35-2007
(小林勇一)
これまで家族の認知症のことでプログで書いてきました。これまでの記録は記事はプログで読んでください
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ゲ−ム通貨の不思議(クローズアップ現代 −過熱!ゲーム通貨売買錬金術)2月20日
介護士の給料はなぜ安い2月22日
遺稿詩集 「わたしの墓は」を読んで−日塔貞子(にっとうさだこ)
(インタ−ネットで変わるべき著作権問題)3月3日
有明、諫早湾開拓は近代化日本の問題の縮図(漁民 自殺)3月5日
歴史から長い眼で物事を見ないと人間の存在意義は消失する3月22日
歴史的継続の中で活きる価値(実存にかかわる大問題)3月29日
NHKスペシャル 激流中国 「超格差社会の壁」 を見て4月1日
プロとしての介護の仕事(その追求するものは何なのか?)4月3日
生む−生かす−生きるは人間の普遍的テ−マ(人は延命より何かのために生きることを望む)4月20日
「静けさや岩にしみ入る蝉の声」が現代に問いかけるもの(沈黙無き文明の音)4月21日
文明と猿害の問題(里におりて餌をとる猿と人間はにてくる)5月1日
一般的障害者と認知症の相違(高齢化社会の意味するもの)5月11日
会津の母親首切りは薬害だった?5月25日
ゲ−ム通貨の不思議(クローズアップ現代 −過熱!ゲーム通貨売買錬金術)
●インタ−ネットで変わった活字の世界
インタ−ネットは今までにない不思議な世界を作り出している。今までにありえないことがいろいろ起こっているのだ。アマゾンでなぜ一円で本が売られてもうかるのか、送料分が収入となる。アマゾンで本を集めれば専門的なもの認知症やら医学関係の本など図書館が簡単にできてしまう。ある分野の本を集めるのに向いているのだ。すでに認知症や精神病関係で百冊くらい買ったからである。そもそも本は文字情報なんだから物として存在する必要がなかったのである。最近新聞を読んで感じることはなぜ読んだあとに紙が残るかという問題である。今まではこんなことを考えなかったが電子空間で情報を受け取ったりやりとりしていると紙が無駄な紙がこんなに残るのはつくづく資源の無駄だなと思ってしまう。産経の電子新聞を読んでいるし新聞なんて簡単に電子化すれば月300円で読めるもなのだから新聞自体将来は無用化してゆく。本もそうである。逆にインタ−ネットで字を書かなくなったから字を書いて古典を楽しむ本が売れたりする。これもインタ−ネットが普及したからその逆手をとって本が売れたのだ。字を手で書くことが新鮮なものになってしまったからだ。
ともかくすべてネットでまにあうかというとネットというのは分散型だから何か意味あるものを集中的に読むのに向いていない、つまらない無駄なものがネット空間には多すぎるから意味ある価値ある情報を取捨選択するのに時間がかかりすぎるのだ。つまりこの時間の問題が大きいのだ。
●ゲ−ムの仮想空間と株取引は酷似
インタ−ネットでゲ−ムをやっている人が40代なのには驚いたしゴルフと同じでゴルフがうまくなるのにはクラブをいいものを選ぶのは当然である。それと同じでいいアイテムを買うためには金を払うというのも同じだというのも不思議である。そのゲ−ムマネ−をキャラクタ−がもってわたしてくれるというのも何とも奇妙な世界だった。ゲ−ム上で仮想空間での仮想の金が現実の金になっている不思議である。そもそも貨幣自体が実は数字に過ぎないという学者もいる、銀行にあづけている金は数字にすぎないというのも一面の真実なのだ。貨幣は極めて仮想的なものであり貨幣自体何か価値があるわけではない、貨幣はそれでもこれまでは金本位制とか銀本位制とか貨幣自体に価値を持つものとして世界に流通して世界経済に影響してきた。だから金は貨幣として一番価値あるものとして貨幣の代わりをしてきたのである。貨幣が紙幣になったときそれは実際は紙切れにすぎない、その紙幣に信用をもたせるものは何なのか?今までは金とか銀であったが今ではアメリカだったら軍事力とか日本だったら日本製品とかになる。日本製品はいいから日本製品が買いたいから日本の円が価値あるものとなる。ドルはアメリカの軍事力でアメリカが世界を支配できるから価値あるとなる。
だからゲ−ムでも金の差で中国人が一日中ゲ−ムをさせてゲ−ム上での金をかせいでいた。ゲ−ムで金を手に入れるにも時間が問題なのだ。時間がないとゲ−ムに精通できないしキャラクタ−は強くなれないのだ。社会人はそうした暇がないから手っとり早く現実の金でアイテムを買い強くなるというのもわかる。それはペテンでありゲ−ム上でのインフレを起こさすのでゲ−ム会社では禁止しているというのも株取引ともにている。株にもいろいろな不正、インサイダ−取引とかいろいろある。株も明らかに仮想空間的ゲ−ムの世界なのである。ゲ−ムの公正さが失われることでは同じだったのだ。ただ将棋でもゲ−ムに強くなるには時間がかかりあまりにもむずかしすぎるのだ。だから今は将棋は奇妙だが見ているだけである。強い人の対戦を見ているだけになった。では将棋がわかるのかというとわからないのだがなんとなくうまい手を打つなとか見ている。こんなこともインタ−ネットだからできるのだ。将棋とかゲ−ムには時間をさきたくない、ゲ−ムは時間がかかりすぎるから人生の浪費ともなる。株で何十億もうけたとかしているニ−トもこれもただゲ−ムをしていてもうけたと同じなのだ。時間をかければ株のゲ−ムに精通してもうけることができる。マネ−ゲ−ムなのである。
●石の貨幣の価値(苦労話で石の貨幣の価値は決まる)
それから石の貨幣の番組で興味深かったのは石の貨幣が海に沈んでいたのだがその石の貨幣の価値はそれをいかにして海の底から引き上げ舟で苦労してもってきたかという苦労話でその石の貨幣の価値も決まるということを島の長老が聞いて判断する。価値とはいろいろあるがやはり危険を冒し苦労して手に入れたものには価値があるのだ。株のマネ−ゲ−ムで百億円もうけてもその物語自体には何ら価値はないのだ。老人になると認知症の人でもしきりに昔の苦労話して自分がいかに苦労して働いてきたかを誇示する。これは人間の価値は人生でいくら金を残したか稼いだかで必ずしも価値が決められないからだ。家族にしても自分の親がどれだけ苦労して育てたかを言われればなるほどそんなに苦労して育ててくれたのかと親に感謝することになる。いくら金を残したかもあるが親に感謝するのはその苦労した物語を知ることによってなのである。母親が行商で働いて帰ってくるのを子供のとき待っていた。その母親の姿が忘れられないとかそういうことが親への感謝とか親への思い入れとなる。莫大な財産を受け継いでも親に感謝しない子供もいる。財産のみが価値になってしまっている場合もあるのだ。財産があるから老人になったら金持ちの施設に入れればいいともなる。実際そういう老人がいるが必ずしも幸福になっているとは限らないのである。
インタ−ネットの世界はこれまでにない世界をいろいろつくりだしてきた。未だにこれは発展途上であり誰もわからない世界なのだ。今回のゲ−ム通貨というのもなんとも不思議な世界だった。ゲ−ムにそれもゲ−ムに勝ちたいばかりに150億もの金が現実に動いている。賭博だったらパチンコや競馬でも賭けてもうける世界でありこれはただゲ−ムで自分のキャラクタ−が強くなるだけに金を払っている不思議である。賭博の世界とは違う世界である。そんなものに金を払うというのも理解しがたいものがある。インタ−ネットが今までにない世界を生み出していることの一つがゲ−ムにあった。人間はこれほどまでして遊びを追求する動物なのだ。ただ不正してまでゲ−ムに勝ちたいというのもそれも賭けでないのだから見返りは単にプレ−仲間の評価だけなのに金を使っているのだから外からはわかりにくいとなる。
介護士の給料はなぜ安い
●医者と介護士の給料の差はなぜ?
ケアにはいろいろある。医者と看護婦は病気を診るのが仕事である。体を機械的に診る場合もある。いろいろな機械を見て体のどこが悪いのか診て治療する。薬も処方する。注射もする。これは体を直すことが医者の仕事であり看護婦はその補佐なのである。病気は医者と看護婦の仕事だった。一方で介護は医者や看護婦のような資格ができなくても家族でもできる分野だから福祉施設では介護士は低くみられるしアルバイトの排泄などを処理する土方仕事だとかひくくみられるし給料も安いのである。だからアルバイトでもできる仕事だとなる。病気をみる医者は高度な技術者だから給料が高いとなる。看護婦とくらべても10倍くらいの差があるし薬剤師も技術者だから給料は高くなる。それに比べ介護士は特別な医療の知識はないアルバイトでもできるようなものだとなると安くなる。この差はすごく大きいのだ。
介護士の給料がなぜ安いかとキ-ワ-ドできているし職業を選ぶにも介護は安いとなるとやっていけないとかやめる人も多いしまたやめる人が多いから人手不足で虐待なども施設で起きてくる。人員が足りないからみきれないとなる。医者が給料が高くなるのは仕方がない、医者になるには相当な勉強が必要であり投資も必要であり多額の金がかかっているからだ。でも医療というのは医療に効果があるとき高くてもしょうがないとなる。だから腎臓移植でも別に効果がある直ればいいとなる。医療には効果を期待している、直ることを期待して治療してもらっている。もし直らないとすると医者が高度な技術者でもたいしたことない、役に立たないとされてしまう。実際脳を写真にとってみたら普通の老人と同じだったとか認知症には何の役にもたたないからこれじゃ医者も何らあてにならないと失望した。
●成果を出せないものに価値はない
医者も治してなんぼ、直してくれてこそ医者を神のように崇めることにもなる。直せない医者は医学は何の役に立つのだとなる。宗教でも病気を直したくて宗教団体や拝み屋に頼んだり昔だったら地蔵さんに祈ったりする。でも直らないとどうなるのか?怒って地蔵さんを倒したりまでする。直さない神は神ではないとすぐやめてしまいそんな神は神ではないとなる。宗教をそういうふうに考えて様々な神を巡り歩いている人も結構いるのだ。女性には多いのである。ともかく効果がないと直らないなら医者でも神様でも尊敬の対象にはならない、認知症などに関しては特にそうだった。アセリプトという薬は5パ−セントでも実際きいたということはかなりの朗報だったことがわかる。アルツハイマ−にきいた薬はなかったし脳の病気でアルツハイマ−にきく薬ができたということが画期的ななことだったのだ。ここに医者の医学の力を効果を具体的にみせつけることができたからである。昔なら肺病を直したということは医学の勝利だった。病気はともかく直ることを切に求める。だから直してくれる医者は神様にも見えてくる。腎臓移植でも直れば患者にとっては救いであり法律違反だとしても責めることはできないのである。人間の仕事そのものが成果主義なのだ。みんな成果を出すために必死になってる。もの作りにしてもいいものを作らない限り市場では通用しない。はっきりと市場に出せば優劣が決められるから厳しいのだ。
●老人の病気や認知症の特殊性の問題
ただ認知症とか老人の病気はそもそも直らないのが多いのが問題なのである。病気として直せないのが老人の病気の特徴なのである。すると医者の役割が小さいとならないか?確かに老人でも治療して直している病気もある。でも認知症などは直らない病気なのだ。だから医者にみてもらっても何にもならないと失望してしまう。ではどうすればいいのかとなると認知症などは介護の方が大事だとなる。介護にもいろいろあり料理も介護の一部門になる。老人の嚥下があるから老人向きの料理が必要だとなる。実際自分も料理はあまりしなくても料理を出しているから料理もケアの一部門なのである。そして認知症で一番大事なのは精神的ケアなのである。精神的ケアとは家族愛とか話し相手になるとか老人を穏やかにさせるとか精神的ケアが大事だとなる。それは身体的病気として何ら直すことができないからだ。医者より介護士の役割が大きいのだ。もしいい介護士だったら症状が悪くならないとかだったらその介護士の役割は医者より大きいとなりその人は給料が高くなってもいいと訴えているのもわかるのだ。
つまり医者は病気を直してくれるからこそ給料も高いお医者様として神様のように崇められることがある。認知症でも病気の一種でありこれを直せないにしても介護により病気がすすまないとか問題行動を起こさせないとかの介護があればその介護士は医者より価値があるのだ。あそこの施設では認知症でもいい介護しているとなれば金が高くなってもしょうがないとなる。なぜなら人間は普通の病気でも直るとなれば大金をつぎこむのが病気なのである。認知症の家族でも介護して問題を行動を起こさせない、症状をやわらげてくれたとかなれば成果があったのだからそれなりの報酬があってもいいとなる。この社会がなんでも成果主義なのである。だから認知症の症状を点数で評価したのもわかる。症状が改善したら成果として点数で評価したのである。抵抗もあったがやはり何かしら成果がないと評価できないのだ。脳を高度な機械で診てこれは普通の老人と同じですでは何の効果もない、詐欺と同じではないか?素人でも脳がどうにかなってしまったかとはわかりきったことなのだから。そういうものに金を払ったのはだまされたともなる。医者は詐欺だとなってしまう。
●認知症介護は医療より精神的ケアが大事
これまでは病気というと介護面は考慮されていなかった。看護婦は介護的な精神的ケアを一部請け負っていたが介護は家族がやるものだった。それが高齢化社会でや認知症などで施設での介護がふえ介護士がふえ介護が社会の職業化したからその過度期として給料が安いとかいろいろ問題が生まれてきたのだ。介護は家族がやっていたのだから料理も介護の一部だし精神的ケアも主要なものだったしそもそも介護は家族と切り離せずあった。でも家族だけでは負担が大きすぎるので施設が多く必要となったのである。料理にしてもこれは老人用の料理は料理の専門部門でやった方が楽である。精神的ケアは家族がやるのがいい、話し相手は同世代の人がいいとか介護、ケアの仕事も分担化すると楽なのである。自分の場合は楽な介護にしても全部一人でやっているから苦しいとなる。介護というのは高齢化社会で生まれた新しい仕事なのだ。インタ−ネットもそうなように新しく生まれた仕事にはうまく対応できない、歴史もないし暗中模索になる。それが介護にもあり給料とか様々な面でも問題があり解決しないのである。
そもそも社会的に医療もそうだが高齢化社会でこんなに金を使っていいのか金の無駄じゃないかというのがあり予算を減らし家族介護させようとしている。介護自体に金をあまりにかけることは社会自体の衰退につながるとかの問題にもなる。だから虐待というのも介護に金をかけられないからだとか言われる。家族だけではない社会的負担としての介護の重さが問題になっているのだ。国で認可されていない施設で手錠をかけていたとか檻に入れていたとかの事件があったが月15万で重度の家族で手に負いない人をみていたのだから介護に手が回らないからそうなった。金がなくていい施設に入れられない人も多数いる。また国で認可した施設に入るにはめんどうで手っとり早くとなると許可がなくても入る施設も必要なのである。家族だけではめんどうみきれないからなんとか負担を減らすことが社会に要求されている。家族ばかりに負担させる国の方針だとこれからもこういう事件は続出するだろう。
介護士の給料が安いというとき介護が社会的に価値あるものとされないということもある。死んで行く老人にそんなに金のかけるのは無駄とということがあるからだ。医療でも老人の病気は直らないのが多いのだから無駄だともなる。一方で社会的価値観として軍事に金をかけるのも無駄という主張もある。何が無駄なのか価値がないのかあるのかは社会的価値観としても決まる。高齢化社会は老人にそんなに金をかけるのは無駄であり介護にそんなに金をかけるのも無駄だとなる。これは数が多いからこそ問題化した。高齢化対策より未来をになう少子化対策の方が大事だとなる。社会的価値の優劣問題が高齢化社会で起きてきているのだ。
