40-2011
(小林勇一)
これまで家族の認知症のことでプログで書いてきました。これまでの記録は記事はプログで読んでください
2011
4月20日 大津波、原子力事故の恐怖は何を語るのか?
4月29日 あくなき人間の欲望を追求するものとなった科学の危険(原子力事故の恐怖)
5月4日 原子力事故で見えてきた権力の構図
5月12日 立正安国論を読む-日本の国難(津波、原発事故が国の転機に)
5月17日 大津波、原発事故の意味するもの(2)
(暴走する技術、制御、制限されない技術)
6月16日 マスメデアと原子力安全神話の形成
(インタ-ネットはマスメデアを監視するべき)
7月17日 オウムとにていた原発事故
(専門化した知識人の犯罪だった)
プログの記事
原発の被害を直接受けるのは責任をとらされるのは地元住民
福島第一原子力発電所の事故の原因の深層
(イリイチの「専門家時代の幻想を読んで)
原子力の事故の原因の一つ(福島県の地形が意志疎通を阻んだ)
大津波、原子力事故の恐怖は何を語るのか?
●火(原子力)を盗んで人類は過酷な無限の刑罰を受けた
プロメテウスが人間に火を与えた。その結果、ゼウスの怒りをかい、コーカサスの山の岩に鎖でつながれ、永遠に、はげ鷹に腹を引き裂かれ、肝臓をついばまれ続ける、という刑に処された。
今回の大津波から原子力事故から一体何が起こったのか理解に苦しむ。人類滅亡するかと本気で思ったしそういう光景が眼前に広がっていたのだ。人類が滅びるというとき何らかの今回の自然災害で滅びることはありうる。そしてそのことは神話でも予言されていた。科学には何かいかがわしいものが常にあった。錬金術とかも中世の魔術師のようなものでそういうところから化学が発展した。それはら必ずプロメテウスの火のよにう神から盗むということがあってその力を得ているからだろう。このプロメテウスの刑罰が過酷なように際限のないことが自分の身近で現実化して見ることになったし自分自身もその刑罰を受けるとは思いもよらなかった。実際に前にも飯館村のことを詩にしたりしたが桃源郷のような所が一転して人の住めなくなる最も放射能汚染地帯になったことが信じられない。飯館村は原発利権とは何の関係もない、牛と農業で生計を建てていた平和な広々とした村だった。それが土壌まで放射能に汚染されて住めなくなる悲劇の村となってしまったことが信じられないのである。ゼウスの住む聖なるオリンポスの山々が汚されることを直感したからゼウスは過酷な刑罰を与えたた。まさにオリンポスの山々にも放射性物質は飛んでゆくものだった。だからその罰は過酷であり際限のないものになった。それが今自分の住む身近で現実になった。神話であれ聖書であれ予言されたことは現実になる。
三千年前であれそういうことは人間に起こりうる、予言されていた。起こりうることは必ず起こる。絶対に原子力は安全だということはありえない、必ず自然災害であれ人間のミスであれ可能性として0.01パ-セントでも起こることはいつか起こる。宿命のように起こることが現実化したのである。
安全神話などありえない、それは人間が作った奢りにすぎない、その奢りは必ず打ち砕かれる。人間は万能ではない、ミスを犯すものなのである。そのミスが原子力事故では致命的になり人類滅亡に向かわせる恐ろしいものだった。それは一地域の問題ではない、双葉町は利益を受けたから自業自得だというけどもし原子炉が爆発して破壊されたらチェルノブエリと同じになった。幸運にも原子炉が残ったからそこまでいかなかっただけであり本当に幸運だったというだけでありチェリノブエリと同じになる恐怖があった。原子力発電所が遠くにあるからといって関係ないですまされないのが原発問題だった。原子力発電所をもっている国は必ず隣国にも影響するのだ。だから一地域で原子力発電所を作るか作らないか決める権限はない、現実に南相馬市は遠いと思っていたけど意外と近いので被害を受けた。原発は確かに離れていれば危険でないというがチェリノブエリのような原子炉が爆発したら200キロまで汚染地域となった。そしたら東京もその中に入り現実に爆発したとき東京から関西に逃げた人もいたからそうなる。たまたま幸運であったにすぎないのである。そういう最悪の事態も起こりうるということを想定しなければならない、そして現実に起こりうるし起こったのである。
●津波で海だったところ海に戻った驚異
今回の大津波は何だったのか?これも余りにも大きなものであり自然のスケ-ルははるかにに想定を越えている。千年に一度とかで起きることに人間は対処できなかった。今度の津波で浸水した場所は海岸線はほとんど海だった所である。その海だったところを干拓して田にして人が住み人口を増やしてきたのである。青松白砂の景観は人間が長い時間をかけて作った人工的景観の美だった。そもそも原自然の景観ではなかった。それで明治に干拓して作った八沢浦が一時元の海になったことに本当に驚いた。水かさも高く浦全体を潮水に満たした。八沢浦が元の状態、海だった状態に戻ったらどれだけ美しかったろうと書いたが現実にそうなったのを見て奇跡のように思えた。他にも松川浦の近辺も広く海になったことに驚いた。今回の津波で浸水したところは元々海だった所なのである。人間は生活圏を拡大するためにその海だったところに田を作るようなったのである。それは別に工場地帯を作るような自然破壊とは違う、自然と調和した人工的景観の美を作り出した。そういう干拓が江戸時代からつづいていたのだ。江戸時代の前は海だったような所が多かった。日本は土地が狭いからそうなった。ただ貞観津波が起こったときは古代でありそれほど海側に生活圏を拡大化していない、でも記録では千人死んだとか書かれているからすでに津波の被害を受ける場所に住んでいた。当時の千人となると今の一万人には匹敵するだろう。だからそれなりに海側にも人間の生活圏は拡大化していた。でも田を作るより漁労であったろう。ともかく人間が営々として作り出した田と松原の景観を元の自然状態に津波は戻してしまったのである。自然にとって人間の営みなど簡単に無にすることができことを知った。人間が蟻のように築いてきたものをその労苦の産物も簡単に無にすることができる。それは人間にとって価値あるものでも自然にとってはどうでもいいことなのである。
文明もまた同じである。いかに巨大であっても自然から見ればちゃちなものであり簡単にその灯も消すことができる。原子力の事故で一時期停電騒ぎになって人間界が混乱したのも自然にとっては人間のしていることが騒々しいと感じたのかもしれない、もともとは暗闇でありそんな灯がうっとしいと感じて消したのかもしれない、自然のスケ-ルお大きさを今回示した。原子力にして事故で大混乱になっているのも丁度バベルの塔の騒ぎを見ているようだった。原子力は人間にとってバベルの塔だったのかもしれない、最後にゆきついた科学の力であった。だがそれも一挙に崩壊して人類滅亡の恐怖を現実化する恐るべきものだったことを知った。人間の知恵を技術を越えるものはまだまだある。人間はこの地球のことすら本当はわかっていない、科学は何でもわかったように説明するがわかっていない、全く人間の知恵も技術もはるかに越えた世界が自然にあり神の力にある。地球そのものがそうであり宇宙になればそもそも何もわからない、今回のエネルギ-には驚嘆したけど宇宙はもっと想像できないパワ-を秘めている。ただそれが見ていても人間には実感できない、宇宙はテレビで見ようがその力を知ることはできない、その広さを知り得ようがない。科学者でも実感としてわからない、一つの星が爆発するものがどれだけのエネルギ-なのか実感できない、太陽にしてもそんなの宇宙には無限にあるとかなると想像できない。
地球はもう何でもわかるようになったというが実際は地球の下がどうなっているのかわからない、それを今回の津波がまざまざと示したのである。すべては想定外でありそれ故にみんな甘く見て大被害を出してしまった。要するにいくら科学で探求しても結局自然は神は人間をはるかに越えてその知恵と力を隠している。人間はそれを解明はできない、千年に一回という津波でも自然のサイクルはそういう時間のスケ-ルであり人間の時間のスケ-ルとは比べることができないのである。それでもすでに千年に一回のことでも人間の歴史書に記されていることだからそこから学ぶことはできたのである。ともかく人間の悩んでいること苦しんでいることは神から自然から見ればとるにたらない小さいことになる。今回の津波であらゆるものを津波でもっていかれた。その話を聞くとどうしても現実に思えない作り話のように思える。そんなことがありうるのかと思える。入れ歯までもっていかれたとか老人が言うときそんな悲惨な中に笑うほかないということも起きている。一瞬の津波で今まで築いたものが無になってしまうことの驚きだった。街まで消えることに驚いた。ということは津波であれ何であれアトランティスとか他にも文明が何かの災害で滅びたことはありうる。正に今回の津波で一瞬にしてポンペイ化したからである。残っているのは道であったところと家の土台だけだった。それはポンペイの跡ともにていたのである。
一瞬にしてタイムカプセル化して地中に生活そのものが埋もれてしまったのがポンペイだった。一瞬にして津波にのまれて街や村が消えて砂に埋もれたのだからにているのだ。そんなことが現実にありうるのだとまざまざと見たのである。だから未だにそれか現実ではない作り話のように映画のように思えるのである。
●神の自然のタブ-に挑戦して作り上げたのが文明だった
