、ただその時は創価の幹部は日本を支配する階級のトップにししてください、もちろん創価会員は社会の主要な役につきご利益が与えてください、あとの日本人は奴隷でもいいでしょう・・・・」
「そうか、創価のこと優遇するよ、お前たちが中国共産党には逆らわない、何があっても、お前たちに存分にご利益を与える、金も地位もたんまりだ、あとの日本人は逆らったものは刑務所ゆきだ、そこで思想改造だ・・・」
創価の幹部はこうしたことしか考えていない、日本であろうが外国であろうが要するに自分たちが御利益得ればいいのであって日本国などどうでもいいのである。ではどうしても一宗教団体があんなにまでして中国に傾倒するのかわからないのだ。国内でも創価支配になったら主要な社会の権力をにぎり支配すると幹部はしきりに絶叫していたからである。



『日本を貢物にして、創価は中国を足場に世界宗教になる』と言っているはずだが、
法輪功を大虐殺した中狂がそんなもん、律儀に守るハズもなく、
日本を中国が併合したら、理系の人間以外は男は全員皆殺し、若い女は、中国人の妻にさせる】って、
見えてる・・・・


そういうこと池田大作ともあろうものが百戦錬磨の裏の裏まで知っている政治家が中国のことをそこまで信じるのがわからないよ、中国に捨てられることなどわかりきったことだからそれほどに忠誠を誓うのがわからない、長野のオリンピックの聖火を守るために創価の会員を動員するとか中国人と創価会員が共同で行動することは本気なのか、利用しようとして利用されるのはわかりきったことと思うのだが・・・・・


「立正安国論」にしてもモンゴル(中国)から攻められることから守ることだった。現代的に見てもひたすら巨大化した中国に追従することが立正安国なのか?日蓮は外国からの蒙古襲来の危機に際して日本の独立を主張したのだから中国にただひたすら追従することは日蓮の教えにも逆らっている。日蓮の日は日の本であるから日本の独立を意味していた。今や日本が中国にチベットのように蹂躙されることはありうるからだ。そういう危機的状態が中国の巨大化で遠い将来ではない、近い将来の切実な問題となりうるのである。

これは創価だけではない日本全体に共通している。


今も昔も自民党は財界との付き合いが深い政党だが
近年、経団連の影響がより深くなり、その悪影響があるんだろうね。

たくさん中国に工場建てて進出しているし、中国市場は巨大で成長性が高く魅力的だから、
下手に中国政府を刺激すると、日本企業がいじめられて困る。
そうなると財界の支援者から文句が出るし、
選挙支援やパーティー券購入・関連の利権を失うことになり、自民議員は怖れている。
アメリカとの関係も似たりよったり。

経済的メリットだけを考えて、経団連様のために何も出来ない&売国に走る政府・自民党。
本当に情けない


自民党も同じだし民主党でも抗議していないし共産党もコメントしていないからいかに中国との経済関係が深まり経済優先になるとこうなってしまう。モラルはあとで利が先になる。グロ−バル化は一国経済でないから利にかたよる。その結果として国のモラルはあとまわしにされる。国自体が明治からすると弱体化して
会社主導の社会になってしまったからである。

●戦後はモラルなき利のみ追求の社会

モラルとか信条とか義と経済的利害は対立する。中国という巨大化した市場なしではもはや世界経済は成り立たないというときモラルは後回しにされる。チベットを応援しても何ら経済的に得することがないのだ。では何のために応援するのかと問われる。そこには何らかのモラルや人権問題や権力の横暴に対する批判、一国の独立を暴力で侵犯する問題があり世界的な問題として波及する。日本は戦争に負けてから経済的利益だけを追求してきたのである。社会全体がそうであり宗教団体もご利益、経済的利益、権益を率先して追求してきた。だからモラルとか義が何なのかさえわからなくなっている。戦後追求したのは食うこと(経済成長)であり病気にならない、健康であり長寿である。人間は食うために生きるにあらずではなく食うために生き長生き自体が目的化した。だからあくことなき健康の異常なほどの追求であり長生きの追求であり介護もまたそうした一環の価値の追求の中で生まれた。社会全体でモラルが優先的価値にすることはなかった。個々にはモラルを追求する人があっても国として追求することはなかったのだ。それが精神的荒廃を生んでモラルなき社会の荒野化したのである。

グロ−バル化で世界は狭くなっている。ネパ−ルのポカラではチベットを逃れた人が住んでいる地域がある。二万人がネパ−ルに逃れている。チベットの難民はアメリカをはじめ世界にいる。また新疆ウイグル自治区東トルキスタンのコルラ(庫爾勒)出身の青年に北京で会った。若者は今世界を旅しているから世界は狭くなったのである。ここでも中国の過酷な弾圧が問題になっている。日本の太平洋戦争はモラルを第一とした戦争だったとしきりに言う、義のための戦争だったという。アジアの大義のための戦争だったという、それが本当なら今回のチベットの殺戮に対してもモラルから義から国として中国に批判すべきである。それがないということは日本ではあれだけの犠牲があっても歴史としての継続性はない、何が義として追求したのか明確ではない、いくら美化しても現代の人には理解できないだろう。歴史は継続だとするときチベットに対する国の態度も継続性が必要になる。現実チベットは戦争中中立の立場をとり日本を応援していたという、これはあまり知られていないだろう。チベットと日本からかけ離れた国だからなかなか関心をもてない、でも中国の横暴を許したら今度は日本の番だという恐怖がある。その恐怖は刻々迫りつつある。陸続きだと常に大陸は隣国から侵犯されるのが歴史である。そして難民が他国に逃れるのも必然である。だから国境も変動しやすいのである。日本は島国だからそういう難民問題にも無関心なのである。国際政治音痴になりやすいのだ。チベットも今や遠いかけ離れた国の問題ではない日本の問題となってしまうのである。日本も中華帝国の一部と化してしまうのは近い将来の問題である。アメリカの後ろ楯を失うとき確実にそうなってしまうのである。また中国は世界に蹂躙された植民地化された恨みをもっている。欧米でもそうだし特に文明国として日本に教える方だったものに蹂躙されたことが許せないのである。

歴史とは、人類の巨大な恨みににている 小林秀雄

この恨みを忘れないし恨みを晴らそうとしているから怖いという面がある。その最大のタ−ゲットが身近な日本になっていることが最大問題なのである。

関連問題
http://www.musubu.jp/jijimondai29.htm



蒙古襲来とにている今(立正安国論を読む)

●立正安国論の要点

其の国当に種々の災禍有りて国位を喪失すべし」
 この「国位」とは、国王の位という意味で、それを喪失するに至ると言うのです。
 それで次に、
              
 「一切の人衆皆善心無く」

「賊来たりて国を劫かし、百 姓亡喪し、臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん」
 そのような衆生の果報があると、今度はそこに賊が来てさらに禍を増し、上より下までの人々が互いに是非の争いを起こして世が乱れるというのであります。

四方の賊来たりて国を侵し、内外の賊起こり、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて百姓荒乱し、
 とうひょう こうき                   け          しち
 刀 兵 劫起せん。是くの如く怪する時を七の難と為すなり』と」

「一には穀貴、ニには兵革、三には疫病なり」
 一の「穀貴」とは、食物や物価が騰貴して、民衆が経済的に大いに苦しむことです。今の日本社会も、形は変わっても経済の混乱による人々の不安と苦しみは同じであります。
 次の「兵革」とは、戦いが起こるということで、これはこの後にもお示しになっておられます。
 三の「疫病」とは、あらゆる流行病、伝染病から、得たいの知れない種々の病ですが、すべて衆生の悪業によるのです。

           しんにょう
 「常に隣国の為に侵 I せられん」
 内憂が外冦に発展して、他国より侵し乱されるということになるのです。


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●歴史をふりかえる

日本の独立が脅かされる兆候としてチベット問題が世界的に問われることになった。これは中国が巨大化するための警告として欧米の策略と言う人もいる。それは日本が満州を支配した時欧米がとった戦略と同じであり欧米に逆らうものはつぶされる、その歴史の繰り返しとして中国に警告の意味でチベットに援助した結果としてオリッピックのボイコット運動があった。そういえば確かに欧米との対立で日本はつぶされた。中国も欧米の対立で警告としてチベットが問題にされる。冷戦でソビエトもアメリカにつぶされた。ソビエト連邦は崩壊した。歴史は繰り返すというとき確かにふりかえるとそうである。日本の戦争は大東亜戦争と太平洋戦争と二つの名があるが一方はアジアの大義でありこれは欧米の植民地解放戦争として大東亜(アジア)の義としての戦争だと右翼の人はしきりにいう。それ故に今もその戦争を賛美している。欧米からの独立を助けるための戦争だったと言う。現実に一部確かにそういう面があった。しかし中国に進攻する大義名分はなかった。中国を欧米の支配から解放するというのは中国自体がそんなことは望んでいなかった。太平洋戦争はアメリカを戦争にまきこんだ。欧米仏のなかでドイツは丁度日本とにていた。ヨ−ロッパ、アメリカも一枚岩ではなかった。ドイツのナチスはゲルマン人優位で支配する世界帝国を夢見ていた。アジアで神国日本として戦ったのとにているのだ。神がかりでありドイツは歴史的にもヨ−ロッパでは異質な世界だった。アジアの歴史は常に中国をめぐり展開された。古代から百済滅亡は唐と日本の戦いが韓半島にはじまり明治維新になり韓半島に争いが再発した。それは世界情勢とも関係して起こったのが違っていた。中国は欧米にたいして植民地にされたこと、日本にも支配されたことを恨みに思っている。それは歴史的恨みであり簡単には晴れない、中国は今やモンゴル帝国となりつつある。モンゴル帝国の版図の拡大でありそれは鎌倉時代の蒙古襲来ににている歴史の再現が迫っている。それで「立正安国論」の日蓮の言がまた生きてくる。日清日露戦争から五〇年して太平洋戦争が起こった、次に五〇年は日本はの平和を享受して未曽有の経済発展があった。歴史的サイクルで五〇年たつと世界情勢が変わり動乱の時代になるのではないか?そういう変わり目に来ているのではないか、何かの兆しでたちまち世界情勢が変わり動乱になり世界戦争にもなる。そういう波乱要因をチベット問題はふくんでいる。

●蒙古襲来とにている今

賊来たりて国を劫かし、百 姓亡喪し、臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん

四方の賊来たりて国を侵し、内外の賊起こり

この賊とはなになのか、これはやはり中国と韓国や在日などが日本の国を乱すものとなる。中国人にしても相当数が日本に来ている。一時的な人が多いが東京ではずてに一割くらいが中国人である。在日の数も多い、これらのものが国を乱すことが真実味を帯びてきた。韓国はまだいいとして中国の圧力はあまりにも大きくなってきた。それは日本国を脅かす鎌倉の元寇の時代とにてきたのである。韓国、在日はモンゴルに従い日本を攻める兵を出してともに進攻してきたからである。

其の国当に種々の災禍有りて国位を喪失すべし

ここで日本の独立が脅かされる。それは中国のモンゴル帝国化した巨大化により日本の国は戦争がなくても実質的に支配される。そういう危機的なものとしてチベット問題がなりうる。チベットの次は明らかに台湾であり次は沖縄であり日本本土の順になっている。それはすでに中国では予定のなかに入っている。それが中国の政治の目的である。日本にはもはや有無を言わせなくするのが中国政府の日本に対する最終目標である。日本はその時国位は失う、天皇もその時中国に従う、中国の一属国となってしまうのだ。蒙古襲来はまさにそういう危機でありその危機のさなかに「立正安国論」が書かれたからである。その時はアメリカは存在しないから国際情勢は変わり当時の神がかり的な仏がかり的な思想は適応はできない、でもそういう危機に際して書かれたものはやはり危機のなかに生きてくる。忘れられていたものが危機のなかで蘇るのだ。

「一には穀貴、ニには兵革、三には疫病なり」

現実に食料危機が叫ばれるようになり穀物、小麦が高くなっている。自給しなければ日本は危ういとなっている。戦争も迫り疫病はエイズのようなものかもしれない、今の時代と同じになりつつある。兵革は徴兵制でもあり戦争に備えて徴集される。ニ−トなどは真っ先に兵隊として徴兵される時代になるかもしれない、戦争に備えるとなるともはや国に余裕がなくなる。そうなると高齢化問題も様相が変わってしまう。高齢者に金など使っていられないとなるかもしれない、五〇年の平和と贅沢を享受した時代は終わるかもしれない、国難になればいろいろな問題も見直され価値観もいいにしろ悪いにしろ変わってしまうのだ。国難とかなればどうしても老人はもはや対処できない、そうなると明治維新のような志士がでてくるかもしれない、老人大国の日本になると言うが国難の危機になれば様相がまた変わってくる。ここに時代の先が予測しえないことが起きる。