認知症などの老人医療には医者がみるphysicalな部分よりmentalな方が大きくなる。
遺稿詩集 「わたしの墓は」を読んで−日塔貞子(にっとうさだこ)
(インタ−ネットで変わるべき著作権問題)
●著作権はインタ−ネットで変わるべきだ
この女性詩人のことを朝のNHKでとりあげていた。地元の人が再出版して人気を博しているという。でもインタ−ネットだったら費用もかからずに個人でも簡単に出せてしまうのだ。この人が死んでから50年たっているからすでに著作権は切れているのだろう?でもこの著作権はうるさい場合がある。著作権が誰に帰属するのかわかりにくい、著作権ではない、死んだら使用権が問題になるのだ。それが出版社だったり新聞社だったり遺族だったりする。
これもなぜそうなっているのかわかりにくい、メデアの方に使用権の権利があるみたいになっている。ただ死後50年たてば自由に使用していいはずだがそれでも出版されたもののほんの一部しかインタ−ネットにはでていないのも不思議である。著作権は死後もあるが使用権は死後は自由にすべきであり遺族やメデア関係、出版社などがもつべきではないということを言う人がいるが私もそうだと思う。広く読まれてこそ価値がでてくる。文学関係でも膨大なものが死蔵されているのだ。つまりメデアは作家を売り出すものでもあるが縛るものにもなっている。メデアで売り出せば宣伝力で売れる、また出版社でも売れなければ金がかかるのだから出さないし書店でも置かないのである。一旦インタ−ネットに出したら書店でも売れないからインタ−ネットに出すことはただであり何にもならないとなる。実際−にっとうさだこ−というキ-ワ-ドでその詩の一部がでていた。山形新聞社で出していた。するとこの詩が一番いい詩だから本は買わなくてもいいとなる人がでてくる。それより50年たったなら誰でも個人でもインタ−ネットで紹介できるとなると本当は書店で本を買わなくてもインタ−ネットで読めるとなる。詩は短いから簡単にインタ−ネットに出せるからだ。
参考
使用権と著作権の混同(インタ−ネット情報学)
●知識の探求の仕方がインタ−ネットで変わる
インタ−ネットがでてきて本関係、出版でも変わってしまったのだ。本の読み方でもキ-ワ-ドで読むということはありえなかった。本は一冊完成したものを読むものと思っていたのだ。ところがインタ−ネットでは常に一部分を読んで自ら編集するような読み方をしているのだ。そして本の読み方もキ-ワ-ドなど自分が関心がでてあることについて知りたいときその分野の本をアマゾンでそのつど注文して買う方法をとっている。アマゾンにはあらゆる本があり二三日で送られてくる。特に一円とか百円とかで売っている古本は買い得である。これも種類が多いからキ-ワ-ドで探してその関係の本があったらそのつど買っている。こうした読み方は意外と効率的なことがわかった。本は買っても積んどくになるのが多い。全集でもあとで役にたつからと思ってそろえるがほとんど読まないで終わってしまう。とするとインタ−ネットのキ-ワ-ドで読む方が知識の吸収では効率的になる。ただインタ−ネットには本の世界のような専門的な知識は極めて少ないから今まで出版された本の世界の方を調べた方が効率的だともなっているのだ。
この詩はかなりいい詩である。私も町に住んでいて町の中にある墓所に注目したから墓についてこんな詩があったのかと気づいたのである。詩や文学関係はいいものがあっても気づかれないものが多すぎるのだ。インタ−ネットで不思議なのは誰かがあるテ−マでいい詩を書いているのだ。それは数多い中で一つだけがいい詩というのがかなりある。それはキ-ワ-ドで調べてわかったのである。誰でも一つくらいいい俳句や短歌を書けるように詩も一つくらいはいい詩を書く人がいることに気づいたのである。これもインタ−ネットでの新しい知識の発見であり吸収の方法であった。ともかくキ-ワ-ドで調べてキ-ワ-ドから発見される知識の世界があった。本の世界はこういう使い方はできないのである。そして今では誰でも出版社や新聞社やテレビのようにさえ自前でメデアをもつことができるのだ。それも金はかからない、手間はかかるが無料でできる。今NHKで放送したことをインタ−ネットですぐに調べたらその詩がでてきた。これは便利だった。録画していないとわからなくなってしまっていたからだ。墓について調べていたときこの人の詩がでていたらなるほど自分の探していたものにぴったりだったとなるのだ。私の書いた膨大なものでもその中にキ-ワ-ドで探していてぴったりするものがあったらまさに探していたものはこれだと感心するだろう。でも物足りないのはインタ−ネットで提供しても一言の礼もないただ働きになることなのだ。メデアで情報を提供する人は仕事として金になったり社会的評価もあってやっているがインタ−ネットではいくら提供してもなんか利益受けることはない、勝手に利用されるだけで何の返礼もない、広告を出せば金になるかもしれないがその他なにか利益を受けることは皆無である。だからインタ−ネットで規制のメデア関係者がやりたくないことがわかるのだ。出すのは無料になっても入ってくる収入も皆無となるかもしれないからだ。
●病気、認知症関係はインタ−ネットが役に立つ
ただ認知症などで困りインタ−ネットで毎日その方面のプログを読んでこれは役に立った。認知症をかかえた家族が赤裸々に書いているしその数も膨大だからだ。そしてその家族もみんな違っていてこの人はこんなに一生懸命介護している、この人はいやがってなんとか施設に入れようとか突き放そうとしているとか介護してこりごりになって嫌悪感で一杯になった人とかこれは私が介護しているなかで起こったことだった。心の動きがそうなったのである。親切に接しようとしても嫌になるしかといって見捨てるわけにもいかないとかそれぞれのプログに書いている人もそうなっていたのである。認知症は医者より当事者となった家族の方が病気について詳しいし役に立つのである。医者は認知症に関しては役に立たない、インタ−ネットで調べれば認知症の膨大なデ−タ−ベ−スができあがるのだ。大腰筋痛になったときもこの病名がインタ−ネットで調べてわかり安心したのである。腰痛にも十種類くらいあるから病名がわかると対処方法もわかり安心するのだ。骨手はなかったから安心したのである。病気に関しては相互に協力することが必要であり患者同士も協力することが必要になる。病気に関してはいろいろあり医者より患者が詳しい場合がある。真剣に悩むから解決方法を探しているからそうなるのだ。そしてインタ−ネットはその病気に関してネットワ−クされるから強力なツ−ルとなるのだ。NHKで放送した認知症の放送にしても例えば10年以上認知症とかかわり介護してきた人があれはやらせだと書いていた。この人は経験から言っているからこっちの方が信用できるのだ。10年間もかかわればNHKよりも医者よりも病気について詳しくなるのだ。そういう人の意見の方が参考になるのだ。それがインタ−ネットに無数にでていたのである。
● 墓のあり方
どこよりも先に雪の消える山のなぞえの
多感な雑木林のほとりにあって
あけくれを雲のながれに耳かたむけているように
この墓はロマンチックに山の中にある墓を良しとしている。しかし一方街の中にある墓所は常に生活する人の声が聞こえたり街の活気が墓に反映される。墓は生活する墓とともにあることになる。山にある墓は生活と隔離された別世界になるが街の中にある墓は生活をともにするなかにある。それは私が毎日街中の墓所を通りここに自分の家の墓もあったので毎日自分の家の墓を通ることで墓の存在が身近になったのである。墓は都会だと何時間もかけてゆく遠くに高い金を買って墓地を手に入れたりするがこれは生活とかけ離れてしまう。墓は日々の生活とは関係ない特別な一年に一回だけ墓参りする特別な場所になってしまう。だから墓は必ずしも山の中のようなところあるだけがいいものではないと思った。この女性は墓に託して自分の住みたい所を空想したのである。墓が身近にあることは死んだ人、祖先とも一緒に生活することになる。それが毎日街中の墓所の前を通って実感したのである。墓でも確かに大都会のなかにある墓はビルの谷間にある墓所は喧騒のなかにあるのだから墓所のある場所としてはふさわしくないが小さな市なら街中にあっても墓所は墓所としての役割があり生活の一部として欠かせないものとしてあることに気づいたのである。
遺稿詩集 「わたしの墓は」より
【私の墓は】
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私の墓は
なに気ない一つの石であるように
昼の陽ざしのぬくもりが
夕べもほのかに残っているような
なつかしい小さな石くれであるように
私の墓は
うつくしい四季にめぐまれるように
どこよりも先に雪の消える山のなぞえの
多感な雑木林のほとりにあって
あけくれを雲のながれに耳かたむけているように
私の墓は
つつましい野生の花に色彩られるように
そして夏もすぎ秋もすぎ
小さな墓には訪う人もたえ
やがてきびしい風化もはじまるように
私の墓は
なに気ない一つの思出であるように
恋人の記憶に愛の証しをするだけの
ささやかな場所をあたえられたなら
しずかな悲哀のなかに古びてゆくように
私の墓は
雪さえやわらかく積るように
うすら明るい冬の光に照らされて
眠りもつめたくひっそりと雪に埋れて
しずかな忘却のなかに古びてゆくように…
参考
文化は地方からしか生まれない(墓の詩の部分)
有明、諫早湾開拓は近代化日本の問題の縮図(漁民 自殺)
●日本人は土地が狭いから土地を求めて外国へ(満州が戦争の要因)
つもが生まれ育ったのは山深い八代郡栗木村(現・八代市泉町栗木)。
急峻で畑づくりや田づくりもままならない窮屈な地形と、見上げれば八方に山々がせまった日暮れの早い小さな空に、つもは息詰まる思いをずっと抱いていたのです。
「もっと広々とした世界で、思いきり体も気持ちも伸ばした暮らしがしたい」
そんなつもには「干拓地」という言葉は楽園の響きでした。 県も郡も入植を薦めています。八代郡がつくった新しい田圃です。郡築村に入植
八代女性史
http://www.pref.kumamoto.jp/shinkoukyoku/yatsushiro_hp/rekishi/jyoseishi/sugitani/story1.html
日本の山村にはこういう場所が多い、確かに猫の額のような場所でも米作りしてきたのが日本だった。米を作る場を開拓することが増える人口を養うことだった。だから江戸時代から戦前まで日本の国策は新田開発であり米を作る土地を求めていたのだ。土地が狭いから土地がないから海まで干拓して米を作ることに精を出したのだ。南相馬市の八沢浦もそうであり各地に江戸時代からの開拓は続いていたのである。これはすでに弥生時代からはじまっていたのだ。日本の歴史が米作りの歴史と言われる所以である。生活する場を拡大することは土地が必要だった。田畑を作る土地が必要だった。ホマチとは働いたら小さな土地をもらいそこで自分の作物を収穫することであった。外国でもネパ−ルのような山ばかりの世界となるとこれも土地がないから生活の場が確保できない、畑がもてないから上へ上へと土地を求めてあんな高い所に住まねばならなくなった。日本でも山間地帯にはそういう高い場所に住んでいる人はあとから土地を求めて高い不便な所に移り住んだのである。今でも不便な所は昔から住んだ場所ではなくあとから開拓に住んだ場所が多いのだ。飯館でも共栄橋とあるところに二軒家があったが一軒は廃屋になってしまった。あそこは草野からも遠い不便な場所だからもともと人は住んでいなかった。南相馬市の鹿島区栃窪の上萱もあとから開拓に入った人たちが住みついた。あそこは栃窪からも隔絶した世界だったからだ。ここが意外と外から来た人にはわかりにくい、辺鄙な所には昔から住んでいると錯覚しやすいのである。
●土地を求めて満州へが戦争の要因に
なぜ今この女性運動家に注目したかというと山に土地がない、そこで海を干拓した土地に入植したがこれも土地が悪いとか小作料がとられるとかで生活が貧窮して労働運動家になった。これも土地がない日本を象徴していたからだ。生産の拡大を土地に求めていた、農業に求めていた時代が古代から2000年くらいつづいていたのである。このことが日本では土地が異常に価値あるものとして土地バブルが起こった。その源の原因を探ると日本人の土地への執着が理解できる。これは実は日本の戦争の原因ともなっていた。この女性は満州に移住した。満州に移住したのも土地を求めてでありそこで農業をするためだったのだ。農業のためには土地が必要としたしそこでも日本人は米を作ろうとしていた。これほど米にこだわるのが日本人だった。戦後まもなくは日本は焼け野原でありやはり土地を求め農業するためにプラジルなどに移住した。上萱とかの人もプラジルとかに移住しているし全国で移住が奨励された。北朝鮮への移住も奨励されて最も悲惨な結果となった。他にも外国の荒れ地に入植させられて苦しんだ人が日本政府を訴えて今になって謝罪され金をもらっている。日本人は生活に困窮してもやはり農業にその活路を求めていたのだ。結局満州への入植が満州事変となり日中戦争となり満州の権益が元で欧米と対立してアメリカとも戦争となった。満州への入植が戦争の大きな原因になったのである。その原因をさらに探ってゆくと日本人の土地のなさ、土地への執着になってゆく。工業化してはじめて土地より大事なものができて日本人を豊かにするものとなった。日本の戦争の原因を指導部が陸軍が悪かったとかいろいろ言われるがその根底に困窮した農民達がいてその人たちに土地を与えて農業させることが国策としてありそれが満州への進出となって戦争の原因を作ったのである。上にたつものだけが原因とも言えない根深いものがあった。秀吉の朝鮮出兵も家来に与える領地がないから朝鮮に出兵させたともされるからこれも土地を求めての戦争だったとなる。日本は土地が狭いから他の大陸の国よりそうなりやすいことが戦争の原因を作ったことは言えるのだ。
●有明干拓は近代化日本の問題の縮図
佐賀県太良町のタイラギ漁師の平方宣清さん(52)は「大浦漁民の主力のタイラギ漁のみならず、漁船漁業も最後の頼み綱のアサリの養殖もすべて奪われた。漁業被害で二人の自殺者を出した」
今は話題にされないが、有明干拓事業の話が世間をにぎわせたことがあった。
僕はあの鉄板で仕切られる映像を見ていて心が痛んだ。
「無駄な事業」と思ってしまった。
あの干拓が計画された頃は食料の自給率を上げようと国全体が力を入れていた時代。
国民の食料を確保するために絶対に必要な事業だったと思う。
そして、無駄だ!という工事に群がって利益を上げて生活している自分は一体ナンなんだろうと考えさせられた。
http://www.gokaken.com/hitorigoto/2005_2/2005_2.htm
有明干拓は中世から行われていたからこの広い土地を田にして米を作ることを夢見ていた民衆がいたのだ。それが今皮肉なことになっている。海苔や漁業で生活する人たちが有明干拓で豊かな海が破壊され十人くらい自殺したというから深刻である。ここにも現代社会の矛盾が集約的に現れている。これを考えるきっかけになったのは漁民 自殺というキ-ワ-ドであった。ええ 漁民に自殺が多いかのかと一瞬いぶかった。でも自殺者で多いのは農林漁業など第一産業に従事する人たちであった。ここは高齢化がすすみ新しい仕事にもつけない、そして絶望するのが多いのかもしれない、農業だけ漁業だけで生活するのは苦しくなっている。そういえば最近石鰈を売りにくる松川浦の車で来る行商の女性が来なくなった。魚があまりとれないからかもしれない、ス−パ−では2000円で石鰈を売っていたからとれないので高価になり売りに来ないのかもしれない、3カ月も来ないとなると商売になるようには思えない、第一次産業は工業化で衰退した。そもそも沿岸でとれる魚の量は少なくなっているから供給がまにあわなくなり遠洋漁業となったのだ。タンパク質は魚より肉でとる食生活にもなったのも影響した。それにしても有明干拓問題には現代社会の日本の歪みが象徴的に現れていた。海を干拓して田にして米を作ることが古代からの日本人の悲願だった。それがかなえられようとしたとき干拓された米は必要でなくなりただ漁業を破壊するものとなってしまった。そして地方への公共事業が生活する糧となりそれを無駄でも中止することがまた建設業にたずさわる人の生活を奪うとなるのだから現代社会は実に無駄なことで労力が費やされている。その無駄な事業と化したもののゆえに自殺者まででているのだからなんと言っていいのかわからない。これは農山村の過疎問題とも通じるものだった。工業化社会で農山村が過疎化して無駄でも公共事業が地元の産業となり過剰な道路を作ったがその道路は山村からでてゆくための道路となった。山村を豊かにする公共事業とはなっていなかったのだ。