文明というとき今日のような電気とか自動車とか原子力発電のような極度に工業化した世界と見ているが実際は縄文時代から弥生時代になり田を作り米を作るのも文明だった。米を作る前の焼き畑ですら文明化する技術であった。そして人間は必ず生きることは文明を破壊することに通じていた。焼き畑ですら森を破壊することであった。人間が自然界に生きることは必然的に自然を破壊する業をになっていた。稲作は一見自然と調和するように見えるが実際はこれも相当な文明であった。なぜなら稲作は簡単にできるものではない、相当な大がかりな文明の所産だったのである。その証拠に稲作と鉄器の使用は不可分につながっていて鉄の農具が稲作を飛躍的に拡大化できた。天皇が鉄の王だったというのもそのためである。鉄を生産することでまた自然破壊が起きた。鉄を作るために燃料とする木材が大量に消費され森は破壊された。船を作るためにさえもレバノン杉の森は消失したというように自然破壊は文明に必ず起きていたのだ。田を作ることが自然破壊とは思いないかもしれないが今回の大津波で冠水したところはもともと海だったところである。名取辺りは広範囲に冠水して元の海に一時期戻った。それだけ広い地域が干拓されて米作りが成された。そこに貞山堀とか運河が作られて一大穀倉地帯となりその米は江戸に船で運ばれたのである。その広大な海であったところが津波で元の海に戻った驚きがある。今も海の方見ると田もなくなり瓦礫が散乱して一軒の家も見えずただ海が見えるだけである。昔はこれだけ深く海が陸地に入り込んでいたのである。だから日本は浦が多くその浦で貝などをとり縄文時代から生活してしいた。漁労民族だったのが日本人なのである。それが稲作民族になったとき実際は全く新しい文明の民となっていたのである。浦々は干拓されて田にされていった。土地が狭いということもその原因であった。
しかし今回の津波ではそうして田にした文明化したところが一挙にまた元の海に戻った。そのために文明化して人が海側に住んだ人は根こそぎ津波の被害を受けて死んだ驚きがある。
縄文時代のように貝だけをとって暮らしているような時代だったら海を干拓して本来人が住むに適さない場所には住まないし住めない、人間は弥生時代になり田を作る技術を身につけてから自然の危険な領域でも住むことができるようになった。しかしそこに住むことが危険であることを認識しなかった。千年に一度ある大津波があるなど思いも寄らなかったのである。だからもともと海だったところ広く住む場所を広げていった。青松白砂の風景は自然と調和した人工的美だった。その松も無惨に壊滅して根こそぎ津波に倒されて流された。人間の作った人工的美はもろくも破壊しつくされたのである。それは予想もできないことだったのである。江戸時代の何百年とか新田事業がつづき明治までつづいていたからである。それはそんな津波がくるなど全く予想していなかったからである。そして人間は自然のタブ-を禁忌を破った結果として文明がある。エデンの園で食べるなと戒めたリンゴを食べたこと禁忌をタブ-を犯したことで人類は原罪を負った。今回の大津波と原子力発電の事故は天罰だとも言えるのかもしれない、文明は今や自然を神を凌駕しているような観を呈しているが実際は小さいものであり人間の奢りのバベルの塔であった。現実にガソリンがなく車が使えず右往左往している姿がそうであった。便利なものでも一旦今回のようなことになると使いものにならない、かえって車に頼っている分、あらゆるものが機能停止になってしまうから怖いのだ。この大混乱はバベルの塔の破壊の様とにていた。そして本当に人類滅亡の時も来るのだと実感した。それは意外とあっけなくきて一巻の終わりとなる。その中で入れ歯まで津波にもっていかれたという話など様々な体験が語られる。一瞬にして家も家族も財産も消失した人間の姿はまさに終末そのものの光景なのかもしれない、やはり人間は神や自然から見れば小さいものであり文明は人間の奢りがありそれが無惨に打ち砕かれた。人間は神や自然に対する恐れが消失していた。文明が自然より神が大きいものだという奢りと錯覚があった。今回の大津波は神とか自然への畏れを再びもたらしたことは確かである。タブ-を破った人間の罰であったともいえる。
あくなき人間の欲望を追求するものとなった科学の危険
(原子力事故の恐怖)
●科学は錬金術のように人間の深い欲望から発展した
錬金術、石や鉄などのありふれた元素から、金や銀を作ることができたら・・・それは中世ヨーロッパ科学の大きな興味だった。多くの学者が何年も何年もフラスコとアルコールランプを使って「元素を変換する」という「科学」に取り組んだ。
そして1000年の月日が経ち、19世紀の後半には「元素は不変なものである。石を金に変えることなど出来るはずもない。「錬金術」というのは人間の欲望の科学であり、いかがわしい」とされるようになった。
http://takedanet.com/2007/04/post_b20f.html
科学は一面人間のあくなき欲望の追求でもあった。石を金に変えたいということがまさに象徴的に人間の欲望の深さを示している。プロメテウスも火を盗んで過酷な刑罰が与えられたものも科学には神からのものを盗むといううしろめたいものがあったからである。この世の一切のものの所有権は全能の神にあった。人間のものは一切何もないのである。すべて神から与えられたものによって人は生きている。人間そのものも神によって作られたものである。だから最終的に神しか解決できない、人間がいくら努力してもこの世が改善されずかえって悪が満ちてきているのはそのためである。科学によってもこの世が改善されたのか?人間はますます欲深く悪に満ちてきている。人間そのものは何にも変わっていないのである。
今回の福島の原子力事故は世界史に記録される大事件となろうというのは本当である。チェルノブリと同じである。チェリノブエリよりももっと怖いことになる可能性があったしまだある。ただ爆発したのは原子炉ではなく建屋だったので幸運だったと言われる。広島の原爆の一千倍とかチェリノブエリの比較できない放射能を放出したかもしれない人類滅亡を感じさせるものでさえあった。人類滅亡というとき核戦争で滅びるとは良く言われていたが平和利用ではそういう恐怖は言われなかった。しかし核そのものが実は危険極まりないものだった。原子力発電はコストが削減できるとか効率的とかプラス面だけを主張された。利益になるということが地元の人にも政治家にもそれを批判しようとするマスコミにも東電の金が渡された。現実に会長の勝俣は中国にマスコミ関係の人を招待して接待しているとき事故が起きたのである。会長自身がマスコミに安全神話形成するために接待して金を払い口封じしていた。天下り官僚にもそうだった。莫大な資金があり原発は金を生んだのである。原子力は現代文明の欲望の象徴としてあったのだ。もちろん原子力だけではない、科学には人間の欲望を無限に満足させようとするものがある。エアコンとかもそうであり車もそうであり新幹線にしても早く早くということを便利さを追求する。そしてリニアモ-タ-カ-へと技術は発展する。そういう欲望を抑制できないのが人間なのである。科学は石を金に変えたいという人間の深い欲望から生まれ発展してきた。その欲望の頂点に原子力があったのである。もちろん石油もそうである、その石油故に中東は常に波乱がある。リビアの内乱も石油がかかわり世界的な関心となりそれがまたイスラエルとかかわり常に中東は世界の火薬庫となっている。それも石油のためであり石油がなければそこは砂漠しかないから他国はあまりかかわらないのである。
●テクノロジ-とはすべてプロセスカットすることでした
つまりA地点からB地点まで移動するために最初歩いて行ったのが自転車でゆくようになり自転車の代わりに自動車で行くようになった。この場合も足を使うことをどんどん省略してカットしてきたわけです。
人類はすべて、途中省略したいために頭を使い、科学技術を発達させ文明を築いてきたのです、このようにプロセスカットのために生みだされた技術によって生産性が高まり人口が増大して生活の新しい楽しみが増えてきたのです。また、新しい技術とともに新しい労働ができ新しい商品が発生します。(人類は二一世紀に滅亡する-糸川英夫)
より便利なものを追求すればそうなる。車がプロセスカットの象徴的なものだがこれもガソリンがなくなると動かなくなる。石油が枯渇すると動かなくなる。燃料がやはり問題になる。エネルギ-が問題になる。石油に頼っていれば中東まで運ぶコストがかかる。今回はガソリンがなくなり物流が一時途絶えてしまった。ガソリンがなければ動かない、こんなこと当たり前であったが現実にガソリンがなくなって車はカゾリンがなければ使いものにならなくなった。歩くか自転車が役にたった。自分の場合は電動自転車だから電気が通っていたから役にたった。やはり文明に頼っていたのである。ただ電気温水器の配管が壊れ三週間風呂に入ることができなかった。電気がとまれば大変なことになったろう。プロパンガスが使えたがこれ都市ガスだととまってしまったろう。その時薪でも燃やすほかないとなる。実際に三陸地方では津波で家が壊され電気も水道もなく薪を燃やしたり原始的状態の生活になった。文明的生活に頼れば頼るほど比例してこうした災害があったりする打撃が大きいのである。風呂だって昔の鉄砲風呂だったら瓦礫の山から木材を燃やして風呂を沸かせたかもしれない、現実にドラムカンで風呂を沸かして入っていた人がいたのである。ともかく文明がテクノロジ-がプロセスカットから生まれたものだから文明に頼らないことは原始的な人力状態に戻るのである。
それから原子力発電で電源が使えずに原子炉を冷やすことができないことが致命的だった。予備の電源も津波で使えなくなった。絶対に電源が不可欠でありその電源も大きいものを備えていなければならない、ところが備えている電源も使えなくなる。そうして予備の電源も使えなくなるとお手上げになる。それは電源にはやはり電気が必要だからである。その電源が人力でやるわけにいかないからである。人力では電源は作れないからである。東電の社長の清水はコストカッタ-として有名だった。コストをカットするために津波対策もしていなかった。一企業だからどうしても利益優先になる。利益を上げなければ出世もできない、それが原発には通じないものだった。なぜなら安全性こそ絶対に優先事項にせねばならないものだった。今の恐るべき惨状を見ればわかる。つまり一企業的なものとして利益優先として運営するにはあまりにも危険なものだったのである。国が関与するにしろ東電が利益をあげる、そして政治家であれ官僚であれマスコミであれ地元の人であれ配分すればいいわけである。でもそのすべてが安全の最優先の上にしか成り立たなかったのが原発だったのである。
●人間は欲を抑え神のタブ-を破るべきではない
