時事問題の深層36-2007


相馬発信-小林勇一(小林勇一)
これまで家族の認知症のことでプログで書いてきました。これまでの記録は記事はプログで読んでください
「今日の一句一首プログ」
WHAT'NEW





鉄道は文化、モ−タリゼ−ションは文化の破壊-6月3日

コムスン問題の深層(資本主義の欲望追求と介護事業は相容れない)6月17日

明治維新は何であったか?(相馬藩のその後)7月13日

史実より感情が優先される(伝説の嘘-「鉄道忌避伝説」を読む)7月25日

【格差社会】 歯医者もワーキングプア?…「月給25万」から「夜逃げ」まで7月27日

呪われた金の恐るべき顛末(実際にあった死者の祟り)7月31日

人間はなぜ働くの?(卑近な生活の場面でも哲学は不可欠)8月3日

お盆に思ったこと(墓のあり場所はどこに−靖国問題の深層8月12日

ル−ル(外部規制−法の支配)とモラル(内部規制−宗教)9月10日

認知症の誤解(認知症は正常者かみ見てわかりやすい?)10月1日

福祉介護は現代社会のアンチテ−ゼ(福祉の問題点)10月5日

高齢化社会で問われる遊びの価値(認知症の原因は遊ばないから?)10月7日

高齢化介護福祉社会の労働は助け合いの労働(人間は誰しも社会に大家族制を求める)10月14日

宝くじで殺人−突然入る大金はやはり危険2008−10−23



鉄道は文化、モ−タリゼ−ションは文化の破壊

●戦前の鉄道の状況

川をへだてたむかふは川崎だ
長い鉄橋もつらなる
六郷土手駅よ
お前は大東京を何十里もはなれた
田舎の小寒村の小駅のような体臭を感じさせる
草が生え、こどもが裸で竿を手に
蜻蛉を追ってゆき
黒い煙を吐いて地響きたてて
驀進する機関車は
線路番人がまちくたびれるほど来ない
六郷土手駅よ
けれどこの寒村の小駅は
しきりなしゴウゴウとゆり立てる
電車の往来する喧騒に
瞬間の休息もない
京浜大工場のつとめ人を送り迎えて
六郷川の長い鉄橋を見つめて立つ
六郷土手駅よ
川をへだてたむかふは川崎だ


この詩は1934(昭和九年)、二六才で死んだ平出身の永崎貢(中野大次郎)の作品の一部である。線路番人の意味がよくわからない、ここにもでている。

わたしはある線路番人のことを写し
た。毎日主人の子供をおぶって鉄道の踏み切りのとこ
ろを通る下碑《かひ》のことを書いた。せっせと水をかついで
遠い井戸から主人の|家《うち》へ通う娘のことを書いた。

(島崎藤村−突貫)

せっせと水をかついで遠い井戸から主人の家《うち》へ通う娘・・・・水道がないのだからこういう光景は普通だった。子供のころ私の家にも井戸がないから風呂の水のために近くの井戸から水をバケツにもらい運んだのである。今でも遅れた世界の地域では水運びが子供の日課になっているところがある。線路番人はわからないにしても踏み切り番人は知っている。踏み切りを遮断するのは手動で踏み切り番人がしていたのである。鉄道の旅が長いので鉄道には愛着がある。この詩を読めば現代がいかに変わってしまったか如実にわかる。川崎の近くの駅なのにこんな状態だったのだ。川崎は公害とかを出した工業地帯である。当時もそうなっていたがそのすぐ近くでもこんな牧歌的のどかな田園風景があったのだ。そしてこの当時の情景を現代にあてはめるとこの六郷土手駅はどこになるのかというと川崎からずっと離れたそれも東北の寒村の駅にふさわしいのである。つまりこうした寒村の駅は十里どころではない百里以上も離れた駅となっているのだ。当時もすでに大工業地帯としての川崎の発展があり人々はそこにのみこまれてゆくという感覚はあった。しかし六郷土手駅自体もその大工業地帯化の街となるのはまだまだという感じだった。今の状況というのは東京が川崎でありその東京中心に日本が動いていることは変わりない、新幹線であり常磐高速道路であり東京から拡大化してゆく、東京圏が拡大化してゆく・・・その寒村の駅とはまさに百里も千里も離れた駅の感覚なのである。

●鉄道は文化である。

鉄道は今や文化である。百年以上たって文化になった。その鉄道路線が廃線になるのが多くなっている。伊勢市でも駐車場を作り参宮線が廃線の危機になっている。それはまた単に利便性のためというより文化の破壊ということに通じていたのである。鉄道が文化だというとき例えば地面を走っている電車は大地を走っているから大地とともに自然とともにある。鉄道が最初できたときは鉄道は自然破壊であり桑畑などが煙でだめにされるとか反対された。でも百年たってみると鉄道は大地に根付いた文化になった。ちょうど昔の街道のようなものである。駅では人間的な出合い分かれの場であり鉄道には人間の歴史が刻まれていった。そこに様々な思い出は蓄積されたのである。昔の街道の分去(わかれさり)と同じである。駅は出合いと別れの場であった。極めて人間的な場だったのだ。東京まで八時間もかけて行った時代もそれほど東京は遠い世界でもあった。だからこそ故郷に帰ることは特別なものであった。新幹線で二時間とかなるとそうした感覚も消失する。つまり遠さが消失したのが現代なのである。

鉄道が大地に根付いて走っているいうときこれが新幹線だと高架橋だから大地から浮上して大地から離れて突っ走る感覚になる。それは自然から遊離する技術的成果なのである。高速道路も高架であるから大地から遊離する交通路となる。大地に敷かれたレ−ルは大地と結びついていたのだ。だから鉄道の旅が長いと錆びたレ−ルまで愛着を感じてしまう。地響きをたてるというとき大地に響くのだから大地と結びついていたのだ。高架になると大地へはひびかない、大地から遊離してただ高速で突っ走る、そこに自然は眼中になく高架の道路はただひたすら目的地につくまで機械的に突っ走る。目的地にいかに早くつくかだけが問題になってしまう。途中も省かれる。ゆっくり思案ししている余裕もない、普通列車の旅では停まる駅で駅名だけが心に残り地名に興味をもった。そういう余裕さえないのが現代である。モ−タリ−ゼ−ションの波は人間的な情感を抹殺した。今からふりかえると鉄道は人間的情感にあふれたものだった。この変化は余りに大きかったのだ。今や鉄道はマニアのもの廃線マニアのもののようになるのか?今や鉄道が失われて失うものはすでに文化でありそこで培われた情感なのである。これも人間から情を奪った大きなものの一つなのだ。鉄道のリズムは新幹線は別にして今では相当悠長なものになってしまっているのだ。駕籠とは比べようないが鉄道は極めて人間的なものであった。だからこそ鉄道に関するものは郷愁を覚えるのである。

●急速なモ−タリゼ−ションは文化の破壊

技術は明らかに文化を破壊する。急速なグロ−バル化も世界の文化を破壊した。技術は技術自体を科学は科学自体を歯止めがきかず進展させる。技術に対する恐怖とか歯止めがないのが現代である。ギリシャ神話の火を盗んだプロメテウスの罰の恐怖がない。でも原子爆弾でそれは現実化したのだ。これも技術の歯止めない結果である。科学や技術はすべて良いもの人間に幸福をもたらすという信仰に近いものをもった結果である。現代は宗教は何か現実的なご利益、技術的成果のようなものをもたらさないから宗教でも科学者や医者や政治家がいることで宗教団体も凄いなと頼りにされる。科学とか技術が無条件に容認される。バイオ燃料がいいとなるとすぐに食料となるものも転化させられて問題が起きてくる。そのスピ−ドがまた早いのである。何かじっくり考慮して決められない、世界が同時間に進んでいてオレンジが高くなった食料も高くなったとか世界中で同時進行しているのもグロ−バル化の世界である。モ−タリ−ゼ−ションの波は世界を覆い尽くし燃料が足りないとバイオエタノ−ルがいいとなりすぐにオレンジからトウモロコシやサトウキビに転作される。最近国内ではトヨタが車が売れないから売れる方法を真剣に考えないといけないとか需要を掘り起こさないといけないとか言うがもう車は飽和状態でありこれ以上環境などに負荷を与えるから路面電車や自転車に交通手段を転化させるコンパクトシティが望まれている時代なのだ。先進国では車は飽和状態なのである。

そして大規模ショッピングセンタ−とかもこれも今までの商店街をさらに破壊する。商店街も一つの文化だった。その文化をさらに破壊してゆく、文化を基調にすえるとき技術は必ず文化を破壊するのである。鉄道も最初はそうだったが大地に根付いた文化となった。次に車社会も文化となるのではないか?車はすでに飽和状態であり限界状態でありこれ以上の車社会の進展は環境破壊と文化破壊になっている。だからむしろ歯止めが必要なのである。技術の歯止めなき発展は危険なものという共通認識が必要になっているのだ。つまり社会全体、自然環境の負荷の問題など総合的視野で技術の導入が必要になっているのだ。そういう視野で考えることもなくただただ技術を一方的にいいものとして導入してゆく危険性を論じないのである。それは会社社会、トヨタという国家よりも大きな力をもつ会社の要求の結果、力の行使の結果そうさせられる場合もある。車が売れなければ日本経済は終わりだとなると誰も政治家も文句言えないからである。今やすべてが会社人間であるとき昔の村や町のコミニュティからもの言う力は余りにも弱いから会社の言う通りになってしまう。会社の圧力が余りにも大きいからそれに抗することができない、そして地域の文化も破壊されるのである。





コムスン問題の深層(資本主義の欲望追求と介護事業は相容れない

●すべては介護も欲望追求の手段となる

人間の欲望には限りがない、例えば子供ができないからと他人の腹をかりて生むとか科学者に頼み技術力で生ませる。それは自分の血のつながった子供が欲しいという人間の欲望が医学や科学への働きかけをする。医者もそれに答えるためにどんなことまでもするとなる。そこに欲望の制限のない社会となる。子供がそんなに欲しかったらかわいそうな子供がいくらでもいるのだからもらって育てたらいいじゃないですか・・・とはならないのだ。自分の血のつながらない子供は欲しくないという人間のエゴであり深い本源的欲望としてそうなる。金さえあれば金を払えば人の腹を借りても自分の血のつながる子供も手に入れることができるということなのだ。そこに金が万能となり金の力で何でも手に入れることができる。肝臓でも貧しい国の人から買えばいいとなる。臓器まで売買の対象となる。グロ−バル化しているから日本でだめなら世界があるさとなる。欲望は無限に拡大してゆく。欲望を達成するのが世界まで広がってしまったのだ。

科学技術の発展、経済のグロ−バル化は人間の欲望を無限に拡大化させる。金さえあれば欲しいものは手に入れる社会が資本主義社会だとなる。世界中の食べ物を金さえあれば食べることができる。そこで様々な食べ物がス−パ−に並びありとあらゆるものを食うことになる。胃袋の欲望も世界大に拡大化したのである。売春でも今や貧乏人でも世界を旅して世界の女性を買うことになる。ウラジオストック 売春とかのキ-ワ-ドで必ずきていることでもわかる。ロシアの色白女性やらアフリカの黒美人やら性の欲望も世界大に拡大化したのがグロ−バル化なのである。金さえあれば欲望を満たすことができる。その欲望は限りないのだ。だからあらゆるものが欲望達成の手段となる。教育でも介護でもやはり金の追求が第一となる。経営者は金が欲しい、コムスンの社長もそうだった。軽井沢の別荘の豪邸にすみ外車を乗り回していた。介護は金儲け、ビジネスの手段にすぎなかった。この世の職業は天職となると仕事自体に喜びや意義を見いだすのが本来の職業である。これはwork(作品)でありjobなどはその場しのぎの糊口を得るためだけのものである。その仕事自体に喜びを生きがいを見いだす人は天職にたずさわっている。これは画家と画商の関係にもにている。画家は天職としての絵画の創造を追求している。一方画商はその絵の理解者でもあるがその絵のことなど皆目わからなくても投機の対象として蓄財の手段として絵を買うことがあった。絵に興味がなくても金を目的にして絵を買っていたのである。介護という職業がどういう仕事なのかわからなくても金になるということでも経営者にはなれるのだ。経営者にはその仕事に対する最低の理解がなくてはなれない、絵を理解しない人は画商にはなれないと同じである。コムスンの会長は家族で介護の経験をしたというがそれが活かされることはなかったのだからやはり介護について理解がなかったのである。

●資本主義欲望追求と福祉、介護の価値観の相違

現代はあらゆるものが欲望の対象になる。そもそも資本主社会は欲望によって動く社会であり人間の欲望を肯定することからはじまる。欲望を否定したら経済は停滞するからである。何かをもっと欲しい欲しいということで資本主義社会は成り立つ、その欲望はあまりにも深く大きくなってしまった。モラルとは道徳とは欲望を抑制することからはじまった。日本でもつつしみ深くあれ、つつしむとは罪を露にしないからきている日本人の道徳が言葉として伝えられてきたのだ。日本人につつしむという伝統的美徳は消滅した。あからさまに欲望を追求することが是とされるのだ。その欲望を達成するためには金だとなる。宗教も欲望を達成する手段としての宗教なのである。だからどこまでも御利益追求-欲望達成の宗教となる。欲望を否定したら節制を要求したら誰もそんな宗教団体に入らないのである。どこでも欲望は肯定され欲望が資本主義社会にはかかせないしその原動力が血液が金になっているのだ。グロ−バル化してこの力をもはや否定したり制限できなくなっている。その欲望のために石油の争奪戦で世界戦争さえ起きてしまうだろう。欲望追求の果に世界の破綻が待っている。