歴史から長い眼で物事を見ないと人間の存在意義は消失する
●歴史の基本は家族
歴史というとき民族の歴史とか大きなものもあるが基本は家族なのである。だから誰でも歴史は身近なものである。人間が歴史なくして存在しえないというのは突然独立した個人としては生まれない、親があって生まれるからすでに連続的なものとして存在する。動物には親があっても歴史がないというとき動物は本能で種を保存するのであり人間は代々伝えることが語りとか文書とかその他いろいろとできる。だから千年前からでも5千年前からでも連続的なものとして思考できる。人間は連続性のなかに生きていて意味と価値を追求できる。家というのは少なくても二代はつづいているから百年以上の歴史がある。人間は明らかに歴史的に生きることが人間的なことなのだ。人間は歴史なくして人間たりえない、一代だけを考えて生きていたら人間は存在しえない、人間は長い歴史のなかで意味や価値を帯びてくるのでありそうしないと人間そのものが破壊されてしまう。今だけを生きる人はありえない、なぜなら親がいない人はいないということはすでに歴史を生きているのが人間なのである。最近親戚の人が実の親子なのだが実際は四才までしか一緒にいずあとは別な人生を歩んだ。ところが八五才とかになり誰もめんどうみれないから娘だからめんどうみてくれとなった。金はあったから施設に入れるだけだがそれでも何かとめんどうみなければならずいやになったという、血のつながった親子でも全く一緒に生活をしていない、生活を共にした時間を歴史を共有した時間をもっていないからそうなるのだ。共同の歴史を共有していないからめんどうみる気にもなれないのである。歴史とは長い時間を共有することにはじまっているのだ。民族の歴史となると最低でも千年単位になるからその長さの中で共有した時間が歴史なのである。家族の歴史が最低でも百年というときこれは長いのだ。なぜなら政党でも10年で消滅したり商売でも20年で消えたり会社でも百年つづけば長いとなるからだ。最近は余りにも技術の進歩が激しいので百年も持続する歴史をもつことは容易でないからだ。その点農家は三代つづかないと農家ではないというのは土地に根ざしているから自然と結びついた仕事だからそうなる。商業、工業は変化が激しいから長く続くものが少ないとなる。聖書でもそもそも家族の歴史を記したように家族が歴史の基本なのである。
●核家族などの変化が人間を狂わせた
核家族というのは工業化とともに社会の要請で作られた。もともとは農家の大家族が生活の基本であり・・・屋とつくのは家族が会社となっていた屋号でありこれは農家がそうなっていた。大家族が拡張したものが会社だった。その会社は土地に根ざしたものだから寿命が長かった。大家族なるが故に歴史を意識することができた。核家族は家族として連綿としてつづく歴史を自覚しえない家族なのだ。そこには親はいても祖父母がいないからである。祖父母がいることが家族の歴史を認識させるのである。核家族は歴史を認識させない、欠落させるものだった。それは一代だけで終わり都会の文明工業商業社会の中で消失してゆくはかないものとなる。連続性が維持できないものは意味や価値をもつことはできないのである。現代では百年も連続して持続して維持されるものは極めてまれである。カルトの宗教団体でも百年維持できるかは疑問である。今は巨大でも維持できないとなればそれは意味も価値もないものとなる。一時の徒花として終わる。そうなることは実際は眼に見えているのだ。カルトは宗教を追求したものではないから持続できない、一時の利権利益を得るためだからその利権利益を得られないとなると組織は解体しやすいのである。その点天皇の是非はあるが天皇自体は連綿としてつづいてきたし保存されてきた。それはなぜなのか?これほど長く保存されてきた天皇というのは世界でもまれなのだ。中国では易姓革命だから革命によって天子も変わる。盗賊が天子となったこともある国である。日本では天皇は連綿とつづいて変わらなかったのである。日本の首長として連続して存在し続けたのだ。これほど長く存続するからこそ意味と価値があるとなる。長く存続するものは意味と価値があるから存続させられるのだ。天皇というのは日本人の核として存続し続けているのだ。
君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔の生すまで
余りにも変わる世界に天皇だけは変わらないということが安定をもたらしている。今や変わらないことが価値あることなのだ。景観でもたちまち変わってしまい過去は消滅させられる。むしろ変わらない世界こそ価値あるものなのだ。日本人は明治維新以降余りにも新しいものを求めつづけ変化しすぎたのである。そこで古来からあった変わってはいけないものを無くしてはいけないものを消失させてしまった。それが社会を混乱させてしまったのだ。
●歴史的に考える習慣を
ニュ−スというとまさにNEWであるから次々に起こる事件を報道するがこれも過去の歴史から連続性の中で語られるべきものなのだ。事件でも今だけを断片的に報道しても事件の真相はわからないのだ。何か事件が起きてもどんな事件でも突発的に起こらない、過去からの集積で事件は起きる。その過去からの歴史的なものが事件から欠落しているからただ今という時間をきりとって報道してあとは未来という時間にも結びつかない、事件はその時々だけで消化され消失させられるだけなのだ。ところがマスコミの報道ではない、地方での事件ではその事件の起こった場所ではいつまでも関心をもっている。台湾人の女性を乱暴して殺した事件でもキ-ワ-ドで渡辺高裕が来ているからその事件の関心はその起こった場所では持続しているのだ。また事件でも殺人を犯した人でも刑務所で服役してそれからまた出所してとその後も生き続けている。殺人を犯してその人の人生も終わっていないのだ。その長い期間の中でその犯人でも心境も変わってゆく。その時そこに感動的な改悛の物語が生まれこともありうる。事件はただその時々で消化されて終わっているからますます次々に起こる事件に無関心になっているのだ。刹那的報道によって事件を消化し事件を無関心なものにしているのだ。マスコミは事件を刹那的快楽として大衆に提供しているのだ。事件を真剣に受け止めて報道はしていない、事件は娯楽なのである。現代は時間も断片化されすべてが断片として提供されるから混乱するし何か価値ある意味あるものを追求できなくさせている。その点かえって個人のプログの方が一貫してその人なりのものを追求できるのである。またマスコミは映像が中心だから常に刺激的なものだけを見せ物として提供するから真面目に一貫した長い時間で見る眼が養われないのである。
●あらゆるものに歴史がある
あらゆるものに歴史があるというとき、人間は歴史を通じて生き歴史を通じて意味と価値を追求してきたからである。病気でも例えば江戸時代に入れ歯があった。それは木の入れ歯だった。これは発掘で発見された。今でも確かに老人は入れ歯では苦労している。あった入れ歯はまれだからだ。でも木の入れ歯よりはいいはずである。江戸時代は病気の苦労は現代の比ではない。でも共通したところはある。眼の治療をするのに関所を通り遠くの医者まで行った。これは今でも同じである。難病になると特別な病気になると名医はいるのだかその名医にみてもらうには遠くまで行く必要がでてくる。名医がいても名医にはなかなかみてもらえないのは江戸時代と同じなのである。病気で悲惨だったのはいくらでもあるが結核は国民病と言われ直らず多数死んだ。特に若い人が死んだから悲惨だった。それが今では結核になる人はいない、つまり結核は直すことができ今はその悲願はかなえられているのだ。過去に成しえないことが技術の発達成しえるようになったことが多い。これも歴史をふりかえりその価値と意味がわかる。結核なんか直るの当たり前じゃないかとなるのではなく歴史をふりかえれば結核で無念に死んだ多くの人が過去にいて今は結核では死ぬことがないということはその当時の人にしてみれば信じられないようなありがたいことなのだ。それは歴史をふりかえらなければわからないのだ。こういうことはいくらでもあるが歴史をふりかえらないと現代で簡単に実現していることの意味や価値がわからないのである。これほど長生きしていることもそうである。長生きすることは人間の悲願だったが今はある程度実現している。しかし一方でその長生きの負の面で苦労しているから長生きがすべていいとはならないので問題なのである。ただ人類は長生きを求めてきてその長生きも実現しているのは人間の歴史として今の時代なのである。これも長年の人類の悲願だったのである。
●歴史(history)は物語(story)である
歴史が物語だというとき家族でもそこに個々に物語があるからなのだ。前にも述べた4才くらいまで親であってもその後別れて別な生活に入ってしまったら共有した物語はなくなる。実の親子でもそこに物語がないのだ。
世界一過酷な冒険クイズ(フジテレビ)を見てその形、石のクオリティ、そしてもっとも重要なのは入手の困難さなのです。 道中で嵐に出くわしたり(よくあることなのですが)、人命が失われたりなど、安全に持ちかえるために要した努力が大きければ、その苦労が価値を高めたのですこの番組は面白かった。石の貨幣が海に沈んでいるのをとりだすのに苦労して取り出し運べば貨幣の価値があがる。そこで酋長にどんなに苦労してその石の貨幣をとりだしたかを報告するのだ。この石の貨幣は切り出すのにも運ぶのは400キロも離れたところから運ぶのでありそれでこの石の貨幣を運ぶ途中に嵐にあい海に沈んだのである。その子孫が今でも所有者でありそれを番組を作る担当者に売ったのである。
http://www.mantaray.com/yap/yap_stonemoney_j.html
ある人が山の村に行商に出で帰ってくる母のことが忘れられないという時、そこにやはりそうして育ててくれた母の姿が脳裏に刻み込まれているから忘れられない物語として母がある。一方インタ−ネットは今までにない不思議な世界をつくりだしている。インタ−ネットのデイドレ−ドで株で一夜にして何十億もうけたとかもてはやされるがそこにはヒュ−マンな物語はない、それを子供に語ってもピンとこないし何か訴えるものはない、金があっても物語が欠けると訴えるものがないのだ。だから子供から金をもらってもその金の物語が欠如しているから親が老人となり世話するようになっても金で豪華な施設にあづければいいという発想しかなくなるだろう。金はあってもその裏付けとなる物語がないからだ。認知症になると千回も嫌になるくらいその物語を聞かされることになるがそれでもやはりそこに物語があれば聞かざるをえないしそれを語ることで本人は自分の価値と意味を訴えているしそれを認めれば満足しているのだ。その物語の故に価値ある存在だと認められると満足して認知症の症状もやわらぐとなる。認知症にも歴史的に共有した時間が大事でありこれがないと認知症の人は特に過去が生きる拠り所なのだからその存在意義を与えられないと自分のよってたつ基盤を失うから大問題なのである。認知症の人にとっても歴史は生存にかかわる重要なものとなっているのだ。
歴史的継続の中で活きる価値(実存にかかわる大問題)
●嫁は女と家から女と会社へ
認知症が役割喪失が原因かについて前に書いた。嫁が女性と家のように嫁は家と一体化して役割があった。過去には家での仕事がすべてである女性が多かった。近代化して女性の仕事は男性の分野に進出して多様化したし生きがいも多様化した。近代化する前はそもそも家事だけでも大変な労働であり大家族であることも要求された。炊事、洗濯だけでも一日かかりきりの仕事だったのだ。自ら家事をやってみて朝昼晩食事の用意だけでもこれは結構な労働だと実感した。ほとんど料理は買ったものでもただ食卓に食事を用意するだけで結構な労働になっている。嫁はだからまさに家に尽くす女性だったことがわかる。だから生きがいそのものその存在そのものが家から離れて存在しえないほどになっていた。それで姑と嫁の争いはまさに家の役割、家をとりしきるもの、家をめぐる争いが熾烈なものになった。でも近代化したら共働きとなり嫁が家にいないとなるとその争いは緩和されたとなる。かえって姑が家のことをまかされると生きがい役割を持ちボケないとなる。時代の変化で女性の役割も変化したのである。それでソフトバンクなどでも子育て支援で大金を出すことになったのも時代である。女性が会社の有能な人材となっていてこれを家庭の仕事だけさせることはできなくなった。女性も会社人間と化していることの証明である。嫁は女と家だったが今や女性と社会ともなってきたためなのだ。老婆がなぜ墓掃除とか墓に執着するかというとやはり墓が家の歴史の継続の場であり歴史の継続としての墓を死が近づいて意識するからである。墓が唯一の拠り所ともなる。それは何人も無意識的にでも人間は生命の継続を求めるからそうなるのだ。これは仏教とは何も関係ない、その土地とか家族の継続とか人間の本能に根ざしたものが家なのである。それいい悪いにしろ本能に根ざしたものだからこそ否定できないのである。老人が今は施設に入る人が多くなったがこれも歴史の継続から分離隔離されるから精神的な不安定をもたらし認知症の人にもよくないし普通の老人にもいい場所とはならないのだ。
利用者が帰りたがっているところって
そうだね。かつてあった生活、もはや今はない、帰りたくても帰れない
あの頃の生活、あの頃の家庭、あの頃の家族・・・
そして、それがまだ外にあると感じている。
自分を待っている場所があると思っている。
継続した場の喪失役割あった場の喪失がこれなのだ。それが施設では作りえないからこうなるのだ。
●農業は商業工業からの視点だけでは理解できない
女性の役割は女性というより人間の役割を考えると農家を考えると自然-地域社会-代々の営み-家族一体-生産の継続となり農家は一つの有機的として自然とか地域社会とか融合して結びついたものであり商業とか工業の成り立ちとは根本的に違っているから効率的に工業化しにくいとなる。農業はそれだけ外からは理解しにくい奥深いものがあるから外からの視点、都会とか工業の効率化合理化だけからの視点では処理しにくいものがあるのだ。第一その生産基盤の土地そのものが先祖代々によって培われた遺産だとなると農業は三代つづいて農家だというのもそのことからきている。農業は自然が相手だから長い眼で見ることが要求される。速成される見方はできない仕事なのである。商業、工業は速成が要求される。早いものが勝ちだという世界である。競争に勝つには最初に他者よりぬきんでたものを出せば売れる世界である。農業は新しい品種を作るためにも相当な時間が必要になるから速成することはできない世界なのだ。戦後でも十数年は日本は農業を基にした社会だった。なぜなら満州移住もそうだったが戦後も移住はつづいていた。ブラジルとか農民が土地がなく働き場がなく農業するためにかなりの人が移住していたのだ。それはどこの市町村でもそういう移住した人たち多いことなのだ。移住は満州で終わったわけではなくその後もつづいていたのである。基本的に農業社会であることに変わりなかったのである。つまり農業の限界というものもあるのだが農業的社会と商業工業化した社会はものの見方とか人間までかなり変容してしまうのである。その例が女性の役割変化にもあり長い眼で見られないという速成社会、インスタント社会となるのもそのためである。そのことはキレル子供や若者の問題も商業、工業社会から起きてくる根の深い問題だとなる。投資信託に百万ほど試しにやったが株は毎日変化している。こういう価値の変動する世界に自分は適応できない。これは人間的にアブノ−マルな世界なのだ。文化の基は農業(culture)にあることは人類史的に変わりないのである。