人間は全能ではない、この世界を創造したのは全能の神であるから全権は神にある。だから神がしていけないということはしてならないのだ。神が食べるなと言ったリンゴを食べたから原罪を負い死すべきものとなった。それは神がするなと言ったことをしたからである。その理由は言えばきりがない、でもするなということをしてはならなかった。人類は核という確かに便利なものを手中にしようとしていた。石を金に変えることを実現しようとしていた。原子力は人間の欲望の最大化したものだった。しかしそこには最も危険なものが隠されていた。人類はそれに手を出したとき自ら滅びるかもしれないという恐怖に戦慄した。人間は神のタブ-を常に破ってきて今日がある。日本の伝説でも良く幸運をもたらすものが一目見ただけで幸運が逃げてしまうことが良く語られている。タブ−として絶対に見るなということがやはり古来から伝えられていた。そのタブ-を破ったとき幸運は去って行ったのである。つまり人間はしてはいけない、見るなと神であれ大いなるものに命令されているときしてはいけなかったのである。そして人間は無限の欲望を追求してはいけない、人間の欲望はある程度抑えねばならない、それは古今の宗教で教えてきたことだが全くそうした宗教は省みられず限度のない欲望追求があくなく行われてきたのである。現代のカルト宗教団体もまた決して欲を抑えることを抑えない、それを言えばあんな膨大な数にはならないだろう。カルト宗教団体の神も科学なのである。いかに科学がそこで尊重されているかみればわかる。オウムはカルト科学宗教団体だった。科学が神となったことは人間の欲望を満たしてくれるのが科学だからであるか。遂には不老不死も科学の役目となった。人間は死なないのだということを実現してくれのが科学だと思うようになったのである。実際それは不可能なのである。
でもそれほどまでに科学は信仰の域に達しているのだ。原子力だってそうした信仰に近いものがあり安全神話が作られたのである。そうして科学者は神のように崇められることをもくろんだのである。それがもろくも崩れさった。大津波は想定外だったということは言える。千年に一度の大津波に人間の力の及ばぬものがあることを知った。その時文明はバベルの塔のような大混乱におちいったのである。まさに文明より神の力が自然の力がいかに大きなものなか知った。それはまさに想定外だった。一瞬にして神の一撃で文明は崩壊してゆく様を見た。そして双葉町に住んでいる人は家族もばらばらになり避難して言っていた。電気がなくてもロウソクで生活をしても家族一緒の方がいいと言っていた。それほど原発により悲惨な状態にさせられたのである。
ロウソクで生活するのがいいとかは言わないが人間は今の文明のように限度のない欲望を追求する生活をすれば原子力のような危険なものまで手を出すことになる。電気がなくて生活できるのかというのは脅しである。原子力がなくてもそれなりに電気は使えるし生活できる。原子力は余りにも危険すぎたものなのだ。なぜなら事故を起こしたら人類滅亡になる。それを今回の事故でまのあたりにしたから誰もそれだけは守ろうとする。これ以上原子力を使おうとすることはありえないだろう。これからは人間はある程度不便に耐える生活をしなければならない、不便も全部悪いものではない、いいものがあるということを自ら実践せねばならない、田舎でも一人一台車をもつような生活はやめるべきだろう。車にしてもそんなになくても暮らせないことはない、最小必要限でもそれなりの生活か可能である。現実に四〇年前頃はそうだったからである。最近四〇年くらいが極端に便利なものを使用するようになったのでありこれまでそんなに電気など使っていないからである。
原子力事故で見えてきた権力の構図
●原子力にかかわる情報分析
原子力発電所を日本で建設する際、その工事の全てを仕切った企業が、GHQ=冶金課長のジョージ・パーディの経営する企業ドレッサー社であった。
父ブッシュ大統領が、まだ若き日に、大学卒業直後に最初に就職した企業が、このブッシュ一族のファミリー企業ドレッサー社である。
このドレッサーの技術指導の指揮の下で、ウェスティングハウス、GE、三菱重工、日立製作所、東洋エンジニアリングは、原発建設の「下請け、孫請け」となって来た。
ドレッサー社は鉱山開発において、ダイヤモンド・ドリルにより掘削された土砂をパイプで吸引し、廃棄する専門技術を持つ配管パイプ施工の専門企業でもある。このダイヤモンド・ドリルに装着するダイヤモンドを供給する、事実上の、親会社が、ロスチャイルド一族のダイヤモンド企業デビアスである。
原子力発電所の建設は、世界中で、日本の東芝、三菱重工、日立の3社しか、その建設技術を持っていない。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/104962381.html
アレヴァ社は、その傘下に数々の原子力産業を抱える世界最大の原子力
産業複合体です。財務顧問は、かの有名なロスチャイルド一族です。
また、アレヴァ社は現在、中国の原発の最大受注企業でもあります。
http://business.perkle.com/
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原発産業はすべてロスチャイルド系が支配しているように思っていたが、「原子炉開発・建設が主にロックフェラー系」、「資源=ウランがロスチャイルド系」と大きく二分できるのではないかとも思えてくる。
http://www.new-agriculture.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=169850
原発の大事故というのは、普段隠れている原子力ビジネスの大物が、慌てふためきながら商売の拡大を狙うという形で、姿を見せるものなのだね。広瀬隆が反原発と同時並行で、モルガン&ロックフェラー、ロスチャイルドの研究を行なったのは、真に理にかなっていたわけだ。その舞台が日本なのが悲しいが。
GEの責任問題は「薬害エイズ事件」の際のバクスター社の責任と同様スルー?
弁護士大国アメリカの事だから周到に責任回避できるような文言が入っているのではないか。それでもGEがアレバのようにCEOを送り込まないのは責任追及・訴訟問題を恐れているからだろう。
原発批判するなら、まず中曽根康弘。電力会社はリスクもコストも高い原発導入に反対だった。それを政治力でねじ伏せて原発を造らせたのは中曽根康弘。当然、背景にはアメリカの意向
米ソ二大国による核ブロック体制を作り、民間利用にしても米と各国の二国間協定締結で、米の軍産複合体に巨万の富を捧げたようなもの。GEはその代表だろう。
https://twitter.com/#!/yuten_y
●原子力もロスチャイルドなどの利権のために日本で作られた
日本の歴史は戦争に負けたときから180度転換した。それが広島長崎に原爆をアメリカに落とされて敗北してアメリカの属国のようになったときが始点でありその継続として今日もあることを知らねばならない、つまりアメリカによる敗戦でアメリカが戦勝国となりその属国となったことからふりかえらないと今回の問題の真相も解けない、検察そのものが正義を追求するものとしてではなくアメリカの言いなりにするために設置されたのもそのためである。日本は根幹のところを以前としてアメリカが握っているアメリカの属国なのである。だから肝心なところでアメリカの言いなりになる。アメリカには抵抗できないからアメリカには逆らえないから政策もアメリカの意向に沿うことになる。アメリカの意向にそって中曽根首相の時から原発が作られる基礎を作ってきた。中曽根首相の時はアメリカとはロンヤスとか呼ばれる中で親密になっていた。その時原子力の話がもたらされアメリカの意向で作られるようになったのである。アメリカは要するにビジネスを金を第一とする国である。アメリカを支配するのはロスチャイルドとかロックフェラ-とかの大財閥でありその意向にそって政府も動くというのは本当なのだろう。世界がユダヤ人によって支配されているというのもそのためなのだろう。アメリカは金を信仰している国である。それは建国の時から変わっていない、内村鑑三もアメリカはすべて金の国だと言っていたから最初からそうなのだろう。アメリカンドリ-ムというのも一攫千金をもくろむものでありそもそもヨ-ロッパのように長い歴史がないから成り金趣味であり一攫千金を求めるのは必然である。またそういうことが許される国でもある。それだけ国が大きすぎるとそうなる。中国だって今や大金持ちが出ているからだ。日本では大金持ちは叩かれるから桁外れの金持ちは表に出れないから違っている。
ユダヤ人が土地もない歴史的世界放浪者だから金だけ頼りになり金融工学が発達したというのもわかる。金融工学などというと何か新しいものに見えるが金を転がして金を得るという株式でもうけることである。資本主義では金が金を生むからである。ところが金は紙幣なら紙にすぎない、ある人は数字にすぎないと言っている。あるとき金は紙幣なら紙屑になり数字なら簡単に御破算になりゼロになってしまうのだ。現実にそういうことが過去に起こっている。戦時中土地を買っていたものはその土地は残ってあとで金になったが紙幣は暴落して紙屑になった。時代の変化でそうなることは度々あったのだ。そして今ドルが紙屑になるということが騒がれている。アメリカの膨大な国際を百兆円とか買っているのはFRBだという、日本銀行と同じアメリカ銀行がアメリカの国債を買っているのだからアメリカの財政は破綻寸前である。それで今日本の円が高くなりドルは信用されず世界で紙屑になる日がそこまで来ているという。mそのために人工地震をアメリカで起こしたという、そこまでできるのか?やはり千年に一回起きた地震であり津波だった。ということはおそらくこんな大きな津波は千年は起きないとなる。これも結果しだいになる。