●中国一辺倒の創価でも混乱が・・・・

公明党の太田昭宏代表は18日午前の記者会見で、チベット問題をめぐる北京五輪の聖火リレーの妨害行為に関し「それぞれの人の考え方があって、それをどうこう言って制止できるものでもないし、制止すべきだと思っていない」と述べた。
 また「わたしに制止できる権限もなければ、そういうものでもない。人には自由があるから」と語った。一方で「北京五輪の成功に向けて、力を注ぐことが大事だ」と強調した


時事通信社 2008/04/18-12:27
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008041800406

創価ないでもやはりこれだけの世界世論が沸騰してくると無視はできない、日本でもそうである。この発言はいかにも苦しい状況がにじみでていた。創価は国際政治を利用して勢力の拡大を計る。中国もそうだしパナマのノリエガ将軍もそうだった。でもこれもアメリカにつぶされたのですぐに関係をたった。ノリエガ将軍はアメリカで逮捕され百年の刑になっている。池田はこれを隠すためにやっきとなった。

その当時、池田は、富士の聖地にノリエガ庭園をつくり、世界中の人々に、ノリエガとの親交ぶりを誇示していた
http://www.asyura2.com/0601/senkyo20/msg/1067.html

これもすぐに壊したのだろう。創価は政治に深くかかわり勢力を拡大化してきた。それには危険があった。世界情勢は常に変わるし政治の世界は一寸先が闇だとか変わりやすい、だから一見時流にのっていいと思っていたら今度は裏目になる。先が見通せないのである。中国との交流は時流にのったもので創価にとってはいいものとして働いてきた。でも今回のようになると内外での世論の盛り上がりに対して創価は何だと問われる。そのために窮して太田代表から世論に考慮する発言がでてきた。これは池田会長の意向なのかわからない、ただ創価内でも混乱しているし日本国内でも混乱してくるのは鎌倉時代の蒙古襲来とにているのだ。もちろん創価は日蓮を利用したカルト団体だから何か信念を貫くことなどない、利があれば利のある方につき利がなければ離れる。それだけの団体である。だから時流にのれないと世論から国内でも国外でも批判に耐えられなくなる。それで混乱して分裂することもありうる。池田会長だけではもはや対処できない、八〇才では国難に危機に対応できないのである。池田会長そのものの力はすでにないのかもしれない、今回のような危機に際して対応が誤れば失脚することさえありうる。つくづく人間は個々人でも家族内でも組織内でもいつまでも力を保持すること権力を保持しつづけることはできない、権力交代は必ずある。それも権力失墜は劇的になりやすいのである。権力をもったものが一転して無力化する。それを家族が認知症になってまざまざと見たからこれは権力をもっているものにも起こることだと思った。どんな優れた人でも権力の座に長くいることはできない、権力の座は常に変わる。永続することはできないのだ。



南相馬市鹿島区のス−パ−の藤越が6月で閉店に(ショピングセンタ−の是非)

●商店の歴史をふりかえる

藤越がヨ−クベニマルに併合され採算とれない藤越店が閉店する。南相馬市の鹿島区も6月に10年間つづいたが閉店する。最初の店屋は通りに面して商店街が形成された。それは街道沿いに商店街が形成されたから江戸時代の延長としての店であった。その後商店街は駅前通りになり車社会になり国道沿いに発展して行った。ス−パ−でも農協がでて駅前にあったが郊外にス−パ−ができて道が拡張された。そこに藤越店ができて最初は客が集中した。次に郊外にス−パ−が二つできて競争となり藤越は不用となった。だいたい商業の変化は最近激しいから10年間くらいで変化する。車社会はますます加速してあとに戻れない、人間は便利なもの一旦手に入れたら前の不便な生活にもどれないのだ。藤越がなくなり近くの車を運転できない老人は困るだろう。すぐ後ろに住んでいたとき老人は手押し車でも買い物できたがあと二つのス−パ−は遠くなるから不便になる。ス−パ−は一カ所で買い物がすべてできるから便利である。ではス−パ−がないときどうししていたのか、歩いて買い物していた。歩く範囲が買い物する場所だった。歩くとなると極めて限られた範囲なのである。その時車がなかったかというと車はあった。卸屋などは車を使って店に配達していた。だから中間の卸屋が多かった。卸屋を職業とする人も多かったがス−パ−だと必要なくなり激減した。道路の整備、車社会の発達で物の流通が便利になった。

汽車だと荷物を運ぶのは結構な手間である。どこの田舎の駅でも引き込み線があり貨車を引き入れて荷物を運んでいたのが国鉄時代だった。これは一旦貨車一両でも引き込み線に入れて荷物の揚げ卸しをするのだから不便なのである。卸(おろし)−おろすからこの言葉ができてきたのか物を下ろすことが卸屋の仕事になったのかもしれない、これがトラック輸送、宅配便時代になりすたれた。家まで直接輸送されるのは車なら通勤でも家から会社に直通できるように便利である。車の利便性が社会を変えてしまったのである。角屋(すみや)とかがあるのは通りの角は立地がいいからはやるということがあった。街の通り中心に街が形成されていた時はそうなっていたのだ。駅前も立地がよく土地の値段が高かった。それが今度は原町区にイオンのショピングセンタ−ができるがこれは車がない人にはそもそも行けない、六号線からも遠いので自転車でも遠くてなかなか行けなくなる。自転車でも六号線はそれほどの不便さを感じないがそこからニキロでも離れると往復4キロになるから遠くなり不便になる。車社会がかそくした結果としてショッピングセンタ−ができるがこれは前にも述べたが高齢化社会には不便なものとなる。現実に山の村などでは車がないと生活できないから病気になった老人は街で暮らす他ないと言っていた。車がない生活はもはや考えられない、でも高齢化とかガソリンの高騰とか車社会のコスト高はその歯止めとなる。車社会はすでに限界に達しているのにさらに無駄な道路を作っている。それは地方の活性化にもつながらないのだ。

●大資本にのみこまれる小資本

商売で成功するのは一般にそこの人間よりも余所者が多いわけです。それはその地域のしがらみにとらわれず、新しい経営ができるからです

こういうのはわかるけどそもそもス−パ−はよそ者であり地元の資本ではない、イオンのショッピングセンタ−にしても地元に金は回らないとか批判している議員もいる。資本主義はそもそも弱小資本(小売店や卸屋など)巨大資本にのみこまれてゆくのがグロ−バル化の経済である。江戸時代の前から神社の前で無縁の世界を作り市を開いて商売させた。そこを無縁の場所として商売させた。縁結びの神社が無縁の場所というのも変だがあえて無縁の場所を作らねば自由な物買いが田舎ではできなかったためである。
奇妙だが現代はこうした巨大資本や車社会の結果として地域が無縁化している、近くの神社もご利益をさづけない、ご利益をさずけるのは無縁化したス−パ−とか広域化した仕事である。宗教団体が繁栄したのも地域の神社などの無縁化による。宗教団体は全国的ネットワ−クを作る、小地域の鎮守の社ではない、これも巨大資本のグロ−バル化の結果だった。それは全国ネットワ−クでご利益を提供するから会員もふえたのである。車を運転できなくなる人が多くなる高齢化社会は狭い地域で暮らしが成り立つことが大事になる。遠くの名医より近くの藪とか遠くの親戚より近所が頼りだとかになる。車社会はすでに限界でありショッピングセンタ−も時代に逆行したものとなっている。

近くの農家から新鮮なとりたての豆をもらった。新鮮だから野菜もうまい、ス−パ−だととりたてのは出せない、どうしても遅れる、店屋をやっていたが朝は買い出しに行って即座に店に並べたとすると新鮮だった。その野菜はすべて地元でとれたものだった。悲しいかなそういう野菜を作って店屋に売っていた人も買って店屋で売った人も老齢で寝たきりになりともに介護に追われる時代になった。いづれにしろ藤越ではずいぶん買い物したので残念である。買い物の種類が今は多いからかつての商店街のような買い物はできない、あの頃の主婦が相当忙しかったのではないか?一軒一軒回っていたら買い物だけでも時間がかかるし電気の道具、洗濯機もない時代もあったから食事の用意だけでも大変だった。なぜ昔は大家族だったのか?それは大家族でないと生活できないからだった。大家族だと仕事するにも何するにも便利だったからである。だから働く−ハタラクは大家族のなかで忙しいのを見て端を楽にしたいということが労働の動機になっているのだ。介護や病人の看護などは特にそうである。大家族の中で余力あるものがすることに向いていたのである。コンパクトシティ−大家族とかにもどるのがいいというのは歴史は繰り返すというとき庶民の生活にもあてはまる。古きに回帰することが新しいことになるのだ。

●突出する技術への罰

クレタ島のミノス王の不興を買い、父子は塔に幽閉されてしまう。彼らは蝋(ろう)で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出したが、調子に乗ったイカロスは父の警告を忘れ高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した

これは不便な幽閉から脱出しようとして技術に頼ったのはいいにしてもそれが度を越した時、裏目にでた。技術は突出しやすく、制御できにくいのである。原子爆弾もそうだった。過度な車社会も災いをうみ自然からの罰を受ける。またグロ−バル化も今日テレビでやっていた、米の問題もそうである。貿易の自由化で国内で生産される米の三倍くらい輸入米である。それが同じ倉庫にあり消化しきれないで輸入米を輸出したり国内米を減反せざるをえいなとかこれも実に不自然なのである。グロ−バル化経済も国内の自然を無視した不自然なものだからあるとき自然から罰を受ける。外国で米がとれなくなったときお手上げとなり外国に隷属することになる。江戸時代の飢饉は別に世界のグロ−バル化によらないでもなくすことができた。国内でも今や飢饉は防げる。国内の交通網の発達と一反当りの収穫は何倍にもなっているからである。過度のグロ−バル化経済は一国の経済を歪め文化を破壊するのだ。食は文化の基だから深刻なのである。米をもっと食べろというときこれも社会の変化でできなくなっている。米が食いたくないとかではない、朝にご飯にする時間がなくなっている。大家族ではない小家族になると食事など家事に費やす時間も限られてくる。朝早くから起きて用意するのが大変になる。するとどうしてもパン食が便利になる。パン食はかえって米よりカロリ−が高いというのも意外だがパン食にせざるをえなくなっているのだ。これも社会の変化であり米を食いたくないとかではない、ご飯を作る余裕がない社会になっているからである。これも小麦が高くなり石油が高くなり乳製品も不足して高くなるなどで変わってくる。車もコストがかかるしパン食もコストがかかるとなると米が見直されることになる。極端なグロ−バル化は食の文化を破壊したがその見直しも各国でなされることになる。技術の無制限のグロ−バル的拡大が今日の便利な世界を作ったのだがそれも見直される時期にきているのだ。


だからアメリカとかは車で買い物するから一括で多くのものを買おうとする
すると巨大スーパーであるウォルマートなんかが発達する
日本は近場で毎日の買い物でもそれほど時間がかからない
するとコンビニなんかが発達する



中国人はすごいぞ。出稼ぎで日本に居るわけだが収入の半分は国に送るとかで
ちょっと2,3離れた市(合併後。合併前に直すと5市向こう。駅12個分)へ自転車で出掛ける。


ガソリンが高くなり自転車が売れているそうだ。田舎では車がないと不便だからなかなか車を手放せない、バイクがふえるかもしれない、ショピングセンタ−は車があるからこそ田舎でも成り立つ、ショピングセンタ−の発想は広いアメリカ向きである。でも車がコストがかかりすぎるから車を利用すること自体限界にきている。車は必要でもやはりこの多さは以上であり制限されるべきものだった。車が少なくなれば事故も少なくなる。やはり中国人はタフである。日本人も若いならこのくらいのまねをしたらどうか?、日本人は便利なものに頼り軟弱になりすぎたのである。とにかく藤越は毎日利用していたので不便になる。あと二軒ス−パ−があるがこのくらいの町では二軒くらいが良かったのだろう。地元の野菜など売っている店があるが今は買い物の種類が多くて忙しいのでス−パ−なしでは生活できないのだ。介護とかなると忙しくなる。買い物自体が一仕事である。老人は買い物すら誰かに頼らねばできない将来的には高齢化社会では買い物すらできない不便なものとなる。