●団塊大量退職の役割喪失の深刻さ
認知症の原因が役割喪失かと論及したとき、家を中心にした姑と嫁のことを考察したが男性の場合は会社人間であり会社がすべてとなったのが現代だった。会社は農業のように何代も継続されるなかで価値を追求するものとは違う、非常に変わりやすい世界である。技術も日進月歩だからすぐに古いものが役立たないとなると老人の価値はなくなる。経験の価値がなくなる。すると老人の役割も喪失してそれがボケに通じやすいともなる。団塊の世代の大量退職の大きな問題も役割喪失が起きてくる。農業のように代々に生産を継続するなかに価値を求めるものとも違い、会社を離れたら自分の存在価値すら喪失する。もちろん趣味に活きるとかいろいろ生きがいの追求はあるにしても社会的生産に寄与するものとしての価値は会社をやめれば喪失してしまう。仕事は一代だけで終わるのではなく継続されることのなかに意味と価値があるのだ。家というのは短くても親と子と二代あるとしてさらに必ず祖父の代までもさかのぼるから百年以上はある。その継承のなかに家族は意識しなくても活きているとなる。会社はそうはいかない、退職したら会社とのつながりは断たれてしまうのだ。自分の生涯を費やした場と断たれることは深刻な役割喪失を経験することになるから深刻である。何も別な生きがいを探せばいいじゃないかというが老人は過去の経験に活きるのだから新しい経験を作り出すことはむずかしいのだ。技術であれ知恵であれ後進に伝えるのが役割となるからだ。では認知症の原因と職業が関係するのかというとこれも不明である。農家の女性もなっているし職業とどこまで関係あるのかも不明である。それでも役割喪失は人間の実存にかかわるから深刻なことは確かなのである。継続して何かを追求することは精神的にも安定感をもたらすのだ。そこには一代だけではない歴史的に価値を追求する充足感が生まれてくるのである。
農民は「ここはオラいちの田なんて思って働いちゃいない、」のだ。金は一代というのは金にしてしまいば土地は私のものになってしまう、土地が百代というのはそこで生産を続けられる限り、土地は永久に誰のものでもなく、生産の場として受け継がれることをいっているのだ」
「都市よ驕るな」−農業近代化批判−原田津著
●死者も歴史的継続のなかで生きる価値を求める(靖国問題の深刻さ)
大東亜戦争の是非はともかくこれがアジアの共同の価値、繁栄を追求するものとして継続されていれば今日のような靖国論争とか価値観の対立、混乱はなかったのである。その歴史としての価値が否定され継続されないから死者も浮かばれず虚しいとなったのである。死者も歴史的継続のなかで生きている。その歴史的価値が否定されるとき死者も意味なきものとされ鬼と化して祟るとかなる。そこに膨大な戦死者の霊魂の扱いに苦慮することになるのが靖国問題の深刻さなのである。魂を鎮魂できないという深刻さが靖国問題なのだ。だからこそ懸命に歴史的価値づけのため論戦を張る右翼がいるし反論すれば暴力にもなる。それは余りにもこの死者達の重みの故にである。死者たちが浮かばれない、無意味な犬死に無駄死に死んだ者たち責任だとなると死者を英霊への冒涜だとなるからだ。歴史的に継続されないものは価値がないものとされる。これがいかに深刻な問題か靖国問題は如実に示しているのだ。
歴史の継続というときこれは個人の人生でもそうだろう。いくらカルト団体に入っていてもそこに一生費やした人はそれは無益なものだったと言われたら怒るしやっきになって否定する。「我が創価の栄光の歴史は・・」「我が共産党の歴史的戦いの価値は・・・」「我が大和民族の栄光の価値は神武天皇にはじまり・・・」「我がトヨタの価値は・・・・」「巨人軍が永遠です・・」までなる。それがまちがっていてもそうである。これは戦争でもそれが間違っていてもそれを素直に認める人がいないのと同じである。特に命までかけて膨大な死者を出してまで遂行したものをその価値を否定することはできないとなる。これも歴史的継続の価値を否定されることは人間の実存にかかわる大問題だからなのだ。
NHKスペシャル 激流中国 「超格差社会の壁」 を見て
●農民出稼ぎ者の涙
黄砂のことを書いていたらNHK特集では中国人の富裕層と貧乏人の格差は天と地だった。日本ではありえない格差社会だ。内モンゴルに行ったけどあんなに貧乏な所だったんだ。中国は地域間の格差も大きい。都市籍をとらなければ都市民にはなれない、アメリカでも国籍とるために兵士になり戦場へ、これも巨大な国故の格差である。要するに奴隷と変わりない、大陸には奴隷が常時存在したのだからこうした格差が常にあった。それにしても手が曲がった子供の治療費をかせぐためとか娘の学費のためとか出稼ぎでわずかの金も稼げない、一年に一度しか子供にもあえない、家族は切り離され子供も家族も泣いていた。その涙をもたらしたのは何なのか?これが毛沢東の革命だったのか?毛沢東が生きていたらこれにどう答えるのか?今こそ毛沢東の革命の時ではないか?共産主義社会が最も激しい格差社会を作り出している皮肉、これが共産党の国なのか?中国という国家自体これほどの矛盾をかかえて存続しえるのか?内部から崩壊してゆくのではないか?出稼ぎの農民の涙はいつか怒りの涙となってゆく。その怖さを指導者は恐れないのか?富は特権階級だけでしか回らない仕組み、それが共産党の仕組みだというから毛沢東の革命のイメ−ジとは余りにも遠すぎる。都市籍をもち特権階級のネットワ−クをもつものしか豊かになれないというのはまさに階級社会である。階級闘争をかかげた毛沢東は死んだのか?
日本の高度成長とにているというけど日本は中産階級を作ったが中国は両極端に分化してしまった。というよりは中国は大きいから全員が豊かにはなれない、それにしてもこれほどの格差社会を作り出す中国は将来的に国を治めることができるのか?日本の格差社会もひどいといわれるがこういう格差とは違っている。日本では富裕層でも中国のように露骨に政治家と結びついたりしない、中国は民主社会でもないし資本主義社会でもない、強力なコネ社会でありそのコネ社会からはずれたものはいくら努力しても豊かになれない仕組みになっているから公平だと言えない、内モンゴルから高校に行かせるために年収の半分を娘につぎこんでいる出稼ぎ農民、その娘はこの苦しい生活からぬけだすには学問していい就職するほかないとか子供は豊かになるために科学者になるとか必死である。日本でも福沢諭吉の「学問のすすめ」はまさにそうだったのだ。学問を身につけて出世することがすすめられた。
●毛沢東革命は何だったのか?「農村が都市を包囲する」?
中国には三回行ったから関心がある。盲流という出稼ぎ列車のなかに乗ったこともあった。中国人の移動はまさに社会を変えてしまうほどの怖いものでもあった。その数が半端ではないからだ。移動は政府をも変えてしまうから移動を制限する必要もでてくる。だから農民は都市民になれないのだ。都市民には金をかせぐシステムにのれるが農民は都市民の奴隷となるだけである。これも毛沢東の革命が「農村が都市を包囲する」という思想とは逆になってしまっている。中国もグロ−バル化の波にのみこまれた。そして格差が極端化した。グロ−バル化は国外でも国内でも格差を拡大化するのだ。豊かになる術をもつものと持てないものの格差は縮まることがない、それが中国なのかもしれない、満州里で木材の貿易している商人はトヨタをもっていたし都市民にならない限り豊かにはなれないのだろう。日本は高度成長期には農民も豊かになった。そういう全体の底上げが国が巨大なのでむずかしいのだ。農民は都市民に搾取されるだけという毛沢東革命とは逆の皮肉な結果となっているのだ。しかし今でも毛沢東は共産党の中心にあり毛沢東への崇拝は変わっていない、毛沢東は中国では特別な存在でありケ小平とは違った国民的英雄なことには変わりないのである。だからまた毛沢東に帰れとかの運動が農民から起きてくるかもしれないのだ。ただ世界的に農業の時代は終わり農業を社会の基幹とはできなくなった。グロ−バル化は国内でも外国でも格差を作り出す。日本の山村でも森林鉄道があった木曽の王滝村についてNHKで放送したがあんな辺鄙な村でも木材供給基地としてにぎわっていたのだ。それが外材に切り替わり見る影もなく衰退してしまった。グロ−バル化の象徴的な村だったのである。
格差社会とは貧しいものがいくら努力しても豊かになれない社会である。高度成長時代は誰もが努力すれば豊かになれた時代だった。三文店屋からはじめた自分の家も豊かになったし資本などそれほどなくてもどこでも小さな店や商売をはじめて会社につとめて豊かになった人が多かったのである。農民も豊かになった。いたるところで小さな企業が起こりそれが巨大化したのが高度成長時代だった。所得倍増時代だった。それがバブルがはじけリストラ社会になり格差社会になった。人件費を減らさねばグロ−バル化の競争に勝てない時代になったのだ。中国では日本のような中産階級を作り出さない、貧しい農民はいつまでも貧しい農民に留まるのではないか、中国人を全員中産階級にはできない、どうしても貧民が一億にしても残ってしまう社会である。それらは奴隷に甘んじる生活を強いられる社会なのだ。いづれにしろ中国の影響は日本にも黄砂が東北まであったように影響が増大してくる。いたるところに中国人がすでに日本で働いている。どんな田舎にも研修生やら中国人の嫁がいるのだ。旧満州からきて中国人が多い。阿武隈の山の中にもいて都会に出たいと斧で夫を襲った事件もあったからだ。貧しい農民は都会に憧れる。日本では田舎でもまあまあの生活ができるから今では東京に憧れる若者は少ないが中国は事情が違う、豊かさを経験しえない農民が膨大なのである。その格差が政治的に安定しない不安要因と常になっているのが中国なのだ。
●日本には向かない格差社会
日本は古来から歴史的に格差の極めて少ない社会だった。その象徴が天皇だったのだ。天皇は外国で言う王様とは違っている。強大な権力者ではない、民を見守る司祭であり権力者より祭儀を行う神主である。だから今でも皇居で田植えをして養蚕をしているのだ。江戸時代でも侍でも贅沢はしていない、全体的に貧しいこともあったが侍の生活は豊かな商人よりかなり貧しかったのだ。士農工商という身分制度も形だけのものであり経済的には商人が一番豊かだったのである。ただ生活の基が農業だったから士農になっていただけなである。上にたつものが極端な富をもつことなかったしまた全体的にそれほど極端な格差のない社会だったのである。ただ全体的に豊かでないのだから格差もありえようがない社会だったとも言える。巨大な富がアラブの石油や資源があれば格差は生じやすいのである。日本人とともかく隣に倉が建てば腹がたつとなるほどそうした格差を嫌う、村で生活するには極端な格差社会になりえようがないし許されないのだ。何らかの形で富は分配せざるをえない、富は平均化せざるをえないのが日本の均質化社会である。また才能にしても飛び抜けたものは嫌われる。才能すら平均化され小粒にされてしまうのが日本の社会である。大陸のような大人物とか天才は出にくいのである。何でも平均化、均質化させられる社会なのである。
どこの国でもいい面と悪い面は表裏一体である。日本には本来は大陸のような格差社会にはなりにくい社会である。それが格差社会になっているのはグロ−バル化のためでありグロ−バル化の影響はやはり甚大だったのである。世界的生産の分業化もそうだしそこでは一国一地域の自然とのバランスの上に成り立っていた社会を破壊してしまうのだ。日本での格差社会への反発は大きいからこれからその反動が起きてくる。ライブドアの堀江とか引き下ろされし江戸時代でも豪商は血書にあったりしている。極端な富者は日本社会では許されないのだ。だから一面スケ−ルの小さい平均化した人間になるのが日本人なのである。でもそれは一面社会の安定化をもたらしていた。政治的安定化は天皇にもあり日本の平均化しやすい社会にもあったのだ。日本の社会は垣根の社会である。アメリカでも中国でも金持ちだけが住む地域がありそこには外部の人は入れない、玄関も警備されていて中に銀行のように金を納める金庫の部屋まであった。日本ではそういう金持ちは許されない、村では住めなくなるし分配を要求される。こういう社会は革命が起こりにくいし政治的には安定する。中国や大陸が政治的に常に動乱するのは格差社会だからだ。隣の国が富んでいれば陸続きなのだから奪おうとなるのはイラクがクエ−トに侵入したことでもわかる。富の奪いあいで戦争になりやすいのである。やはり日本は格差社会にはなじめないしその方がいいのである。
●正義、公平がない社会は罰せられる
野菜を食べて互いに愛するものは、肥えた牛を食べて互いに憎みのにまさる−箴言15−17
貧しいものをしえたげて自分の富を増そうとする者と、富める者に与える者とは、ついに貧しくなる−箴言 14−31
へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶるものと共にいて、獲物を分けるにまさる−箴言−16−19
その時、公平は荒野に住み、正義は良き畑にある−イザヤ−32−16
今回のテレビで見た光景はまさしくこれだった。余りにも極端なる故に露骨なる故にはっきりとその理不尽が見えたのだ。貧しくても野菜を食べて睦みあう平和な世界がいいのだ。豊かでも憎み合う世界よりはいいのである。明らかに中国人の富裕層は貧しいものを虐げている。その貧しい者のの涙の上に富がある。としたらどこに正義あるのか?豊かになる人から豊かになればいいというのもそうだが現実はそうではない、そこに正義はない、公平はないのだ。公平は荒野に住み、正義は良き畑にある・・公平は都会にはない、大都会にはない、荒野にある。正義は畑にあるというとき誠実に働く畑を耕す農民にある。中国の富裕層の都市民にはない、これほど明確な対比で示されたからわかる。こういう格差を許している社会が長持ちするのかとなると神の眼から見ても余りにもひどいからいづれ破綻がやってくる。
これはアメリカという国にもあてはまるのだ。また豊かな国にもあてはまる。日本なども世界的には豊かなのだからそういう面があるのだ。豊かな国は女性を金で安く買い奴隷のように働かせることもできるし現実そうしている。そこに神の呪いが下る。豊かな国はいづれ貧しい国に転落する恐怖があるのだ。そこに正義がないからなのだ。国レベルでの貧富の格差、国内での貧富の格差はそこに正義がないからその国の基盤を揺るがすものとなり国自体が自壊してゆく危険がある。だから今回の放送はそれをまざまざと示していたから中国は将来的に政治的に安定しないから危険だとなる。こういう放送ができたこと自体不思議である。中国の共産党からのクレ−ムがなかったのか?中国の内情が赤裸々に放送されていて好感がもてたのである。
中国9億人の運命
http://www.cameyo.co.jp/colum14.html
農民反乱?民主化要求
http://blog.goo.ne.jp/sower03/e/5ad671d729da9e98f6d59222e7e2e85f
人命は消耗品―中共の残酷
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/cat5774612/index.html
プロとしての介護の仕事(その追求するものは何なのか?)