そもそも金というのは紙幣でも何か裏付け価値になるものがあって価値がある。金が黄金の時代だったら金が稀少金属の黄金だからこそ価値がある。今の金の価値はその裏付けとなるものをもっていてこそ価値がある。アメリカの価値は世界一の軍事力である。何かを生産しているためではない、アメリカから買うものがないというのは本当だろう。ただ軍事力がありアメリカのドルが価値があり世界貨幣となっている。軍事力がなくなればもはやアメリカの価値がなくなるからドルも暴落して紙屑になってしまう。金といってもその裏付けがなければ紙にすぎなくなる。日本だったらモノ作り世界に売れる品質のいいもの、車や電気製品を作るから価値がある。もし日本の車は故障ばかりだとかなれば価値がなくなり日本の円も暴落する。今回の原子力事故で日本の価値は急速に落ちた、信用をなくしたことでもわかる。
原子力発電所の建設は、世界中で、日本の東芝、三菱重工、日立の3社しか、その建設技術を持っていない。
そうなのか、日本はベトナムに原子力発電を輸出する契約をすでにしていた。原子力は相当に技術力が必要でありそれを日本が握っていた。GEは過去の会社でありその技術はどうなっているのか?日本の技術力が原子力を支えていたのか?原子力を輸出することで原子力大国のフランスとも争っていた。そのフランスの原子力ももともとロスチャイル系が握っていた。アメリカという国家はビジネス国家でありその目的は金をかせぐことを第一としている。そのためには戦争も辞さない、何故なら戦争が巨大な富を生んできたからである。その戦争術では用意ではアメリカが世界で圧倒的に他国を凌駕しているからそうなる。戦争すればアメリカに巨額の富が転がりこんでくる仕組みになっているのだ。イラクの戦争でも石油利権を手に入れることができるようにである。
●原子力利権の構図
結局今回の福島第一の原発事故に明らかになったことは何なのか?その構図は複雑にしても日本の太平洋戦争の敗北ともにていた。第二の日本の敗戦にも位置づけられる。ただ今度はアメリカの属国となって原子力をおしつけられまたとり入れて事故になった。アメリカの大きな意向があって中曽根首相などが原子力をとり入れその後原子力は巨大な利権と化していった。
完璧なほどに水ももれないほどに安全神話は作られた。東電が作り上げたというより構造的に巨大な利権化して原子力発電に対して反対することはもはやできなかった。これは戦争のときと同じである。戦争に日本が負けると言えば特高によって刑務所に収監される。それと同じ構図ができあがっていたのである。その具体的な例が福島県知事の佐藤栄佐久が原発に疑問をいだきもっと安全策をとれとせまってもどこふく風だった。そうしたら佐藤栄佐久は検察によって露骨に失脚させられたのである。検察が特高だったのである。今になると余りにも露骨だから明確に事の真相が見えるのだ。検察はアメリカの意向に従う、政府もそうである。アメリカの原子力のビジネスを拒否することはできない、もちろんそれを受け入れた日本も悪いとなるが戦勝国のアメリカには逆らえないようになっている。だからGEのことは日本では批判されない、批判できない、悪いのは東電だとばかりなっている。
東電も確かに第一に悪いのだがその取り巻きも相当に責任があった。保安院など何の機能もしていない、ずさんな手抜きの工事までしても誰もとがめることもできない、コストカットで安全をないがしろにしても許されることがあった。厳しい検査機構などない、本来はマスコミなど第三者機関が厳しく検査しなければならないのだがそれが天下り官僚だったり検察だったり政治家だったりとそこに巨額の金が流れていった。現実に会長がマスコミを新聞社やテレビ局の幹部を中国旅行に招待していたとき事故が起こったのである。つまり何ら危険をチェックするものはいない、これだけ危険なものなのに誰も厳しくチェックできない体制になっていた。そして原子力を作るのには一市町村と知事の権限だけで決められていた。双葉町と福島県の知事の許可があればそれで原子力発電所は建っていたのである。これだけ事故になれば広範囲に影響するものもこんな狭い範囲のもので決められていた。地元の双葉町も責任があることは確かである。原発が6機あるだけではたりない、もっと建てろ、7、8号機も建てろと東電に要求していたのである。それほど原発利権で麻痺していたのである。
だから全国的には双葉町には同情がないのは当然かもしれない、その周辺市町村は原発利権でそんなに潤っていない、飯館村など何の恩恵も受けていない村だった。その村が一番被害が大きかった。福島県でもだから双葉町の責任を問う人が今になって出てきている。強制的に避難させられ体育館で不自由な暮らしを強いられた人は頭に来ているからだ。その怒りの矛先が双葉町などにも向けられることになった。原発利権にかかわった人が今批判される。事故を起こした犯人として処罰することさえ求められている。その中に福島県人も入ってしまう。なぜならあなたたちが原発を許可したから自業自得だと言う人もいるからだ。結局一回の事故で原発事故は国を滅ぼしたり人類さえ危機におとしいれるものだった。だからこそ安全神話が作られたのだがその安全のために努力せず安全を装うために官僚やら政治家やらマスコミに豊富な資金を使っていたのである。
それは結局巨大組織とか機構の腐敗だった。何か企業でも組織が巨大化すると自ら正すということもできなくなる。カルト宗教団体でもそうである。創価のように巨大権力化したら政治権力もマスコミも巨額の金でとりこむことができるしそういう方面には惜しみなく金がそそぎこまれる。そして原子力は安全です・・・という呪文のように言われて何も言えなくなった。巨大組織は誰ももはやチェックできなくなる。ただすべてが利権で動くからだ。今でもマスコミは東電のことをあからさまに悪くは言わない、巨額の宣伝費が入ってくるからである。人間は金をもらうと中立性がなくなってくる。公正な立場でものを見ることができなくなる。批判もできなくなるのだ。でもテレビ局でも金をもらわなければ運営できないから宣伝費をかせがねばならないから東電はいいお客様だから悪口は言わないのである。社会そのものがそういう構図になっている。発言できるものはその裏に巨大な組織がついている。その組織の利権が優先している。例えば新潮社は創価の批判をしても阿含宗(あごんしゅう)は紙面で宣伝しているから批判しないとか何かしら必ず金をもらいて会社が成り立っているのである。出版社だけで本を売るだけで成り立つところはない、宣伝費が入らないと会社が成り立たないから宣伝費をくれるところは批判できないのである。おそらくユダヤ人を批判するものさえ背後に組織があり金がでている。みんなそうして社会で発言できる仕組みになっているのだ。そうしないかぎり一言も発言はできない、だからマスコミだけを情報源としていたら事の真相はわからない、情報というのはそもそもそれぞれに個人でも情報分析しないかぎり何が真実なのかわからない、多様な情報があってもわからない、そこで編集作業を個人でするほかない、マスコミでも編集して提供しているのだ。インタ-ネットでも様々な情報をとり入れても何が真実なのかわからない、両極端の意見もあり混乱してしまうからだ。
放射能はこのくらいは安全だというときどういう根拠で言っているのか、言わせられているのかということがある。何らかの組織のために言っていることがある。原子力は安全だと最初から言っていた御用学者は今も放射能なんかたいしたことがないよと言いつづけている。また一方で極端に放射線な危険を言うものも何らか後ろに組織があるのだろう。学者の良心として20ミリシ-ベルは許せないとやめた学者はそれなりに学者の良心を貫いたのだろうか?これも批判する人がいる。放射線学というのは学問として確立していないのだ。放射線が一体どういうふうに人体に影響するのか明確なデ-タ-はない、だからどうにでも言えるということがある。何か今症状が出るわけでもないから余計にそうなのである。そうしたら判断はどうするのかとなると本当に困ってしまう。どうしても両極端の話しは信じられないからその中間がいいのかとなる。安全を言いすぎるのもどうかと思うし危険を言いすぎるのもどうかと思うとなる。ただ年間一ミリシ-ベルトで規制するのと20ミリシ-ベルトは差がありすぎる。10ミリくらいなら安全なのかなと思ってしまうのである。素人には判断できないし結果を見ない限りわからないものだからである。
これもなんとか自分なり情報を分析して書いたのである。今度の原発事故ではやはりこうした権力の構図が明かに見えやすくなったのだ。何もなかったら事故がなかったらこんなふうに見えてこない、さらに深い闇のままだったことは確かである。事故がそれを明かにしたのである。
立正安国論を読む-日本の国難(津波、原発事故が国の転機に)
●立正安国論の要点
其の国当に種々の災禍有りて国位を喪失すべし」
この「国位」とは、国王の位という意味で、それを喪失するに至ると言うのです。
それで次に、
「一切の人衆皆善心無く」
「賊来たりて国を劫かし、百 姓亡喪し、臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん」
そのような衆生の果報があると、今度はそこに賊が来てさらに禍を増し、上より下までの人々が互いに是非の争いを起こして世が乱れるというのであります。
四方の賊来たりて国を侵し、内外の賊起こり、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて百姓荒乱し、
とうひょう こうき け しち
刀 兵 劫起せん。是くの如く怪する時を七の難と為すなり』と」
「一には穀貴、ニには兵革、三には疫病なり」
一の「穀貴」とは、食物や物価が騰貴して、民衆が経済的に大いに苦しむことです。今の日本社会も、形は変わっても経済の混乱による人々の不安と苦しみは同じであります。
次の「兵革」とは、戦いが起こるということで、これはこの後にもお示しになっておられます。
三の「疫病」とは、あらゆる流行病、伝染病から、得たいの知れない種々の病ですが、すべて衆生の悪業によるのです。
しんにょう
「常に隣国の為に侵 I せられん」
内憂が外冦に発展して、他国より侵し乱されるということになるのです。
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● 平和の日は去った?