この欲望の資本主義社会に対して福祉とか介護の分野はあまりにもその思想でも仕事でも違いすぎる。それは助け合うとか愛とか弱者への慰めとか何か資本主義社会が追求したものとあまりにも違いすぎるのだ。医は仁術というときもそれは福祉の思想が入っていた。貧乏人でもみてやらねばならないということが要求されたからだろう。医療や介護の分野でも金がある人は待遇がよく金のない貧乏人は冷たくされるとしたらやはりここにも資本主義的経済論理が入ってきて福祉とはならなくなる。では福祉の仕事に携わるものはボランティアでやれというのかとなるがそれは極論である。そもそもビジネスとして介護を追求したときどうなるのか、トップは金さえ多くとることが成功だとなる。そのためには遂には公金でも税金でもごまかしてせしめればいいとなる。介護という仕事は弱者を困った人をみんなで助けるということが趣旨である。五人で助けようとしてその長の一人だけが金を独り占めしたらやっていけない、むしろ長たるものは部下に多くして自分は少なくするようなのが福祉の世界なのである。福祉はもともと犠牲的なものとしてはじまったのだろう。だから宗教者が福祉をはじめたというのもわかる。

資本主義的欲望追求の世界とはあまりにも違った世界なのである。そんなこといったら誰も福祉や介護などやらない、トップが大金持ちになったようにそれなら自分もなれるかもしれないと思ってやるのが資本主義社会である。薄給でそんなきつい仕事やれるかだからみんなやめてゆくんだよとなる。確かに福祉や介護は営利事業としてなじまないのだから別な施策が必要だとなる。でも官にまかせるとやはり同じように税金の無駄使いになるのも確かである。それでもコムスンは小規模経営からはじまりその時はその趣旨は実行されていてその仕事を引き継いだのが今の会長だったのだ。ということは福祉の仕事は小規模だとその趣旨にそったことがやりやすいがかえって大規模化すると営利だけを追求することになるから問題だったとなる。そもそも介護は家族でやっていたのだからそういう企業化になじまないものだった。家族がちょっと拡大化したくらいのがいいともなるのだ。グル-プホ-ムなどがそうである。はたらくが端を楽にするというのも身近に働いているのをみて生まれた言葉だから福祉や介護もそういう働き方にふさわしいのである。

●金だけでは解決しないのが福祉、介護の問題

ともかく欲望資本主義社会と福祉とか介護の世界は価値観が違いすぎる。金をつぎこめば解決するというものでもない、そこで働く人も金は必要にしても金だけでは解決できない問題として浮かび上がってきたのである。

「一億円やるからオレのめんどうみてくれ」
「ええ、一億円か、それならやるよ」
「・・・・・・・・」
「金がもらえるからやるけどこの人は嫌いだ、横柄で何でもしてくれると思っている
オレはあんたの奴隷じゃないよ、金のためにだけ引き受けただけだよ」
「もっと心込めて介護しろよ、大金払っているんだからよ・・・」
「ハイハイ、わかりました」


今日落語家が面白いことを言っていた。オレの介護してくれると約束するなら弟子にしてもいいとか言うが本当にこれは笑い事ではない、介護は金だけではなかなかできないものだからそんな話しまでになってしまう。家族だって介護をするのは約束されないからだ。介護士の給料が安いから金をもっとつぎこめば解決するという問題でもない。ただ人手は多ければ多いほどいいから金があることにこしたことはない、でも個々の問題として金だけを追求するとしたらやはりコムスンの会長と同じになってしまう。何にも世間並みの家族が暮らしていける月給をもらえればいいんだよともなる。確かにその世間並みの金が介護士に払われないことが最大の問題だとなるのか?結局福祉、介護にはそんなに金は使えないから何か別な施策が必要になる。やはり福祉や介護に対する価値観の問題にもなる。そんなことに労力や金を費やされていたら国力も衰退してしまうということにもなる。だから安楽死がいいとか言う人もいる。介護は個々の価値観と社会的価値観の問題がある。社会的価値観として低い価値としてみる場合は金は使えない、個々の問題としては金のある人は親をどうしても介護したいという人は別である。社会的価値観としての福祉や介護に対する問題が高齢化社会ででてきたのである。介護という問題は過去にはほとんどなかった。トレイに行けないとか一人でご飯が食べられないとかという時点で放置され死にいたったというから現代が老人に冷たいとかならない、むしろ老人をあまりにも優遇しているともいえる。その優遇故に苦しんでいるのも現代の高齢化社会の実体だった。奴隷は人権的には進歩した待遇だった。皆殺しよりは奴隷でも生かされたのだから人権的進歩だったように介護問題も豊かになり人権的問題として浮上した人類の進歩として現れた問題だったのだ。

布団を出ることができなくなった高齢者には、その枕もとにおにぎりと水を置いて、朝、他の家族員は一家総出で田んぼに出かけてしまう。ここでも、高齢者個人の利益より家族全体としての利益を増大させるための生産活動の方が優先されていたのである。そして、さらに高齢者がひとりでは食事もとることができなくなったときの様子を郷土歴史研究家は次のように語っている。「もう『終り』というのが皆の了解でした。そうなると食べ物も水も与えないようにして、要するに苦しませないように死期を早めた。老人もそうなると覚悟を決めて、そういう扱いを黙って受け入れた。

http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~nabeyama/works/nenpou2.htm

不思議にこれを今の問題にすると虐待とかなり逮捕されるかもしれないのである。他でも実際に乞食と同じような生活をして餓死しした人が自分の隣に昔住んでいた。その人の息子は金をもっていても援助しなかったのだからこれは明らかに息子は扶養義務を怠ったとして逮捕されていたことは間違いない、過去には貧乏だから餓死というのは結構あったみたいなのだ。今は餓死させること食わせないことはその本人が自力で食事できなくても犯罪であり罰せられるのである。これは戦争に敗れて皆殺しより奴隷にされる方が人権的には進歩したことと同じだった。豊かになったとき人権問題がでてくる。中国などは人権がないのはまだ貧しいからなのだ。今回のコムスンの問題も介護は金になると眼をつけた、豊かになって介護は商売の種になることに眼をつけた。昔だったら介護が金になるなどということはない、介護自体がない社会だった。介護のために国が金をだすということもないしみんなで助け合いのため保険金を出すこともない、それだけの生活の余裕がないからである。介護の是非自体が論議されること自体が人類の人権上の進歩なのである。



明治維新は何であったのか?(相馬藩のその後)

●明治維新は天皇が原動力

明治維新成功直後の1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)


明治維新の改革は天皇が重要な役目を果たしたのだ。それは太平洋戦争まで継続されたし今も継続している。靖国神社は明治維新で天皇に功績があったものとして認められたものが祀られているのだ。だから会津藩や西郷隆盛は逆賊となったから祀られていない、江戸時代は江戸幕府の配下としての各地に藩があり天皇は存在しても象徴的な存在で京都で貧乏暮らしししていたのである。ところが西欧列強の圧力で日本は藩という単位から日本という国家、国民となることが要求されたのだ。防衛でも戦国時代のような日本の藩単位の防衛ではなく大きな国として外国からの防衛に飛躍せねばならなかった。それで林子平のような人が国防を説いたのだが受けいれられなかった。一つの国としてまとまるために必然的に尊皇思想が復古して明治維新の原動力となったのだ。西郷隆盛が士族を残そうと西南戦争を起こした時、明治政府の国民軍が戦い勝利したとき真の日本国民としての軍隊が形成された。これも一種の階級闘争だった。明治維新は尊皇思想の復古なくしてありえないものでもあったのが日本の特徴だったのである。天皇の臣民となることで日本国家の一員となったのであり天皇と不可分に結びついて日本の新しい国家は形成された。だからその後も天皇と結びついて戦争も行われたのである。天皇がいい悪いとかではなく歴史的経過としてみておく必要があるのだ。

●子爵として東京に残った相馬藩主

1884年(明治17年)の華族令で法的身分に定められた。内容は新・旧華族に対し、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五等爵が与えられます。

では明治維新で身分制がなくなったかというと身分制が残ったのである。軍隊手帳には平民と記されていたり貴族院などあり特権が残った。相馬藩の殿様は子爵として残っていたことをインタ−ネットで発見した。

一九八二年に創樹社からでた武田助雄の『御禁止山・私の落合町山川記』という本を読んで、はじめて私はその由来を知ることができた。本来、ここは徳川将軍家専用の狩猟地で、そのため「御禁止山」と呼ばれていた。それがのちに旗本酒井家の下屋敷となり、明治にはいって相馬子爵家のものになった。それゆえ「相馬さん」だったのだ


わたしの落合町誌


旧・相馬邸(現・おとめ山公園とその周辺)の「黒門」の写真を、もうずいぶん以前から探しつづけているのだが、「黒門」の精密で見事なイラストを、ついに手に入れることができた


http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-06-06-2

その後も相馬藩主の存在感は東京にあった。相馬事件というのもありこれは明治維新で武士が不満をもったための財産争いに起因していたらしい。西郷隆盛も士族を残そうとしたのもやはり旧弊な士族はかつての身分制や特権にこだわっていたのである。相馬焼も藩の特権として特許を許さなかったが藩の専売から民衆の大堀焼きとして認められたのである。明治維新は庶民の経済活動にとってはいいものだったのである。

戦後身分制はなくなったが相馬野馬追いは祭りとして残り以前として相馬の殿様が主役となっているのは他ではない、相馬藩主の直系の若者が殿様として出陣する。そして相馬野馬追いの行列のときはかつての身分制としての士族が復活しているのだ。相馬野馬追いは民衆の祭りではない、民衆の祭りは平民が町人が民衆が主体である。東北の祭りでもほとんどそうである。相馬野馬追いは武士の出しか参加できない、武士の復活の祭りなのである。この辺が外からみている人にはわかっていないのである。だから二階から行列を見ると怒鳴られたりした無礼だとなるからだ。かつて大名行列の再現が野馬追いの行列なのである。ここではまだ武士が活きていることになる。相馬藩が小藩でも伊達氏とかと対抗できたのは野馬追いの軍事訓練で強かったからだと言われる。武田の騎馬軍団のように野馬追いで鍛えたからだと言われる。

●民主主義は四民平等はアメリカによってもたらされた

ともかく明治維新は天皇なしではありえないものであった。そこに明治維新の他の国とは違う特徴があった。王政を倒した市民革命とは違っている。天皇という旧来の王が復古したのだから外国人にはわかりにくいのである。天皇はヨ−ロッパの王とは違ったものだから理解できないのである。太平洋戦争の敗北で身分制はなくなった。もし太平洋戦争で日本が勝っていたなら天皇に貢献したということで身分制は残っていた。なぜなら東条秀樹でも天皇に貢献したということで靖国に祀られているからだ。天皇の歴史はその後も継続している。四民平等は戦後アメリカに敗れた結果として与えられたものであり日本には市民革命はなかったのである。民主主義も自ら勝ち取ったものではなく戦後与えられたものだから底が浅いし理解していないのである。ただ日本の誇るべきは明治維新が外圧でも内部から成し遂げたことにあったのだ。それは天皇の存在があってこそでありもし天皇がなかったら内戦と混乱状態に陥ったかもしれない、イラクを見ればわかる。もはや国を統一するものがないから内戦状態になってしまった。天皇の功罪としては太平洋戦争を現人(あらひとがみ)神として導いたことである。靖国神社はまさに未だにその象徴として変わっていない、天皇に殉じるものを祀る神社であり太平洋戦争の犠牲者は英霊となる。アメリカに敗れたということは天皇とともに継続した日本の伝統が断たれたということでもあったのだ。その代わりに民主主義という思想と制度がもたらされたのだがこの応用にはまだ理解がたりず混乱状態がつづいているのだ。天皇は権力者としての王ではなく神道の宗祖でありモラルを示す模範としての王であった。武士もまたモラルを実行するものとしての武士であり貴族であったからである。そのモラルが喪失して国民軍に受け継がれたのだが戦争ではただ野蛮な武力だけになってしまった。結局モラルというものは他国から取り入れても一朝一夕には作りえないのである。現代がモラルなき社会となっているのもそのためである。民主主義といってもただ自由だとか平等だとか言葉だけであり厳しい武士のようなモラルは何もないのである。なるべく責任を回避していい目だけを見ようとしかない、功利的大衆民主主義である。ただモラルの頽廃だけが進行する結果になったのである。創価など新興宗教が興隆したのも戦後の空白時期に出てきたことでもわかる。様々な宗教団体も功利的大衆民主主義の結果でありそこに肝心のモラルがないから導くものとはならなかった。それは今や異常なカルトとなり乱れをもたらすだけだったのである。



史実より感情が優先される(伝説の嘘-「鉄道忌避伝説」を読む)