●医は仁術から高度な技術に
介護士という職業自体最近できたものだろう。介護はそもそも家族がやっていたのである。医療は医者がやりその医者のケアとして看護婦がいたのであり看護婦は医療と介護の二つの面をになっていたから介護士としての職業は看護婦からはじまるきなるのかもしれない、医者は仁術というとき昔は精神的なものが追求されていた。仁術というとき医者にはモラルが要求されたとなる。ところが医者が診るのはフィズカル−体をみる、心と分離した体を診るのである。人間の体を機械のようにある体を無数の部分に分けて部品のように診る。だから腎臓が悪いのだからその部品を取り替える、移植すればいいともなる。医者とは体を機械とみて修復する技術者というのが現代である。鼻であれ耳であれ眼であれ心臓であれ胃であれ
腸であれ・・・・体を機械の部品のように診てその部品が悪いのを見つけ直すのが医者の仕事なのだ。だからこそ今では精巧なコンピュ−タ−を使い体を解明しようとしている。医者に今必要とされる望まれているのは高い技術力である。白内障を直す医者、手術のうまい医者は神のように崇められる。神の手をもつ医者となる。それは最高の技術者ということなのだ。足が骨折したら骨をつなぐとか処置するのも技術である。これは整体師とかもするから体を修復する技術屋だとなる。技術屋だからこそモラルに反する医者も相当いる。金に執着する人から名誉欲の強い人からそれは普通の人と変わりない、でも技術は手術の技術は超一流という医者はいるのだ。
医療のこれからは厳しい、と繰り返し言われています。そもそも医療が高度になっ
たということもあります。治療の選択肢が増えてきました。かつてのように、「生き
ながらえる」ことが唯一最高の医療だった時代も終わり、患者さんの多様な価値観が、
さらに様々な医療を要求するのです。そして、あまりにも細分化され、高度化されて
しまい、また、好ましくない結果に終わった際に、すぐに訴訟という流れが確実にで
きてきました。
もちろん、患者に辛くあたれと言うわけでは無く、知識不足を人情やら愛情はカバーしないということなのです。正確な知識を身につけた上で、人間味が問われるのであって、言葉通り、人情で病気が治るなら医者はいりません。医は仁術という言葉を間違って解釈するのは危険です。仁術は確かな技術が裏打ちせねばなりません
http://blog.mag2.com/m/log/0000050734/106753165.html
医者側の問題としてやはり教育でもそうだし何でもそうだが医は仁術という時代から余りにも遠い、患者が求めているのは効果ある治療であり慰めではない、昔は医は慰めになる程度のものが多いから医は仁術となっていたのだ。こうした高度な医療をするには医は仁術ではやれなくなり医は算術になってしまった。これもいちがいに医者を批判できないのが現実なのである。
例えば医者は仁術であるが、金をもうけることを目的として、病人の病気が早くなおるものをわざとなおさなかったり、健康に不必要なことに金をつかわしたり、殊にひどいのは病気をわざと重くして、金をもうけたとしたら、それは詐欺以上の悪事である。
こういうことは過剰な薬を出すことや普通に行われるようになったのも医療自体金がかかるものになったからである。
●介護士の仕事は何を追求しているのか?
介護はそうした体のことを診るのとは違う、家族がやっていた病人の介助である。これはむずかしい知識は必要ではない、家族の愛とかが必要になるから相手の肉体、機械としてみる肉体ではなく心に作用する術ともいえる。老人の病気は直らないから精神的に作用するコミニケ−ション術が必要となる。精神病者に対するときはこれは心理学も必要でありコミニケ−ション術が必要となる体をみるだけのものとは違う世界である。体を診てもわからないからだ。認知症の人でもそうである。体を診てもわからない、海馬が壊れたとなるならその部分を修復すればいいとなるがそれもできない、だから心理学とかコミニケ−ションとか家族愛のような人間的コンタクトだけが頼りだとなる。認知症のバリデ−ションという方法もそうである。体を機械として診る医者とはまるで違った世界なのである。介護の仕事はそもそも医者のような高度な専門性が必要でなかったし専門職になったのは家族で介護できずに他人に金で介護してもらいたいという人が多くなりその仕事が生まれたのである。これは主婦が仕事をもち料理できないからお惣菜を作ることができないから作ったものを買うようになったと同じである。専門家、プロは例えば農家では昔味噌を自家生産していた。それが味噌を作り売るようになったとき味噌を作るプロ、専門職が生まれたのである。その味噌は自家生産よりはプロが専門家が作るからうまいものでなければならないし売れないとなる。介護も専門職として仕事として成り立つようになったのはそうした社会的要求の結果である。自家生産でやっていたものを家族でやっていたものから分化して専門化してそれが独自の仕事となったのである。
家族が認知症になって毎日のように介護関係のプログとか読むようになりなんか不思議な感じをいつもしている。介護という世界の不思議である。それは介護ということが専門家としてプロとしてしている人がいることが今までなかったからである。特に認知症は余りにも特殊な病気だからこれを介護する介護士という職業が理解できない人が多いしそれより認知症を介護している介護士自体が自分自身の職業が何を追求しているのかどういう職業なのかさえわかっていない、暗中模索状態なことがプログを読むとわかる。それを専門の職業としていることそれ自体疑問に思っている人もいる。明らかに介護のプロは家族の方がプロになっているし家族の方が別に技術がなくてもなってしまう。すべてがそうでなくても家族は一番介護する人を知っているからである。家族は体を機械としてみる医者にはなれない、その差は大きいが介護士と家族の介護は同じレベルというより家族の方が上になっているから専門職と言っても何かしっくりこないのである。もし専門家だとしたら相談して適切なアドバイスを受け頼りになるはずである。しかし実際は認知症の人は個々に対応しなければならないから家族が特に家族でも最も親しい人が介護に向いているとなる。
ただ介護で福祉でも一般社会で追求している価値観とはかなり違っている。介助とか介護とかは助け合いの世界である。障害者の弱さを支える仕事なのだ。介護にも介護用品とか技術的に支える機械的に支える仕事がある。だからロボットに介助させるために介護ロボットを開発している会社もある。これは医者が技術者と同じである。ロボットが介護者になれば人間の介護士は不必要だとなる。でも実際は人間を介護する人はいらなくならない、人間は人間しか介護できないのだ。介護がコミニケ−ションであり愛の作用であり機械で代わりができないからである。あらゆるものが機械化されるがこの介護だけは代わりになれない分野なのだ。こういう人間しかできない分野は以前として残る。それは人間的なものを追求しているからなのだ。認知症でも人間的優しさで接しねばならないとか相手の心を読んで接しねばならないとかなるとこれはロボットにできるものではない、極めて人間的な仕事なのが介護だとなる。特に身体的介護だけではない認知症の介護になるとそうなのである。ところが認知症の介護では優しさを持とうとしても持てなくなりかえって非情になり虐待が起こるとかもある。すると介護が追求するものとは違う結果になる。そういう仕事はしたくないという人もでてきて出入りが激しい世界となっているのかもしれない、介護の仕事は限りない優しさを追求している。それはある意味で宗教的信仰的愛とか慈悲の追求にもなる。理想はマザ−テレサのような人を追求している。しかしそれは余りにも一般人には高い理想だからまねできないのである。福祉や介護は一般社会の価値観とは違う世界なのである。医者のように身体的に診るだけでいなからかえって宗教者のようなことが要求されるから現実の施設は身体的介護だけの収容所になっているのが多いのかもしれない、そこに介護の福祉の特殊性があり仕事として追求するものが違っているからこそむずかしい問題がある。
●看護師と介護士の仕事の役割
脈をとる看護婦の手のあたたかき日ありつめたき堅き日あり
いつもいつも冷たき手よと脈をとる看護婦の手を見つめし 啄木
理想は心と体をみる医者であり介護なのだ。この歌に如実に現れている。看護婦の手が冷たく感じられるのはいくら体を機械的に診ても何か患者には冷たいものと感じる。一方であたたかく感じるとき何かしら精神的作用、愛として作用するものがあるからだろう。ここに病人とか障害者とか弱者と接することのむずかしさがあるのだ。
看護婦が介護士の役割をしていた。看護婦は病人にとっては不可欠な存在としてあった。医療行為のケアという面もあるが介護士的役割、精神的ケアとか和らぎを与えるとか何か精神的な支えとして看護婦が求められていた。介護士は看護婦より精神的ケアが求められているが現実はこれも身体的な側面としての介護があり便の処理とか土方仕事でそれがいやになりやめる人が多いとなる。給料も安いから身体的な面の介護だけでも嫌になる。社会的地位も低いし介護士の仕事を知らない人も多い。医者と看護婦(師)は社会的に認められている。介護士はアルバイトでもできるとか何ら勉強しなくてもできるとか地位が低いし社会的にも認められていないのだ。だから施設では看護師の下働きにされているとか介護士は家政婦みたいな役割をになわされているとか地位が低い不満を言っている人が多い。
看護は病気しか見ない。与薬して軟膏塗ってあとはほったらかし。
介護はその人の生活をアセスメントしてQOLを高めていけるよう援助する。
だから介護のほうが断然やりがいもあるし、利用者に近しい存在になれる。
看護師と介護士の仕事はダブルことが多いのだ。ここでも看護師は医者と同じく身体のみを診る役目としてある。一方介護士は精神的ケアとして患者にト−タルにかかわるからやりがいがあるとなるのか?これは特に認知症の介護だと介護士の役割は大きい、身体的世話ではない、精神的ケアの比重が大きくなるからだ。つまり認知症の介護というのは精神病の介護とも違う新しい分野の仕事であることにも原因しているのだ。医療には素人はかかわれないが介護は家族が病人になればいやおうなく介護士になるから極めて身近なものなのである。医療については高度な専門知識が必要だが介護についてはそういうものは必要ないからこうして知識のないものでも介護については語ることができるし認知症について介護士が言っていることは理解できるし同調できる。家族を介護している人は介護士が言うことは医者の専門知識と違うから理解できるのだ。そして家族の方が介護についてレベルが上であると介護士の人も言っている。医者や看護師は医療の身体を診るものとして専門化され特別の技量をもつものとしてみられていた。介護士には家族の方が勝っているとなるとそうした特別のものとして見られ要素がないから給料も安いし地位も低いのである。
生む−生かす−生きるは人間の普遍的テ−マ(人は延命より何かのために生きることを望む)
●人は延命より何かのために生きることを望む
生きる、生かす、生む・・・・この意味は英語だとlive,work,produceなどになる。生かす-活かすは機械が作用す、機能するとかの意味でwork outになる。生きるというとき同時に生かす、生むということにも作用する。介護を例にとると看護師は体のことばかり気にしているからおかしいと指摘する老人を診てきた医者が言っている。血圧などばかり気にして散歩させないとか体を診ることばかり気にしている。体の専門家になりすぎている指摘がある。これは生きるということから考えるとどういうことかというと生きるとは体だけを診ることではない、生きることには精神的な面が強く働いている。その本人が生きるということは
I live for・・・・であり何のために生きるかが大事になる。体が悪いのだから今日は無理して散歩は行けませんと言われても春のいい日だから是非桜を見たいというとき桜を見ることが生きることに通じているから多少の血圧の高低はあっても散歩して桜を見ることが生きることなのである。癌になっても登山した人々がいた。癌だから何もしていけないとはならない、せめて最後に登山したいというのは生きることなのだ。
私自身も最近介護で遠くに行けないのでショックであり最後とはならないかもしれないが本当に最後に富士山を仰ぎたいなと切実に思ったのである。つまり富士山を見る、仰ぐことが最後に生きることなのであり多少体が悪くても最後に富士山を見て幸せだったと死ねることになる。ただ単に体が生き長らえることが生きることではないのだ。病人を介護していろいろ生きるということを考えてきた。病人になっても老人になっても人間はどこまでも生きることなのだ。この生きるは単に生命の延長ではないのだ。医者や看護師は機械的に体だけを診ているが生きるということに関しては無理解であり無頓着なのである。しかし不治の病になったとしてもなおさら生きるということが切実な課題となり癌でも海外旅行したり登山したりすることになる。それを医者がとめても生きるという意志の方が強いから医者も認めざるを得ないのである。一年後一カ月後に死ぬと宣言されたら体のことはもうどうでもいい、最後に何かをしたいと切実に思うようになる。最後の見納めになってしまうからだ。
●介護は他者を生かすこと
介護でも他者の生きることを助けて生かすことであり単に命を延長させることが介護ではないというのもわかる。重病人でも生ける屍となっていれば生きることがないならばそこには希望はなくなる。しかしどんな重病になっても生きるという姿勢がありつづければ体の病とは関係なく介護者も助け生かすことができる。その生きるとは人により様々であり何が生きるかはわからないのだ。最後にビ−ルを飲みたくて体に悪いが飲んだとかそれもその人にとっては生きることだったのだ。枕元の花を見て生きることを感じている人もいるかもしれないし誰かに会うことを待って生きることを望む人もいる。体の機械的維持、延命ではない、生きるということはまた生むことであり生み出すことである。俳句でも短歌でも病人でも作りつづけるから生むことはつづいている。
人間とは生きることであり生かされることであり生むことでもある。生むは何かを生産することなのだ。病人でもそれはできるししたいのである。認知症の人に生きることができるのだろうか?認知症は何を生きるのか?認知症の人は何のために生きるのかとなるがやはり認知症の人も生きたいのである。それは人並でありたい、仲間外れにしてくれるなという普通の人と一緒にいたい生活したいという当たり前のことが生きることになっているのだ。認知症になって馬鹿になったから施設や病院に隔離してしまうほかない、普通の社会で生活していけない人だからそうするほかないとされたくない、ただ当たり前であることそれが生きることになっている。それが認知症の人にとって生きることなのである。当たり前のことができないのだから当たり前のことができることが大きなことになってしまった。障害者にとって当たり前のことができることが感動になてしまっているのだ。それでもそれは生きることなのである。
夕桜介護士付き添いなお生きむ
介護士は生かすために付き添っているのでありただ単に体の延命だけを助けるのではない、そこに介護士の仕事の意義がある。介護する方だって生きることがない、生きる意志がない人をみるのは辛いし嫌になるし自分自身が絶望的になる。その人に生きるなにがしかがあれば生きるを共有できるから意味も見いだしやすいとなる。ただこれはいろんな具体的な場面でむずかしいものがある。現実と理論のギャップはあまりに大きい時があるからだ。実際は生ける屍になっている人たちばかりだとしたら絶望になるからだ。現実そういうこともありうるから常に現実と理想は乖離する。現実は厳しく理想は理論で終わりになりやすいのだ。でも生きるということが人間のテ−マであることは変わりないのだ。
●生む−生かす−生きるはすべての仕事に通じる
生む→生かす→生きる これは社会全般、人生全般に通じることである。子供を生む→生かすは育てるに通じる。最後に生きるは主体的に私が生きるとなる。社会の仕事で一番多いのが生かすことである。医療でも生かすことであり教育も人の個性などを生かすことであり生かすこは例えば出版では編集にあたる。作家を生かす作業が編集者にある。一方で作家を殺すことも出版社とかメデアにある。インタ−ネットでもリンクは相互に生かすことであり不可欠な知識の新しい拡大と深化なのである。生かすことと殺すことは常にある。医者でも患者を殺すことがあるし介護でも介護されるものを殺すことは虐待など日常的に起こっている。家庭でも起こっている。介護に耐えきれず殺人になったの近くの浪江の請戸がそうだった。介護の深刻さはあまりにも身近な問題になっているのだ。生かすことができず殺すことになるのも厳しい現実なのだ。生む→生かす→生きるは人間の普遍的テ−マである。だから意味もわからない題目や念仏を唱えているより生む、生かす、生きると唱えていた方がいい。なぜなら日々生きることが生む、生かす、生きるだからである。日々なんとか生かそうと努力しているのが人間の仕事なのだ。最近のトウモロコシや菜の花からでも石油の代わりの燃料−エタノ−ルを作り出そうとしているのも農産物を荒廃した土地を生かそうとする試みとなっている。どんな分野でも生む−生かす−生きるは普遍的なテ−マなのである。