日本は戦争に負けた焼け野原から始まったのだけど高度成長時代がつづき平和の日が60年くらいつづいた。そしして内外とも実に恵まれていたのだ。そのさなかを生きたのが団塊の世代だった。平和であり高度成長であり日本は外国からも技術に優れているとか評価が高かった。
その60年の平和の日々は終わった。苦難の時代、国難の時代に突入したのだ。
其の国当に種々の災禍有りて国位を喪失すべし
原子力事故でどれほど国位が喪失したか、日本は輸出で成り立つ国だったけど放射能汚染で輸出すらできなくなる。日本は技術的に優れているという評価だったがこれ原子力事故で失墜した。日本は技術的にもこんなにずさんないい加減な国だったのかと自国民も外国も驚いている。日本の技術力はおそらく自動車とか電気製品とか日常的なものだったら手先の器用さとかで品質管理でいいものを作り出したのだろう。しかし原子力となると巨大技術となるとリスクマネジメントの欠如とか露骨に出てきたのかもしれない、そもそも原子力は日本だけではない、完全に安全になりえないものである。人間が使いこなせない代物だった。
一の「穀貴」とは、食物や物価が騰貴して、民衆が経済的に大いに苦しむことです。
これは放射能汚染でこれから食料がまともに得られない時代になるかもしれない、放射能で農業や漁業が大打撃を受けたように廃業に追い込まれるようにその影響は計りしれないのだ。放射能汚染で日本人は自国の生産する食料を食べれなくなるという恐怖がある。
三には疫病なり
この疫病は放射能汚染だったのである。この汚染の影響は範囲が広い、下手にすると世界中に広がる。住めなくなる地域が20キロ圏内だけではない、東北全部とかなる空恐ろしい疫病であり災害だった。
其の国当に種々の災禍有りて・・・・・
種々の災禍のなかには大地震や大津波などの天変地異である。つまりそういう災禍が重なってくるから国難なのである。この五年間の自分にも訳のわからない災禍の連続だった。それぞれに個々人で災禍を経験するが国難としての災禍はここ60年はなかったのである。それが今は津波や原子力事故などで日本に襲いかかってきた。これに中国など攻めてきたらまさに最悪の国難になってしまう。尖閣諸島の中国の侵入は兵革なのかもしれない、国内にも国外にも難問続出なのである。それが深刻であり解決に時間がかかる問題なのだ。こういうふうに国全体が危機にさらされたことを経験していない、明治維新とか太平洋戦争の時とにている。そういう国難にありその原因は国民自体にもあったのである。
一切の人衆皆善心無く
これも自ら経験したが人心は金と欲しかない、明治時代にあったモラルは義理人情などは全く喪失した。それはアメリカによる影響が大きかったのである。民主主義とか資本主義も実際は欲望の自由化になってしまっていた。本当に善心は日本人から喪失した。物欲しかない、無限の物欲の追求が資本主義であり民主主義だったのである。宗教も大衆の物欲の追求でありカルト団体である。創価なんかも日蓮などと何の関係もない、ただ物欲が満たされればいいのであり会長は世界中から勲章集めるだけである。善心などもっているものは一人もいないのである。幹部は権力の追求以外眼中にない、会員はその駒であり一票でしかない。これは今のエリ-ト層もそうだった。自分たちの欲望のために原子力に群がっていたのだ。原子力はものすごい利権だったのである。そこに官僚から東大出の学者から政治家からマスコミから連合などの労働貴族とかが群がり推進していたのである。大企業も金になるということで推進した。エリ-ト層にとって原子力は金のなる木だったのである。指導するべきものも官僚などでも多額の金をもらいばいいということしかなかった。東電から何千万と金が支給されるから安全面に目を配ることをしなかった。そういう日本人の腐敗が上から下々まで広がっていたのである。下々のものでも何で金にならないのだ、欲望を満たされないのだとしかないから本質的には同じであった。現実に原発を双葉町ではもっと欲しいと要求していたし原発があるところではやはりその分配金をあてにしているからである。実際は原子力は現代の人間の欲望の象徴だったのである。
●明治維新-戦後の焼け野原から三番目の転機の時
津波がもたらしたものそれは何なのか?これもまた毎日のよう考えるのだが理解しがたい、おそらく一瞬にしてすべてを失った人たちも何で自分たちはこんなひどい目にあうのだろうと思っている。余りにも悲惨だから言葉を失う。どうしてこんなことになったのだろう。何か悪いことでもしたのか?そしてなぜ東北の第一次産業地帯、農業や漁業で暮らす人たちを襲ったのか?
別この人たちに罪があるわけではない、原子力事故なら利益をむさぼった東京の官僚とか原発を推進した政治家や東電の幹部などがひどいめにあいばいいとさえ思う。それが飯館村のような何も利益を得ていない自然と調和した平和な村が住めなくなるという被害を受けた。そこに住んでいる人たちもどうしてそうなったのだろうとつくづく思うだろう。なぜ長年住み慣れた村に住めなくなるのか?そのことが解せない人は今でもいる。そういうふうな理不尽なことが突然起きてしまったのである。だからこれは一体何が起こったのか?何でこんなことになったのかと思う。天罰だというときまさに日本人が腐敗したからかもしれない、日本人だけではない、人類への罰だったかもしれない、なぜなら原子力事故なら世界で起こりえるし警鐘になっているからだ。そういうふうに世界に影響することが日本で起こりそれが自分の住んでいる地域で起こったから毎日のように考えざるを得ない、なぜすぐ近くが立入禁止区域になってしまったのか?
もう住めなくなるということが納得いかない、そんなことがあっていいのかということである。村や町がいくつか日本から消えていいのかとなる。そういうことが自分の住んでいる地域で起こったことが余計に考えさせられるのである。放射能は本当に身近な問題であり現実に今も放射線をあびている。幸いにここは避難区域からはずれていても身近なのである。30キロから数キロしかはなれていないからだ。体育館とか二か月避難して不自由な生活をした人たちはさらに憤りをもって暮らしている。なぜこんなことになったのだとその責任者は誰なのだとか責める。その被害があまりにも大きすぎたからである。ただそうしてひどいめにあった、憤りをもつ人たちも何らかの責任はあったのだろう。豊かな生活をしたいということでは同じだからである。だから地元でも金をもらっている人たちは安全だ安全だと釘をさすようにみんなに言っていたのである。にらみをきかしていたのである。そういう人たちは東電の一員でもあった。何であれ日本は上も最も責任あるが下々もやはり何らかの責任を負っている。下々のものでも学もなくてもこれだけ被害にあいば目覚めるということである。自分でも原子力など無関心だったがこれだけ身近に被害を受ければまだまだ事故もおさまらず空恐ろしい事態さえ起こりうるとなれば毎日危機感をもって考えるのだ。
世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是をもって魔来たり鬼来たり災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず
日本国は腐敗して善神は国を捨てた。こういう腐敗した国からは聖人もさる。そして魔と鬼しか来ない、個人的にもそうだった。魔と鬼しか自分の所には来なかった。正に末法であり世の末であるからこそ大変革が起こり新しい世をまた目指すとなる。 良い兆候として東北に全国から救助に来る、ボランティアが神戸から大阪から京都から全国から来ていることに驚く、日本が一つになることがあった。日本が一つになるということを経験していない、神戸の地震の時もいくらかの寄付をするくらいで助けに行くということはなかった。神戸の近辺ではあった。神戸の地震災害はやはり日本にとっての大きなものだった。その経験が東北の災害でも活かされている。国難の時はやはり日本から善神となるものが出てくる。時代の転機には英雄的な人が出てくるのも救いである。日本の戦後の焼け野原は悲惨だったけどそこから立ち上がること、希望はそこにも生まれていた。今回はまた状態は違っていても何かそうした希望も生まれてくることはありうる。国難だからこそ犠牲的になる人たちもでてくるかもしれない、確かにボランティアであれ東北の悲惨さを見て全国で善の心が働いて現実に助け合う人たちを見た。ボランティアも批判されてもやはり被害にあった人たちにはありがたいと思うし日本人は助け合うんだなと思った。その点外国人はいち早く放射能を恐れて脱出した。その相違がわかった。金だけを求める外国人が普通だからである。日本人ならそうはならない、やはりそこに愛国心が働き郷土愛も働く、そこに何らかの犠牲的な精神もでてくることはこの国難の中での救いだったのである。
大津波、原発事故の意味するもの(2)
(暴走する技術、制御、制限されない技術)
●プロメテウス、イカロスの神話が現代に蘇る
彼らは蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出したが、イーカロスは父の警告を忘れ高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。彼が落下した海は、彼の名にちなんでイーカリアー海と名づけられた
プロメテウスも火を盗んで最も過酷な刑を受けた。イカロスも調子にのりすぎて高く飛びすぎて太陽の熱が原因で墜落死した。これは今の原発事故ににている。火も太陽も熱と関係していた。熱はエネルギ-の元であることは変わりない、原子力発電もウランなどを燃料にして核反応させて熱を出している。その熱は放射線の熱でもあり常時冷やしていないととまらない、原発事故でもこの熱をとめることができず苦しんでいる。これも技術の暴走だった。技術は暴走しやすい、暴走をとめにくい、新幹線でもリニアモ-タ-カ-を目指し飛行機も音速を目指し車もスピ-ドがとめられず事故を起こすことは今でもいくらでも起こっている。技術は自己目的化してその便利さを追記をしてゆく、制御、制限することができない、イカロスのように最後は必ず暴走して大失敗して大きな被害を与える。その技術が社会にとって必要なのかどうかよりスピ-ドを追求するとか効率を追求するとか社会にとっての必要性より技術そのものを追求することが自己目的化する。核など本当に人類にとって必要なものかどうか、危険なものだから手をつけないという選択もありえた。技術に関してもタブ-がない、社会にどういうふうに影響するのかというよりただ便利であればいい、より早ければいいとか便利さのみを追求されるのである。技術の自己目的化でありそれが暴走を生み大事故につながる。経済にしてもGDPが無限に増大して無限に発展すればいいのだということがあり自然環境にはGDPも抑えるべきだという思想は拒否される。人間は減らすとか制限するということができない、特に現代文明は資本主義は欲望の無制限の追求でありそのための技術の危険性もかえりみない追求になった。電源でも無限にありうると思っていた。しかし今や電気は高価なものであり原子力発電のように危険なものによって供給されていたことが実感としてわかった。神話など遠い昔の話であり現実に通用しないと思っていたがプロメテウスの火であれイカロスの墜落であり今の現実のことだった。原発事故はまさにそうだった。人間の無制限の技術の追求を戒めるものだった。そこには大きな災いが隠されていたのである。