障害者施設放火で家主の志村容疑者「入居者と折り合い悪かった」
(ボランティアは偽善になりやすい)


県警幹部によると、志村容疑者は、初め月40万円だった施設賃料が更新で下がり、1994年から2006年まで務めていた管理人としての給料も20万円から、03年ごろには14万円に減り、不満を漏らしているという

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080617-OYT1T00136.htm

●神は行為を見ずその個々の人の心を見ている

資産家で土地をもっていたしそれで福祉関係者とかかわりボランティアを生きがいにした。もともと感謝されたいとか称賛されたいとかそういう目的で福祉にかかわった。別にこういう動機はめずらしくない、金持ちのボランティアは慈善事業がそういう面がある。また社会的義務として寄付が強要されることもある。この女性も慈善家として社会に認められたい立派な人として社会から見られたいというのが動機であった。そういう動機だったのだがかかわっているうち、感謝されるでもない、一角の慈善家として崇められるでもない、これはつまらないとなりカンボジアにボランティアに行ったら称賛される、感謝される。外国だと金が欲しくて持ち上げられることが多い。でも今度は日本の施設の方が大事だと言われ批判された。結局施設では自分は何だったのか?ただ金をまきあげられだけの金を慈善の名目でむしりとられるだけだと思うようになった。自分は身銭をきって慈善に尽くしているのに結局金をむしりとられるだけだと思うようになった。

こういうことはボランティアでは日常的にあるのだ。感謝されたり称賛されたり崇めらることを望むとそうなる。それも身銭をきっている。土地も建物のも提供しているからわずかな金銭を寄付しているのとは違う、自分はこれだけやっているのにこの待遇は何なのだ・・・ただ財産をむしりとられるだけだ・・・・それが恨みともなってゆく、それだけの財産を寄付して尽くしているのだからその見返りがあっていいはずだ。それがない、ただ財産をむしりとられるだけだった。そもそも私は障害者などにかわいそうな人などに同情したわけではない、私は称賛が感謝が慈善家として社会的にほめられることを望んでいたのだ。それがないとしたら何のためにやっているのか?ただ財産をむしりとられるだけだ。馬鹿らしい阿呆らしい、あんな障害者のために尽くしているのが馬鹿らしい、死んでしまいともなるのか?その心理は必ずしも異常者の心理ではない、善を行おうとして悪を行うようになる。ずいぶん心理に詳しいじゃないか?あなたも経験者ですか・・・・そうです、人は善を行おうとして善を行いない、だから神は聖書では行為で人を判断しなかった、創世記から「人は心に図ることは幼いときから悪いからである。−創世記8−21「神はは心をみている」心で判断する。行いでは判断しない、いかに資産がありそれを寄付したとしてもその行いで判断しない、その心−動機を重んじたのである。慈善でも「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」無自覚的な無意識的な慈善は肯定されていた。

●無意識、無自覚的な善行は一番むずかしい

例えば認知症の家族をかかえて近くの人がかわいそうだから馬鹿になっても返すわけにいかないから話をあわせてくれた。それも一緒にがんばろうなとか言っていた。事情がわかっていて受けいれてくれていたのだ。それは別に慈善をしようとかではない、その人の性格から人情からそういう態度で認知症の人でも受けいれていたのである。その人だけが事情を知ってそうしてくれたのである。あとは差別、偏見になってしまっていたのである。「神が心をみている・・・」というとき宗教団体の人もこれとにたりよったりなのである。現実彼らが社会に求めているのは称賛でありそれ以上に実質的権力でもある。その心の内は愛とか慈悲のかけらもない、ただ自分はこの世で力があり偉いんだということを知らしめることであり愛とか慈悲の心は全くない、人の心ほど偽るものがないというときもそうなのだ。人間は行為と心が一致しないのだ。慈善はほとんど偽善になりすいのはそのためである。そもそも心見ることができるのか?認知症であれ精神の病は心と関係しているからむずかしい、心は臓器のように見えないからである。確かに脳は機械で見たとしても心は機械に見れないのだ。誰が心を見れるのか?それは全能なる神しかないのである。心は神にしか見えないのである。だから神は行為とか行動から人を見ない、それが大慈善を成しても神はその行為に重きを置かないのである。そもそも人間の行動は正義のためだとか言っても実際は権力を得るためなのが多い、日本の戦争にしてもアジアの大義とか大義名分にしてもその実は権力を求めるものがあった。アジアの権力的支配のための戦争でもあった。それはどこの国でも言えたことだから同じである。

●日常的に起きているボランティアの矛盾

この人は極端にしてもこうした葛藤が慈善とか宗教とかにかかわる人には起きてくるのだ。善を行いば称賛される、ほめられると思い行動するがそれがないとしたらただ現実として大切な資産をむしりとられるだけだとなり恨みとなる。そんな犠牲になることは馬鹿げているとなる。慈善には宗教には犠牲が要求される。原始的な宗教でも常に動物とかを犠牲に捧げていたのは何かしら神に祈り願うときは神が願いを聞いてくれるためには犠牲を要求されることを直観的に感じていたから絶えず犠牲の儀式が行われてきた。神への祈りとして資産も神に捧げる必要があったのかもしれない、この人は犠牲心ではなく資産を供与した対価を常に求めていたのである。その資産の額も多いから口惜しいとなる。小金だったらこうはならなかったのである。これは極端になったから何なのだろうとなるが日常的にボランティアとか宗教関係者では起こっていることなのである。宗教関係者が偽善になりやすいのは宗教が説くモラルがあまりにも高すぎるから実行できないものだからそうなる。だから慈善でもちょっと資産があるからこれで自分の生きがいを求める、称賛もあり感謝もあるからいいことばかりだと思ってやってみたらただ要求されるだけで与えられるものがなかったとなると恨みになり怒りにもなり結果的に一番最悪の結果になってしまったのである。

●行為で善を示そうとするとき迷路に陥りやすい

初めに、神は天地を創造された。

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された


この世界は誰が作ったものなのか、誰のものなのか、全能なる作り主、創造主のものである。神は全能であるが人間はいくら科学で努力しても全能にはなりえない、人間は人間の力で神の創造した世界を我が物にしようとしている。それが結局無力なのである。最終的に人間の努力で営々と作られた文明自体バベルの塔のように崩壊するからだ。人間の限界は脳のことがわからないことなのだ。いくら科学的に脳を解析みようとしても見ることはできない、認知症でも不可解なのは心と関係しているから心が見えないから謎となってしまうのである。結局この世のことは科学でも政治でも経済学でも社会学でも法律でも技術でも解決しえないのだ。最終的にはこの世界を作った全能の神に頼るほかないのだ。作り主が全部知っているからこそ作り主は最善のものとして作ることができるからこそ頼るのである。慈善にしても矛盾してくるように人間の行いでは解決しないのである。行いを重視するとき今回の事件のような迷路に陥ってゆく、宗教団体は常に行為を重視する、心の問題はめんどうだからどうでもいいとなる。行為で実りを示そうとするとき宗教の場合は迷路に陥りやすいのである。行為は常に人間の力を示そうとするものでり人間のみで解決しようとする、そこに常に呪いが災いがある。自分の心の悪念、罪はさておきこの世を仏国土にしようとか天国がこの世になるとかいうときそれはありえない、そもそもそういう本人が自分がこの世を支配する、この世の王になるとかこの世の欲を満たすためで一杯なのにそんな天国などできるわけがないし不可能なのだ。それが実現したときは悪夢であった。共産主義も悪夢だった。その指導者たちは結局権力を我が物にしようとする人たちだったからまた腐敗したのである。

人は心に図ることは幼いときから悪いからである。−創世記8−21

その容貌と身長を観るなかれ。我すでにかれを棄てたり。わが視るところは人に異なり、人は外の貌を見、主は心を見るなり。 (サムエル記上16:7)

マタイによる福音書 / 6章 3節

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

《エレミヤ書17:9〜10》では、
「心はよろずの物よりも偽るもので、
はなはだしく悪に染まっている。
だれがこれを、よく知ることができようか。
『主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
おのおのに、その道にしたがい、
その行いの実によって報いをするためである』



農民が土地を求めた満州に戦争の原因が・・

●農業するため満州へ土地を求めた

日本の戦国時代の戦争の原因が飢饉や天災などによる食糧不足に起因した食料確保のための土地の農耕地を拡大するためだった。戦争の原因は食うために戦争せざるを得なかった。モンゴルが中国に攻めてくるのも定期的に食料が不足するから農耕民の中国に攻めてきて食料を奪った。騎馬民族だから武力に優れているからそれができた。それで中国では万里長城を築いたのである。人間は食い詰めるといやがおうでも大胆な行動を強いられる。普通だったら故郷で暮らすが食い詰めればそうはいかないから外にでてゆくのだ。それが戦争の原因にもなるのだ。日清日露戦争から満州の土地の確保が原因だった。それが継続して太平洋戦争になったのだ。満州事変から太平洋戦争に拡大したからである。日本は世界でも農業が経済の根幹であり日本では米も満足に食べられない時代が延々とつづいた。それは戦後10年くらいまでつづいた。なぜなら麦飯を子供のとき食っていたからだ。だから米を満足に食べることが念願だったとするとその土地が必要であり開墾の時代が戦後までつづいていた。そして日本ではその土地がないから外国まで移住して農業をするようになったのである。国内では明治維新のとき北海道が開拓されて有明海とか他にもここでは八沢浦とか開拓されたが開拓する場所がなくなっていたのだ。移民のきっかけとなるのは外国でも飢饉だった。アイルランドのジャガイモ飢饉は有名である。

100万人以上のアイルランド人がイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民し、その後10年でさらに100万人が移住した

この移民は戦後もつづいていたのである。農業を根幹とする志向はつづいていたのだ。ハワイでもブラジルでも農業移民であり農業の労働者であった。移民の目的は土地をもって農業をすることであった。


父の話によると、同期に入隊した隊員のほとんどは農家の次男・三男坊で食い扶持を減らすため志願した少年が多く、九州・鹿児島や東北出身の隊員の家庭はとくに貧しかったと言う。
http://www.news.janjan.jp/living/0604/0604031887/1.php

イラクで戦うアメリカの兵士も認められたくて加わっているのは移民の貧しい若者なのである。戦争はこうした若者にとってはアメリカの階級の上に登る一ステップとなっているのだ。

昔は無職連中は満州とかブラジルとかに騙して移民させてたんだけどな
今回も何とか騙して国外に追い払えないもんかね

今は無理だろう、情報がこれだけあるのだから楽なところには行こうとするが新天地などといってもだますことはできないだろう。その当時は食い詰めていたからそういう大胆な政策もすすめることができた。日本で食えなくなるより満州に行けば食えるとか希望があるとなっていたのだ。

●欧米列強の植民地争奪戦に一枚加わる

満州が日清、日露戦争から争奪の地域と化したのは明治にすでに朝鮮併合がありその延長として鉄道も満州と結ぶ計画があった。明治以降は開国してからは欧米列強の植民地の支配が進んでいた。そこにロシアが一枚加わり世界は弱体化した中国を食い物にしたのだ。世界的弱肉強食が露骨化したのが欧米列強の植民地支配とともにはじまった。日本もそこに一枚加わった。朝鮮併合がその一歩でありその先に未開ともいえる広大な満州が広がっていた。しかしそこはロシアと境界を接していたし中国人の反発も強い危険地帯だった。欧米のやり方は貿易でもうける政策だから港とかの点の確保である。農耕民志向だとどうしても土地の確保に向かう。土地を支配してそこに農民を送り込むという支配の仕方ではない、貿易でもうければいいとなる。だからアヘンまで売りつけてもうけようとしたのである。日本は農耕民志向で土地に執着した。満州は広大でありその土地を得て農業をしようとしていた。実際あの寒冷地でも米を栽培しようとしていた。外国でも米を食べたい志向は変わらなかったのである。当時の世界情勢は露骨な植民地支配であり今のような経済支配ではない、グロ−バル化経済ではやはりそこには軍事力ではない、公平な経済のル−ルが適用される。これもまた露骨ではない隠微な世界支配に通じているが当時は露骨に国と国の権益が衝突した時代だったのだ。その露骨な権益支配に日本も参戦して敗北したのである。だから日本だけが責められるというものでもない、中国に関しては欧米でもロシアでも同じ植民地支配の帝国主義の時代だったのである。ただ欧米は土地より貿易に重点を置いていた。遊牧民だから土地に執着しない、アフリカでも土地を支配するというより奴隷として人間を売りつけるのも遊牧民のやり方である。羊を飼うことと人間を飼うことも通じているし商業が遊牧民から起こっているのもそのためてある。