働くとは基本的に他を生かすことである。また生きることは生かされことでもある。私は30年間自由に旅をできたのもそういう環境を与えられたからであり生かされた生かす人が私のために働いてくれる人がいたためだということを知った。旅をするにしても泊まったり買ったり食事を提供してもらったり交通の便を提供してもらったりといろいろ他者が働いてくれるから旅ができたのだ。現代は何も金があればそんなこと誰でもしてくれるしあえて感謝する必要もないとなるがふりかえると私がかくまでも自由に生きられたのは自由に生きさせてくれる働いてくれる人がいたからである。料理することリンゴの皮むくだけでも結構めんどうだなと実際毎日してみてわかったからだ。電車にのるにもそこで働いている人がいるからだ。人間は今直接働く人が見えないから感謝もしないのである。ただ医者などはじかに接するから過分な感謝を尊敬をしているのだ。だからもし人間が金持ちで自由が与えられているとしたらその自由は実際は無駄にしてはならないのだ。何か勉強するなり将来的に役に立つものとして自由が与えられているのだ。私自身は今その恩返しとしてこうして無料で知識的なものとか提供しているのだ。もしそうしないものはいくら金があるから自由だから他者は関係ないといっても批判されるのである。無駄金使いだとか浪費者だかとか批判されてもしかたないとなる。一方社会の片隅で料理を出しているような人でもそれは働いている、人を生かしているということで批判はされないのである。ニ−トは確かに働かない自由があるがその自由は猶予の自由であり何か有益なものを身につける自由である。それを最後まで許す人はいないだろう。自由は誰かが与え生かしてくれなければありえないのだ。だからいづれ不自由な時が必ず来るのだ。
生む−生かす−生きるという行為は営々とつづく、新しい生命は生まれ生かす(育てる)ことはつづくし生きることも終わることはない、そして生きられざるものが過去にありつまり生きたいと思っても生きられなかった人たちが膨大な数いる。私が知っている母方の墓には結核で若くして死んだ青年が埋まっているし結核で若くして無念で死んだ人は膨大であり戦争で無念で死んだ人も膨大である。この死者たちの生きたくても生きられない生があり一方で新しい生は途切れることなくこの世に生まれてくる。生む−生かす−生きるは延々とつづく、生きえざるものも生かされざるものも生む−生かす−生きるという連続性のなかにつながっている。断絶はしていない、大学に入ることなど今は当たり前であり大学に入らないものが普通でないとなっているが大学に入ることは団塊の世代ではまだ少なかったし中卒もクラスに半分くらいいた時代からすると大学に行けざることから大学に行くことは当たり前のこととしてかなっている。女学校に入りたくて入れなくて残念だったと今でも大正生まれの人が言っている。そういう希望は今はみんなかなえられている。過去に成しえざることが今は普通に成している。それが生む−生かす−生きるということなかで連続しているのが人間なのである。
ともかく生む−生かす−生きるは人間の普遍的テ−マであることは間違いない、どんな仕事でも農業でも生む−生かす−生きるという作業がある。何かを生み−生かす−生きるのである。生命の営みは生み−生かす−生きるなのだ。一方で生命を殺すというのも常に反面としてある。団体組織は必ず個性を殺す、生かすべきものを生かさないことは教育でも福祉でもいろんな分野である。何が生かすのか生きるのかそれぞれにの価値観の相違で対立することもある。ただ基本的に生む−生かす−生きるが人間の普遍的テ−マであることは間違いないのだ。
「静けさや岩にしみ入る蝉の声」が現代に問いかけるもの(沈黙無き文明の音)
●江戸時代の沈黙と闇の背景がこの句を作った
これまで何度も書いてきたように俳句でも江戸時代の俳句となるとその背景を知らないと鑑賞できない、その背景が現代にはないから一句の深い鑑賞ができないと同時に芭蕉のような句はもはや作れないことなのだ。江戸時代と現代の環境はあまりにも違いすぎる。江戸時代は電気もない自動車もない、深い闇と沈黙の世界である。それは現代からすると想像を絶する世界である。奥の細道でもその道に深い森の原始の闇が広がっていた。その面影を残しているのはわずか白河の関に出る境の明神のある暗い杉木立の細道である。あそこくらいしかもはや当時の面影を残す場所はない、あのような原始の闇が覆っている道が前途に常にあったのが奥の細道なのだ。郷土史研究で夜ノ森のことを書いたがあの辺もまだ開墾されていない野が広がって森におおわれていたのだ。大野−広野とかあるのも原野が広がっていたからである。今ではそういうことが想像できない世界になっている。鉄道が通ったのもそうした森があった所だった。奥の細道は現代ではあまりにも明るい開けた喧噪の道になっている。でも細道とあるごとくその道は暗い道であり手さぐりで細い道を奥へたどる道だったのだ。地図もない旅では歌枕が指標となっていた。笠島はいづこさ月のぬかり道-月明かりのなかをぬかる道を行き歌枕の笠島を探している。江戸時代のそうした深い森の闇とか沈黙の背景を実感せずして芭蕉の句の鑑賞もできないしまたその背景があったからこそ名句は神が芭蕉を遣わして自ずから成り後の世に残したのである。文学とか芸術はその時代でしか作れない、残せないものがある。その背景となるものが失われたときもはや再現できなくなるのだ。
そうした心細い細道を奥へ奥へと歩みたどってゆくなかで名作の奥の細道は成ったのであり新幹線で一日で行く旅では作りえようがないものだった。新幹線にはもはや途中は存在しないから旅も存在しないのである。また旅の驚きもなくなる。陸奥は当時は世界の果てのようなものとしてあった。だからこそ平泉の栄華は金色堂の輝きはより神秘的なものとして映じたのである。漆黒の闇の中に輝くくがねの夢があった。そして蝉の声の句もこうした行程のなかで森厳な山寺でものにした一句だったのだ。おおげさに言えば大自然、宇宙の静寂のなかで成った一句だったのだ。このように短い中に宇宙を大自然を凝集して表現できたことに驚嘆するのだ。ここに俳句の真骨頂が発揮されたのだ。世界でもこれだけ短い詩句で大自然を現すことはできないことに俳句の価値がありそれが芭蕉以後もはや作れないということに芭蕉のぬきんでた価値があったのだ。蕪村や一茶や子規という人が俳句を発展させたことは確かである。しかし芭蕉は俳句の永遠の古典でありこれに勝るものはもはやでないのである。もはやその原生の自然環境が破壊されたから作れないのである。
●現代文明は蝉の声と正反対の世界
静けさや岩にしみ入る蝉の声−この句の実質は岩にしみ入る蝉の声だけなのだ。これだけで大自然を象徴的に表現することは神業だった。というのは森厳な山寺の闇の森には様々な蝉が一心に鳴いていた。その蝉の一つ一つがもれなく短い命のひびきが岩という一点にしみいれ凝集されたのである。一つ一つの蝉の声、命は決して無駄なく一つの岩に吸収されたのである。文字通りすべての蝉の命の声が岩に完全に吸収された。その命の声は消費され消耗されることはなかったのだ。深い静寂の中に岩という一点に集中して消化されウエストされことはなかった。つまりすべて一つももれなく命は成仏したともなる。これをなぜ強調するかというと現代文明のこの騒擾、騒音の世界の中で尊い命は消耗され浪費され焼尽され無益化されるこの虚無感が巨大なものとなっている。
戦争にしても何百万人が無益に死んでいる。無益としたくないから歴史的に価値あるものとするのもわかる。でもナチスでもそれから現代の文明自体が上野霄里氏の批判のごとく原生の命がまるでひびきあわない、共鳴しあない集団、組織の世界となっている。確かに外見では宗教団体でもそこに調和していることを装っているがその中味はただ人が集まりナチスの世界とたいして変わらないのだ。一つ一つの命がひびき一つの岩に吸収され全うされ静寂の世界に還る。その正反対の世界が文明世界なのだ。一つ一つの命は虚しく消耗され消費されただ団結団結とかの美名の下でただ騒音の命のない叫びとなっている。シュプレヒコ−ルは蝉の声ではない、人間の断末魔のひびきあわない、共鳴しえない生きられない絶望的に訴える声のように聞こえるのだ。それほど現代文明とは絶望的なのかもしれないのだがそんなことを指摘する人は上野霄里氏とかアウトサイダ−だけであり誰も耳を傾けないということも現代の絶望を示している。そしてやはりナチスは異常でもその体質は文明であり変わっていないのである。現代でもナチスと同じ団体に支配されているというように文明自体は何も変わっていないからまた同じ悲劇はありうるのだ。
●文明の末路は原子爆弾
蝉の声を吸収した一つの原生の岩は芭蕉だった。そして芭蕉は今も蝉の声を岩と化して聞いている。−やがて死ぬ景色は見えず蝉の声−である。それは岩と化して蝉の声を聞いている芭蕉なのである。しかし現代の人間の声は虚しく大都会の喧噪のようにピカ−トのアトム化の悪夢と化して亡霊化している。文明世界は亡霊化した世界だというとき宗教団体でもそうであり組織化した世界はただ騒音の世界に命はひびきあわず消耗ウエストされて地獄の闇に消えてゆく。成仏するというこなどはまるでない、亡霊化して地獄に彷徨うのである。文明はそれほど正常の世界を脱してしまったからである。そもそも原生環境という大自然に対比して人間が文明を作ったときその文明自体呪われたものであったことも確かなのである。結局文明も草に埋もれ砂に埋もれ海に沈む運命にある。実際の世界の遺跡は墓場でありそうなっている。文明とは芭蕉が聞いた蝉の声とは違う、大自然の中で真実を生きられないあがき、叫びなのだ。それが大殺戮の戦争となっていったのも文明の結果であり日本だけが悪いということにはならない、文明が作り出した戦争という面も大きいのである。アメリカが落とした原子爆弾がまさにそれを象徴していたのだ。
文明の悪夢が現実化したのが原子爆弾だったのだ。それはアメリカが現代の最悪のものを自ら示したともいえる。それは必ずアメリカにもかえってゆく、テロで崩壊したビルもその復讐の一つだしさらなる悪夢がアメリカを襲うかもしれないのだ。文明の断末魔は認知症の断末魔以上のごとく恐ろしいものとなるのだ。原子爆弾は核はこの世の生命の一切の破壊に通じてをりそれが文明の最終破壊としてのしかかっているから恐怖なのである。これは余りの恐怖に声も出なくなる、人間が凝固しておしになってしまうような恐怖である。ソドムとゴムラが神の罰で炎上してロトの妻は後ろを振り返ったので塩の柱になったなものである。その光景と原子爆弾を落とされた広島はにていたのだ。これが文明の一つの結論でもあったのだ。そのような起きえざることが現実に起きた。それも日本で起きたということは日本の世界に対する使命がいかなるものか考える必要がある。日本は核は最後まで持つべきものではない、その核の余りにも恐ろしい結果を常に世界に示す役割を与えられたのである。このことによりアメリカは永遠の呪いを受けることになった。人種差別がその背後にあったとすると今回のような銃乱射も起こるべくして起こった。ニュ−ヨ−クのテロも起きたしアメリカはこうしたテロをとめることができない、それは内部の矛盾からきているから外部をたたいても外部を規制してもとめることができないのである。組織団体でもすべて内部が矛盾しているからいづれその内部の矛盾に起因して崩壊する運命にある。文明も内部から崩壊してゆく運命にある。
●東北の失ってはならいないもの
芭蕉は耳の詩人だというときそれは江戸時代の沈黙世界があったから成りえたのである。
「手を打てば木魂(こだま)に明くる夏の月」というのも原生の澄んだ空気の中にひびく木魂と明るい曇りのない夏の月が呼応する。原生の清浄な世界がそこにある。ひびくものは木魂だけであり深い沈黙の世界に余韻となりひびきただ明るい月の光だけが森を照らしている。これほど自然とは美しいものであることに感嘆するだろう。自然に無益なるもの無為なるものはない、人間には文明にはあまりにも煩多な無益なもの、無駄なものが多すぎる、そしてその無駄なものに人間の命は消耗されているのだ。文明に使われる人間が老子のように無益に見えてしまう、その無益さの虚無が巨大なるが故に空恐ろしいものなっていることに気づいていないのだ。古池や蛙飛びこむ水の音−これも江戸時代の沈黙があってこそその音は生命の共感となってひびく、この極端なシンプルさのなかに命のひびきをとらえている。その余韻はかえって大きく深いのである。余韻は大きな深い沈黙が背後にあったからである。
現代社会は日々の騒音のなかでこういう微かな音は完全にかき消している。日々の事件、ニュ−スで消耗されこうした沈黙にひびく音はなきものなのである。だから文明の騒音を遮断しないかぎり過去の世界から伝えられるメッセ−ジは聞こえないし見ることはできない。禅のように石に向かって10年も黙していたほうがまともになれるという逆説があるのだ。私の場合は無能なるが故に社会に適応できないが故にそうなってしまいかえって大自然の声を聞くことになったのだ。むしろ芭蕉が聞いた蝉の声、それが岩にしみいるということを感じるのにはそうした沈黙を内部に持つ必要があった。そもそも岩に蝉の声がしみいるという発想自体が現代ででてこないからそんなことはありえないなどとマスコミにもてはやされる女性の俳句作者が書いている。マスコミがこれでも一面騒音の世界を喧伝するものなのかわかる。まともなものは取り上げない権力組織機構なのである。
江戸時代は確かに暗黒面も大きいが中国が恐怖となり外国が恐怖となることもなかった。日本自らも外国への恐怖となることもなかった平和な時代が三百年もつづいたからこそ芭蕉の句も生まれたのである。東北の未来はだから闇雲な経済発展だけを目指すべきではない、芭蕉の残した句を生かすのはそうした自然の背景が欠かせないのだ。その背景を失ったら芭蕉の句も生きてこない、東北の土地は癒しの場に適しているのであり経済発展ばかり目指す極端な文明化に走ることは東北という土地の意味を喪失させ荒廃させることを常に考慮せねばならぬのだ。社会を論じるときこうした視点から指摘する人はほとんどいない、山村の過疎化も経済的側面からだけ指摘するが精神的側面からいかに全体の原生環境の喪失が人間に影響するか論じられない、東京という怪物都市の異様さを言うものはいない、そこでどうして精神のバランスを保つのか?全体を志向するとき山村も体の内蔵の一部でありそれを経済的効果がないとして切除するということが逆に都市民へ眼に見えないものとして心に影響してゆくかを考える人がいないのである。都市だけで社会は存在しえないのだが都市だけで別に食料は外国から輸入すればいいとか全く経済的側面からしか考えず長い歴史のなかで培われた国土を省みることがないグロ−バル化は非常に危険な思想となっているのだ。自然は総合であり大地はつながっている。そこに大都市だけが異様にふくれあがりそこだけが大地と山々と切り離して存在すればいいということはありえないのである。だから大都市は大自然との調和を欠く故いづれ崩壊する運命にあるのだ。
失われた原生の鹿の声(蕪村の「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の声 」の意味)
http://musubu.sblo.jp/article/7267972.html
文明と猿害の問題(里におりて餌をとる猿と人間はにてくる)
●猿の威厳ある生き方とは
NHK特集で猿害を犬で元いた山の奥に追い払うという方法をとる伊沢教授の話が面白かった。猿についての考え方が面白かった。猿は里にでてきてうまいものを食べることができてもこせこせして辺りに目を配りきょろきょろして落ち着きがない、車の間や人間の目を気にしてまるで野生の動物の威厳がない、むしろ森の中で暮らしていれば食は貧しくても野生の猿としての威厳は保たれる。だから山の上に森で住めるようにした方がいいと・・・これは猿だけの話ではない、熊が里におりて人間から食べ物をとると夜行性になるというのもそれだけ熊も夜盗みに入る泥棒と同じになり行動もにて卑屈になってくる。これは動物だけではない現代の人間にも通じていたのだ。人間も文明化で本来の原生人間としての威厳をなくしたからである。一般的に原始人となると今のアフリカの貧しい人々のようにいいイメ−ジはない、貧乏人というイメ−ジしかない、そもそも原始人、野性的人間というのがどういうものかさえわからなくなっている。ネパ−ルの奥地で裸足で歩いている人には驚いた。インドの熱い所でも裸足で歩いていた。相当皮が厚くなっているのかと驚いた。靴がなくても暮らしていける人がまだいたのである。遊牧民でも非常に独立の気概が高く誇り高いというときそれは羊とか外部の物に道具に頼ることがない自給自足的な生活をしているからだ。これが定住を強いられるとその誇りも失って無力化される。それは本来の文化そのものが奪われるからそうなる。確かに羊の肉以外のいろいろなうまいものが食べられるようになるが遊牧民として独立自営で生活していた誇りは失われる、威厳は失われるのだ。それは厳しい生活にしても人間としての誇りは威厳は保たれる生活だったのだ。人間は今や文明によって家畜化された人間であり本来もっていた原生人間としての威厳は肌で感じることはできない、そういう具体例に接することができないからである。