●技術でも制限する思想は普及しない
江戸時代の謎は技術まで制限された。篭のようなもので人を運ぶのだから原始的状態であった。馬車がヨ-ロッパでは発達したのは当然である。日本でも馬車は作ることができた。でもしなかった。それは政府が制限したためだという、江戸時代は経済でも制限させられた中で生きてきた。全く外国のものは入らないなかで生きてきた3百年だった。それは世界史上でもまれな経験歴史だったのである。それが突如制限のない無制限の世界に突入したのが明治維新以降の世界だったのである。ともかく現代ではいかに技術を制限することが困難を極めるか、原子力など危険すぎるといっても便利だから制限することがむずかしい。だからこそ技術の暴走がありイカロスのように墜落した。逆にもはや人間の手では制御できない、今も原子炉から燃料棒から熱をだし続けている。それを抑えることができなくなっている。そして制限できないから人類滅亡になると恐怖した。今でもその恐怖はつづいている。技術の暴走の結果、原子力自体が制御できないものとなって暴走しつづける。
グロ−バル化は宗教、哲学、モラルも破壊する−(老子とエピクロスの哲学の共通性)
http://www.musubu.jp/jijimondai38.html#grobe
理想の国とは、小国で人口が少ない国である。
文明の利器があっても、使わせないようにし、
人民にいのちを大事にさせ、
しかも遠くに移動しないようにさせる。
そうすれば、船や車があっても、それに乗る機会が無く、
鎧や武器があっても、見せびらかす機会がない。
昔のように、人々は縄を結んで文字の代わりとし、
質素な食事をうまいと食うようになり、
質素な服をりっぱだと思うようになり、
質素な住居に落ち着くようになり、
質素な習慣を楽しむようになる。
隣国は互いに見え、鶏や犬の鳴声が
聞こえるほどの近さにあっても、
人民は、老いて死ぬまで行き来することはなくなる。
貧乏は自然の目的(快)によって測れば大きな富である。限界のない富は大きな貧乏である。(エピクロス)
これは極端にしても2千年前にすでに文明の制限のない技術の使用に警笛を鳴らしていた。20世紀の文明はこの逆を極限に追求したのである。グロ−バル化で世界の果てまで交わるようになった。しかし世界大戦争で大殺戮の時代であり科学技術はその大殺戮するためのものにもなった。何故戦争が起きるのか、グロ−バル化すれば互いの国の欲望が露骨に対決することになる。石油でもレアメタルでも何でもそうである。資本主義は必ず資源戦争が宿命的に起きてくるのだ。アメリカと対決した結果として日本の原爆がその象徴でもあった。そして日本で原爆同じように原子力事故で大事故を起こした。それも自分も被害者になるとは思わなかった。技術であれ欲望であれ制限されないものは危険をともなう。欲望にしても資本主義はグロ−バルに無限に拡大する、それに答える地球資源もないのだ。それで原子力事故になった。これから恐ろしいの核戦争ではなかった。「限界のない富」「限界のない技術」の追求はかえって貧乏にするというとき、まさに原発事故でとてつもない代償を支払わされたことである。
文明の利器があっても、使わせないようにし・・・原子力があっても使わせない、人民にいのちを大事にさせ、・・・命の方が大事だ。放射能によって汚染されたら命そのものが保てない、津波でも一切のものをなくしてしまって命だけ助かった人が大勢いた。その人は生きているだけで良かったとなってしまったのである。
世界中で増えてゆく原子力発電で世界が人類が滅びることである。なぜなら原子力発電はこれからも世界で増えてゆくから必ず事故になりその時致命的なものとなることが起きてくる。日本でも技術が優秀だからとベトナムに原子力を輸出することが決まっていた。日本が技術が優秀だったというのも作られた神話でありそれも今回の事故でもろくも崩れ去った。こんなにずさんだったのとか世界でも驚いたのである。ロシアのことを批判していたがロシア並だったのである。原子力は日本だけの問題ではない人類の問題としてあった。世界のどこでも事故が起きれば世界的に影響するし人類滅亡の恐怖につながっているからだ。
●災害によって生まれた大きな使命感(ミッション)
今回の津波も何か大きく社会を経済を見直すものとしてその契機としてとらえる人もでてくる。経済とはただ個々人の営利の追求ではなく実際は助け合いが基本にあることがわかった。物資がたりなくなって生死を分かつような時、必死で物資を供給しようとする人たちもいた。日頃何でもないと思っていたものが命を救う働きをしていた。孤立状態に陥った村に物資を供給することはまさに命を救うことだった。もはやもうけとかではない、何とか命を救うために必死になるのだから互いに助け合うことだった。そういうふうに全体が強いられた日本国全体がそういう気持ちになったこと自体も今までなかったことである。経済とはやはり自分だけの利益を追求するものではない、まさに今回のように他者の命を救うということに直結していたのである。ただ放射能汚染地帯には物資が運ばれなかった。その時でもなんとか物資を運んでやろうとする人がいたらまさに助け合うことこそが経済の基本だったということが実感としてわかった。その他原子力事故でもその中に必死に事故を収めようとする人たちがいた。それは英雄的だというのもやはり個々人や会社だけの問題ではない、日本全体の命運がかかっているとかなっているためである。それほど重大な事故だったのである。そういうときは個々人の利益を越えた動機がミッションが働いてくる。戦後はそういう大きなミッションを自覚することがなかった。マイホ-ムやマイカ-とかマイとつく個々人の利益、富の追求だったのである。それを先導したのが団塊の世代だった。これと正反対なのが賛否両論はあるが国家のために戦争で死んでいった人たちである。国家の命運がかかっているから国家が最優先になったのである。
人間も欲望を解放すれば無限に欲望を追求して制限できない、車も一人一台は多いから一家に一台にしろといっても一旦便利な生活を享受したら不便な生活をできない、減らすことは一番むずかしいのである。原子力の恩恵にあづかっているところはやはり双葉町のように原子力をやめるのに反対している。そして技術は暴走して欲望は暴走する。「限界のない富」「限界のない技術」の追求は実際は不可能でもイカロスのように高所を目指して飛びつづける。そして墜落する。今や日本の海がイカロスの海ではない、放射能の海になってしまった。現代文明は原子力事故に象徴されるように技術も限界にきているし限界のない富の追求も災いをもたらす、人間にもたらされる災いはやはり神からの罰なのかもしれない、神のみが全能であり人間は神になることはできない、しかし神になろうとしているのが現代の神となった宗教となった科学技術だったのである。その最高点にあったのが原子力でありその原子力が崩壊したことはまさに限界に達したのである。
現代文明は今限界に達している。技術も無限のグロ−バル化による欲望の追求も限界に達している。津波にしろ原発事故にしろその警告が日本に示された。日本は今までとは違う国造りを要求されている。それはグロ−バル化による無限の富の追求や技術の無制限の追求ではない、制限された中で生きることである。それは自然との調和をもたらす、プロメテウスやイカロスの失敗はくりかえさない世界である。日本にはそういうミッションが生まれ使命が課せられたのうかもしれない、その未来へのビジョンは何なのか?それは日本が人類の未来を先取りするものともなりうる。津波と原発事故はそういう変革を強いるものとして起こった。だから大きな時代の変わり目だったとあとからの人は言うかもしれない、時代を変革する力は人間だけではない自然そのものからも起きてくるということはやはり人間の存在は自然によって制限されている規定されているということでもあった。そういうことに気づかされたのが今回の津波であり原発事故でもあった。
●原子力発電は戦艦大和と同じだった。
軍艦設計は、物理学・化学・数学等の集大成です。第2次世界大戦以前、飛行機時代が到来するまで『船』は『力』そのものでした。
これを置き換えると『原子力』『力』そのものでした。原子力発電は巨大技術であり戦艦大和だったのである。それを運営するのには一会社の利益追求だけでは運営できない代物だったのである。今でも東電の会社社長が老後のことがあるから賠償金を少なくてしてくれということでもわかる。官僚も東電の会社員も自己保身しかない、これが小さな会社だったら別にそれでいい、原子力はそういうものでなかった。一歩間違ったら国を亡ぼすような巨大技術だったのである。
「原子力発電所の所長は「戦艦大和の館長」の覚悟がないとなりたたない。日本の国民のために働けるか?サラリーマンではできない」武田教授
戦艦大和は国家の命運をかけて作られた。原子力発電もそれと同じだった。しかし原子力発電にたずさわる人はそういう気概もなにもなかった。ただ原子力は金になるとか官僚は自己保身であり誰もそんな気概をもっていない、だからそもそも国民を守るためだとか国民に尽くすためだとかいう気概がそもそもない、武田教授は技術者であってもそういう気概が大事だということは原子力発電にたずさわる東電の会社員でも感じていない、月給をもらいばいい会社員にすぎない、そもそも戦後はそうした国家的気概とかそんなものを否定して個々人の利益の追求であり国家というのは否定されてきたのである。戦争に負けた結果国家は悪いものとして否定されつづけてきたのである。その結果として会社人間でありマイホ-ム人間であり小さな個々人の幸福を利益だけを追求してきたのである。それが丁度高度成長時代になりエコノミックアニマルとか世界で日本人が言われるようになった。エコノミックアニマルでは原子力のような巨大技術は使いこなせないことが今回の事故でわかった。今になり特攻のような犠牲的精神が要求されている。国がこれでは滅びてしまうという国家的危機になったからである。