●伝説の嘘

史実と伝説は違ったものである。史実とは現実にあったことである。しかし歴史は神話時代まであり本当にその人物が存在したのかどうかもわからなくなる。伝説は現実にあったことを基にしても嘘や誇張がでてくる。姥捨山伝説は嘘だった、史実ではなかったとか考証して本まで出している人がいる。ではなぜこれほど姥捨山伝説について語られているのか?それは親孝行を奨励するためにお上から民衆にすすめられためだというのが真意だという。姥捨山伝説は真実として史実としては事実としてはないのに広まった。それは後世までも広まって真実のように語られてきた。最近読んだ「鉄道忌避伝説」でも地方誌でも桑の葉が蚕が蒸気機関車の煙でやられるから反対されたのでここには鉄道が通らなかったとか書いてある。これは正式な記録にもないものだがそう信じられてきたという不思議である。鉄道の駅が街の中心からはずれているのは鉄道が街を通るのに反対されたからだというのはまるっきりの嘘であった。街の中心街が通しにくいという理由だけだったのだ。鉄道はまず危険なものではない、人を殺すようなことはない、それに比べ車は一年に一万人と死んでいた。これでも車は危険だから乗るべきではないという反対運動はゼロに近い、だから鉄道にそんなに反対することはそもそもなかったのである。合理的理性的に反対したのではなく漠然とした不安の感情から反発から鉄道への反対があり史実的には資料的には具体的反対運動を起こしたのはほとんどなかったのである。それにしても自分もインタ−ネットにどこにでも書いてあるからそう信じていた。これもまた不思議な話である。ではなぜこうした伝説が信じられて未だに強く影響されているのか?ここが最大の問題なのである。

人間は感情が優先する

人間は事実を史実を信じる前に感情的なものが大きく作用するためなのだ。人間は合理的に知的に資料的に史実にそって考えることが苦手である。第一に感情的に作用する。中国が誇大に南京虐殺事件を語るのは史実でなくても語るのは史実の前に「日本憎し・・・」ということが先にある。日本は中国を戦争でふみにじった、中国人のプライドをずたずたにした・・・そのことが先にあり感情的に許せないということが先にあり感情的に反発しているのだ。もう一つは姥捨山伝説が親孝行を奨励するお上からの意図があったごとく中国にも政府の工作で民衆がけしかけられたデモだったのだ。感情的にけしかけられたのである。人間は合理的に考えるのが苦手だから感情に訴えると大衆を煽動することができる。事実より感情の方が大事であり事実はそのあとについてくる。恋愛は盲目というとき感情的に好きだということはその人がもっている悪い所もみえなくする。また逆に感情的な嫌悪はいい面も見ない、悪い所ばかりみるようになる。認知症になると感情だけで判断する。好き嫌いですべてを判断して嫌な人は嫌だと受け付けない、その人が助けようとしても感情的に嫌いな人は受け付けない、前頭葉が働かなくなり理性が働かない、感情だけは働きそうなってしまう。

戦争中鬼畜米英となるとき米英のなんたるかがすでに感情的憎悪で見えなくなっている。これは北朝鮮では日本憎しとなると日本の何たるかを全く北朝鮮では見えなくなっている。特に情報封鎖されているのだから見えなくなる。すべて悪いのは日本だとなるし戦争中だったらアメリカだとなる。鬼畜米英という憎悪の感情が優先され鬼畜米英のその何が憎いのか何が悪なのかは全く見えなくなる。ただ憎悪という感情だけが前面に出て一致団結する。感情的なものが一体感を作り出すが合理的な知的なものは一体感を作り出さない、集団を導くものは感情的なものである。だから集団にとって敵のあることは感情的なものを全面に出して戦う相手として団結を強めるのにいい。戦争中は鬼畜米英であり中国や韓国、北朝鮮では日本になるのだ。日本に憎悪の矛先を向けることで共産党の幹部の悪行も隠されるからだ。

●戦争の原因も合理的に追求できない

江戸時代から明治はあらゆる面で大変革期でありそれで鉄道というものも最初は感情的に反発したのだろう。合理的には判断できない、船運とか馬車とか様々な既得権者の不安があり反対にもなった。でも実際は合理的に考えれば経済を発展させるものだった。船は危険であり水夫も鉄道時代になると船を草々にあきらめた。船の危険性を身にしみてわかっていたから鉄道時代は歓迎すべきものだった。ではなぜ蒸気機関車の煙で桑の葉がだめになり蚕が被害を受けるから鉄道が通らなかったかという伝説が残ったのか?それは合理的に考えない、判断しないからである。これは戦争でなぜ負けたのかと未だに合理的に中国でも日本でも判断していないと同じである。つまり日本は以前として神の国であり負けても死んでも英霊となって靖国に祀られる。これも感情的な問題であり理屈で言っても納得しないからである。とにかく感情的に死んだものが無駄死にだったとかなると許せないからだ。靖国問題でもまず
「死んだからかあいそうではないか、同じ日本人じゃないか、同情するのが先だよ・・・・」となり戦争責任を合理的に問う前に感情的に思考停止になっているから未だに戦争の原因も追求されないのである。感情的に英霊として祀り霊を慰めたいからそうなっている。戦争の合理的判断はない、どうして戦争になり負けたのかという合理的に検証することはない、感情的問題として御国のために死んだのだから祀られて当然だということになるのだ。

神風が吹いて元寇で鎌倉軍が勝ったというのもすべてが台風のせいではなく様々な要素があり台風はその一つの要因にすぎなかったと合理的に分析されるようになった。先の太平洋戦争でも窮地になれば神風が吹いて勝つとか信じられる。そうなれば合理的な判断ができなくなる。宗教カルト団体ではこうした合理的な判断の停止がある。悪いことも多く起こっているのにいいことばかりいい悪い情報は出さない、戦争中も大本営発表で情報は統制されていて負けているという情報は知らされなかったのである。鉄道のル−トは合理的に地形に沿って一番通りやすい所を通したのでありそのことが信じられず伝説的にさまざまなこじつけがあとで行われる。ガリレオに教会が神に逆らうものとして反対したのも行き過ぎがあった。科学がすべてでないにしろ科学は現実を知るものとして認めないわけにはいかない、だからといって信仰をすべて否定することには通じないのが現代である。一方で過剰な科学信仰になっている、科学がすべてでありというのもまた逆な意味で合理的な判断を欠いている。科学ですべてが解決しないし科学が万能なわけでもないからだ。特に脳のことなどはほとんどわかっていないのである。ともかく人間は合理的な判断で作られたものを信じない、かえって非合理的なことでも簡単に信じて後世まで語り継がれる不思議があるのだ。それは合理的理性的にに判断するより感情的なものが優先されるからである。

参考
「鉄道忌避伝説の謎」−青木栄一



【格差社会】 歯医者もワーキングプア?…「月給25万」から「夜逃げ」まで

歯医者は儲かる―そんなイメージはもう捨てた方がいいのかもしれない。歯科医の「100人中5人は所得ゼロ」、5人に1人は月間所得25万円でワーキングプア寸前、という分析もある。 「格差社会」が、一般的に高所得が望めるとされてきた歯科医の世界にも到来した。
http://www.j-cast.com/2007/07/22009512.html

●入れ歯についての歯医者との対話

歯医者でも入れ歯をうまく入れる歯医者はまれだろう
最新の機械を入れた歯医者でも入れ歯はうまく合わせられない
うまい歯医者は紙一枚で調節するとか
手の器用さとかで決まる
その人も死んだから近くには入れ歯を合わせられる歯医者はいない
どこの世界でも特別優れたもの医者でもまれにしかいない
歯医者がこれだけ増えてもそういう神業的にできる歯医者はいない
普通の歯医者は供給過剰でもこういう優れた医者はいつの時代でもまれだ



入れ歯で苦しんでいる人が沢山いることは理解していますし、それに対して短時間で対処できる歯科医師が少ないことも理解しています。
しかし、下顎の総入れ歯の場合、動かず痛くないように作るのは相当難しいんです。
特に患者サンの顎の骨がほとんど無いとなると、時間さえあれば上手に調整できるというものでもありません。
こういった状況に対して、たった月600円で何回も時間をたっぷりかけて治療を行なうのは、現実的にかなり無理があると思いますよ。
仮にたっぷりと時間をかければ、その患者サンには感謝されるかも知れませんし、このことは歯科医療の本質でしょう。
けれども、このような治療が多くなると経営が成り立たないんです。
スタッフも雇えず、設備投資も出来ず、借金も返せない所はあっという間に倒産です。
また、あなたは技術技術と言われますが、資本主義社会である以上、経営を脅かすような赤字部門に技術の向上が生じ難いのはしょうがない部分もあるのではないでしょうか。
経営とは本当にシビアなものなんです…


>こういった状況に対して、たった月600円で何回も時間をたっぷりかけて
>治療を行なうのは現実的にかなり無理があると思いますよ。

金銭的問題にこだわっているけどそもそも入れ歯を合わせる技術を
もっている人がまれだからあわせられないんだよ

入れ歯をぴったりと合わせてくれる人がいたらいくらでも金払う人はいる
金にならないから入れ歯を調節するのは経営上できない?
そんな理由で入れ歯が合わなくて苦しんでいる人の理由にならないよ
ぴったり合わせる歯医者ならそこは評判になってはやる
金だってとれる方法はいくらでもあるし法律の改正だってできる
そもそも入れ歯合わせることができる
技術をもった歯医者がいないことが問題なんだよ


義歯なんてそもそも合わないし噛めないの。頑張って歯をキープしてねw
見える義眼や走れる義足が一般レベルに普及したら満足に噛める義歯が出来て来るかもね。 ピッタリ合っても噛めやしないからw


何倍じゃ割に合わないのがこの世界
自費診療でガチンコ入れ歯作ったら・・・・・100万は欲しいところだ。
なぜか?途方もなく時間がかかる作業なんだよ。
固定費と人件費が半端じゃなくなる。

ちなみに入れ歯と一口に言っても
殆どの歯医者が巧く行く患者もいれば
誰がやっても絶対無理な人もいるんだよ



●歯医者の数の多さは異常

歯医者の多さは異常である。一万くらいの町に5軒もある

コンビニストア・・40616箇所(2006年12月末)
歯科診療所・・・・67441箇所(2006年12月末)
一般診療所・・・・98860箇所(2006年12月末)

この多さが歯医者をワ−キングプアにしてしまった。歯医者は設備費にもかかるから新しく開業すると相当な金がかかる。それでも開業しやすいからふえてくる。医は算術と技術であり医は仁術というのは遠い昔の話である。設備費などに金がかかりすぎるのだ。

自費診療でガチンコ入れ歯作ったら・・・・・100万は欲しいところだ。

ここに歯医者の本音がでていた。収入にならない入れ歯には力入れない、金にならないから技工士の質も落ちている。歯医者で問題になっているのは金だということがわかる。本来なら入れ歯で困っている人は無数にいる。母も前の歯医者でぴったりと入れた歯医者がいたとしきりに称賛していた。あとで設備の整った歯医者でみてもらったが合わなかったとしきりに訴える。全然あわず使っていない、入れ歯で困っていてもいかに合わせることが合わせることがむずかしいかそれは幸運としかいいようがないという。入れ歯は毎日使うものだから合わないと困るのだ。その悩みが解消されていないのは金の問題だけなのだろうか?大金を払えばぴったり合わせることができるのか?これも明確ではない、ぴったりと合わせる技術を売り物にすれば客も来ると思うからだ。入れ歯は日本の方が西洋より優れたものを早くから作っていた。木の入れ歯だがそれが今の形と同じでありこれは西洋になかったというのは一つの発見である。何でも西洋が優れていたと思っていたからだ。日本人は昔から器用だったという証拠にしている。こういうことが現代のもの作りにも活かされてきた。


●歯医者も宣伝力の時代に

今や歯医者は集客に努力せざるをえなくなった。

http://www.1okuden.com/schedule/sche_book.html (歯医者コンサルタント)

歯医者の経営コンサルタントもこういう時代だから出てきたのか?ここのホ−ムペ−ジはかなり問題ではないか?マスコミを利用する、本を出して権威をもたせる、感情に訴える宣伝をする、・・・これらは現代で権威をもつための最高の道具なのである。権威はマスコミと本によって作られるというのがこの人の主張であり医者の善し悪しは問題にしていない、いかに現代人はマスコミを信じやすく本も信じやすいかわかる。本では癌にきくアガリスクとか宣伝して問題になったことがある。マスコミとか新聞とか本がこれまで権威を作ってきた。それ故にマスコミや出版社や新聞社の力が大きくなった。あなたを権威をもたせる、売れるようにするのは私たちのメデアを通してこそできるのでありあなたの内容でもない、私のもつメデア力なのだとなる。メデアとは媒介するものだからただ媒介するものの方が力を持つにいたった。そこに現代の報道の歪みが生じたのだ。報道はだからメデアをテレビや新聞、出版関係をおさえれば操作できるから創価やカルト宗教団体や団体によって情報を操作することが容易であったのだ。インタ−ネットもメデアなのだが今までと違って権力をもつテレビとか新聞社とか出版社を通さなくても情報を出せることが違っている。そして2ちゃんねるも低劣にしてもまがりなりにも応答があるし発言できることが大きな意味をもっているのだ。これまでのマスコミは一方的でありそれに何かしら答えることができない、今は本の批評でも無数にあるからそれを参考にして今まで知らない本を買ったりしている。でも以前として規制のメデアの権威が大きいから権威を持つには旧来のメデアに頼っていることがわかる。