●文明化により人間は無力化される
文明化するとあらゆる点で人間は無力化される。例えば山村にしても今や車なしでは生活できない、買い物もできない医者にもかかれない、生きることすらできなくなっている。これは都会以上に車が価値あるものとなっている。タイの山村ではテレビが価値がでてきてテレビが欲しいので親が娘を都会の売春宿に売るまでになっている。これこそ人間の価値を威厳を喪失させてしまった典型である。貧しくても山村でもそれなりに自給的生活をしていれば確かに病気になったら早く死んでしまったりうまいものも食べられないが人間としての威厳は保たれたかもしれない、でも今や車は命であり人間の命以上に価値あるものとなっている。だから車なしで山村で生活できないことは今の最先端の生活を山村で強いられているのだ。テレビはなくても生活できる。囲炉裏を囲んだ昔話の方が密接なコミニケ−ションができた文化であった。現代では娯楽もテレビなしで中央から与えられないと娯楽もできない、村での独自の娯楽の文化さえ作ることもできない、内部で自律するものがなくて食生活すら外部頼りになると当然山村は精神的にも貧しいだけの存在となって人間の個々の威厳もなくなってしまうのだ。
これは山村だけではない、医者は今一番尊敬されているがその医者さえ高度の文明化で自信をなくしている。高度な医療器具や機械装置に囲まれ患者な要求に答えねばならない、しかし医は仁術という時代からあまりにも遠い、直らないとあきらめる患者自体が少なくなんとか直りたい直せるんだという要求が強いから医者もそれに答えるとなるとできないから苦心している。先生も高度な広範囲な知識の要求に答えられないから自信喪失になる。技術者も極細部をまかせられているだけであり全体を管理できないから自分で何かを成し遂げるという達成感がない。あらゆる分野で人間は文明化により自信喪失となりただ巨大なビルディングを見上げて蟻のような卑屈な存在感のないものとされる。マヤの文化でもイ−スタ−のアモイ像でも過去のエジプトでも人間に存在感があったから偶像崇拝でも人間の顔や像を作っていた。今は人間そのものは卑小なものでしかないからピカソの描く分解した人間像や幽霊的存在の人間になる。
● 文明のグロ−バル化は文化を破壊するから致命的
文明化すると仕事の量が凄まじくふえてくる。種類もふえてくる。猿も人間界で餌をとろうとする車や人の間すばしこくふるまわないと餌にありつけない、人間も同じである。人間のなかで餌をとるために右往左往しては人に気遣い様々な職業で金をかせぐために働く、その職種も無数にある。ペットが人間より大事にされると四国のホ−ムレス遍路がなげいていた。お犬様時代への逆戻りである。人間は人間の尊厳よりすさまじくふえた職種で人に使われることが多くなり休むひまもなく過労死になるものもいる。自律的な自営的な生活ができなくなるのだ。こうした文明化による人間の無力化に天才は耐えられずヘンリ−ミラ−や上野霄里氏がアウトサイダ−となり文明を告発するがそれも家畜化され文明化された人間にはひびかない、自ら家畜化された亜人間になっていることに気づくこともないぼど文明化されているからだ。意外と給料が安くても福祉関係は全人間的ト−タルに人間にかかわるということで人間的な仕事だと自覚する人もでてきている。福祉にもいろいろあるが人間と人間がかかわることが深い分野だからそうなる。特に認知症関係はそうなのである。これは一面人間回復の仕事ともなりうるものをもっている。文明化された仕事でト−タルにかかわるものが極めて少ないからそうなっている。医者でも歯とか眼とか胃とか心臓とか肝臓とか部分にかかわるが体全体にかかわる医者は存在しないからだ。人間が生きることは尊厳を持つということの方が大事なのだがそれが最後にきているのが文明社会なのである。
文明への批判は今にはじまったことではない、すでに2千年前からあった。ソクラテスがなぜこんなに無駄な仕事あるのかと言ったり老子は有名である。2千年前から文明に対する疑問があった。今日とはあまりにも違う環境なのに文明化の批判はあったのだ。自然に対比して文明が作られたときすでに人間の原生性がそがれる運命にあった。人間より文明的なもの建築でも道具でも人間より価値あるものとなる運命にあったのだ。文明はまたグロ−バル化でありこれは地方の歴史で培われたた文化を破壊するから致命的なのだ。通信の発達はかえって報道を一様化して地方の昔話の文化を破壊したしハンバ−グなどにより世界の地方の食文化も破壊される。威厳をもっていた遊牧民の文化も破壊される。それと同時に人間の自立的生活も失われ尊厳も喪失させる。草原の民には草原の民の文化と歴史がありそれを根こそぎ奪ったらその人たちの人間としての威厳も奪われるのだからそれは致命的なのである。神はそれぞれの民にその土地にかなって生きる術を与えたのでありそれを奪うことは人間破壊でありひいては自然環境破壊であり人間滅亡に通じているのだ。エタノ−ルでも農作物からとるのだから本来は食料にすべきものであり飢えている人に食料として与えた方がいいという意見もある。そもそも文明は膨大なエネルギ−消費するからエネルギ−の問題は解決しないしまた新たな問題を生むのである。
●文明化は時間を奪い時間でしか養いないものを奪う
時間も実際は文化であり文化が違いば時間感覚も違う。遊牧民の時間感覚と農耕民の時間感覚はかなり違う。遊牧民の時間感覚は羊に食わせる草がなくなれば移動する。移動する時間感覚である。だから空間でも時間でも星が移動する目印しとなるから星座とか星の文化が生まれた。農民は定着しているから定着の時間感覚、一年で季節が巡る時間感覚、周期になる。遊牧民と農民の周期は根本的に違っている。羊が子供生むとか羊の毛を刈る時期だとか羊の周期になる。農民は春が来たから種を蒔く季節だとかとなり桜にも種蒔き桜とか名前がつけられる。植物の周期に敏感なのである。時間は文化であり現代のような時計で計られる時間は存在しなかったのだ。文化が違いば時間も違うからである。そもそも時間は機械で計れないものなのだ。それが時間までグロ−バル化されて時計の時間にされたのはそれぞれの固有の文化の破壊だったのである。
焼き畑農業に依存したマヤなどの古代文明が、高度な長期の暦を発達させたのは、偶然ではない
農業でも稲作と焼き畑の時間感覚も違っている。米の作る周期と焼き畑の周期はかなり違っているからだ。焼き畑を基にしたのが太陽より月の暦であり旧暦の月の感覚の方がなじんだものである。太陽暦はグロ−バル化しやすいが月の時間感覚が生活には必要だったのである。エジプト文明の時間もナイル川が水害を起こして土地を肥沃にするとかナイル川の水の増減の周期が時間だった。過去の文明の時間はみな違っていたのである。農業でもそうだし江戸時代には地方歴があったように時間感覚は地方ごとにも違っていたのだ。日本国内でさえ時間感覚が違うのだから世界では相当な時間感覚が違っている。とても時計で計れる時間ではありえなかった。今でも実際は時間はグロ−バル化できないのだが効率化ということで時間は量化されて計られるものになったのだ。結果として一分刻みで人間が時間に酷使されるようになった。交通でも電車でも正確に時間で距離を計らねばならない、江戸時代だったら歩く感覚の時間である。何里でどこまでつくとかである。太陽が上り沈む時間感覚だから悠長な時間の暮らしがあった。
時間が文化だというとき、自然のなかで暮らす時間は時計では計れない時間でしか成り立たない、最近NHKで放送した外材が高くなり日本の森の木材の需要が高まってきた。それで皆伐という根こそぎ森の木を切ってしまうことが問題になった。今の需要だけのために今高いからと高いうちに売れるうちに売ってしまおうという性急な要求で森が破壊される。ところが森を木を育てるには50年の歳月が必要だからそれだけの長い見通しが必要であり短い生活感覚では対応できないというのが自然のなかで暮らす時間なのである。農民は三代つづかないと農民になれないというのもそのためである。林業もまた同じなのである。グロ−バル化の時間も文化の破壊であり実際はそれも深刻であり人間も狂わせてしまった大きな要因である。文化を育むには相当に百年単位で時間かかる。昔だったらインドから仏教が伝播するのに中国−韓国−日本と経由して何百年もかかった。その中で中国の仏教が独自にはぐくまれ韓国の仏教もそうであり日本の仏教も時間のなかで別なものにその国独自のものとなっていったのである。つまりそれぞれがculture-耕して文化を作ったのである。文化の育成にはそれだけ時間がかかるのである。だから文化は簡単には作れないのだ。グロ−バル化した時間はそれぞれの固有の文化を破壊するから世界をより混乱したものにする。
三分ほど夜停まる駅蛙鳴く
都会では三分停まることはない、一分刻みであり一分遅れると乗客からのクレ−ムがくる。そして百人死んだ事故が起きた。運転手が時間を急いであせった結果なのである。三分間は現代では電車ではかなりの時間になる。乗客はいらいらするのである。そういう時間のなかでは自然を楽しむ余裕もないのだ。そこで人間は完全な機械になるほかない、だからこそ事故が起きたのである。
一般的障害者と認知症の相違(高齢化社会の意味するもの)
●障害者は社会から隔離されて理解しにくい
障害者というと生まれたときから障害者の人がいる。この家族をかかえ地獄を語るものがいる。本当にそうだと同情するようになった。一般的に障害者を家族にもたないものは障害については無関心である。また持ったとしても金を恵んでやるとかかわいそだねとか上っ面の同情にしかならない、自分自身もほとんど無関心だった。ただ自分自身は優秀な人間でないから劣等生だったし体力的にも弱いからそういう点では障害者とは違うが社会的には劣等なものとしてある。頭が優秀でなくても体力が優れていれば社会では通用する。頭だけですべてを計ることはできない、能力は実に様々なものがあるからだ。自分は障害者に身近に接したことがない、いや近くにいても無関心だったのである。障害者はどうしても社会から隔離されるから見えなくなっているのかもしれない、これは老人だって施設に隔離されるとわからなくなる。精神病者も隔離され病院に収容されると社会からは見えなくなる。障害者は社会と交わる接点がないと一般の人には理解しにくいのだ。そこから偏見と差別が生まれる。人間の無理解は何でも良く知ろうとしない、知らないといかことが相互に敵対することになる。これは人種間の争いでもそうである。相手が人間ではない、動物のように思うことさえある。外国人が日本では天狗のように描かれたりするのもそうである。外人を見たこともない人はそうなる。知らないから差別が偏見が起こるのだ。相手を愛すには相手を知らなければできないということを書いたが人間は相手を知ることがいかに大事かわかる。
●高齢化社会は誰でも障害者になる時代
障害者というのは自分自身が障害者にならないとわからないものでもある。交通事故で歩けなくなったとか耳が聞こえなくなったとか何か障害をもつと障害者の気持ちもわかる。健常者にはわかりにくいのだ。認知症も障害者である。これが一般の障害者と違うのは老人になるとなる率が高く特殊なものではない、例外的なものではない、誰にでもなる可能性が高いものなのである。そして何度もその衝撃を書いてきたが本当に社会的な優秀な人も地位が高い人もなるのだ。体力的にも頭もいい人もなる。今では頭が良かったのになとしきりに言っていることは嘘ではない、学者も政治家も法律家も芸術家も宗教家も超一流の人もなっている。認知症は一般的に誰がなり誰がならないというものではない、レ−ガン大統領もなっているしケ小平も認知症だったらしい。最後は隠されるのでもっと多くの偉い人もなっているのだ。ここが普通の障害者とは違う、それで衝撃が大きいのである。本当に優秀な人が認知症になる。障害者になる。それは高齢化でますますそういう人がふえてくるのだ。この意味するものは何なのか?これは大勢の人が高齢化で障害者に転落するということなのだ。障害者になるなど無関係であり関心ないと思っていた人も障害者になる率が高くなったのである。高齢化自体すでに弱者となり認知症になると完全な障害者になる。だから高齢化は障害者社会でもあり障害者に対する関心が高まる時代になる。障害者と高齢認知症者は共通の面を多々もっているし社会の対応も同じ面があるからだ。
●認知症は85才以上で4人に一人がなる
認知症だけではない、高齢化は膨大な介護を500万人が介護が必要となると予想されるとか社会の弱者を大量に生み出す、そして世話する人は家族となるから障害者社会にもなるのだ。多くの家族が障害者をかかえ障害者は身近になる。逆な現象として障害者に対する理解も深まってくる。なぜなら高齢化とはその何割かかなりの数が障害者となってゆく社会だからだ。障害者は少数者ではない、多数者になりうる。今は認知症などに自分はならないと思って関心もないし差別し偏見をもっているがその人も将来は認知症になる確率が高いのである。だから無関心ではいられない問題なのである。生まれついたときから障害者になる確率は低いが高齢化自体が弱者への転落であり障害者になってしまうことになるのだ。だから障害の問題がこれほど身近になった時代はないのだ。50、60才で死んでいればこんな問題は起きなかったからだ。弱者は淘汰され強者に入れ代わる、世代交代がされて新しい社会が作られていたからだ。だから高齢化社会は未だ人類が経験していないことを経験することになるのだ。障害をもつことが当たり前、一般化する社会である。ただこれを支えるのは少子化となると手に余る問題がでてくる。現実一人で何人もの家族の介護で疲れ果てたとか心中だとか殺人なども頻繁に起きてくる。今も起きている。障害者のために健常者の活動がてきなくなる。停滞して社会自体に影響する。そういう深刻な自体は個々に起きているが社会全体でも起きてくる。才能ある人も介護のために才能を使えない、伸ばせないということもでてくる。高齢化社会とはいいにしろ悪いにしろ何を意味しているのか?何なのだろうかということが人類につきつけられているのだ。
●障害者、介護は老人全部が背負う義務になる
思い返すと、子どものときの我が家というのは ―― 朝から晩まで工場のモーターがうなりを上げて家が振動し気の休まる暇はない―― 障害者の姉が喚き散らし、頻繁に癲癇を起こす ―― そこで頭が変になった母が、朝から晩まで仏壇に向かって拝んでいる(これは創価だろう) ―― 家のなかは散らかり放題 ―― 時折、近くの子どもが罵声を投げかけ、石を投げ、水を撒き、唾を吐く ―― これが、わたしの原風景です。いまから思い返すと、一つの地獄図であると思えます。
(障害者を家族として)−l
精神の障害者をかかえる家族は大なり小なりこうなりやすい、障害者というのは家族にかかえるか自らが障害者にならないとその痛みはわからない、認知症にるなと今までのつきあいとか様々な人間関係が変わってしまう。幼なじみとして85までもつきあっていた近所の人が全く関係も断たれたことでもわかる。かかわりたくないというのが本音だろう。この人は交通事故で肩など骨を痛めて手術するときはかなり手助けしたのである。でも認知症になったら全くかかわらなくなった。やはり正常のときは結構ひどい傷でも頭は正常だから助けることができた。しかし精神の障害は回りでも避けたり差別、偏見になるのが特徴である。実際まだ認知症の理解も少ないから怖いとか危険とか思う人もいるし避ける人はでてくる。普通の病気と精神の障害者の世の中の対応は違うのである。
今までは精神の障害者でも特殊なもの例外的なものとしてあったがこれからは高齢化の認知症の増加で一般化してくる。そして介護社会、介護地獄社会がやってくる。昔だったら大家族で人手が多いし長生きしないから介護の問題はあっても社会問題になるほどではなかった。これからの介護問題は社会問題であり関係ない人も自分の家では関係ないとか言っていられない時代になってしまったのだ。精神の障害者は特殊なものとして避けたりこんなひどい差別や偏見があった。確かに認知症にもこうした偏見、差別を現実に受けている。でもこの数が多くなると社会でも単に隔離して特殊なものとして処理できないのである。普通の介護にしてもこれを国とか公的機関だけではみれない、介護難民200万人でるというのもそのためである。国でも金をそんなに出せない、予算を老人介護だけに使っていたら国力も衰えグロ−バル化世界の熾烈な競争に取り残されてしまう。それより老人は年金で暮らす人が多い、その年金は若い人、下の世代が払うシステムになっている。その下の人に負担をかけるのが年金なのでありその年金で暮らす人が膨大なの数になる。だから介護問題は社会全体の問題であり自分の家族は関係ないからと無関心ではいられない、他の人の介護の負担は若い人にはねかえり今度は老人全体の年金に影響する。年金ばかり負担させる無駄飯くらいは死ねとか団塊の世代の若い人の不満は恐ろしいことを知るべきである。介護の人手がないというがゲ−トボ−ルとかで朝から遊んでいる人はかなりいるし元気な老人も多い、そういう人たちはなんらか介護の負担をする必要がある時代になっているのではないか?介護関係を国の税金や若い人の負担にしていると老人の年金を減らせとなるからだ。若い人の負担をなんらか減らす必要がでてきているからだ。
会津の母親首切りは薬害だった?