西暦一千九百年
恨みは長きアム−ルよ
露人の暴に清の民
罪なく逝けり数五千


当時流行したこの歌は大陸志向のスケ−ルがあった。西暦一千九百年とはさらに一千年の興亡がロシアや中国や日本にあることを示唆しているのか、罪なく逝けり数五千・・・というとき広大な大陸の興亡にのみこまれてしまった日本人の無情を歌っているのである。

●満州に固執したことが命取り

なぜ戦争が起こったのか、それは太平洋戦争でも国内で食わせられない、人口増加に対応しきれないから国外に食わせるための農地を必要とした。その時は工業製品を売って食料を輸入するという方策はなかった。国内で食わせられる人口は制限されていた。江戸時代の鎖国は人口制限されたなかで生活していた。開拓するにも明治以降は土地がなくなっていた。北海道も失業した武士が開拓したがそれでもたりず外国に開拓する土地を求めるようになった。江戸時代なら間引きとかで人口調節せざるをえなかったがそういう方法はとらなかった。戦争の原因の淵源をたどれば人間が食えなくなる、食うためには食料を生産する土地が必要でありその土地が国内になければ戦争で土地を確保して農民を送る政策をとらざるをえない、モンゴルは定期的に食料がなくなるのだから定期的に農耕民の中国に戦争をしかけ食料を略奪する。日本の戦争の原因の一つもそこにあったのだ。満州に移住したらその移住した日本人を軍人が守らねばならない、そしたらロシアとかと対抗する軍事力をもたねばならない、そこで富国強兵政策がとられ土地を拡張する戦争となる。これは戦国時代の論理と共通している。そもそも貧乏な国が戦争できるのか食うや食わずで戦争できるのか?むしろ食うや食わずだから戦争する、追い詰められているから戦争に走る、北朝鮮が強力な軍事力をもつのもそのためである。軍事力で脅して世界から援助を受けるのもそのためである。日本の戦争も石油資源や食料その他アメリカの経済封鎖で戦争に追い込まれたというのも一理ある。戦争の原因の元を正せば食えない人たちが大量に国にあればジャガイモ飢饉のように大量に移民も発生する。満州も移民の場所だったのだがロシアとか中国、アメリカの権益がせめぎ合うところでありそれが致命的なものとなり日本は満州を通じて太平洋戦争に突入して自滅したのである。動物だってライオンでもトラでも腹が減らなければ無闇に他の動物を襲ったりしない人間はそれだけではない、欲望が深いから襲うのだけど基本的に食うことが満たされればそんなに危険な命を失うような戦争をしないことは動物と同じではないか、無益な殺し合いをそんなにすることはないのだ。



有明干拓から土地を求めて満州へ



認知症老人より劣る普通の老人?
(人間の価値は誰もわからない、神のみぞ知る)

●ロボットではなかった認知症の老人

認知症の老人と接したの私の場合は家と病院だけであり実際のところ数に接していないから認知症についてはこれは私の家族の場合に限って書いてきたのでありそこにどうしてもかたよりでてくる。今度の療養型病院で接した認知症の人は不思議だった。同じ病室だから身近であった。この認知症の老人は一目見てわかる。顔がこわばったようなひきつったような普通の顔をしていないからわかる。この人は体は自分で車椅子を運転できるのだ。ただ車椅子に自分でのったりできないから常に「お願いします、お願いします、おねえさん、お願いします・・・」と言っている。その前に「お母さん、起して下さい」と言う、この女性で家族のことを言うのお母さんというときだけである。車椅子にのってあとは病院の廊下を回り看護婦さんにまた「お願いします、お願いします」と大声で言って歩く、外のトイレに入る時もそうである。でも自分で食事しているし体自体はそれほど悪いとは見えないのだ。同じ病室の人は体はそんなに悪くない、自分で食事しているし一人は自分でポ−タブルトイレにも行っているから近く退院できる状態にあるのだ。ここで一番いい状態にあるのはA子である。認知症の人をB子とすればB子は体はそれほどでなくても認知症という病気をもっているのだから障害者となるから普通の人と同等に扱いないから大目に見ることが必要になる。看護婦さんも迷惑なのだがいやいやながら世話している。でもこのB子がそれほど迷惑かけている人ではない、不思議なのはお願いしますというのはやはり世話になっている何かしてもらっているから大人としてそう言っているのだ。ただしつこく大声で何度でも言っているから迷惑になる。そんなに何度も大声で言う必要ないのだ。何かしてやると「ありがとう」と言っているのだ。その他何か迷惑かけることはない、ただベッドをとった寝床から這い出してきて起してください、車椅子にのせて下さいというのがわずらわしいのである。私がこのB子に接したときこの人はロボットかと思ったのである。同じことを何度もロボットの反応のように言っているからである。認知症の人間の尊厳が問題になるときがあるけどそれを知りたくてキ-ワ-ドで調べている人もあるがロボットと人間は違う。B子はまだ人間としてわかっている。お願いします−ありがとうと言うのは自分がどういう立場にいるかわかっているから言っているのでありロボットととして反応しているのではないのだ。だから認知症でも人間として接することができることがわかった。

●他者をうらやむばかりの老人

一方ではA子はほとんど普通の人と変わりないが人のことをみてうらやんでいる。認知症のB子をみても常に自分でできるんだから自分でやれと言っている。何でもしてもらってうらやましいとか言っている。大事にしてもらってうらやましいと常に言っている。私も毎日行って介護しているとそれもうらやましいと言っている。自分は食事も自分でできてトイレも行けるのだから相手をうらやましがることは何もないのだ。でも人間は他人をうらやましがる。他人は何であれうらやましい良く見えるものなのだろう。
認知症のB子と普通のA子を比較すると看護婦さんでも他者からみれば認知症の人は嫌われるし世話するのにやっかいなのだが毎日通って見ていたらそうでもないように見えたのだ。それは奇妙ではあるが普通の人でも認知症の人に劣るようにさえ見えた。前に脳出血でただ泣き笑うだけの老人をのことを書いた。あの人も今思うと無邪気な人だなと思った。子供のように泣き笑うだけであり何か邪気がないのだ。その女性も外から見ると悲惨であった。でも人間の不思議は認知症でも泣き笑うだけの人間でもその評価は簡単にできないことだった。実際こういう人たちは他から見たら障害者であり人間として劣等なものとして評価される。ところが人間の評価はむずかしい、人間の価値は簡単には評価できない、ここでもロボットかと思ったがそうではない、それは普通のA子と比べたときそう思った。

その理由はなぜ自分がいい状態にあるのにやたら他者を自分より苦しい状態にある人をうらやましがるのか?それが疑問に思った。そういう人はどこにでもいるし普通だともなるが別にうらやましがらない人もいた。

あとは 婆さんたちの中でも好き嫌いが激しくて、婆さんAと話すと Bが嫉妬する。
もう 車椅子を押そうとすると 「あんたは、あいつと話してろ!! お前なんかに車椅子押してもらいたくないわ」だの 今度の実習生は無駄口ばかりで役に立たない、だの、1日中陰口言われたよ


こういうことが多いことは確かである。老人は若い人に世話になるのにわがままな人もいる。
認知症のB子は他者に関しては一切なにも言わないというより他者と会話できないのだ。ただお願いします、ありがとうしか言うことができない、ただそれだけでもなく実際はうまく会話すればできるらしい。B子についてはどういう事情でここにいるのか全くわからないからなかなか会話はできない、でも会話を望んでいることは確かだし全く会話できないこともない、認知症とは何か、認知症の人に人間の尊厳などあるのかなどいろいろ疑問に思って調べる人がいる。でもそもそも人間であることは何であるのか、そのこと自体わかる人はいないだろう。ただ泣き笑うだけの人でも人間なのか、人間の尊厳があるのかとなるがその女性の方が他者をやたらうらやみ刺をもつ女性よりいいかもしれない、別にA子は悪い人ではない、普通の人である。ただ人間の価値は簡単にわからないものだと思った。人間の価値は簡単に評価できないものである。普通世間では才能のあるもの、権力のあるもの、商才のあるもの、腕力の強いもの、美貌があるもの、財力があるもの、・・・・これらが普通に評価されるものである。それ意外は弱者として評価されない、敗者として見られるだけである。宗教団体でもそれを追求している。世間的価値あることを最大の目標として運動しているのだ。拝む場合もそうである。ただひたすら財力、権力、才能、世間で力をあることを求めている。そうでなければ世間的に力をもつことは不可能である。一方本当の宗教の価値観は違っている。

すなわち勇士と軍人、
裁判官と予言者、
占い師と巧みな魔術師
老練なまじない師はとりさられる
わたしはわらべをたてて彼らの君とし
みどりごに彼らを治めさせる
(イザヤ−3−4)

というとき根本的に人間の世間的価値観と別な見方をしているのだ。軍人が尊ばれる時代は一番悪い時代だった。戦時中がそうだった。最悪の時代だったのだ。そこに平和などありえなかった。占い師と巧みな魔術師-これはカルトの宗教団体である。これが現代にはこびって民をまどわし力を求める民はあがめるのである。誰もみどりこに治めさせようなどとは考えない狂気のさただとなる。この世を治めるのは力の強いものでありこの世で賢いとされる才能あるものである。裁判官もそうではないとするのは裁判官も神から見たら賢いものではない、人は人を裁くことはできない、人を真に評価してさばけるものは神しかありえないのだ。その神の見方が世間の価値観と正反対だから聖書は不思議な書だとなる。

プライドに異常に固執するのは異常-リア王の狂気と同じ

私のK子も本当に優秀な人だった。学校も一番であり体も強かったし賢い人でもあったはずだったのだ。そして驚いたのは脳卒中で死線を彷徨いあの世からこの世にかえってきたとき最初に言ったことばがかすかで聞き取れなかったのだか「オレは優秀だった」というのには驚いた。そこまで自分が優秀なことに固執してしいたしそのあともそうだった。これはすでに病気であった。これほど優秀だということそう思うこと自体病気である。それはリア王の狂気にも通じていたのである。また自分は罪を犯していない、だからこんな病気になるはずもないとしきり言っていたが実際罪は知らずに犯していたのである。それは傲慢の罪だったかもしれない、罪を犯していないというということ自体、傲慢だったともなる。認知症はそもそも不可解でありあまりにも謎めいていることを何度も書いてきた。でもリア王の狂気のようにこれは単なる脳の病気だけではかたずけられない、人間の根源的問題がありこれが医学の分野、薬とか脳の解剖だけでは解決できないものかもしれない、「オレは優秀だった」と一旦死んでまでそうこだわりつづけているのは異常であるし実際異常だったのだ。他にも夫が懸命に世話しているのに怒って首だとか夫に対して妻が言うのも異常であり認知症になっていたのだろう。道理を全くわきまえないからだ。認知症の人は道理がわからなくなる。理性が働かないから道理がわからなくなる。それほと尽くしている人にそんなひどいことを言うこと自体自分の立場がどういうものかわからなくなっていたのだ。例えばこういうこと宗教団体の長とか一般的に権力者はそうなりがちである。社会的に地位ある人でもほとんどそうである。俺は偉いんだと優秀なんだとリア王のように人間的に異常化している。認知症だけでなく人間一般的に権力志向だしこの世の強者になることが世間的価値の追求とするとき大方の人は最後にそうなりやすくなる。認知症や老人になるとそうした価値が一挙に崩壊する。だからこれは一般的人間の問題かもしれない、認知症は特殊な人の脳の病気であり普通の人には関係ないとはいえない、認知症にもいろいろあるがロボットと見えても人間とロボットとは違うし人間は認知症になっても最後まで人間なのである。



認知症と生まれつきの知的障害者の相違(知的障害者を虐待は老人の虐待に通じる)