参考
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1185198999/



呪われた金の恐るべき顛末(実際にあった死者の祟り)

●魔物なる金

金は魔物だということは誰もがある程度人生経験を積むと実感している。特に現代のような金が万能なじだいになるとますます金にまつわる事件は次から次と起きてくる。そもそも今回の安倍内閣の解散も金の問題からはじまった。政治家と不透明な金の問題だった。金が不透明なことは裏で金が動いているから金が問題になる。表に出したくない金だからそうなる。金が魔物だというとき一攫千金のような何も労せずに入るような金は魔物である。黄金を掘り出して大金持ちを夢見たために命を落としたとかよく映画になるがそれは現実にあった話だからだ。巨額の財産を残すとそれも一家で殺し合いの争いになるのも人間社会では昔からあったことである。金は人間の欲望の最大の象徴だからそうなる人生そのものが金をめぐって展開されているのもそのためである。

今回自分の身近に起こったことで呪われた金、死者の祟りが本当にあることを実感したというより事実としてあっことに驚愕した。それが自分と関係したことだったので恐怖したのだ。事実は小説より奇なり・・・というときこれはそれぞれの人生をふりかえると極普通のことなのだ。小説は作り話でも事実は本当に恐怖となる。

●西山家の呪われた金の恐るべき顛末

西山(仮名)夫婦の妻が不倫して男と一緒に暮らした。娘が一人いたが西山夫婦の夫は交通事故で突然死んだ。その時娘は中学生だった。その時交通事故の保険金がおりた。その金をめぐって人間の欲望が露骨に現れた。まず運送会社の社長がこの保険金を取ろうとしたのだ。自分は特別世話したとかなんとかものすごく恩にきせたのである。そんな権利がないのに保険金をもらう権利があるのは中学生の娘一人だったからである。そして母親も離婚していたのに保険金をとろうとしていた。その時病気にもなっていて金が必要だった。一応保険金は我が家であづかっていたが娘を通じて金は母親の元へあづけられ使われていた。母親はその後糖尿病で眼が見えなくなったのだ。だから金がどうしても必要だった。これはここで話が終わらずにつづいていた。不倫した妻の女性の男がその残された娘を名義にして金を借りていた。その男は金が返せずに自殺したということが驚きだった。そもそも不倫した妻であり男だから夫の西山の保険金をもらう権利は全くない、死者がそれを聞いたら烈火のごとく怒るだろう。現実にその死者の祟りとなって妻は目が見えないだけではない、脳梗塞にもなってしまって動けなくなったのである。もちろん娘はもはやかかわらない、これは先祖の霊の祟りだとよく言うが何をしたかよくわからない先祖ではなく明確に因果関係がはっきりしている祟りだった。罰当たったというしかいいようがない現実の話だった。これを聞いて自分は本当に衝撃だった。金は魔物であり恐ろしいとつくづく思った。交通事故で死んだ西山もそもそも借金していてそれに追われていて交通事故になったのだからすべてが金絡みだったのだ。金に追われ金に呪われた人間関係だった。こういう金は呪われた金だから手をつけない方が良かった。金がみんないいとは限らない、呪われた金はこの世では特に金の社会では日常的に起こっているのだ。

●呪われた金には手を触れるな

徳川埋蔵金も呪われた金であり、手にした者も、尋常では済まなさそうな気がする

小説でも隠された埋蔵金を探してその結果として殺し合いや呪われて死んでゆく、それは常に現実社会にあることなのだ。財産をめぐって兄弟が殺し合いまでになる。金をめぐって友情も破壊されるし人間関係も破壊される。例えば出所不明の金が投げ込まれたり落ちていたりするがそういう金はいわくある金であり呪われた金であり手にすべきではない、何か悪いことして入ってきた金なのである。だからその金を使うと呪われることは間違いない、会社でも宗教団体でも組織には巨額の金が動く・・そこでその金が不正なものとして裏金として動くから問題になる。金が入ってくるから金はいいものだとみんな思っているが金は怖いもの、呪われたものをもっている。特にただで何の権利もないのに入ってくるような金はかなり危険である。死者と死んだから死人に口なしで勝手に使っていいとはならない、死者は見ている、監視している。埋蔵金も魔物が監視していてそれを勝手にとろうとするものは殺されるとかの小説は事実に基づいている。「オマエラに俺の金を使わせるか・・・・」こうして死者からの祟りで妻は眼が見えなくなり脳梗塞になり道連れの男は自殺に追いやられた。これは事実だから自分も恐怖したのである。

こうした呪われた金をめぐっては様々な人がかかわってくる。弁護士もそうであり暴力団もかかわるし政治家もかかわる・・・弁護士だって法律に従うかというとそうではない、弁護を頼まれた方に従うのだから正義のために働くわけではないのだ。ともかくこの世が金だというとき本当に金にまつわり社会も人生も展開されてゆくし問題は金から起こってくるのだ。大金持ちの家をうらやましがる人がいるが四国の遍路ホ−ムレスが言っていたけど金持ちの家は不幸なのが多いというのは本当だろう。金というものがすべていいものではなく金が魔物だという人間の欲望の象徴として金があるから不幸を生み出すことも多いのだ。現代は金の価値がすべての価値のようになっている。金さえあればということが普通である。金を否定しては生きていけない、金が血肉となり社会をかけめぐっている。だからこそあらゆる問題が金になっていてそこに問題が事件が毎日のように起きてくるのだ。金を否定できないにしろ最低限こうした呪われた金には一攫千金を夢見るような金には手を触れないことである。また突然入ってくる巨額の金、保険金とかギャンブルでもうけた金とか株でもうけた金も呪われた金になりやすいから注意すべきである。日々働いてもうら金はそんな問題を起こさない、保険金とか突然入ってくる大きな金は危険であり呪われたものをもっているから注意すべきなのである。



宝くじで殺人−突然入る大金はやはり危険

岩手県一関市で平成17年、同市に住む無職、吉田寿子さん=当時(42)が
2億円の宝くじの当せん後、行方不明になる事件があり、岩手県警が捜査していたところ、
東京都内に住む男が「吉田さんを殺害した」と供述。22日、男の供述に基づき、
同県陸前高田市内を捜索したところ、供述通り遺体が見つかった。




宝くじの高額当選者って、その後の人生が悲惨という方が少なくないような気がする。
家庭崩壊とか事業起こして失敗とか。
100万くらいまでが一番後腐れ無く幸せな金額だろうな
普通の人に億の金額は身の丈に合わないよ

まず1割は絶対寄付。
家族にお世話になった以上にお金を返す。
友達にご馳走。
老後の事も考え地味に貯金。
あとは創作活動に専念して芸術家として生きます

銀行あたりからばれるみたいだよ

宝くじで高額当選した人は不幸になる、ってデータがあるそうだが
この事件もまさにそうだな。やっぱり俺は一生宝くじは買わんよ。

うちの近くの蕎麦屋の夫婦なんて一億当たったのが地域に広まって 居づらくなって出ていったよ 

ある本にのってたんだが 会社が上場してストックオプションなどで
いきなり大金持ちになった人は離婚がふえるんだそうだ
いわく「なんでおれはこんな地味な嫁をもっているんだ・・・・」と
嫁さんも嫁さんでだんなが大金持ちになったんだし離婚で金せしめてやろう
とかなるらしい・・・・・・・・・


うちの家は多額の借金を抱えているし、親戚も金持ちは誰一人としていない
親に言ったらきっと親戚にも援助してあげてって言われると思う
家族にならいくらあげてもいいけど親戚まで面倒は見きれないよ

3億当たったら親戚達が 金の亡者に豹変し
寄ってくるのが想像できて嫌だ


近くの蕎麦屋が3億円当たったとかで、最近違う店になっちゃった。
居づらくなって、どっかに行ったのかな?

http://www2.2ch.net/2ch.html


やっぱり突然入ってくる大金は怖い、3千万くらいでも人間は金で豹変する。それは思いがけなく濡れ手で泡という金だからである。人間はその時獣になってしまう。腹がすかない肉食獣は比較的安全である。肉食獣でもやたら襲うことはない、腹が好いた時、襲ってくる。人間は金がなくなると襲うのだ。日ごろ親しい友人でも親戚でも金が突然入ったりすると肉食獣になってしまう。金のために襲いかかってくる。それが金の怖さだ。なぜこの人に二億円も自分には金が入って来ないのに、毎日汗水たらして働いているのに金が入らない・・・・不公平だとなる。億の金になるとかなり危険になるだろう。今じゃ億の金をもたない金持ちとはいえない、私自身は金はない、ただ普通に老後を暮らせる金になる。それも贅沢な暮らしはできない、せいぜい65才から国民年金くらいでどうして暮らせるのか、貯金はあるにしてもたりないのだ。ないよりはましだがやはり年金をそれなりにもらう人でないと老後の暮らしは安定できないのである。インタ−ネットなどは金がかからないからやれる。出版だったらできない、これからは金のかかることはひかえるべきである。

不況の時代は節約、倹約の時代になるのだ。一攫千金の時代はバブルにあったがこれから株でもないだろう。株では80万くらい損した。金はやはり魔物だ。金持ちは不幸な人が多いように見えるいうのはやはりその金が何らかいい金ではないのだ。また金は運、不運が左右する。麻生首相のように生まれつき全く金に苦労しない人、湯水のように金を使える人、そういう生れの人もいる。金運のある家に生れ人がいる。でもいい加減首相になったら身をつつしむべきだ。高級ホテルで食事とかはいい加減にすべきだ。昨日の一万のホテルに泊まれず・・・で寒い中寝たから・・でもこれが不幸かというとそうでもなかった。芭蕉のように「「のみしらみ うまのばりする まくらもと」が旅の醍醐味であり旅は貧乏だからこそ味わえない旅があったのだ。人間の幸不幸は金だけでは計れないのだ。老後はまず健康が最大の宝である。健康なくしたら大金持ちでも悲惨である。普通に歩ける人がどれほどうらやましいか?寝たきりの老人などはそれが最高に幸福な人に思えるようになるのだ。幸福感は老後と若い時では相当違ってくる。若い時は金だと思っているが老後もそれはあるにしてもなんでもないもの健康などがもっとも価値あるものになる。




人間はなぜ働くの?(卑近な生活の場面でも哲学は不可欠)

●現代の労働は消費のため

人間がどうして働くのだろう?なぜ働かないニ−トがふえたのだろう?まず働くということが単に食うために最低限の生存を維持するための労働から労働への要求が変わった。労働への不満はすべて賃金、給料の問題となっているのは労働の本意ではない、現代の労働はすべて賃金で計られ賃金労働者となった。賃金労働者とは何か労働する目的が賃金を得るためでありその賃金で消費するためである。消費に重点が置かれる労働になった。ところが労働にはいろいろな要素がありいちがいに決められない、現代の労働は賃金労働者でありかつての労働とは根本的に違っている。働く−ハタラクが端を楽にするからきているとすると大家族の中で誰かが苦労しているから楽にしたいということが労働の動機になっていた。これは貧しい国では今でもそうである。親が苦労しているから子供は親を楽にしたいという思いがあり出稼ぎで仕送りをする。ここでは賃金労働者として消費するためだけの動機ではない、そこに個人が賃金を稼ぎ消費するというのではなく全体の中で家族の中で働く動機がつちかわれた。家族を養うことや家族のための労働は今でも変わらずつづいているから理解できる。

働くというとき時給いくらで金もらった個々人で何々を買うという動機は生きがいになりにくい、ただ自分の生物的生存を維持するだけだからだ。例えば卑近な例だが毎日買い物していて近くのス−パ−にゆく、レジとか裏方の惣菜作りとかで働いている人は時給いくらとかで働いている賃金労働者である。いくらもらったからこれで日々の食料を買ったり消費することを考えて働いている。ところが私の仕事は誰かにとって家族だったら家族にとって不可欠であり家族のために働いているという感覚はもてない、その労働は消費のための労働でありともかく賃金をかせぎ消費のための金をえるためとしか位置づけられない。つまりその労働が実は全体として家族を拡大化した小さな町単位だったとするとその中で誰かにとって欠かせないものであり誰かが町のために全体のためにしなければならない労働だということを考えて働いている人はいない、レジの仕事などつまらない時給をかせぐだけのその場限りの仕事でもっと金になる仕事があるならそっちに移りたいというのが普通である。誰からも感謝されるでもない、その場限りの日銭稼ぎでしかない、だから誰でもできる安くてもしょうがないとなる。労働の動機付けが賃金だけになっている。そこに働くものの虚しさがでてくる。