●社会のせいなのか?
アメリカの銃乱射事件の大学生も精神科で治療を受けていたし今回も精神科で治療受けてから何かが急変した。抗鬱剤とかの薬の副作用の結果だというプログはそれなりに説得力があった。社会のせいだとかにしたら結局誰のせいでもないとなってしまう責任逃れとなってしまうからだとういう。犯罪をすべて社会のせいにすることは間違っている。過酷な過去の生活条件でも犯罪を犯さない人は犯さないのだ。何事社会の責任にすれば罪を犯した本人の罪はまねがれることになる。あらゆる犯罪が社会のせいであり自分自身の罪を悔いることは、社会が悪いからその社会を変えろとなり暴力革命にもなる。自分の不遇を社会のせいにする人は創価とか共産党とか他の社会運動団体や宗教団体に入る。そういう人たちは自分の過失やら努力のなさや過ちを絶対に自分自身の責任にはしない、社会が悪いからだとなりそういう団体に入り鬱憤を晴らそうとする。またそういう人たちを利用して利権を得ようとする人たちがそういう団体である。差別されたと在日であり部落であれこれは逆に脅迫団体化しているのもそのためである。フリ−タ−やニ−ト問題にしても本人の責任であり社会の責任ではないという二つの議論に分かれる。民主党は社会の責任、自公政権の責任として責める。でもこれも個々の事情が違うから全部一緒にはできないのである。在日の問題にしてもみんな一様ではない、個々の事情がありそれをすべて差別だとかされて利権を得る。こういう団体に入る人は自分の責任を全部他者のせいにする。自分が悪いとか自分の責任をとる必要はない、悪いのは全部他者のせいだとなるから都合いいのである。団体化し組織化すると罪も問いなくなる。大きな会社もそうである。会社の利益が優先するから会社は国より大きな力をもつことになる。こうした団体の横暴による歯止めはないのが現代社会なのだ。団体化組織化した人間は思考も停止する。思考する必要もないからロボットとになればいいのだから実に楽だといえば楽だがロボットととして死ぬことになるから自主的尊厳ある人間を放棄して生きることになる。それはもはや機械であり人間ではない生き方なのである。だからこういう人たちは平気でナチスのように組織の命令に殺人も行われる。組織、機械の部品化しているからそうなるのだ。
●人間の幸不幸は最後までわからない
人間の境遇はそもそも確かに不平等である。金持ちに生まれ者と貧乏に生まれたものがなぜあるのか?これも社会のせいだとかなる。でも人間の幸不幸はそもそも最後までわからないのだ。一見不幸に見えていた人が実は幸福だったということもありうる。それが認知症を介護することでわかった。鬼嫁にこきつかわれる姑は認知症にならない・・・ええ、そんな嫁にこき使われたら不幸ではないか、それが違っていたのだ。いい嫁、何でもおばあちゃんは何もしなくてもいいですよ、楽にしてください、テレビでも見て遊んでいてください・・・こういうばあさんは頭も体も働かせないのでボケやすいとなるから実は善意でその嫁はしたことで悪気はないにしてもボケという最大の不幸の道を作っていたのである。貧乏でも無能でもそれをバネとして努力して金持ちになる人もいるし無能ながらも努力を積み重ねてそれなりのものになる人はいくらでもいるのだ。不幸であることが幸福を作り出したとなる。現代の文明を生んだ地域はイギリスとかドイツとかアングロサクソン系のどちらかというと寒い地域である。寒いということ資源がないことはいろいろ工夫して生きる必要がでてくる。だから発明工夫があり工業文明を生み出したのである。オランダなどがまさにその典型である。土地がないから海を干拓して住むほかないから風車など工夫が必要でありその工夫が造船技術にもつながり世界貿易にのりだすことにもなった。人間にはこうした逆説が常にあるのだ。不幸は幸福の元であり幸福は不幸の元になる。余りにも恵まれすぎたものはそもそも幸福が何かわからないのである。貧乏生活していた人は豊かな生活の恩恵を感じるがもともと豊かな生活をした人は感じないのである。
●やはり薬害説が妥当なのか
犯罪を本人の責任にしないで社会の責任にしたら誰も責任ないとなることは確かである。社会とは誰でもないということになるからだ。今回の事件も精神科にかかってから急変して犯罪が起こった。精神科へ行ったことが契機となったという主張をインタ−ネットで読んでそいうこともあるのかと考えた。マスコミでは確かにここは報道していない、自分の家族の認知症でも薬を飲まされていた。鬱病でもあり何種類かの薬を飲まされていた。ただこれは軽いもので認知症の発症と関係しているかどうかはわからない、でも急に妄想が激しくなり暴力になったことが解せないのである。他でも誰かが盗った、刃物まで持ち出して問いつめるとなると怖いことである。妄想化はいくらありえないことでもその本人とっては現実であり否定できないのだ。薬はこの妄想化を促進させる作用があるのかもしれない,これまでそうした妄想はなかったのに急に激しい妄想として暴力化したからである。薬についてはわからないが鬱病では薬がかなりきいているから薬がすべての原因となるのかは疑問である。 精神が病んで妄想から暴力になっても自分のしたことを覚えていないことが多いのだ。だからこの事件もこんな残酷なことをしても覚えていなかもしれない、計画的だったとなるとまたわからないが自分のしたことを覚えていれば悪いことをしたと目覚めるかもしれないが覚えていないとしたら反省することもないのだ。精神科には薬の療法と臨床心理学的な療法がある。薬の療法は理系であり臨床心理学は文系だとなると臨床心理学には実は素人でもなれる。聞き上手の人とかそういうことに向いている人はいるから別に学問しなくてもいる。精神の病はどうしても薬だけでは解決できないものがあるのだ。認知症の介護には臨床心理学的なもの薬は役立たないからその方面の介護が主要になる。薬についてわからない人もかかわれる分野だとなる。
●精神科医の責任は追求できない
それにしても信じられない最近の凶悪事件では必ず精神科に通っていた事例が多すぎる。そこで薬などの治療を受けていたから薬の副作用でかえって悪化したことが犯罪に結びついたということはありうる。ただこの因果関係は証明できないから結局うやむやにされ問われることはない、精神の病はそれほど複雑であり因果関係も証明できないからだ。だから医者も責任を問われることはないとなる。一部自殺したということで親に訴えられた精神科もいるがなかなか因果関係を証明することがむずかしいから責任は逃れられるのが精神病の世界である。ただこうした事件がまず薬害だとして追求していることがないのは薬を作る会社とかを擁護するためだというのはやはり現代社会が会社社会であり会社の利益が個々の病人より優先されるということはこれもなかなかわかりにくいから社会の責任だとか責任をとらないものにしてうやむやにされることは都合がいいとなる。皮肉なことは医者が病院が病人を新たに作るということを批判している人もいる。医者がふえ病院がふえることは病人を増やしているというのも一理ある。普通だったらその逆であるべきだからだ。だから認知症も病気ではないとか言う人もいる。老化の一過程として起こるもので病気とは言えないという人もいる。なぜ文明が発達すると様々な病気が新たに増えてくるのか?これも文明によって作り出される病気の一面があるためである。ともかく現代は鬱病とか認知症とか精神の病の時代でもある。極端化したのは薬のためかもしれないが鬱病とか認知症は時代的なものとして増えてきたのである。
●専門家への過信は危険
教育の現場ではカウンセラーや外部の専門家は絶対的に正しいものであると教え込まれている。「専門家に相談すれば問題は解決するだろう」という考えを、誰かが彼に植え付けたには違いない。それは誰だったのだろうか
現代社会は無数の細分化された専門家を作った。そして社会は迷路化してゆく、現代文明は巨大な迷宮でありそこから抜け出ることは至難になる。病気も新たな病名がつけられますます素人にはわかりにくいものとなる。だから素人にはわからないと医者に言われ何もできないと無力化されるのが現代である。ところが実際に統合失調でも医者に行っても直らず家族の力で完全に直った人の報告もあった。精神病は薬だけでは直せないものがあるからそうなる。
心療内科や精神科を受診する本当にうつ病かどうか不明な方が「うつ病」の診断を下され、投薬治療が始まるのです。
病院に行けばなんらか病気にされる。病気でないにしても病気にされる。本人もなんか病名をつけられ病気にされて安心することもある。何かわからないが不安であったものがやっぱり鬱病だったかとなる。だから医者や病院がふえることは病人を減らすことではなく増やすことになる。医者や病院がへることが実際は健康になる人がふえるのだからいいことなのだがそうはならない、これはトヨタでは最近国内では車が売れないから車を売る方法を本気で考えないといけないと会社の要求で需要が作り出されるのと同じである。実際は社会で車が飽和状態でありあえて買わなくても生活していけるから買わないともいえる。だから余計に買わなくてもいいのだが会社では困るから車を買わせるための方法を考える。医者も患者がいなければ商売が成り立たないから患者が必要だから患者を産みだすということにまでなる。これは戦争がないと武器が売れないから武器の会社では国に戦争を起こせとまでなるし現実に戦争はそうした会社の要求で一部起こっているから笑い事ではないのだ。
現代は人間が細分化部品化される。全人間などありえない、人間を部品的として対応している。医は仁術というときも全人間的対応が医療だった。全人間をみていたのであり一患部だけを診ていたのではなかった。最近医者にも総合的にみる人が必要ということで総合科の医者の養成をするというのもわかる。人間も森だから一本の木だけをみていてはわからない、森という全体のなかに命も息づいている。認知症の対応や精神の疾患には全人間的対応が要求される。全人間的対応で癒される。それで統合失調病でも全人間的家族の対応で直ったというのもそのためである。薬や専門家の対応ではかえって悪化したりしているのも結構多いということなのだ。それは全人間的対応が望まれているからなのだ。
精神科に何年も通ってるのに治ってないんだよね?
しょせん、精神科に行ったらもう終わりなんだよ。実際、精神科でもらう
薬っていうのは覚せい剤と同じ成分が入ってるみたいで、薬が切れれば
又おかしくなって薬がほしくなるだけ。
この犯人だって精神科に通ってるのにおかしくなった。精神科に通ってて
治るということはないっていう証明だよね?
精神科に行って薬を飲んでれば症状をおさえられるとか言ってるけど、結局
治ってないってことでしょう?精神症状をもっていても精神科に行かない人は
それほどひどくならないで済んでる。わたしなんか、精神科にまじめに
通ってたら今頃、とっくに自殺してるだろうしどうにかなってるだろうと思う。
今は症状がひどいなと思ったらセントジョーンズワートとか飲めばだいぶ落ち着くし
薬が切れれば 又おかしくなって薬がほしくなるだけ。精神関係の薬は中毒になる。一時的にはきいてもまたもとにもどる。 精神の疾患は薬より環境をよくすれば接する人でもそれから自然環境でも動物とかと接することなどの方が効果あるのでは?
これは認知症でも同じだからである。それにしてもまた起きた精神障害者の女性の事件は認知症の老人の介護をしていた人だというからどういうことになっているのか?なんとも奇々怪々な一連の事件がつづいている。
精神科医の犯罪を問う
http://blogs.yahoo.co.jp/kebichan55/folder/916246.html
会津の母親首切り事件はなぜ?(1)(プログへ)
(現代思春期少年の危機−カルト宗教との共通性)
会津の母親首切りはなぜ(2)
(認知症と比べて−正常と狂気の判別)