いずれも東京都青梅市の無職少年(16)や中学3年の少年(14)ら14〜16歳の少年8人を逮捕、 13歳の少年を児童相談所に送致した。

調べでは、少年らは今年1月12日午後1時ごろから約1時間にわたり、
たまたま道で出会った青梅市の知的障害の男性(20)に、「タイマンしろ」などと因縁をつけ、
顔や腹を殴るなど暴行を加えた上、バッグから現金8万円を盗んだ疑い。
中学3年の少年は、「自分より弱そうな相手を選んだ」と容疑を認めているが、
「身体(障害者)をいじめて何が悪い」と反省の態度はないという。

産経新聞 2008.8.22 12:00


●老人の認知症と生まれつきの障害者との相違

家族が認知症にかかわり障害者についていろいろ考えるようになった。認知症の特徴も精神障害として現れる。そこで回りから精神障害者と同じように見られる。偏見、差別がでてくるのだ。今まで親しく世話していた人すら危険視され差別、偏見になった。認知症の場合はこれまでいろいろ社会で尽くした人が多いし立派だった人が多いのだ。そうした人が認知症になることが普通なのである。それが手のひらを返したように差別、偏見になった。認知症と普通の精神障害者との相違は何かとキ-ワ-ドでくる人がいる。
認知症の老人は普通に、またそれ以上に立派な人として生きてきた人が多いのである。生れたときから精神障害で世話になりつづけている人ではない、だからこそ家族でも対処に困るのだ。今まで立派にやってきた人が突然障害者に転落することはあまりに衝撃である。そのことをずいぶん書いてきた。だから生まれついた精神障害者とは違うし実際違った接し方が必要なのである。認知症になったからといって手のひらを返すように偏見、差別となり危険視されることは人間はずいぶん薄情なものだと思った。すべてがそうではないがあんなに親しくしていたり世話した人がそうなることに怒りさえ覚えたのである。なぜなら特別世話した人は認知症になっても馬鹿にせず普通に努力して接してくれたからである。恩を忘れずに前と同じように接してくれたのである。

障害者の問題は何なのか?特に知的障害者の問題はむずかしすぎる。その一番の問題は知的障害者であれ認知症であれじかに接した人しかわからないためである。特に認知症はそうである。家でじかに接した人しかわからない、わからない人は何もわからない馬鹿になってしまった人間のように思うのである。でも認知症は大人としてわかることはわかっているのだ。世話した人がいれば自分は世話したのになぜ来てくれないのか、裏切られたとかいつも言っていた。ただ例外的に病気を知って接してくれた人がいた。こういう人は特別なのである。いったん認知症になったらかかわらなくなる。さらにひどいのは偏見、差別になるのだ。それも世話した人すらそうなるのだから人間は薄情だとつくづく思った。ただ知的障害は扱いにくいのでそうなるからいちがいに批判はできない、自分にしたって嫌だったし許せないことがあり死んだ方がいいと何度も思ったから知的障害者の扱いはやっかいなのである。

●社会が見たくないものを隔離する問題

なぜ知的障害者に偏見、差別があるのだろうか?それは要するにそもそも知的障害者がいかなるものかわからないからなのだ。知的障害者は養護学校で普通に接することはない、隔離されて育つ、現代は嫌なものは隠される。死もなるべく目立たないように病院で人は死に死が家で迎えたのとは違う、中世辺りだと死体は道端にごろごろ放置されていたのだ。

化野の露……人の世の無常をあらわす枕詞だ。古来、この化野では風葬が行われており、うち捨てられた無縁仏が散乱していた。その惨状を嘆いた弘法大師空海が里人に土葬を教え、一宇を創建したことがこの寺の起源である。その後、法然が念仏道場を開いたことから念仏寺と呼ばれるようになった

これほどに死体は日常的に目にするものだったからこそ無常を感じて仏教に帰依する人も多かった。それしか救いがなかった。病気になれば医者も病院にもかかれないから仏に救いをも求めるほかないから祈る他ないからそうなった。

認知症の対処でむずかしいのは簡単に家族でも社会でも馬鹿になったからと排斥できない、親として立派にやってきた人や社会的にも功労者が多いのである。そういう人たちを認知症になったからと差別、偏見になり簡単に排斥できない、これは老人一般にも言えることである。今や老人など尊敬に値しない、老人に何の価値があるんだ、ただ若者の負担になるだけだという時代である。でも若者も必ず老人になるのだ。その時老人の悲哀をやはり感じさせられることになる。その時認知症になる老人もかなりの数になる。生れたときから障害者になる確率は低いが老人になる確率は百バ−セントであり認知症になる確率も高齢化では大きいのである。だから極少数者として生まれつきの障害者を排斥するのとは違い自分自身の問題となってくるのが高齢化の問題なのである。

●高齢化は障害者に弱者になること

この事件が生まれつきの知的障害者だけでなく弱いもの、老人や認知症の人にも向けられたらどうなるのか?そうなることもありえる。弱者に対する虐待が日常的になる。そしたら老人や特に認知症の人はその孫や子供の世代からいたわれるというなことはなくなる。そういうモラルのない獣のような若者が出てきたということも怖いことである。サカキバラ事件も知的障害者を殺した。何か歯止めがあったものがなくなる。団塊の世代を批判するがその頃にこうした事件はなかった。歯止めがあった。その歯止めとなったのは何かわからないにしてもその心の中で社会的圧力のなかで歯止めがあったのである。その歯止めがなくなったとき人間は獣化して「身体(障害者)をいじめて何が悪い」とまでなるのだ。つまり障害者でも障害者を若者が知りいたわることは老人や認知症になってもいたわれる社会となるのだ。そして障害者で一番の問題は障害者が社会のなかで隔離されることなのだ。隔離されることは障害者がいかなるものなのか見えなくしてしまうからだ。認知症でも隔離されるとそうなる。ただ家族でも知的障害者でも認知症でもかかえこむことはやっかいなので病院や施設にあづけることになる。あづけると楽なのだ。だから療養型病院などで施設に入れない認知症の人が結構いる。こうした障害者とか弱者が逃げ込む場所が現代では宗教団体とか人権団体とかなるのだがこれら団体は一種の暴力団とにたところがある。弱者をかばうように見えて弱者を種に権利を要求してくる。また弱者でも本当に弱者かどうかとなると疑わしい人もかなりいる。でもそういう団体に入ったら外部の人は何も言えなくなる。要するにそこも一般社会からは隔離される場所であり障害者は社会から見えなくなるのだ。創価とか左の人権団体は団体で要求してくるから圧力をかける怖いからかえってそこに障害者が入ると一般の人は近づかなくなるのである。ここでもやはり隔離されるのである。

現代の問題は種々雑多な人間が混合している社会ではない、子供でも年長者も幼い子供も一緒にいる子供の世界がなくなった。餓鬼大将は下のものをいたわるということがあった。そういう子供社会も失われた。学校では学年ごとに人間は分類され見たくないものは隔離される。人間は同質なものなかで育てられ異質なものは見ないようにされている。この世には実際は汚いものもあるし見たくないものも存在する。それはさけて通れない、それを隔離してさけていると今度自分の身にふりかかったら差別、偏見化される。特にみな老人となり弱者になるのだから高齢化問題は人間がみな弱者化することを経験することなのである。いづれにしろ障害者の若者の度を越した虐待は実は高齢化の弱者化した老人の虐待に通じている。こうした若者が育っていることは誰も弱者になった老人をいたわるということもないしむしろ障害者化した老人は抹殺しろとか恐ろしいことになりかねない、弱肉強食の世界が老人にも適応されるのだ。これが極端化するとどうなるのか?現代ではナチスのように弱者は本当に抹殺される。現実に優生法が適応されガス室送りになるのだ。
やっかいなもの、役に立たないもの、社会に負担だけをかけるもの、隔離するだけではない、社会から隔離して次は本当に社会から見えなくされてしまうのだ。

現在いわれている優生思想として定着していったようです。近代以前は、基本的には障害者、病者は「放置されて」いました。厳しい差別はあったにせよ、社会から意図的に隔離・収容はされていなかったようです。ましてや、「新・旧らい予防法」や「優生保護法」の示しているような「撲滅」の対象ではなかったのです。近代での優生学・優生思想がそれを可能にしたのです

ハンセン、障害、優生思想
http://www.arsvi.com/2000/0803ak.htm

ちなみに日本では、戦時中に国民優生法という法律が成立しており、戦後一九四八年に優生保護法という法律が制定された。これは、「不良な子孫の出生を防止する」ための優生手術(子どもを産めないようにする手術)などを規定し、それと同時に女性の人工妊娠中絶を規定するための法律である。優生保護法というあからさまな優生思想にもとづいた法律が、日本では一九九六年九月まで堂々と存在していたのである。
http://www.lifestudies.org/jp/yusei01.htm

日本すら戦時中に優生法ができたのはやはり戦争こそまさに弱肉強食の最たるものだからである。弱いものは殺される、抹殺されるからこそ内部でも躊躇なく同じことが行われる。スパルタと同じになる。最初から弱者自体が抹殺される。それは戦争と関係していた。つまり戦争するということは弱者を抹殺することなのだ。戦争を肯定することは内部の弱者を抹殺することに通じているのだ。戦争をなくして平和にしようとするとき障害者や弱者を隔離して見えないようにすることは戦争肯定にも通じているのだ。戦争となれば老人や障害者を世話する余裕すらなくなるからこうなる。福祉より戦争で勝つことが優先される。戦争に勝たねばみな殺しだとなれば余計そうである。戦争はどっちが悪いというより戦争自体を否定しなければ人類はモラルさえなくなる戦争を日本でも賛美する人が結構多い、でも戦争自体が日本が悪い、アメリカが悪いという前に戦争自体を否定する必要があるのだ。戦争はまさに最低限のモラルさえなくなる、地獄の黙示録を作り出してしまう、どっちが正しいという前に戦争自体が人間を野獣化してしまうのである。原子爆弾さえアメリカでは当然だった、私たちが正義のために戦っていたからだとなる。これも戦争によってモラルが全く否定され人間は簡単に悪魔となっていても気づかなくさせていたのである。それほど戦争は人間を地獄化してゆくことなのだ。戦死者を供養するのはいいとして英霊として祭り上げるのは戦争のあまりの悲惨さが現実味がなくなったからである。戦争は本当に悲惨なものだということを後世に示していかないとまた同じことが起こる。



しかし記録によれば、朝鮮人を殺した日本人は、日頃から彼らとはつきあいのなかった人たちだったという。日頃からつきあいがあれば、そういうことは起こらなかっただろうし、実際、知っている朝鮮人をかくまった日本人もいたのである。これは、知らないこと、交流のないことがいかに偏見を抱かせる原因になるかということだ。
http://www.ymcajapan.org/ayc/jp/cutandmix/Cut_and_Mix_Report02.htm

ハンセンシ病への偏見
http://www.geocities.jp/machi0822jp/hansen3.htm

偏見、差別はやはり知らないことから起きてくる。認知症にしてもこれについては家族さえ不可解に思っているのだから知らない人は理解しようがないのだ。でも理解する人はいたのである。その人は認知症について理解してつきあってくれたのである。偏見、差別は回りの人の無知に起こることは共通しているのだ。



過度な延命治療の疑問
(死は救いであり肉体の束縛からの解放だった)


汝よき齢(よむい)に及びて墓に入らん、
あたかも麦束のその時にいたりて倉に運ばるるごとし(ヨブ−5−26)

汝を傷つけしものは神なり、而して神の傷つけしものは神のみこれを癒すべし(内村−12−314)


●認知症の介護二年

あなたは死んで良かった。認知症の地獄の苦しみをもたらす病から解放されたのだ。なぜあなたがこのような酷い病気になったのか不明である。この病気の故にすべてが狂ってしまった。あなたはもともともっていた理性を喪失した。だからあなたは銀行から金すらおろせなくなった。あなたは記憶できなくなった。目の前にあるものを瞬間的に忘れる、記憶できないのだ。記憶の盲目状態になった。それで戸惑い理性が保てず激しい感情に翻弄された。見境なく怒り感情が爆発し暴力となった。猜疑心が強くなりあなたは人も信用できなくなった。なぜなら常に記憶できないから目の前にあるものが消えてしまうからだ。おそらく人間自体もそばにいたかと思うといなくなっているのだ。あなたはそれで絶えず心が動揺して不安になっていた。記憶できない・・・・そこからすべてが始まったのだ。認知症になったときそれ自体地獄の責め苦となっていた。そこから解放されることはむずかしいことだった。なぜ人間にこのような仕打ちをするのか、人間はただ悪魔にもてあそばれるものなのか?どうしてもこんな病気があることが信じられなかった。人間をかくまでもおとしめてしまうことが不可解だったのだ。