●ス−パ−のレジで働くことの意義

哲学とはむずかしいところだけではない、実は卑近な所にもあることに気づいた。それは結局介護となり家二つになった自分の変化した境遇にあった。毎日買い物だけで大変であり家二つを行き来して一日が終わる。家事と介護となると軽度の認知症でも一人でやるとなると大変なのである。こういうなかで毎日ス−パ−に行って買い物してこんなことを考えるようになった。まず老人は近くにス−パ−がないと買い物すらできなくなる。今や近くのス−パ−は昔の商店街と同じ不可欠の存在になっいている。90にもなるとすぐ近くにしか買い物できなくなっている。それが藤越だった。しかしこの藤越は赤字でありヨ−クベニマルと合併する。それでも藤越の店は全店継続されるという、これで自分も助かった。別に他のス−パ−でもいいじゃないかとなるが自分は自転車で行けるにしても老人は行けないしその代わりをするとなるとまた大変なのである。巨大ショッピングセンタ−ができて近くのス−パ−がなくなり老人が困り自ら集まり近くのス−パ−を維持した。ショッピングセンタ−は老人にとっては現代の車もない弱者にとってはかえって生活を破壊してしまうものなのだ。商店街がなくなったが近くのス−パ−がその代わりになっているのが現代だったのである。

人間の弱点は個々人はその欲望に応じて行動することはわかるが全体から例えば町、市単位でみることができない、昔は家族単位で見る経済であった。経済の基は家族にあった。それがあまりにも拡大化しすぎた。国単位にてると何十兆円の経済を動かすとなるともはや具体的なものとしてイメ−ジもできななくなる。ただここで気づいたことは人間は卑近なことでも哲学が必要なことがわかった。経済にも哲学が必要でありあらゆるものに哲学が必要である。宗教にも今やその基礎に哲学が不可欠なのである。なぜなら宗教は思考停止になりただ上のものの命令に従うだけになるロボット集団となる。宗教団体には哲学は最も必要ではない、自ら考えるものとなったら集団は破壊されるからだ。つまり人間はロボットにならないためには常に哲学することが必要なのだ。哲学は卑近なところでも必要だった。もしそのス−パ−で働く人が近くの老人の生活を支えているということがわかったとき、その老人のためにこのレジの仕事も必要であり単に賃金労働としてではない意義が見いだされることになる。おそらく誰かにとってその仕事が必要であり不可欠となったときそれは仕事となるしもちろんなんらかの報酬もあってしかるべきとなる。私のホ−ムペ−ジもプログも誰かにとってある一定数のものにとって必要不可欠なものとして認識されれば仕事となる。アクセス数は千近くになってもインタ−ネットではそれが見えていないのが苦しいのである。

●哲学がない世界は無謀な行動に走る

ともかく人間の弱点は全体から思考することが苦手である。目の前の食えないから働くんだということにはなっても全体から見てその仕事がどういう意義をにない、どういう意味をもっているかなど知ることは現代のような巨大化したアトム化した社会では不可能である。その点介護の仕事などはわかりやすいのだ。個々の人間がいてその生身の人間が相手だから直接的にいい仕事をしたら感謝の言葉がかえってくることがある。それは認知症の人でもありうるからわかりやすいのである。荘子の無用の用についても書いたがこの世の中無駄なことが多すぎる。そして肝心なことには金は払われない、仕事するものがいない、ゴルフなど贅沢であるが介護で困っていても給料が安いとか働く人がいないとかがある。仕事の優先順位が何なのかそれも問題なのである。宗教者の仕事が全体から社会を見ることだった。宗はムネであり全体の意味である。全体のなかで意味を意義を見いだすのが哲学である。そしてこの哲学は学者だけではない、日常的な卑近な生活の世界でも必要であったのだ。哲学がなく無闇に行動に走るとき悲劇が生まれた。それが先の戦争の結果でもあった。もし哲学する人がもっといたら戦争にはならなかった。戦争の歯止めがなくなったのはもはや哲学することをやめて熱病にかられたような行動に突っ走ったからである。カルト宗教団体も一種の行動の熱病にかられている。ともかく一人でも会員をふやすことに価値が置かれ勢力拡大がすべてに優先する。体育系の人が多いしこういう人は大きな声で怒鳴り力を誇示することだけに走りやすいのである。ぐちぐち考えるなよ、行動だ、行動だとなりやすいのだ。結果的にはこういう人が力をもち社会は混乱させられ戦争へと駆り出されて無惨な結果とてったのである。



お盆に思ったこと(墓のあり場所はどこに−靖国問題の深層)

●お骨は田舎の故郷の墓から息子のいる東京へ

長年東京に住んでいた人が老年になり故郷に帰り介護されて死んだ。そのお骨をめぐって問題が起きた。人間は死んでも骨が残る、その骨をめぐって争いも起きるのだ。争いがないにしろ近くで死んだ人は東京で暮らしていたし子供も東京にいるとなると骨は東京にもってゆく。するとその子供は東京に墓参りとかなりめんどうなのだ。こういう問題は今の時代ではかなりおきてくる。遠くに墓があるとなかなか墓掃除とか墓参りもできない、それで墓でも離ればなれに暮らす現代の問題がおきてくる。困ったときは遠くの親戚より近くの他人・・・でもあり墓も近くにあった方がいいのである。遠くにある墓も疎遠になってしまう。現代では一生故郷に住みつづけるとかなく分散して住む人が多いからそうなりやすい、都会と田舎の問題もここにある。故郷を離れて暮らしたものと故郷に住み続ける人の意識は違って来る。都会の人の税金をその人の思い入れのある故郷に田舎に支払うべきだという提案もこの墓の問題とも関係しているのだ。都会に出て暮らしても介護となると親は田舎に帰り娘に世話になった。その土地のものとも関係して来る。でも一般的には長く暮らした所で最後を看取るのが普通である。血縁でも遠くなってしまうと疎遠になるからだ。去るものは日々に疎しになるからだ。墓の問題でも田舎と都会の対立がある。都会で暮らしたものは都会に墓を作れとかともなるし田舎は農業と親の介護と墓を守れとかともなる。

●日本の共同性(村)は土地と一体化

この問題は墓は土地に属するのか−人に属するのかの問題になる。血縁関係として人に属するなら親のお骨なら子供の人と人の関係で子供の住んでいる所の墓に埋める。一般的に日本人の姓が地名から起こっていることは土地に帰属する−土地のなかで共同性を育むものとして姓があった。姓は一族関係なのだが村という土地に帰属するものとして姓があった。一方韓国や中国の姓は土地ではなく血縁関係の姓が重視された。それは土地よりその血縁の系統が重んじられる社会である。だから骨をどこに治めるか埋めるかとなるとその子供の関係の方が強い紐帯となるから子供の都合で決められることになる。日本では共同墓地としてホトケッポとがあり村で暮らしたものは村の土地に葬り供養する。つまり土地従属としての墓のあり方だったのだ。

この歌の最後に「草枕 旅宿りせす 古思ひて」と書いてあります。その土地に宿るというのは、ただそこで泊まるということではないのです。その土地には、土地のすべてを支配するところの国津霊(くにつたま)、土地の霊があります。その土地の霊と親しんで、そしてその土地の霊の支配することについて何か願い事があるというときに、旅宿りをするのです。
http://info.pref.fukui.jp/syougak/kouen/zennbun.htm

これは日本人的独特の考え方である。土地を重んじるからこうなるのだ。死者と土地は一体なのである。死ぬと土になる・・・というのがまさにそうなのだ。死者の霊魂は土地に結びつき土地とともに生きることになる。お骨を息子のいる東京にもっていくというとき現代は土地との結びつきが薄れている。地域も村の共同性も喪失して会社でその生涯を費やす人が多いから土に帰ると言っても昔の村の農民でもないのだからピンと来なくなっているのだ。ただ骨の置き場所は死んだからどこでもいいというわけにはいかないので問題になる。

●靖国問題の深層にも墓の問題が反映

外国の戦地で死んだお骨を収集して持ち帰るというのも日本の故郷の土に返したいという思いなのか、霊魂は戦地で死んで浮かばれないから日本の土に返すという思想がありそれが靖国問題の深層にある。日本人はその死者が何であれ罪人でも恐れている。死者は死んでも霊魂がありそれが祟りとなるとか恐れているから靖国問題がある。戦争の是非はともかく死者に対する文化として靖国問題があるからむずかしいのである。死んだ人は国津霊(たま)になるというのが日本人の死者の扱い方なのである。中国では死人も暴いて罰しているから死者も恐れぬものとなるから文化の相違があり靖国問題は理解できないのである。中国には流民とかが発生して社会を変えたり常に移動する民がいる。それは世界まで拡大化する。他国に移住することにあまり抵抗がないのである。日本人は一つの村で一生を終えることが多かった。

しかし明治維新からは戦争をアジアに欧米と戦争したように拡張主義になった。しかし日本人の本性が変わっていない、こうした目に見えない深層的なものは変わりにくいのだ。技術的変化には素早い対応をししてもこうした目に見えない文化として継続したものは変わりにくいのである。日本人は戦争責任より死者の扱い方で靖国神社があるのであり中国人のように歴史的善悪の判断で墓を暴いたりすることはできない、ただ一方で靖国神社は明治維新で天皇に殉じたものが祀られている。だから会津藩士や西南の役で敗れた旧士族が祀られていない、太平洋戦争は天皇に殉じた戦争だから東条秀樹でも英霊として祀られている結果となっている。昭和天皇が東条秀樹が祀られるのは問題だと言い残したのは靖国問題は天皇も否定するところがあったのだから複雑である。靖国問題は歴史的に正しいとか大義のある戦争だったという主張があるが本来は死者に対する日本人独特の文化の問題としてあるから否定できないものとなっているし外国にはわかりにくいものとなっているのだ。



ル−ル(外部規制−法の支配)とモラル(内部規制−宗教)

●ル−ルとは

ル-ル(rule)にはprincipel(原理) universulとかの意味がある。西洋と東洋の思想の原点は違っている。ル-ルとは外部から規制するものである。自然にも変えられない、普遍的な普遍的なル-ルがありそれを追求したのが科学の原理の追求である。ruler(支配者)というとき王でも支配者でもル-ルには従わねばならない、法の下に治めねばならない、法治国家を目指したのが西洋である。法とは外部から規制されるものとしてある。法律はル-ルはまさに権力として実効力あるものとして警察の強制力をもつから外部から規制する。西洋で科学が発達したというとき同時に法の追求もなされた。科学と法律が別物というのではなく同じ原理原則を重んじる精神から法律も発達した。人間が外部から規制されているというときその外部とは何かというと神であり自然であり人間はその法則の下にありそれらを越えることはできないものとして人間を規定したのである。これは東洋でも天の理が絶対であり天子と言えども天の理に従わざるをえず天の理に反するとき天子の交代、易せい革命があり天子は交代するというのもそのためである。自然は人間の手では根本的に変えられない、たがら自然の理には従わざるを得ないのだ。いづれにしろ神に従わなければ完全な公正な世界はありえない、それは未来に来世に約束されているだけで今世には実現しない、社会自体は進化しているというよりモラル的には後退しているからだ。江戸時代の人間の方が貫祿があり人間的に優れていたとかの評価がでてくるのもそのためである。これだけ進歩したとするならなぜ人間はかえってモラル的に退化しているのかという問題が顕著になっているからだ。

●モラルは内部から規制する

ル−ルが法律が外部から規制するものというときモラルは内部から規制する。タブ−とか戒めは昔から法律の変わりとしてあったし外部から規制するものは法律でなくてもあった。ただ明文化していなかっただけである。掟とか村の習わしとかいろいろその土地土地で規制するものはあった。規制するものなしで人間の社会生活は成り立たないからだ。宗教も最初は外部からの規制の面が強かった。旧約聖書はしてはいけない、十戒のように外部的戒めの強制の面が強かった。主−キリストが出て内面的モラルが重視されかえって旧来の戒めだけにこだわる僧は批判された。戒めを説くだけで内面のモラルが喪失していたからである。西洋が性悪説をとり法治主義というとき外部から規制するものが強くなる。法律の力が強くなる。一方性善説にたつと徳治主義になり内部から規制されることを望む。徳治主義は君主制であり封建制であり君主が優れてモラルを実行する人だったら上杉 鷹山のように民もその恩恵にあづかることができるが逆になると民は酷使されることになる。

モラルは内部から規制するものであり本来外部からは規制できないものである。犯罪を犯しても殺人を犯してすら自分が悪い、罪人だと思わない限りいくら刑務所に入れても改心もしないからモラルはその人にない、モラルは外部から強制できないものである。強制できないからこそ人間はモラル的には古代からモラルに関しては変わらないのである。それで一番わかりやすいのは全然罪も犯さない人がパウロでも自分は一番の罪人だということはそれだけモラルの高い人だとすぐわかる。ほとんどの人は善人だと思っているのが普通である。だからこそ親鸞は千人殺して見ろというとき千人殺してやっと罪を自覚できるという意味でもありそもそも人間は罪を自覚できないのが普通である。誰も自分を悪人だなどと思っていないのである。だからモラルの点では人間が生まれてから何千年たっても同じだったのである。愛だ慈悲だと説いても外部的にモラルは強制できない、そもそもそう説いている牧師なり宗教団体の長などがそれを一番実行していないのが普通であるから宗教は偽善として嫌われる、愛とか慈悲は一番実行しにくい、ただそれを語り宗教を利用して組織化して上に立ち社会にその権勢を見せつけこれまた外部的に影響力をもち社会を改革しようとするがこれは内部のモラルを追求することとは正反対となってしまっている。