しかし日本ではそういう気概を戦争に負けた結果すべて否定してきたただ利益追求の人間となり会社人間となった。国家より会社であり国民のことを思うことより会社優先であり利益優先である。だから東電も会社でありそこに勤めている人はサラリ-マンでありそんな国家的ミッション、使命感などない、原子力はもうかる事業としてやっていたのである。それは官僚でも学者でも政治家でもそうである。原子力には国家的威信がかかっている巨大技術であり戦艦大和だということを意識していなかった。技術者は単なる技術だけを追求するものでありそうした国家的威信をかけた代物だったということを自覚していなかった。戦後は国家的威信をかけたような事が起こらなかったし国家そのものは悪として否定されてきたのである。その代わりとして会社が一番大事なものとして帰属することになった。会社はあくまで営利の追求が優先される。自己犠牲的なものは要求されない、利をもって成り立つ。だからそこには使命感、ミッションが生まれにくい、つまり原子力のようなものは一会社の利益追求だけでは運営されるものではない、
国民を視野に入れ国家的使命感-ミッションが必要とされていたのである。不思議なことを安全安全と言いつづけていたのに国民の安全は何一つ想定されていなかった。だから事故を起きたら国民をどうするのかという対策はゼロだった。それをすれば安全でないとなり原子力発電はできなくなるからだ。そして原子炉の安全は追求していたが国民の安全は眼中になかった。一方戦艦大和は国家のために国民のために作られていた。戦争の是非はともかくそういう使命感のもとに作られ責任をになっていたのである。原子力発電も戦艦大和と同じだったのである。現代は上から下までモラルが喪失したというとき利だけを追求する経済人間になった。一番偉いものは金をもっているものでありそれ以外の価値観はない。金と利だけで動く社会だからこそ巨大技術には国家的使命感、ミッションが要求された戦艦大和のようなものにはもう対処できるものではなかった。結局日本は原爆で終戦を迎えまた原子力で第二の終戦のような状態になったのである。
武田教授-巨大技術ついて
http://www.youtube.com/watch?v=7q61kPl2Auc
マスメデアと原子力安全神話の形成
(インタ-ネットはマスメデアを監視するべき)
●原発推進にメデアが誘導しつつある
民放のニュ-スで最近なんとなく東電に味方する報道傾向が増してきた。楢葉町長が原発は必要だ明確に言った。双葉町長も言っている。そしてテレビに出てくる人も原発を一がいには否定できない、仕事がない所だから否定できないとか反原発を言う人がまた出てこなくなった。いてもマスコミでは出さない傾向になっているかもしれない、一時期は反原発一色になっていたがこの頃は東電の社員が原発事故を収めるために必死でがんぱっているから応援しようとか応援キャンペ-ンがテレビで盛んに報道される。東電に対する怒りをおさえつつある。表に出ないようにしているかもしれない、テレビでもマスコミでもたいがい東電から宣伝費をもらっている。それも多額なのである。国でも原発をやめる気はないらしい、アメリカの要請もある。だからだんだん反原発を抑えるようになってゆくかもしれない、子供は正直だから早く家に帰りたいと書いているのはわかる。避難所暮らしではどんなに反原発を抑えようとしても怒りがこみあげてくる。なかなかそうした怒りをおさえることはむずかしい。でもマスコミでは表に出さないようにすることはできる。東電の社員は事故現場で必死にがんばっている、回りの楢葉町長や双葉町長も原発が今も必要だと公言していることは重大である。町民を代表して言っていると外から思われるからだ。一部の反原発の人は表に出れない、強く言えなくなる。やはりまた安全神話とにた構造となり抑えられる。最初は反原発一色でもこれからはそうでもない、原発推進派も力をもりかえしてくる。それは事故の集束いかんである。これが集束しない限りはいくら上層部が言っても底辺では怒りに煮えくり返っているから抑えることができない、マスコミだって表に出さないようにしても避難所暮らしの人がいるか限り怒りを抑えることはできないだろう。
●マスメデアは二次情報
人間が情報を消化するときは直接現場を見て判断する。直接人から聞いて判断する。それが一番判断するのに確かな情報のとり入れ方である。これは一次情報である。でもほとんど二次情報なのだ。二次情報になるとめれは聞いた人からのまた聞きの情報になる。たいがい情報というとき二次情報なのである。テレビでも新聞でも雑誌でもほとんど二次情報になる。個々人が語り書いているではないかというけどテレビは自分が発言したいとか言っても自由に発言させてくれるところはない、テレビ局でこの人がこんなふうに言うならテレビで流そうとなる。テレビ局という組織が判断してしゃべらせる人を選択しているのである。だから過激な主張をする人は出さない、しゃべらせる人はテレビ局が決めている。これは雑誌でもそうである。雑誌を編集する人がいて書かせている。一冊の雑誌を書くにもいろんな人が書いている。それをある程度雑誌社で出版社で編集してだす、その個人そのものが書くということはまれなのだ。だからテレビ局出版社の方が作者より大きな力をもっている。つまり人間は一次情報に接することはいろんなメデアでも本当にまれである。テレビに写されて自分がしゃべっているようでもしゃべらせられているというのが真実である。本当だったら訴えたいことがある、このテレビ局で自由に五分間でもしゃべらせてくれなどということは絶対できない、必ずテレビ局であれ雑誌であれメデアが取捨選択するのである。つまり必ずそうして選択されたまた聞きされた情報に接することがほとんどである。そうなるといかにテレビ局が報道に大きな力をもつかわかる。テレビ局の意向が一見自由にしゃべるせるようでそうではないのだ。だから原発で働く東電の社員を応援することがテレビで報道されたときちらっと子供が早く家に帰りたいという言葉が書かれていた。避難所暮らしが嫌だということが書いてあったの紹介した。でもそこに注目する人はまれだったろう。東電の社員をみんなで応援しているということがテレビ局の方針になっていた。だから堂々と楢葉町長が原発は必要だと主張した。でも楢葉町民でも反対の人がいるし苦しんでいる人がいるからもうこりごりだという人もいるがそれはテレビ局では出さないのである。
メディアとは、情報を伝達、記憶する媒体全般をさす。しばしばマスメディア(マスコミ)と混同される。
メディア(media)は複数形で、単数形はミーディアム(medium)。
大本の意味は「媒介」「中間」。なので単数形のmediumには「霊媒」という意味があったりする。
メデアは本来そういう伝達する媒体にすぎなかった。単数形はミーディアム(medium)。
大本の意味は「媒介」「中間」となるのはメデアはもともと中立であり編集選択したりしない、それでも霊媒とかなるのはメデアが洗脳する作用をしていることに気づいていたからかもしれない、今はメデアはまさに洗脳する媒体である。原発の安全神話もまさにメデアによって作られたのである。
本当は民主主義は自分の主張を言える場があってしかるべきだが実際はない、テレビ局とか新聞社とか雑誌でも本すらそうである。書店という場は全く不公平な場所である。出版社の出先機関であり自分の主張する本など置ける場所ではない、完全に異端者などは排除される。
出版も本を出すこと自体大変なことだから大手出版社に独占された場所であるそのことがわかるのはいかに百くらいの出版社が出している雑誌がある。それは本屋には絶対に並ばない、売れないこともある。でもそうした売れないものでも重要なことが書かれているのか情報でもあるのだ。民主主義といってもすべメデアを通してしか情報に接することはできない、そそれは第二次情報になる。メデアを通すときすべて情報は第二次情報であり取捨選択されメデアにとって都合のいいように放送される。それはNHKでも同じである。NHKは中立な単なるメデアではない、情報を取捨選択してNHKという私的会社の意向にそったように報道される。これはマスメデアならすべてそうである。それらはすべて営利を目的とした会社なのである。自分たちの営利に反することは報道しない。そこには不思議に個人の発言もない、一見個人が発言するように見えてもそうではない、会社という組織の代表として発言している。
今は個人がそのまま発言することはなかった。マスメデアを通して発言できる人は限られている。マスメデアを通して発言できるのは組織の代表者である。仏教など組織がないようでも違っている。仏教界とかありやはり組合があり自分たちの不利益なことにならないように社会に圧力をかけるためにある。
京都だったら観光で収入をあげるために無税にされて巨額の財を積む。戒名商売もあり批判されないように圧力をかける。創価もそうだけど仏教界とかカルト宗教団体もみんな社会に圧力をかける利権団体なのである。そもそもマスメデアを通して発言できるのはそうした組織団体の代表者であり本来の個々人は存在しない、労働組合もあり様々な団体組織の代表者が発言を許される。個々人の民主主義でなくそうした組織団体の利権を主張する民主主義である。
それ故になぜ東電があれだけ大きな力をもったのかわかる。国から政治家から官僚団体から経営者から労働組合から学者団体からマスメデアから地元の利権団体からあらゆる利権団体を吸収したからである。 それらの利権団体が安全神話を作り出したのである。まさに神話はこうした権力により作り出されたものであった。その神話が崩壊したのは別に内部からの告発とかでも何でもない地震と津波によって崩壊させられた。そういう社会的構造が破壊された。それは単に原子炉が破壊されるというよりそういう人的構造も破壊されたのである。
●未成熟な個のメデアのインタ-ネットの情報空間
情報は実に多様なのである。インタ-ネットが出てからそうした多様な情報に接しられるようになったことは確かである。自分が何かを強く主張したければ確かに主張できる。でもインタ-ネットの弱点は膨大なプログでもホ-ムペ-ジでも情報洪水の中に埋もれてしまうのである。
そして何が重要な発言なのかそれもわからなくなる。取捨選択することが極めてむずかしいのである。ただインタ-ネットでは自分はこれを言いたいという一次情報になっている。媒介するメデアはかかわらないからだ。だから真実に触れることはありうる。テレビ局を通して発言させられるのではない、個人からの直接の発言や主張に接することができる。テレビ局や新聞社や雑誌者や出版社でも会社の代表として発言させられるのとは違うものがある。メデアを通さない、インタ-ネットは個々人がメデアをもっているともいえるからだ。ただまだ未成熟であり使いこなせていない、まだ年月が浅いこともある。ただインタ-ネットが違うのは自らがメデアと一体化している。メデアそのものなのがインタ-ネットなのである。これまで表に出てくるのはマスメデア通してしかありえなかった。そこで大きくされる人がいた。それはあくまでもメデアの力であり個人の力ではない、芸術の分野でもそうである。メデアを通して出されるのはそのメデアが力があるからなのだ。インタ-ネットは個々人がメデアをもって発言するというのは確かである。