脳出血で病院に半年以上の治療

それからあなたは今度は脳出血になり倒れた。食事もできなくなり胃ろうになり点滴になった。これも地獄の苦しみだった。胃ろうは食事したということにはならない、栄養分を胃に流し込むだけである。甘いとかの味も何もない、それで水を飲みたいとかしきりに食いたい食いたいとなっていた。まるで餓鬼地獄だった。水が飲みたいのに水すら飲めないのだ。そんなふうにして生きることが何かいいことがあったのだろうか?ただ苦しみをますためにいたずらに命をのばしただけではないか?もちろんそれでも愛するものが生きていることは健やかなものにとってはいいかもしれない、がこれほど苦しむものにとって生きることは責め苦でしかなかったのではないか?認知症といい脳出血からの延命治療といい、果たしてこうなったら生きること自体地獄ではなかったか?確かに認知症はあとになると物盗られ妄想も消えて顔も穏やかになり扱いやすくなった。でも記憶障害が直ることはなかった。認知症は直ることはない、延々とやはり苦しむだけではないか?脳出血からリハビリで回復する人はいる、でも胃ろうとか点滴とかになり何の喜びもなく生きることが果たしていいものなのだろうか?確かに死だけは避けたいというのは命あるものの願いである。しかしこれだけの苦しみの中で生きることは責め苦以外のなにものでもない、いたずらに命をのばしてやるのはかえって酷であった。まるで刑罰のように見えたし実際そうだったのだ。

死んで精神と肉体の苦から解放された

あなたは死んで楽になった。もはや認知症などという訳のわからない病気で苦しむ必要はない、あなたは前のようにすこぶる健康で陽気な女性に戻っていた。認知症であれ脳出血からの精神であれ肉体の苦痛は今やない、あなたは前のように快活な女性となっている姿が見えた。目には見えないが魂が変容して安らかになっている。あなたは異常に勝気で人には負けないと強がっていたが今はそうでもない、あなたは性格は変わらないがあまり強がらず人の言うことに素直に聞くようになったみたいだ。あなたは前のように私のもとに陽気な霊として近寄ってくる。形はないが見えないんだかその気配を感じるのだ。前より角がとれて柔和になっている感じなのだ。生前は何かこだわりすぎていたが今はかえってそうした疑念もとれいらだつこともない、なぜならそれはあなたの思い込みにすぎなかったからだ。あなたはもともと賢い人だったのだ。あなたは死によって苦しみから解放された。そしてよりよい心に変容したのだ。だからどうしても死が悪いものとは思いない、死なくして一体どうしてあの苦しみから脱することができたのか?確かに死は一時残酷であると思った。でもあなたは死によってまた前の健康な女性となり理性も取り戻した。勝気さは残っていても前より素直になり私に微笑んでいる。
「・・・悪かったな、ごめんな、苦労かけたな、オレは直ったよ・・・今は楽だよ、これからも・・と一緒だよ、・・・とは離れないよ、いつも一緒だよ・・・」そういう声がする。死はどうしても悪いものとは今は思えない、あの苦しみから解放するのは死しかありえなかったのだから。

●様々な死別

突然の死は遺族の心に深い傷を残す。もし何々であればとどうしても思ってしまう

死の過程には様々でありその影響も大きいのだ。認知症の介護を二年して認知症の無惨な姿を見てこれなら死んだ方がいいと思うことが度々あった。また家族環境もそれぞれ違っていて家族でも死はそれぞれ違ったものとしてある。私の場合は認知症の介護二年があり病院が半年とあり最後の二カ月は無意識となり植物人間と化していたから事実上は死んでいたのだ。だから認知症も死を前にして起こるとも言われるから死を比較的徐々に受けいれられたのである。確かに永遠に別れることは埋め合わせることができないから人間にとって一番辛いことである。その死別も人によって様々だからいちがいに言えない、妻との別れ子との別れ兄弟との別れ友との別れ・・・・様々な別れがあり一様ではないからだ。別れた人に対する思いも千差万別なのである。そんなに簡単に割り切れるものなのかというのも人によって思うのも当然である。実際はそんなに簡単に割り切れないものがある。でも死までの過程も死別にはかなり影響している。認知症という特別の病気になるとこれは他の正常な人との別れとは相当違ってくるのだ。だから死は本人にとっても死別した家族にとってもかえって救いだったともなる。なぜなら認知症になったときから前の健康な正常な人であって欲しいと願っていたからだ。それがかなわないとなれば死が救いともなる。そして今死後の世界について考えるようになっている。つまり死んだ人は全く消えてしまうのか?どうもそうでないことを感じている。死んでまだ日が浅いからこの現象はわかりにくいが死者は肉体の束縛から解放されてエ−テルのように自在に存在するようになっているというのも本当かもしれない、そこに見えるのは正常な時よりより健やかなものとして輝いて見える不思議がある。人間はこうして常に不可解なものを経験する。認知症もあまりにも不可解な謎めいたものだったが死んだあともやはり人間はモノでないからミステリアスなものを経験する。人間とはつくづく不可解なものを生前でも死後でも経験するのだ。死とは一つの犠牲であり浄化である。死より生が悪いということは普通にある。人間はいたずらに生をのばして地獄の責め苦を与えているというのもあったのだ。



死は肉体の束縛からの解放


あなたは死んで肉体の苦痛から解放された

肉体はあなたを束縛して苦しめつづけた

精神もまた認知症になり苦しめつづけた

あなたは死んでそうした苦痛から解放された

あなたはより心が自在となり微笑んでいる

私の回りにあなたは陽気な霊となり偏在する

あなたの健康な時代の遺影を見たら

死んでからの方がより光輝を放っている

あなたにとって死は地獄の苦痛からの解放だった

あなたは微笑みつ秋の蝶のように回りを舞っている

あなたは秋の星のように澄んで輝いている

あなたの回りには淀みや塵がない

澄みわたった大気の中に一際輝きを増している

天は浄罪の場でありその輝きはあまりにも眩い

その眩さはまともに見れないほどの光輝

死は魂が変容する救いであり解放であり

新たな神の栄光の場に生きることである



グロ−バル化の正体はアメリカ支配だった

ところが敗戦後日本は,かつて侵略したアジアの国々にくるりと背を向けて,アメリカ経済に溶けこむことによって,猛烈な経済発展を遂げることができたのである。アメリカによって日本は世界に冠たる「経済大国」になったのである

http://www.new-agriculture.net/blog/2007/01/000161.html

●アメリカと日本の農業の規模の相違

アメリカのグロ−バル化による穀物支配というのはどこからきているのか?アメリカの農業と日本の農業の極端な相違である。見渡す限りの平原にトウモロコシ畑、小麦畑、それは無尽蔵の生産を可能にして世界をもアメリカの穀物輸出で支配できる。世界の穀物がアメリカに頼るというのもその規模が余りにも大きすぎるからだ。中国すらアメリカに穀物を頼っているのだからその膨大な穀物生産はまさにこれもアメリカ的でありアメリカ大陸的思考であり日本人には想像もつかない世界である。日本人の田畑は無数に細分化されている。碁盤の目のように細分化されて個々の農家がある。日本人の米作りは無数に無限に細分化された米作りだった。弥生時代の田はさらに一反の田が碁盤の目のようになっていた。日本の米作り見渡す限りの平原のような場所ではない、極限られた狭い場所で成されてきたのだ。それが日本の文化にもなっていた。狭い土地を生かして良質なものを作るというのが日本の文化なのである。それは工業製品を作るのにもその文化は生きている。おおざっぱなものを大型なものを作ること計画することもできない、猫の額のような土地にしがみつき生産性をあげるほか生きてゆく道がないのだ。日本には無限に広がるフロンティアとなる土地がないのだ。その土地を求めて満州に進出したがアメリカにつぶされて終わったのである。

●外国に食料を依存すれば自国の安全もない

食料が一国ににぎられるとき支配されるとき国の独立も安全もなくなる。穀物会社はアメリカでは数家族の手中ににぎられていて巨大な富を所有しているというのもアメリカ的である。アメリカでは桁外れの大金持ちがいて資本家がいて国を支配する。その格差は当然のものとしてある。日本のように平均化等質化は求められない、これは大陸国家ではみなそうである。一将成って万骨枯るとか中国でも歴代の皇帝は莫大な富を集中したし現代でも自由競争になったらそうなった。莫大な富の集中が大陸では起きるのだ。ロシアでも資源国だから石油などで大金持ちが生れる。日本は資源がないから大金持ちは生れない、無数に田畑が細分化されているように貧民の国であった。地主といってもたかがしれている。アメリカの国土は一家で一つの国を領有するくらいの土地を所有している。その差は歴然としている。農業する感覚が余りにも違っているのだ。だから世界を食料で支配するということも自ずから起きてくる。穀物輸出国として世界を支配できるのだ。エタノ−ルも世界支配の一環として穀物メジャ−が作り出していたのだ。それによって穀物の値段が上がり世界の食料支配もできるからだ。

●飢饉は人為的に作り出される

穀留(こくどめ)。幕藩体制の江戸時代のこと、天候不良や病虫害のため米作が不良になると、藩によっては、穀留を行った。米作の不良がひどい藩へ自藩から米穀が流出するのを防ぐための、いわば自衛措置である

穀物も藩内から出さない、江戸時代は藩が一国なのだから自分が困ったり戦略で食料は出さなくなる。
昔から日本でも江戸時代でも食料危機とか飢饉は人為的に作り出される面があったのだ。米も商品作物と化して米だけを作り東北では飢饉になった。米だけを作り他の穀物を作らないから米がとれないと飢饉になった。また江戸時代の幕藩体制は隣の藩が別な国になっていたから助け合わないとなれば飢饉になれば他国から食料を輸入できないから飢饉になり死亡する他なかった。これも政治体制の結果として飢饉となっていたのだ。他の藩から食料が供給されればそうはならなかったからだ。交通が発達していれば飢饉も防げたのである。今や世界的規模で食料の欠乏が作り出される。アメリカに穀物を頼っていれば穀物が安いときは良かったが今のように高騰すればたちまち食料が手に入らなくなる。自国の食料ではたりないからだ。アメリカに頼っているのだからアメリカに市場もにぎられているのだから貧乏な国には穀物が入らないことになる。世界規模で穀物は不足しているのだから中国など大国も穀物輸入国になるのだからますます手に入らないことになるのだ。アメリカだけに左右されている政治も経済も危険である。何でも世界同時に起こる、不況もそうだがこれもアメリカングロ−バルの同時不況だった。アメリカがこければ世界もこける。日本は特に影響が甚大である。アメリカとすべて一体化ししていたからである。株も八〇万損したことはがっくりきた。アメリカ発ですべてが起きてくることは異常である。金融もアメリカがこければ世界がこける。軍事力もアメリカ頼みでありアメリカに追随しないと生きていけない、グロ−バル化とはアメリカングロ−バルでありアメリカが中心となっているのだからアメリカが傾けば全世界も傾くようになっていたのである。ソビエトとの冷戦以後アメリカの力が極大化していたのだ。自由経済の市場といってもアメリカによって操作され小国は安いと輸入に頼っていたが食料すら買いなくなったのだ。グロ−バル化とはアメリカ優位の社会であり平等な権利としてのグロ−バル化などなかったのである。その対極としてヨ−ロッパ連合が生れたのもわかる。経済でもアメリカ一極ではないドルに代わるユ−ロ−が重きをなす世界である。でもこれも今度の同時不況はヨ−ロッパもアメリカの支配下にあったことを露呈した。いづれにしろ何でもアメリカ一極支配のグロ−バル化では世界は不安定になる。一極がゆらげば世界もゆらぎ同時に傾くからである。グロ−バル化の正体はアメリカ一国のグロ−バル化だったのだ。

●グロ−バル化は文化の破壊

肉の消費が減れば肉牛も減ります。肉牛が減れば、飼料とし使われていた穀物が余ります。その余った穀物を飢餓で苦しむ地域に回せればいいという計算です
http://www.kenyo.net/yumanite/kiki.htm