外部から変えるというとき社会革命で外部から人間を変えるというがマルキシズム革命は失敗に終わった。その犠牲は余りに高価だった。何千万の人間が殺戮されたからだ。宗教でも団体化したとき実はマルキシズム−共産革命と同じことを目指しているのだ。創価などは全くそうである。内部からモラルとして規制するのが宗教なのだがここでは全く外部から社会を変えて社会の権力を握り外部から社会を支配し変えようとしている。共産革命も結局は最後は幹部が権力に執着して幹部が特権階級化するだけだった。これは北朝鮮でも中国でもロシアでも同じだった。なぜならそもそも人一倍権力に執着しているものが権力を握るのだから必然的にそうなることは目に見えていたのである。

●欧米のスポ−ツはル−ル、中国、日本の武道はモラル

スポ−ツを例にすると外部からル−ルで規制して競争させる。そのル−ルも微に入り細に入り複雑化してくる。アメリカンフットボ−ルはいかにル−ルに規制されて試合が行われるか見ていて日本人にはなじめない、試合をみているより規則を見せられているという感じになるほどル−ルにそってプレ−が行われるからだ。欧米型スポ−ツは集団的競争のゲ−ムである。そこでル−ルのもっている役割は非常に大きいのである。これは法治主義であることと通じている。スポ−ツも文化だからそうなってくる。それに比べ日本の武道は個と個の対決であり武道というように内部から規制されるモラルを追求されるものとなる。明確な規制はなく内部からモラルを道を追求しているのだ。ル−ル違反でもあいつは卑怯な手口を使ったとか批判されるが勝ちは勝ちとなってしまう。ただモラル的にはいい評価を得られないので本当に勝ったとはいえなくなる。それで宮本武蔵は小次郎との対決ではル−ル違反ではないかと欧米からは見られることもあるかもしれない、武蔵は勝つことに重点を置いたのでありそのためには手段を選ばなかった。負けることは死に通じている真剣勝負ではそうなったからいちがいにル−ル違反だともいえない問題があった。とにかく日本の武道は内部からモラルを追求したものであり勝つことだけを目的にしていない、すべてに日本人は内部から規制するモラルとしてある。神道は神ながらの道の追求であり御政道とあれば政治も道のモラルの追求である。職人道もそうでありただ物を作るだけではない物を作ることを通じてモラルを追求しているのが日本の文化だった。精神性、モラルの追求が日本の文化だった。この善し悪しの対立が未だに欧米化でつづいているのである。これは一方がいいとか悪いとかの問題ではなく文化の相違だったのである。

●自民党はモラルがないから政権交代が必要

現代はすべてが商業主義−コマ−シャリズム−金権主義の世界である。これはグロ−バル化したから世界がそうなってしまった。確かに外部的にル−ルとして規制するものは絶えず作られているが内部から規制するモラルはないのである。弁護士に法律を一番知っているからモラルがあるかといったらそこにも金もうけ主義しかなかったという人はいくらでもいる。金になるなら弁護するが金のないものは弁護しないとなる。金で正義を買うことができるのも商業主義−資本主義の世界でもある。報道もマスコミやテレビや新聞が公正な報道をしているわげでなはい、金を出すスポンサ−の批判をできない、だから巨大な組織の批判はしない、害のないようなものをしつこく取り上げてバッシングをしてくる。マスコミが責められないからそうなるのだ。マスコミはモラルを追求していないのである。日本人がすべてに道を追求してきたとき内部のモラルを追求してきたときそれが喪失することはモラルなき社会となりただ競争に勝てばいい、強いものには屈して自分たちの利を計ればいいとかモラルの追求はなくなってしまう。そうなれば社会の腐敗はますますすすみいくら外部から法で強制しようにも強制できない、いくら犯罪人を法律で罰しても刑務所に入れても悔い改めがない罪人と同じである。今度はうまくやれなかったがこれからは見つからないようやろうとかしかならないのだ。

自民党が罰しても罰しても政治家の金の問題が解決しない、次から次と同じ問題がでてくる。外部から法律で規制しても規制できないのである。それは自民党員が政治が金のかかるものであり多少の金の流用が必要だと思っているしそれを実行しているから変わりようがないのだ。それは自民党は50年もつづいているのである。それを改めるには民主党に政権交代しないかぎりその膿を出すことはできない、内部からモラルとして改めることがないのだから外部から強制して改めさせる他ない、それは政権交代しかないのである。民主党もモラル的に問題があっても政権交代は外部的強制としてモラルの向上を計る。内部的規制としてモラルを言っても無駄だったらそうするしかないのだ。

モラルを重んじ割合が多いと金が得られない、モラルを重んじないと金が入ってくる
昔も今もそうであってもその割合が極端化している、モラルより金の力が大きくなりすぎたのである。



認知症の誤解(認知症は正常者かみ見てわかりやすい?)

●体の機能的原因

なぜ病気になるのか、確かな原因は体の機能的原因がある。胃腸が悪いとかは食い過ぎとか飲み過ぎとか胃腸の働きを悪くするために起こる。これは原因がはっきりしているから食いすぎたら、飲みすぎたらそれを極力ひかえて胃腸の自然の回復力を待てば直る。これは明らかにその人が悪いからとか前世の行いが悪いからとか関係ないことだからわかりやすいのだ。脳梗塞でも血管が詰まっていたので血管に細い管を通して血管を広げたら直ったという手術には驚いた。それは全く水道管が詰まったからその詰まったものを洗い流したら元にもどったと同じだった。心臓病でもそうした機能的障害がありそれを取り除けば直る。一種の機械として人間見て直すことができるのだ。部品を交換するように直すことができる。ここには何ら罪の問題は関係しない、人間は一種の機械でありその機械を直すことが医者の役目でありその人が性格的にどういう人だとか罪深い人だとか犯罪人だとか前世の因縁がどうだとか見ていない、ただコンピュタ−で写真を分析してこの血管が詰まっているから広げればいいという簡単な診断の結果として手術しているのだ。そういう病気はだから罪とかその人の性格がどうのこうのと関係していないのだ。それは原因がはっきりしているからそうなるのだ。人間は原因がはっきりしないと様々な要因を言うようになる。癌でもそうだし精神的疾患になると余計わかりにくいからいろいろ言う人がでてくる。ハンセンシ病は呪われた業病だとされたが実際は体の機能的な障害であり伝染病でもなかったしそれほど怖いものでもなかったのだ。医者は病気を体の機能的障害と見て治療している。その人の性格がどうだとか前世の因縁がどうだとか罪深い人だとかそういうふうに見ていないのだ。病気の原因は体の故障であり体を機械のようにみている。だから機械の故障の原因を探し直そうとしている。

●認知症の機能的障害

認知症にも純粋に機能的障害として脳の一部の部品の障害としての病気ととらえることができる。記憶する場所の海馬が萎縮して損傷したとか前頭葉が萎縮したことによる知能の低下がある。これも脳の機能的障害であり体の機能的障害とにている。ただ違うのは記憶できないということからそれが感情に作用して感情が不安定になる。また脳の全体にも影響してくることなのだ。体の機能的障害でも余りにも心配して鬱病にもなる。精神に影響するから体と心は不可分である。でも先の胃腸病のようなものであればその原因もわかっているし治療方法もわかっているからそれで鬱病になる人は少ない、なかなか直らない病気はどうしても精神に影響する。脳を機能的に脳を部分に分解してある一部の機能障害として治療する。だから脳を手術して直る場合もある。脳の腫瘍をとりだして直した例もある。これは脳も体の一部で機械であり悪い部分をとれば直った例である。それはその人の性格が悪いとかとは何の関係もない、だから病気を先祖の霊がたたっているとか行いが悪いとか全部が関係していないことは明らかである。結局原因がわからないものを様々に人は言うことができる。医者でないものでも訳ありげに言うことができる。宗教団体でもそういう原因のわからないものを理由にして信仰したら団体に入ったら直るとかいうのである。でも実際は統計をとったらわかるが確かにほんのわずかに直る人もいるのはいる。でも直らない人も多数いるしみんなが良くはならないのだ。いいことがあればそれで宣伝するが悪いことは宣伝されないのである。

●認知症の誤解

認知症でもこれも余りにも複雑だから誤解が多すぎるのだ。金のことばかり言っているからこの人は金にこだわる金に汚い金の亡者だった。そういう金にこだわる人だったからその結果として金のことばかり言うようになったとか親しい人が言ったがそれは間違いだった。金が銀行から下ろせないから金をもっていても忘れてなくすし金がもちたくてももてないから金のことをしきりにいう。金は大事なものだということはわかっていても金を手元にもてないことがそうさせたのである。別に特別金にこだわる人でなくても自分の金を管理できなくななったのだから金について今でも毎日言っているのだ。他にテレビに出ている霊能者が認知症の人で食っても食いたいというのはその人が貧乏で食えたくても食えない過去があったからだとか言っていたのは全く嘘である。食ったことを全く忘れるからでありそうした原因にするのはまちがっている。他にも認知症にはわからない人はいろいろなことを言うことができるが違っていることが多いのだ。認知症は医者もわからない人が多いのだ。直接家族で介護している人でないとわからないことが多い。そこでこの病気は誤解が多いのである。ともかく記憶できないということから根本症状としていろいろな症状が派生してでてくる。もちろん性格的に嫉妬妄想とかいろいろ妄想が強くなるからその人の性格が強く出ることは確かである。おこりっぽい人はますます怒りっぽくなる。暴力的な人は暴力的になる。それはあるのだが全部がそうなるわけではない、根本的には記憶できないことから派生してくる症状なのである。これも脳の部品の機能障害だった。ただ体と違うのは脳全体に影響するから感情部分にも影響するから他と違っていたのである。日頃から嫁と姑だったりして敵対している関係が悪いとその人が攻撃対象になりやすい、それでなくても極端の忘れ方から記憶できないから盗ったとなり瞬間的にパニックになり感情に作用して激怒して相手に暴力をふるうのである。感情に抑制がきかなくなっている病気なのだ。前頭葉が理性をつかさどるとしたらその理性をつかさどる感情抑える部分がおさえられないから感情が爆発して暴力になる。これは何も認知症の人だけではない、普通の人も感情を爆発して事件を起こしているから誰にでもありうるのだが認知症は病気だから感情失禁が起こりやすいのである。

●認知症は正常者から見てわかりやすい?

認知症は最初わけのわからない異様な理解しがたいものだと思っていたが実際は認知症はわかりやすい病気だというのも確かである。複雑ではあっても正常者からみてわかりえないことはない、わかりやすい面があった。突然わけもわからず襲って来たり暴力をふるったりはしない、それなりの理由があって暴力をふるうのだし盗ったと騒ぐのも記憶できないことから感情に作用してそうなることもわかる。理屈を極端にはずれることはない、だから正常者かは見て知能が低下して理解力がなくなっているのだが極端なわけのわからない行動には今のところは出てていない、これが悪化するとわけわからなくなるのかは予測がつかない、認知症と精神病はにているにしてもこの点が正常者からみてわかりやすいというのが特徴かもしれない、根本的には記憶できないことから様々な症状が起きてくるのでありそれは海馬なり前頭葉なりの萎縮とか損傷の機能的障害から起きてきたともいえる。ただそれだけではない、対人関係的に起きてくるから複雑な面はある。家庭内で嫁と姑との争いは根が深くそれがストレスとなり脳に影響する。ストレスを常にかかえているからそれが脳に影響するのも一因である。その辺は家族環境によってみんな違っているからストレスがたまる家庭は認知症の人を出しやすいかもしれない、親のいいなりになり実際は結婚したくない人と無理やり結婚したとか本当は好きではないが金がある人と結婚したとか何かそうした本心とは違い結ばれたときあとでその本心がでてくる、つまり隠しおおせない本心がでてくる。しかたないと我慢していてもそれが認知症という病気を引き金にしておさえられずでてくることがありうる。その時はもうは相手に遠慮がなくなる。激しい暴力ともなるのだ。ただその原因は一様でないからわかりにくい、ただストレスが大きく作用しているとするとストレスのない環境を与えれば感情も安定して扱いやすくなる。感情が安定すると安心感を与えると全体にもいい影響をもたらす、だからスエ−デンの手を握って体にじかにやさしく触れて感情を通じ合わす、感情を穏やかにする療法はいいのかもしれない、ただこれもその人がいいと思う人だと通じるかもしれないがそうでないと通じないかもしれない、認知症の人は人を選ぶから困るのだ。いい人は受けいれるがいやな人は受けいれなくなる、助けようとしてもそうなのである。それでその気に入られた人に頼るから困るのだ。その人の自由がなくなってしまうからだ。いつでも24時間側にいるわけにいかないからだ。



福祉介護は現代社会のアンチテ−ゼ(福祉の問題点)

(定立(正、テ−ゼ)から反定立(反、アンチテ−ゼ))