肉食文化も日本にはなかった。明治から戦後アメリカの支配のもとに急速に増大したのだ。牛肉を食べれば食べるほど穀物が必要になりアメリカは小麦やトウモロコシを売ることができたからである。中国でも牛肉を食べるようになってますますトウモロコシなどが必要になり食料が不足してきたのだ。グロ−バル化はアメリカングロ−バルでありそれぞれの国に食の文化を破壊することだった。日本には日本の食の文化がありアメリカのような大規模な農業はありえない、そうなりえないのが日本の文化だった。その文化を否定することは日本の国や歴史を否定することにも通じていたのだ。それぞれの国はそれぞれの国の食の文化がありそれをアメリカンスタンダ−ドでグロ−バル化する必要はなかったのである。巧妙にアメリカによってそれぞれの食の文化が破壊された。一国の食文化はもっとも基本的なものでありこれを破壊すると国全体の文化の破壊に通じていたから深刻だったのだ。国は自立できずアメリカにすべて従うことになる。文化とはその土地と密接に結びついたものでありアメリカにはアメリカの大規模農業があい日本には日本の小規模農業があう、これは自然自体の制約を受けてそうなったきだからその国の自然にマッチしたものだから変えることができないものだった。自然の制約の中に人間の文化は作られる。その制約を越えて文化は作りえないのだ。無限のフロンティアが広がるアメリカ大陸と日本の国土は余りにも違っているのだ。生態系でもそれぞれの国にマッチして作られる。それがセイダカアワダチソウが繁茂して日本の自然の美はそこなわれた。これも文化の破壊だった。アメリカ一極支配のグロ−バル化は生態系も破壊して文化も根こそぎ破壊するから深刻だったのである。西部開拓でリョコウバトを絶滅させバッファロ−を絶滅寸前においやったアメリカ開拓の負の歴史は世界支配の横暴にもあてはまる。それぞれ固有の文化の繊細さを無視して破壊するアメリカの横暴さがグロ−バル化だったのである。ともかく食が文化の基本であるときこれが破壊されることは致命的だったのである。日本は過度なアメリカ、外国依存をやめ日本の資源を見いだし鎖国すべきだとかという意見もやはりアメリカ中心のグロ−バル化大きな転換を求められているのだ。



麻生首相の医者には常識がないの発言の深層

●医者は責任追及を極端に恐れている

今回の医者は非常識という発言は百万件くらい検索に出ていたから相当な反響があった。医者もプログで書いているから参考になったがほんの一部しか読めないから専門意外の人にはわかりにくいだろう。インタ-ネットだとそれぞれの立場の人の発言を読んで総合的に判断するのに向いている。ただその労力が大変だからどうしても偏るのである。ここの救急医療に実際にたずさわる人のプログは私があった胃ろうの手術した医者と同じだった。これほど戦々恐々として患者をみなければならないかとなると患者はまるで医者にとっては責任を一方的に追求する怖い存在であり油断できないものであり信用できないものでありとなりここにすでに互いに信じ合う関係はないから医療そのものが成り立たないことにもなる。医者は患者を信用していない、患者も医者を信用していない、医者は患者に責任を問われることを極端に恐れている。患者は何かの隙を見つけて犯罪人にするものだ。この時点で信頼し合う医療はできなくなっている。胃ろうの手術を担当した医者も何といわれようと今説明したように何か不測の事態が起きても私たちには責任はありません、承服しなければ手術はしません、ここに判子押しなさい、あとは一切何も言うな・・・これで何も言われなくなった。一言も聞くこともできなかった。素人など何も言うなということなのだろう。ただ唖然として一方的に聞いているしかない、これが医者の世界なのかと驚くばかりである。

救急医療の現場
http://ameblo.jp/doctor-d-2007/

●開業医と勤務医は根本的に違う

ただ医者は非常識な人が多いと麻生首相が言ったとき何が非常識なの明確ではない、医者がたりないくなるからふやすべきだと言ったとき医師会は増やすべきではないと圧力をかけて医者は増やされなかった。開業医は特権意識をもちたいからそうなった。弁護士でも増えれば特権階級ではなくなる。ワ-キングプアに落ちた歯医者のようになってしまう。特権を維持するためには非常識なことを要求する。勤務医と開業医は根本的に違っていて医師会は開業医の団体であり勤務医は過重労働になり金銭的にも恵まれていない。勤務医は確かに忙しいからあれほど言うのもそのためだったのかとも思う。現実私のかかった私立病院は経営的に危機になり訴えているからやはり医師不足である。その労働は看護師を見ていたら過酷である。だからとてもじゃないが患者からの要求など聞いていられない、効率的に手術して処理することが先決であり人間的対応はできないとなる。つまりそうした余裕もないから勤務医は同情すべきであるとなる。問題は開業医だというのも本当かもしれない、高齢者が多いしすでに既得権だけを守ろうとする老害団体が医師会になっているのかもしれない、医師不足なのは医師がたりなくなるから増やさないとまずいと言ったとき医師会が増やす必要がないというのはやはり特権を守るために圧力をかけた。医師会は土地の名士だから選挙にも力をもつからそうなった。

●信頼がないとすべてが成り立たない

そもそも人間社会は信頼がないと成り立たない、社会生活が維持できなくなる。先生と生徒にしてしもそうだしあらゆる面で信頼がなかったら何もできなくなる。信仰というとき一番大事なのは神を信頼すること信じることだから信じることが一番大事なのである。そこから信仰がはじまる。ともかく神があるないということの前に信じることが大事なのである。信じてみてはじめてわかる世界だからである。人間でも相手をまず信じなかったら関係も結ぶことができない、医者にしても患者に責任を追求されるばかりでちょっとでもミスしたら責任を問われる、だから責任を問われないように執拗に準備をしておく、証拠を作っておく、現代の世界は医者の世界だけではない、絶えず消費者から責任を問われる恐怖にされされているから私たちは責任はもちませんとくどいほど契約書に書いておく必要が出てきた。会社も訴えられたら大損するから事前に責任を問われないようにする。欧米では互いに信頼することがない異民族の集まりだから微に入り細に入り契約を交わし人間より法律の方を重んじたのである。人間は生来悪いものだから信頼できないものだから権力を監視すべきものとして三権分立になった。権力者は悪いことをするものだからそういう制度ができたのである。東洋では君主制であり徳あるものが民を治めるというとき民が指導者を信頼しないかぎりありえないのである。日本社会は狭い村社会で生きてきたから互いに日頃知り合っていたから互いに信じる度合いが強かったから法律より談合とか話し合いで解決してしきた。相手を信じる社会だったのだ。

今は欧米のように互いに信じられない社会になった。医者と患者だけではない、どこでも人間は人間を信じられない、人間は互いに敵対者であり信じることがない、いつ陥れられるかわかないとなると心を許すこともできない、医者が言うにはその点老人は責任を問われることがないから楽でいいというのがわかる。私も年だからそなに責任は問いませんよと言いたかったがそれすら言えなかった。相手に何か言われることすら感に触っていたのだ。いづれにしろ互いに信頼しないから根本的に人間の関係はなりたたなくなる。何か医者に聞こうとすると責任を追求されるようで嫌なのである。医者にしても相手が信じなければいい医療をほどこすことができない、でも医者を信じるにはそれなりの納得いく説明とか医者の人間性とかいろいろな要素がありこれまたむずかしい、医者も神様でないからだ。医は仁術という時代は医者の腕より人間性をみていた。江戸時代では塾の先生でもその知識よりいい先生だとか人間性を先に見ていたのである。今は医者ならまず腕でありさらに最新の医療知識であり最新の機械を備えているとか医者に要求する割合が信頼する要求が大きくなりすぎたのである。医が仁術だった時代では直らなくてもそれほど責められないから医は仁術だったのである。今は何か病気はなんでも直せると思ってしまうからそうはならなくなったのだ。医者が常識がないというとき江戸時代なら人間としての徳がある、人間性がいいということの方が優先されたのである。それが江戸時代の常識であったのだ。

●貨幣も人間の信頼がなくなれば通用しなくなる

経済にしても昨今の世界的混乱は信用の混乱なのである。

これは信義の問題だ。藩札を発行する時に、これをもっ て来ればかならず正貨に換えると約束したのだ。その約束を破り続けたから結局、藩札の信用がなくなってしまった
のだ。正貨はなんとしてでも私が集めるから、お前たちは とにかく旧藩札を全部引き上げろ。
山田様はこのお国にとって大切な方だ。いま山田様にも しもの事があったら、困るのはわれわれだ。どうだろう。交換していただいた正貨を山田様に差し出して、お城のお 役に立てていただこうではないか


貨幣でも銀行を信頼するとかではない、人間個人が信頼の対象だったのである。でも世の中本当は経済でも人間の信頼なくして成り立たない、人間と人間が信頼しあわないとき経済も貨幣も信用がなくなり混乱して収支がつかなくなる。組織でも中にいるのは人間であり機械ではない、数字を不正に操作するのも人間でありコンピュ-タ-ではない、アメリカのやり方は何か信頼できないというのは人間が信頼できない、不正がありずるいやり方でもうけるという金融資本主義の弊害が出たのである。制度を運営しているのも人間だからやはり人間を信頼しないかぎり貨幣も信頼できるものにはならないのだ。貨幣も証文みたいなものであり貸したものを返すと言う信頼がなければ貨幣は成り立たない、商売でも何でも信用がなくなると不正をすると会社も信用がなくなり致命的になる。法律が万能だと言ってもやはり弁護士も法律を悪用して不正するのだから弁護士も人間だから人間を信じて成り立つ世界である。それは弁護士だけではない依頼する人との信頼関係が大事になる。弁護士を利用して不正をしようとする会社や人もいるからこれは依頼する人間が悪いのである。いくら法が整備されても根本的には人間の信頼関係がないとあらゆるものが正常に機能しない社会になってしまうのである。

貨幣に支配される社会
http://www.musubu.jp/jijicoin.htm



医師はある種、人格形成には恵まれない職業である 
「医師常識欠落」の首相発言


●技術者は人格者ではない

医者は病気を治せればいいわけで 人格者である必要はない
「人格者だけどバカな」パイロットが操縦する旅客機には乗りたくない

お医者さんなんてさ、医療マシーンに徹してもらえばいい。
むしろロボットでもいい。人格者でおっちょこちょいより、尊大でもさ、超絶天才医者がいい

正確に手術してくれたらいい。

医師にしても弁護士にしても料理人にしても、
非常識で一向に構わんね。大事なのは腕、本業の成果だよ。
常識は常識を本業とする人間に丸投げしとけばいい。

世襲かなんか知らんが、大きい個人病院なんかだとおかしな医者居るよな。
何質問しても一々「はぁ?」と小馬鹿にして突っかかってくる整形外科知ってる。
社会性というか、大人の人格・言動が身に付いていない。
こういう奴は引き篭もりと同じ状態。
可哀相だが外の世界に出ないから、年相応の振る舞いが一生身に付かないんだろうな。
コンビニのレジも務まらんよアレは。

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●医者は人格者ではない

そもそも医者が常識がないというとき医者は別に特別な人格者ではない、体を直す技術者とすれば本当はそれほど医者を敬う奉ることもないのだ。でも実際は医者が病気を直せるというだけで特別な人、人格者だと錯覚されている。病気を治すことに対して敬うのと人格者として敬うのとは違っている。そしてではいったい人格者とは何なのだとなると今の世の中で人格者を敬うなどということはありえないのだ。人格とか徳のある人とかいうのは今の時代で一番価値もないものであり価値として認められないものである。人格とか徳とか抽象的であり具体的でないから余計そうである。今の世の中人間が偉いと認めるのは金であり権力であり技術である。昔からそれは同じである。主-キリストも奇跡を起こして病気を治したときはパンを奇跡で与えたときは神のように崇められたが十字架についたときはみな去っていった。すべての人が求めているのはこの世の力である。先生と呼ばれる人はみな人格者ではない、弁護士なら専門的知識だし教師でもそうだしそういう人たちは先生と呼ばれる人は若いときから回りから先生と呼ばれて敬われるから傲慢になる。人を人とみないようにもなる。何か特別偉いんだと思うようになる。特に医者は医者の作家が言うように看護師やら病院の職員に殿様のようにかしづかれる身分だから人格形成には恵まれていないとなる。非常識な人間となるからコンビニでバイトして接客業を学んだ方がいいとなる。一般的にサ-ビス業になると頭を下げる商売だから謙虚にならざるをえない。医者とか弁護士や教師はなる必要がない、常に若いときからもちあげられるからゆがんだ横柄な傲慢な人格が形成される。すべてではないにしろそうなりやすいのだ。