●安易に外国人を入れる疑問

グロ−バル化の弊害は様々に語られてきて警告されている。介護にも外国人をフィリンピン人を入れるのがいいとなった。介護士は不足しているしやめる人が極端に多い。介護は給料も安いし家族も養っていけないとかやめる人が多い。それで人手不足をアルバイトのその日稼ぎでまかなうのが精一杯だとかなる。介護は本来家族していたものであり社会的福祉としてプロがしているものではなかった。第一介護状態になるまえに多くの人は死んでいて介護十年とかの負担はなかったろう。脳卒中でも今は医療の発達で介護の期間が長くなりすぎて負担がかかりすぎるのだ。医療が発達することは悪いことではないが結果として介護の負担もますし医療費負担も莫大なものとなってくる。高齢化の介護時代というのは経験したことのない世界なのだ。では介護も人がいないなら外国人を入れればいいではないかという安易な考え方でいいのか?物がたりないなら物を輸入すればいい、人間もたりないのだから金で人間を輸入すればいい、ある程度奴隷のように考えて輸入すればいいとかなる。

現実安い労働力が必要なので外国人を不法であっても入れていれるし経営者は使っている。ただ物を輸入するのとは違い人間を輸入するから様々な問題が生じてくる。日本では物は輸入しても移民を大量に入れる文化がそもそもない、古代に帰化人を入れてもそれは技術者など優れた人々を入れたのであり単なる労働者などは入れたことがないのだ。そういう他国の人間を許容する空間もない世界だからこそ鎖国になったのである。アメリカとか中国とかインドとかそもそも成り立ちが多国籍な世界とはあまりに違いすぎるのだ。鎖国が必然だったように日本では狭い国だから必然的にそうなったのであり何でも外国のまねすることはできない、それは日本自体の文化の破壊になる。もうすでに現実に日本の文化は破壊されていてそのための混乱に苦しんでいる。

●福祉介護は現代社会のアンチテ−ゼ

そもそも介護そのものが社会的に家族から他者にまかすということ自体、大きな問題が生じてくる。社会的に他者が職業として介護するというとき、賃金労働者として一時のその場稼ぎとして働くというときすでにそのこと自体動機が不純でありその出発点でうまくいかないものをもっているからこそそうなっている。介護保険でもなぜうまくいかないのか、介護している人にはかえって役に立たないとか不満が多い、介護している人に金を払ってもらった方がいいとか不満が多すぎるのだ。かといって大家族が失われた現代では介護する人手がないしそれをどう補うのかということでさしせまった問題でもある。なぜ介護の問題がうまくいかないのかそれが単なる賃金労働として雇いばいいというものでないから解決しない、他の労働は賃金労働として別に高邁な動機も必要ない、介護は別に高邁な動機を要求するのでなくても別な動機が必要になってくる。それが介護保険でも金だけでもすべては解決しない問題がある。介護問題は家族の矛盾、社会の矛盾にもその問題解決を迫る。核家族とか地域社会の崩壊とか、グロ−バル化の競争社会とか物質至上主義とか消費社会とかのアンチテ−ゼとして福祉介護問題が生じてきているのだ。だからグロ−バル化の経済の中で人が足りないなら人を外国から輸入すればいいという発想自体が疑問なのである。根本的に人は物とは違うという視点が欠けている。でも現実問題としてどうすればいいのかという問題は自分でもわからないのは確かである。ただそもそも福祉介護の根本的発想が間違っていればそれは失敗に終わるから言っているのだ。

福祉とか介護では金持ちには良くしてやるが貧乏人は金がないのだからいい待遇はできないということ自体福祉の精神に反する行為になる。金を多くくれるなら親切にするがあなたのような貧乏人とはかかわりたくない、こっちも家族があり何かと金がかかるし貧乏人とはかかわりたくないとかなると福祉の精神に反する、つまり福祉介護は普通の社会の常識と違った、アンチテ−ゼの負の世界なのだ。そこで働きめんどうみるのは病める人、老いて弱った人、醜い老婆や生の負の部分を生きる人たちなのである。だからコムスンの社長のように福祉をビジネスとして大儲けしして優雅に暮らそうという発想自体にそぐわないものがあったのだ。

●医療、福祉、介護には金をかけられない

介護問題は過去には個々にはあっても社会的問題としては存在しなかった。高齢化とともに生まれた問題なのである。過去にあったとしても大家族の中で解消していたとかになりそれが賃金労働者に金を払ってみてもらうということはしていないしそこまでの余裕もなかったのである。福祉介護病気とかの問題は生産に寄与しない、負の世界である。特に病気にしても直らないから競争生産社会にとって負の世界を生きる人たちになってしまう。医療費の負担も高齢化とともに支えきれない健康保険自体破綻しているというのもそのためである。高齢化は負の重圧が大きくなってくる。例えば親戚でも軽い認知症になったけど介護度が低いので施設から出されて独り暮らしをするようになった。息子はいても盗むとか言われめんどうみれないからヘルパ−を雇ってめんどうみているというがこれも病気が悪化したらほっとおけない、誰もめんどうみないのだから家族も見放しているのだからそのまま放置しておけばいいとはならない、現代ではできないのだ。昔だったら野垂れ死にたったのかもしれない、現代では人権がありとか放置できない、それだけ余裕のある進歩した人権社会だからだ。社会はこうした人が増えたときどう対処していくのか、家族だけ介護できない人は増大してゆく、こういう人を放っておくと悪化したりすると社会の負担はまた増大するから困るのだ。家族に介護をまかせるという国の方針もわかるがそもそも家族に介護をする余裕がある人は少ないし家族自体が大家族でもない家族自体がばらばらの小単位の生活になっているからむずかしい。つまり高齢化による福祉介護の問題は社会そのものの在り方の変革を要求している。大家族制に戻れとかいろいろ今までの社会の在り方に疑問をもち変革しないとだめだというのもそのために起きてきている。福祉とか介護は負の世界だからどうしても金銭的負担は減らすように努力する他ない、そもそも福祉だけで社会は成り立たない、負の部分だからボランティアとか宗教とか家族で金を使わずに補っていたのだ。それが社会で全部負担するようになると社会自体崩壊してしまう。もう老人は殺せとかなりかねない恐怖がある。だから過剰な医療で金を制限なく使うこと問題である。医療であれ福祉であれ負担を減らすことはやむをえないことなのだ。ただそれを補うものがないから困っている。

●福祉の世界は受ける側にも問題

この世とは力のあるものが優遇される。力はいろいろあるが体力もそうだし美貌もそうだし才能もそうだし金も地位や権力もそうだしともかく力あるものを日々求め奮闘しているのが社会である。力ないものは相手にされない、だからなんとか人は力を持とうとする。集団組織化も個人は全く力ないものとして相手にされないから徒党を組むのもそうである。福祉の世界でも徒党を組めば強いものとなり社会に要求できるし強制もできるからこれまた福祉の精神とは反したものとなる。そうした団体が社会からうとまれ嫌われるのは弱いものあわれむものとして見れなくなるからだ。恐怖の対象になってしまうからである。一人の乞食なら弱いものあわれむべきものとして情をかけるのが人間である。それが何百万人が俺たちに金くれろとなるともはや恐怖でしかなくなる。宗教団体でも組合でも恐怖になっているのはそのためである。本当にあわれむべきものとして人間はそこに存在しなくなる。あわれむことを強要する世界も福祉の精神に反しているから福祉の問題は実際はデリケ−トな問題なのだがそうしたことを団体の人は考慮しない、ただ徒党を組み要求するばいいという思考しか働かないのだ。「おまえら、ここにかわいそうな人がいる、めぐんでやれよ、そうじゃなきゃ、人間じゃない、・・・」暴力団員のようにすごまれかわいそうな人を楯に福祉を強要される。現実宗教団体はそういうところがあるのだ。創価などは最初は小規模なときは相互扶助団体として恐れるものではなかった。そういうものには恐怖にはならないし批判もできない、でも巨大化すると弱いものを利用して楯にして権力を得るための手段となる。これはコムスンの社長と変わりないのである。議員になれる大臣になれるとか金持ちになれるとかそういうこの世の欲の追求のため弱い人を利用して社会に強制的に要求してくるから恐怖であり嫌われるし受ける側としても福祉の精神はそこにはない、だからその団体に入っている人たちをあわれむこともできないのだ。インドどでも子供の手足を切って乞食させるというのも異常なのと同じである。福祉というのは与える側も受ける側にも様々な問題があるのだ。結局与える側にも偽善の自己満足が多いし与えられる側も実はかなりの問題があり与えられる側も自らを省みる必要があるのだ。

下萌えの乞食にかわす言葉かな 清水一瓢(1770−1840)

この句のいいのは一人の乞食と情が通じ合っている。下萌えというとき新しい春の希望の季節でありその季節も乞食であってもともに共有している。乞食とでも二人穏やかな春を共有している。乞食にも何か春への希望がそこにでてくるような感じになる。これはあわれむものとあわれむべきものとの心情の一致があった。福祉というとき今はこうしたやりとりが基本にあるのだがそれが団体化して福祉が権利の要求ばかりになったことにも問題がある。福祉はそもそもかなりデリケ−トな問題でありあまりにも要求ばかりしたりすると嫌われる世界なのである。現代は組織化団体化でそうした微妙な問題はないがしろにされこうした美しい光景がかえってない殺伐としたものとなっている。人間の社会は豊かだからその心も豊かだとはならない、かえって福祉の問題でも本来の趣旨とははずれた権利の要求だけの世界になっている。慈善は隠れた所でなされる時意味はがあるというとき現代は慈善でも何でもすべて露にして宣伝して権利を要求するだけの世界になってしまった。だから福祉そのものに嫌悪する人が増えてしまったのである。この不幸はかわいそうな人にあわれむ心をもてなくなったという深刻な問題が生まれた。しかたない、怖いからとか何か全然違ったものとして福祉の精神に反するものとしてかわいそうな人を見ることになった。これは福祉を受ける側にとっても不幸だったのである。実際は福祉を受ける側も精神的には排除されている。利益を受けても精神的には差別され排除されているという不幸を生んだのである。



高齢化社会で問われる遊びの価値(認知症の原因は遊ばないから?)

●働かないことが選べる時代

現代はフリ−タ−とかニ−トとか働かないのが別にめずらしくない多いのはやはり時代なのだ。高齢化も時代だし時代によって人間の光景も考え方も価値観もいろいろ変わるのだ。はっきり言って私は三〇年間無駄飯食らいだったけど今になると実際は今やそんなに働かないことが許される時代になったのだ。働きづめの人生がいいとは限らない、大正生まれとか昔の人は確かに苦労したがそれが苦労ばかりで遊びを知らないのだ。遊びに全く価値を見いださないのである。何か働いている限り有用であることが人生であった。それが高齢化になって90までも生きる時代になって明らかにボケ−認知症となる原因を作る結果ともなった。遊ぶということは遊学とあるように学問だって遊びの面がある。子供に良く遊び良く学べとかもある。遊びのなからいろいろ学ぶことがある。子供時代は遊ぶことが仕事だった。実学があるが学問は教養としての学問がありこれは趣味とかにも通じている。学問は暇から生まれた。スコ−レ(暇)がスク−ルの意味だったから学校とは遊びの学問が主体となるところであり実用を身につけることから出発していない、実用は職人の徒弟になってとか別なものとしてあった。俳句とか短歌などもこれを作ったから勉強したからといっても一文にもならない、だからそんなもの無駄だとなる。詩を作るより田を作れとなるのは当然なのだ。貧乏な時代に育ったものなら特にそうなる。そんな余裕がないからだ。働かないことを選べる時代ではなかった。それは飢え死にとか死につながっていたのだ。現代は働かないことを選ぶことができるのだ。

●蟻とキリギリスは高齢化で逆転する

働いて冬のために備える蟻は価値あるものとされていた。キリギリスは冬に食料がなく死なねばならなかった。キリギリスは歌ってばかりいて遊んでいたからそうなったとなる。ところが人間はそうならない、蟻は遊ばないために冬に何もすることがない、歌うこともできない、それでみんなボケた、認知症になってしまったともなりうる。そこは何の面白くもない陰気な世界しかない、働くことにしか価値を見いださなかったものは遊ぶこともできない、トランプ一つもできないのだ。蟻にとっての冬は窒息するような世界であった。食料はあっても何一つ楽しむことができないのだ。そこでキリギリスに歌うことを習いにいったが蟻は歌うことができなかった。なぜなら働いてばかりいて歌うこと遊ぶことのコツもわからないしどうしていいかもわからない、その方法も見いだせなかったのである。楽器を弾くにも歌うにもトランプ一つするのにも頭を働かす必要がありそれは働くだけの頭の使い方とはあまりにも違っていたからである。

こういうことは今までの人生だったら起こらない、たいがい六十くらいで死んでいるから老後の人生をどうするとか考える必要もない、たいがい死んでいるからだ。六十から九十まで生きるとなると老後の人生はもちろん食料の問題も大事である。年金とかなければ長い老後を豊かに暮らせないことは確かである。それ以上に精神的にその長い老後を遊ぶことかできるのかという問題もあるのだ。遊べなければ長い老後は苦痛になってしまう。会社人間であるときは実用人間として実益をあげるものとして有用な人として尊重された。給料を稼ぐ人として尊重された。しかし老後は無用の人として家にごろごろされると嫌がられるのである。老後の備えとして蟻は貯えたことは確かに必要だったがもう一つ遊び楽しむものを持たないと老後は食っても何もすることがないとなるのだ。そういう用意をしている人は少ない、大正生まれだったりすると趣味もなにもない人が多い、そういう余裕がなかったからだ。