●医者も権力者である

医者とはやはり現代の一種の権力者なのだ。権力者には誰でもへつらう、宗教団体も巨大な権力でありその権力でご利益を得ようとして入る人も多い。宗教団体は権力そのものを求めて活動している創価なども本来の宗教で敬われる世界とは余りにもかけ離れている。つまり宗教でも高邁な人格など誰も求めていない不思議があるのだ。だから世界から勲章を漁り集めているような人を人格者として崇めているのだ。この世で崇めるものはこの世の力サタンなのである。その一つに医療がありそれに従事する医者がいるのであり医者を崇めるのは人格者だからではない、権力者だからである。病気という弱みをもったときその弱みの故に相手を人間とみない、人間性は否定され患者は医者の奴隷にされるのだ。宗教団体でも何かしら弱みがあると先祖の祟りだとか会員になれば助けるとかいろいろ勧誘にくる。そして勢力拡大を図る、権力の増大を図る。人間の求めているのは古今変わらず権力なのである。では人格というときシャカやキリストを崇めるとき二人とも何ら権力はない、家すらないし何ももっていない、無所有でありそんな人がなぜ敬われたのか不思議である。宗教団体化する前の姿は何ら権力的には敬うべきものがないのだ。主-キリストでも病者を癒さずパンを与えなかったら何を敬うのだろうか?弟子を足を洗い謙遜であれと教えた。人間にとって謙遜が大事だと教えた、人格を形成するのに謙遜が大事だと教えた。しかし医者にはそんな患者の足を洗うような謙遜さがある医者はいないだろう。絶えず崇められている、お医者様なのである。それも度を越している。人格者として崇められるべきでもないのに錯覚されている。もちろん死ぬような病気にかかり手術で直ったりすれば医者は神様にもなるのはわかる。それは奇跡とと同じだとなるからだ。でもそれは人格者として敬うということとは違っている。

●江戸時代は人格を重んじた常識が通じていた世界

こういう点、医者は仁術だというとき江戸時代の医者などは人格者が多かったのだろう。塾の先生でもいい先生は人格的にいい先生であることが選ぶ条件だった。つまり知識が極端に少ない時代は人間そのものの価値が重視されたのである。人格形成の点で医者は不利だというとき金持ちや王様や権力をもっているものもそうである。どうしても傲慢になるからである。もし人格形成に価値の重点をおくなら医者は王様のように危険な職業だとなる。つまり人格形成がゆがめられ地獄に行くとさえなる。富者はなかなか天国に行けず貧しいもの謙虚なものが天国に多いというのはそのためだろう。つまりそういう宗教的人格的観点から人間を見るならそうした職業は危険だとなる。でも実際は威張りたいから収入がいいからとかそういう社会的地位が高いからとそういう職業を目指しているのだ。もし人格形成を価値あるものと認めるなら社会の下層でコンビニでも働いていれば謙遜が身につくからいいともなるのだ。それは一つの修行としてやっていれば謙遜の徳が身につくからいいとなる。でもそうした下層階級にいたいという人は誰もいない、つまり人格から人間の価値をみる人はまれであり世俗的に人格に価値をおくことはなかったのである。だから江戸時代の方が常識ある世界であり現代はすべて常識のない世界になってしまったともなる。そういう人格からみる価値観が全く通用しないからである。学校でも人格形成より知識優先であり技術優先であり人格に考慮されることはほとんどない、優秀な人とは人格的価値ではない、数学ができる、英語ができるとか知識なのである。江戸時代は知識ではなく人格に価値をおいたというこは今になると逆に不思議な世界だった。まともな常識ある世界だったとなる。そういう価値観が社会の常識であったということが今では不思議でありイメ-ジできない世界となっている。常識がないというとき社会そのものからそうした人間の根本的価値観が喪失したからそうなっている。別に医者だけではない、人格に価値をおく世界など全くありえないし見えないからそうなる。子供も誰も私は人格者になりたいなどという子供がいないと同じである。 人間は何が偉いのかわからない、この世で威張れる力をもったものが偉いのであり人格形成など価値観のなかにないからすべての人が権力を求めて奔走しているのである。医者になりたいというとき社会的地位が高い、威張りたい、金持ちになる、女にもてる・・・とかそういう価値観で医者になっているとしたらこれも相当常識のないゆがめられた価値観から医者になっているのだからそうした医者は患者を奴隷のように扱うのは当然になる。現実はこの社会みな権力を求めるのだれも弟子の足を洗うような仕事をしたくないからである。それは欧米でも人類全部が同じなのである。誰もキリストの教えなど実行していない、権力を日夜求め奔走しているのが現実なのである。

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕 える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなの しもべになりなさい。



「硫黄島からの手紙」 栗林中将の短歌から (上野霄里氏の鎮魂歌を読む)

●戦争は戦前戦中戦後では見方が違う

「硫黄島からの手紙」のビデオを最近ようやく暇ができたので見た。

醜草(しこくさ)の島に蔓る(はびこる)その時の 皇国(みくに)の行手一途に思ふ 栗林中将

忘れ草我が下紐に付けたれどしこの醜草(しこくさ)言(こと)にしありけり (大伴家持『万葉集』


この醜草(しこくさ)とは紫苑のことであった。忘れ草は藪萱草でありこれは親を思う兄弟の物語がありぎちらも忘れないようと墓に植えた花のことだった。最近家族が死んで墓に毎日のように通ったからこの物語がリアリティあるものに思えた。人間が死ぬと墓しか残らないから墓に対する思いが深くなるのだ。それは万葉の時代も同じだったのである。栗林中将はこの万葉集の歌を参考にして作ったのだから万葉集を相当知っていたのだろう。栗林中将はアメリカに滞在していたし万葉集も勉強していた。武人でもあったが知性もあった。武だけの人ではなかった。

醜草のはびこるときに我が生まる残せし言葉思い深かまる

戦争に関してはこれはいろいありすぎるのだ。姉は死んだが4年間もシンガポ-ルに従軍看護婦で行っていたから意識不明になるまで戦争のことを言っていた。家族に必ずまだ戦争を経験した祖父母がいるからまだ戦争は生々しいものなのだ。ただこれも戦中派と戦後派ではまた違って受け継がれるし見方も違ってくるのだ。例えば戦中派は戦争に参加しなくても当時高校生くらいだとかなり戦争中のことを具体的に経験しているのだ。それで今回上野霄里氏関係の手紙などを見ていたら出てきたのが「鎮魂歌」という手作りの小詩集であった。これは姉から聞いた話と同じことが書いてあった。窓から飛び下りて自殺しようとする人があとをたたなかった。戦争中には相当の人が自殺したのである。自決とも違う病院だから苦しくなって自殺した人がかなりいたのだ。ここでは戦争の非条理を自らの体験から書いているから貴重である。戦争について語られたことは山ほどあるからいちいち読むことはできない、でもそこには何か共通したものがありああやっぱり同じようなことがあったのだとわかる。

今の還暦の人は戦争が終ったとき生まれたのである。「醜草(しこくさ)の島に蔓る(はびこる)その時の 皇国(みくに)の行手一途に思ふ」・・・今皇国などという言葉がでてくると違和感を感じるがとにかく国を思って死んだのである。今死ぬとき国など思い死んでゆく人があるだろうか?結局一身のことしか家族くらいしか思わないだろう。戦争は悪いにしても国という大きな世界に生きていた時代があった。今はひたすら自分自身のことにしか生きていないからいい悪いは別にしてそのギャップが大きすぎるのだ。ともかく戦争というのは日常のことでないから理解しにくい、人を殺し殺すが日常なのだから理解できないのだ。その凄惨な場面を見て異常になった人がいるのも不思議ではない、相当無神経にならない限り耐えられない、それで自殺する人がかなりいたのである。

醜草の物語
http://lapis.blog.so-net.ne.jp/2005-08-01

●上野霄里氏の戦争語る小詩集「鎮魂歌」を読む

上野霄里氏の著作は全部読んでいるけど戦争に関することでこの手作りの小詩集は読んでいなかった。これは戦争とは何なのか知る手がかりになる。ともかく私が生まれたときこういう歌を思いを残して死んでいった人がいたということそれがあとの世代とまた違った感想を戦争に抱くのである。戦争は悪いものにしろ死ぬか生きるかのとき人間の残すものは心にしみるものとなる。栗林中将は家族思いで子供にこの思いたくした。その子供の世代が自分達団塊の世代でもあったのだ。 団塊の世代は国というよりただ経済成長にのり経済のために金のために生きた世代だから皇国のために死ぬという思想は払拭した。皇国とはやはり神聖な国という意味があり自分より神聖なもの大事なものとして国を考えていたのである。ここが戦前戦中世代と戦後世代の大きな相違である。 「 皇国(みくに)の行手一途に思ふ 」私たちは国を守る為にここで死んでゆく、これは必ず省みられたたえられる時がくる。そう部下に言い聞かせて死んでいった。ではその皇国(みくに)を今思っているかというと思っていない、戦争は無益であり無駄だったという意見も多い、死ぬときの後世へのメッセ-ジは重いのだけどそれがひびかない虚しさがあるのは否定できないのだ。



望んでいるもの

日本人は戦争を嫌っているのではない
戦争に負けたことを後悔しているのだ



1981-8-15制作


テレビでも戦争のドラマをやった、何で戦争が起こったか責任は誰にあるのかということを追求していた。天皇にあったのか、指導者にあったのか、国民にあったのか・・・それぞれにあったのだろう。国民にもあった。国民が実際は戦争に熱狂していたし満州は希望の地として続々日本人が入っていったのだ。その時も日本人に満州熱が広まっていた。軍部の暴走だけだとは言えなかった。その当時国民と非国民があり軍部の命令に従わないものが非国民になったが戦争に熱狂している熱望する国民がいたからでもあった。新聞もその国民の意向に逆らうことができないし天皇すらそうだったとなる。ただ日本国民はその当時アメリカのことを知っている人、肌で知っている人は少なかった時代だから余計にそうなったのである。敵を知り味方を知れば百千危うからず・・・というとき敵を知らなかったのが大きな国民の思い上がりに通じたのである。それで指導者はアメリカとの和平を計ったが軍部が特に陸軍が許さず暴走した。その暴走も統帥権で歯止めがきかなかった。シビリアンコントロ-ルができなかった。さまざまな要因が重なって戦争に突入したのである。二〇世紀は日本だけではない・・・二〇世紀は科学技術の時代であると同時に戦争の時代だったのだ。その科学技術も平和利用ではなく最悪の結果、原子爆弾をもたらしたのである。戦争は日本だけが責められるのではない、世界は戦争を欲したし特に欧米はそうだった。だからアメリカは日本に勝ってからも朝鮮戦争-ベトナム戦争-イラク戦争と戦争をつづけたのである。戦争を負けたことがないからアメリカ人は戦争を後悔する必要がないのである。日本人は戦争を後悔していない、欧米の植民地をアジアから解放してやったという戦争の正当化している人はまさに「戦争を負けたことを後悔している」のであり戦争に勝てば正義の勝利となり何ら問題ないのである。戦争自体はどちらも否定していないのである。勝てばいい戦争正義の戦争となり負ければ悪い戦争となるだけである。

人間(日本人)は戦争を嫌っているのではない
戦争を負けることを嫌っているとなる


これは世界的に共通していたのであり日本だけが好戦的だったとかならない、世界の人々がみんな好戦的だったとなる。やられたらやりかえせしかない、それを否定することは非国民になる。汝の敵を愛せよ・・・敵は容赦なくうちのめせ・・・やられる前にやっておけが普通なのである。だから戦争はなくならないのだ。 ただ今や相手が核をもっているとなると恐怖で戦争ができなくなっているのだ。皮肉なことに恐怖が戦争をひきとめる時代となったのだ。 でもいつ世界最終戦争が起きるかもしれないという恐怖におびえていること自体世界に平和がないことなのである。いつ核が飛んでくるかわからないとなるとおちおち寝てもいられないとなる。逆に核がある限り平和もないのである。