●遊ぶことができない悲劇

しかし自分の家庭に起こった生じた認知症のことを考えたらみんなどうしてなるのか?それがみんな疑問だしわからない、この原因は高齢化に耐えられない脳の問題となる。60くらいで死んでいた人生が20年とかさらに伸びた結果として脳に影響した問題がある。認知症は家庭の環境と関係しているというのも本当かもしれない、自分の家族はまさに遊ぶことが全くない知的教養的不毛の結果なのかもしれない、家族で遊んだりすることが全くなかったからだ。仕事はしていても遊ぶことはなかった。仕事が連帯を作るというがそうとはならないのも人間だった。会社では仕事仲間として連帯していても一旦会社をやめると仕事の話しより趣味の仲間の方が親しくなる。家族でも一緒に仕事してきたから強い絆が作られてきたかというとそうとも限らない、夫婦でもただ仕事ばかりしていて遊ぶことをしない趣味のない夫婦は連帯感を持てなくなる。だから長年連れ添っていても離婚になったりする。子供時代は遊ぶことによって仲間になるが大人は仕事によって仲間になる。それが極端だったのだ。老後は仕事一辺倒の人はとまどう、老後には実学、実用ではないものが価値を帯びてくるからだ。その老後は長いから余計そうなってしまった。

高齢化は人間に様々なことを問うているのだ。認知症もその一つだった。認知症は確かに原因はわからない、でも明らかなことは高齢化とともに起きた問題なのである。ガンの病気とか他の病気は別に高齢化と関係なく起こる、介護は医療の発達で起きた問題でもあるが認知症は脳の働きと関係しているから体の器官の故障とは違っている。記憶ができないとか簡単なことができなくなるとかわからなくなるとか脳の働きの極端な停滞である。それは別に認知症でなくても老人には起きてくる。同じことを執拗にしゃべるのもそうである。しゃべることも知的活動の一つなのだがそれが全く創造性のない壊れた機械のように全く同じことを千回もエンドレスにしゃべりつづける。老人は同じことをしゃべるにしてもそれは異常である。認知症でなくても老人に起きてくることの問題は知的停滞であり創造性の欠如なのだ。行動することも話すことも何か機械と同じようになってしまう。そこには遊ぶということはない、遊びは創造的なことなのだから遊ぶことはできない、道草したり遠回りもできない、蟻のように毎日同じ道を行ったり来たりしているだけである。遊ぶことに何の価値も見いだせなかったが認知症でなくても老人を見ていると遊べないことが悲劇的に見えてくる。認知症でなくても機械化された人間の悲劇なのかもしれない、人間は高等なことでなくても知的動物として作られたというとき知的活動がなくなる世界は死をも意味しているのかもしれない、だから高齢化の長い老後はかえって苦痛でしかなくなる恐怖がある。高齢化社会は人間そのものの価値観をも変える。人間社会の在り方はそもそもその出発点から間違っていたのではないかとなる。遊びなどと戯言言っていたら飢え死にだ、働かないものは食うべからずだ、そういう価値観への疑問を高齢化社会は提起している。

(遊びで堕落した人間−高齢化社会はボケの大量生産?)
http://www.musubu.sblo.jp/article/676226.html



高齢化介護福祉社会の労働は助け合いの労働
(人間は誰しも社会に大家族制を求める)


●第一次産業が大家族制を存続させた

一方産業革命以来、労働そのものが、農業や漁業を中心とした一次産業から、大量生産を中心とする二次産業へ移行し、今や過当競争ともいえる市場経済の社会です。このような社会においては、技術は確かに急速に進歩し、我々は多くの恩恵を受けてきました。しかし一方で、そのような社会は、常に競争原理が根底にあり、弱肉強食ともいえる企業同志の生き残りを賭けた戦いでもあります。このような価値観は、企業同志の争いのみならず、一般の人々の心の中にも深く入りこみ、受験戦争、学歴社会などといった社会状況を生み出しました
http://www.yodakubo-hp.jp/life/ln7.htm

そもそもなぜ大家族制が喪失していったのか?このこと自体が社会の変化と深く関係していた。農業や漁業を中心とした一次産業から、大量生産を中心とする二次産業へ移行し、今や過当競争ともいえる市場経済の社会・・・・農業、漁業、林業とか一次産業を基にしていた江戸時代などは大家族制であり40人もいた大家族があった。そこは・・屋とか屋号のつくものは一つの会社でありその会社も土地に密着したものだから代々つづくことを前提としていたし地域としての一体感もあった。急速な社会の変化が大家族制を破壊したしこれは個々の家族の問題ではなかった。社会そのものの大きな変化が核家族とか大家族を解体して賃金労働者として扱いやすいものにしたのである。だから会社が一つの大家族になるような雇用形態として終身雇用とかが生まれた。でもそれもまたグロ−バル化などの競争社会であえなく消失した。人間はやはり家族を基本として社会を構成するから疑似家族的なものを社会にも望むのである。国家も天皇制も日本を大家族のように志向させた。天皇は父であり国民は臣民、子であるという疑似大家族制にした。宗教団体も疑似家族性になっているのが多いしそこで家族的に受けいれないものを受けいれる、それがカルトとなり極端になったのがオウムでもあった。他のヤマギシとか生産共同体を目指すものも疑似大家族制を目指している。財産の共有も大家族制だからそうなる。人は誰しも家族的なものを求めているからそうなる。大家族制が失われた結果として疑似大家族制を求めた宗教団体が増えたともいえる。しかしこのカルトの宗教団体は疑似家族性といったものではない、恐ろしいものだった。そこも一見助け合いの団体のように見せているが内実は疑似家族性を装った権力志向の団体だった。天皇制そのもの疑似家族性を言いそれが戦争にもかりたてられたともにている。

親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの
舊家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。


これは大家族制的なものが育んだ思想なのである。ここには天皇制であれカルト宗教団体の権力志向はない、狭い範囲の極めて人間的な世界であり親の情けというとき家族の愛の中で労働することであり親の名を継ぐとかいうのもそうである。国家に天皇への忠義としての思想はない、大家族の一家意識なのである。何百万とかの団体での疑似大家族制はありえないのだ。それだけの数となったときすべては権力志向の団体になっている。国家も疑似大家族性を言っても土台無理なのだ。その思想の是非はともかくこれは大家族制の中で育まれた価値観からでてきた思想だったのである。商家も丁稚は家族のように扱われたとか大きな商家自体が大家族制であった。それはとりもなおさず人間は家族外部にも家族を求めそれが疑似家族制を産む基となっている。人間は誰しも社会も家族のようであってほしいと思うからそうなる。そう思うことは人間として当然だからそうなる。

●高齢化介護者は大家族制を求める

家族がばらばらの時代になったというときもし第一次産業中心の社会だったらこうはならなかった。それは自然社会とか自然村とういうもので自然に形成された社会である。だから自然に制約を受けるが自然を相手だから農家は三代つづいて農家だというようにその時間のサイクルも悠長なのである。一般に技術競争社会は常に変化を求め変化することが競争に勝つことなのだ。そうしなければ生き残れない社会である。第一次産業を基にした場合は競争より協力社会になる。農家が隣と畠仕事や米作りで争うというのはあまりないし漁業でも競争して魚をとっていたら資源が枯渇して共同で制限して漁業するようになったという報告がある。これも自然で生活するものは自然に制限を受けるから自然のサイクルや法則に従うことになるからそうなる。

大家族制がどういうものか知る人は少なくなっている。私自身も極めて少人数の家族しか知らない、そもそも一人っ子だとすると兄弟すらないのだから最低限の家族構成すらないとしたら大家族制も知り得ようがない、兄弟が多いときは大家族に近いから大家族制というものをある程度は理解できる。でも40人もいたとなると理解を越えるだろう。現代は施設にあづけられた老人や老夫婦で暮らすものとか今は二所帯家族そのものが少ない、田舎でも少ない、そこで介護とかなると人手がないから困ることになる。わかったことは家族のなかにヘルパ−を入れることは擬似的にも家族の一員になることになる。だから家族にヘルパ−を入れることを他者を入れることを介護ではうまくいかないのだ。他の労働だったら割り切ってやれるが家族の中に入る労働は料理するだけでいいといってもそうはいかなくなる。家族の一員としての労働は普通の労働と違っていたのだ。施設だって大家族の一員のようになる。その点世話になったからと世話してくれる人は気持ちがあるからいいし前からお手伝いさんとかできていた金持ちの家なども介護になったら使いやすい、それも家族の一員のようになっていたからである。では介護のような家族で困ったからとすぐに家族の一員になることは無理である。そこで家に他者を入れることが問題が起きる。認知症の人だったらこれは本当に身近で親しい人しか受け付けないからどうにもならない、ともかく高齢化社会は今までにない問題を提起している。介護になると大家族的なものがいいのだが核家族として物質的生産を第一としてやってきたこととは正反対な労働が要求されている。でも急速にそうした高齢化社会に適した労働環境を作ることは無理である。そもそも高齢化社会そのものがどうあるべきなのかも社会的合意もできていない、それは高齢化社会とは何なのか経験したこともないし未知なものとして急速にそうなったからである。

●福祉介護労働は競争社会のアンチテ−ゼ

高齢化の問題は日本だけの問題ではない、世界的であり中国が一人っ子政策などで一番深刻だというのも意外である。高齢化社会は人類共通の問題として21世紀の課題として現れたのだ。これは今までにない未知の社会であるからこそ簡単な解決方法はない、ただ今までの社会のアンチテ−ゼとして高齢化や介護の問題が提起された。団塊の世代はまず激しい競争社会だった。高校にも入れないとか教室に入りきれない生徒とか人数の多さで絶えず人より先に出なければ生きていけない世代であり協力するということを教えられていない、それが人手不足時代であり高度成長期とマッチして日本の経済力を作る中心となったのである。それが退職して高齢化を迎えるとき全く別な価値観の世界を生きることを要求されるようになった。高齢化介護福祉社会は競争とはなじまない、協力して助け合う社会なのである。競争してあくことなく利益を追求してゆく世界とは正反対の価値観の社会である。

その一番いい例が介護とかでヘルパ−を家族に入れるときわかる。その労働は今までの会社でしてきたような労働とはあまりにも違っている。本当に家族の一員となるような労働を求められているのでありそれはまた家族であるから賃金を支払いばすむというよな労働でもない、家族としたら賃金を払うから家事をやるわけではない、家族としての愛から発して無償の労働としての協力があり労働がある。根本的に家族の労働は社会の労働とは性質が価値観が根本的に違っていたのである。だからこういう労働を要求することは即席にはできない、それは今までの労働して利益をあげるという価値観とは違うからである。基本的には助け合いの労働である。だから助け合いの労働などしたことがない今までの労働からすると全く性質の違うものだから理解すること自体むずかしいものとなる。つまり全くそうした労働をしたことのない、また競争が社会で生き抜くことだ勝者となることだと徹底して教えられて実際に人生のほとんどそうして生きてきた人に家族的無償の協力労働をしろといっても無理なのである。日頃そうやっていればわかるが全然正反対のことをしてきた人達には無理なのだ。だから世話になったから今度はこちらが世話する番だとか昔から家族の一員のようにしてもらって働いていたとか大家族的ものがあればその延長として高齢化の介護労働にも家族の一員としてやりやすいのである。高齢化社会は個々の家族の問題として課せられた問題でもあるがこれは人類的社会的課題として温暖化環境破壊問題と同じ21世紀の課題なのである。

●人類の進歩とは人権意識で決まる?

今古い本を読み返しその中の一行に注目した

進歩とは何であろうか?−一人一人の人間の貴さが増すことである

高齢化介護福祉社会とはこのことを追求している。長生きしても一人一人の貴さが増さないなら進歩していないのである。欧米や日本では中国や貧しい国からすると人権社会である。犯罪人でも中国などと比べて刑務所は快適なのである。驚いたのは認知症の老人の下の世話までしてくれる介護士の役割の人がいて世話していた。だから施設に入れない老人は犯罪を犯して刑務所に入った方がいいともなるほど人権社会として進歩した社会なのである。一人一人の貴さをますということは過去の社会ではない、一方で人間がただ数として重要視されるような所にも人権はない、一票として数えられるだけであり一人一人の人間の貴さ全く無視される。ただ福祉でもこれだけのことをつづけられるのか?高齢化社会の対応はやはり人類の進歩と関係しているのだ。高齢者は病人は金を浪費するだけだから抹殺すべきだとかなると人類の進歩は後退してゆく。つまり高齢化社会はそうもなりかねない問題をはらんでいるのだ。優生思想でナチスが一時そうなったのも国力を増すのには障害者は邪魔だからそうなったのだ。高齢化社会で老人が若者の負担になりすぎるときそうなりかねないし現実に老人への風当たりは強くなっているからだ。進歩というと技術的進歩だけが進歩ではない、例えばイランで人質になった学生に国が支援する、一人を助けるために多額の金を払うのもその国の力の度合いによって決まる。人権が重要だと言っても国により実行できない国はいくらでもある。一人一人の人権を重要視できる国は進歩した国となる。一人一人の人間の貴さを増すということは長生きしても一人一人の人間の貴さが増すということに通じている。長く生きればやはり人間としての見識も豊かになり豊かな生を追求できるというのが一般的だからだ。ただこの反対も多いから高齢化社会の明暗もまた大きいものとなる。