でも最近ツイッタ-とかなると有名人にぶらさがって発言する大衆がいる。個々人で発言できるといっても何百万とかプログがあるとなるとその数の中に埋もれてしまう。何が重要な発言かもピックアップできないし読まれないとなり有名人にぶらさがることになる。有名人にコメント一言でもするとそれが広がるということがあるのだ。それはちょうどマスメデアに出るととりるたらないものでも何百倍にも拡大化されるのと同じである。ただインタ-ネットは個々人が問われる、組織団体の代表としてインタ-ネットでは通用しない、なぜならプログでもそれは個々人がメデアそのものとなっているからである。メデアであることはプログであれホ-ムペ-ジであれ掲示板する主催者によって編集されるたりする。それはメデアそのものだからマスメデアと同じようになる。マスメデアと対等なメデアにもなりうるのだ。ただその力の差は余りにも大きすぎるからそうなっていなだけである。機能としてはそうなっているのだ。原発事故でアクセスが急激にあがったときやっと自分のプログも多少認められたのかと思った。つまりそれだけ常時読まれることがむずかしいのがインタ-ネットである。何が重要なのかインタ-ネットではわかりにくい、マスメデアは重要なことを取捨選択して報道する。インタ-ネットは自ら何が重要なのか選ばねばならない、そして自ら編集しないと活きてこないのである。そういう作業は結構大変であり暇でないとできないのだ。
●情報はほとんど第二次情報として接している
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである ニ-チェ
事実そのものに触れることが少ないからこうなる。過去などはすでにただ事実はもうわからないからその人の解釈だけだとなる。事実の二次情報になるから結局その人の解釈しだいだとなる。事実はあってもテレビ局や新聞や雑誌社の解釈が実際は情報として提供されているともなる。そこに情報が誤って受け取られ原因になっているのだ。本当は事実だけを報道されればいいのかもしれない、解釈が入ってくるとすでにテレビ局の意向が反映されているのだ。また編集もされている。両方の主張を公平に出すことはありえないのである。テレビ局の問題は誰かそこでそんなことはないですよとか言えないことである。そこが一番の問題なのである。要するに一方的メデアなのである。インタビュ-するにしてもそういう人は事前に決まっているのだ。 歴史にしてもそういう事実があったというより事実の解釈が歴史なのである。無数の事実があってももはやそれが本当かどうかもわからいな、だからそういう事実があったとしてもその人の解釈の方が大事でありそれが歴史になっているのだ。そしてほとんどの情報は第二次情報である。津波の経験にしても原発事故の経験にしてもその本人から直接聞くことはなかなかむずかしい。誰かから聞いたものである。その多くはマスメデアから特にテレビから見てしることが多いのだ。実際に今回の津波でも原発事故でもわからない、原町の小学校に避難者がいたことはわかってもどういう人がいるかわからない、それはNHKのテレビ放送でわかった。小高から避難した人たちだった。
身近にいてわからないことがある。それもマスメデアを通してしかわからないことがあるのだ。ただ今回地元だから自分は自分の目で見たものをプログに出した。それは自分自身がメデアになっていたからできたのである。おそらくこれから被害にあった人達がインタ-ネットで直接語るようになるとまた違ったものになるかもしれない、落ち着いてくればそういうことも語られるようになる。結局マスメデアを通した第二次情報に接することで判断するから今回のような原発事故を未然に防ぐことができなかった。情報に関して強力な権力構造ができあがっていた。原発は内部でどういう事実があったのか素人にはわかりにくい、するとこれを解釈する人が大事になるがそれもみな原発推進派となるからその解釈自体ゆがめられたもの真実を伝えないものとなる。知識が高度化するともはや様々な事実があっても対処できない、解釈することもできない、そして事故が起きた時ただただ狼狽するだけの無力な個となってしまっているのだ。文明は互いに意志疎通ができない複雑な迷宮になっている。原発もまさに無数の配管であり迷宮であり事故があったらその運転している人も対応できない、放射能もれをおさえることもできない,それはそのまま破滅に通じていた。
●原発事故も神話の再現
ミノス文明も、紀元前1400頃、突然、歴史から消滅する。サントリーニ島で地球規模の火山爆発が起こり、その地震と津波で滅んだという説である。
ミノス文明も迷宮を残して滅亡した。今回はそういう壮大な神話的なことが津波で起こった。
おぞましい牛は地下の迷宮に閉じ込めた。でも放射能は閉じ込めることができない恐ろしいものだった。原子力と共に滅びるということもありうる。その原子力の迷宮に取り残されて事故の集束に働く人がいる。でもそれいつ果てるともない放射能との戦いなのである。神話はやはり今でも生きていた。実際に神話を示唆するようなことが事実として起こったから驚いたのだ。いくら科学万能の時代になっても過去の遠い人類の記憶となる神話の語るものは大きな教訓を示していた。
ひとたび角を曲がると、そこはもう間違いなく迷宮の中でした。教えられた数の曲がり角を曲がっているはずなのに、歩んでいる道が正しいのか、テセウスの自信は揺らいでいきます。
アリアドネの糸によって迷宮から逃れた物語である。いくつもの曲がり角というのは今の原発事故で働いている人である。曲がっても曲がってもどこが出口かわからない、いろいろなことを試してみても先が見えないとか試行錯誤を繰りかえしている。そこにアリアドネの糸はない、原子力とは結局人間の限界であり操作できるものではなかった。人間には万能ではない、自ずと限界があるのだがその限界に挑戦する。科学も万能の力を得たように人間を錯覚させる。人間は直らない病気もない、老化も克服できるとか思い込む。科学のニュ-スはそういうことが多い。
でも人間は万能でないから自ずから限界がある。その限界を認識する必要がある。原子力はそういう人間の限界を示したものである。その限界を認識するべきである。事故のあとの処理はできないものだった。原子力発電所は迷宮化して文明そのものを人類すら亡ぼしてしまう恐ろしいものだった。牛は怪物は閉じ込められたが放射能はできない、そういう危険なものを人間は手をだすべきではなかった。いくら必要だと言ってもそこに人間の限界があるのだからどうにもならない、人類を亡ぼしうるものだからやめるほかないのだ。人間には及ばないものがある。
人が人を裁くこともできない、その犯罪がどれだけひどいものでもなかなか人は人を裁けない、だから死刑にすることは人間にはできない、つまりそれも人間の権能を越えているからだ。
人間の権能を越えることはいくらでもある。「死後に神が裁く」ということはそのことである。死後のことも人間には知り得ようがない、権能もない、そういうことはまだほかにもある。そういう人間の限界も認識すべきでありそうしないとまた大きな悲劇が罰が与えられるのだ。
オウムとにていた原発事故
(専門化した知識人の犯罪だった)
●超エリ-ト集団が犯罪集団だった?
今回の原発事故は不思議だった。要するに超エリ-トと言われる人達が断罪されるにいたった。原発にかかわった人達は東大出の官僚だ、一流の原子力関係の学者であり、大企業もかかわる日本の技術者の最高レベルの人達がたずさわった事業だった。それが事故になり一転してエリ-トは断罪されるようになった。もちろん警察につかまるわけでもない、今は断罪されていない、服役もされていない、何ら罪をきせられないからエリ-トはエリ-トであり金に不自由ふることもないし刑務所に入るわけでもない、だからこの人たちは別に何ら罪悪感も感じていないかもしれない、どこで罪なんだとか思っている。罪の意識はない、でも不思議なのはこういう超エリ-ト集団が実は犯罪集団だったという側面があったしそういうことが事故で浮き彫りにされたのである。ただ以前として政府であれ政治家であれましてや検察もかかわっていたのだから誰も犯罪として裁くことなどできない、それはちょうど日本の戦争が犯罪として誰も裁くことができないと同じである。でもその戦争ともにていた。戦争を指導した人達もまたエリ-トであり同じであった。そこにマスコミもかかわり戦争に突っ走った。指導層だけではなく国民も同調したから同罪だともされ誰も戦争の責任をとる人はいない、それとまた今回の原発事故はにていたのだ。
オウムは異常な集団とされていた。サリンを隠れて製造していたのである。これは原子力ではない、でも危険なものとしてはにていた。サリンを力あるものとして武器にするためにもっていた。表面は仏教集団であり世間には宗教団体と装っていた。そして特徴はやはり理系の学生などが中心メンバ-でありその人たちがサリンを製造した。サリンは原子力発電ではない、ただ毒として武器としてもっていた。原子力が核兵器としてだけもっていると同じである。その辺は違うにしても盛んに東電はテロ集団だったと今言う人達がいる。それはオウムもサリンをまいたテロ集団であり東電もそれとにていたともいえる。目的がそもそも違っているとはいえ、原発はサリンより危険なものでありへたする国を亡ぼすほど危険なものだった。しかしそうした危険なものでも隠すことができた。それは東大出の官僚であり学者であれ政治家であれ地元の人達にしろ国策なのだから国民にも容認されていたから誰も東電などをオウムのようなテロ集団だとは思わない、でも事故を起こしてみたらその責任と罪は余りにも重いものだった。政府であれ政治家であれ官僚でも御用学者でもみな事故を起こした結果、犯罪者集団のように見えてきた。
マスコミもこの犯罪集団に加担するものでありその危険性を指摘したことはなかった。この原発村は莫大な利権集団であり金がもらえるということで容認したのである。
●原発事故は知識人の犯罪だった?
オウムとにているというときその構成した集団が超エリ-ト集団であった、国のトップを形成する人達だったからである。オウムも理系の優秀な学生がいて知識人だった。これは知識人の犯罪だという人もいた。官僚であれ学者であれ法律にかかわる検察も知識人である。マスコミも知識人である。一方ブルカラ-の人達、第一次産業にたずさわる漁業や農業や建築の現場で働く人などは知識人ではない、だから知識人の犯罪だというときあたっている。でも現場で働く人でも金になればいいということで全然関係ないかというとそうではない、事実小高と浪江では東北電力と原発を作ることを契約していた。10年後くらいに稼働予定だったのだ。それで小高の建築関係の人は不景気のとき原発建つから景気良くなると言っていたし歓迎していた。
現実に浪江と小高の境界線辺りに原発が建てられる契約までしいた。十年後くらいを目指していた。小高は南相馬市と合併したのだからこれは大きな問題を見逃していた。大甕は小高に近接して桜井市長が住んでいてそこで問題になったのは産業廃棄物問題だった。原発を市長選挙で問題にしていなかった。
ともかく金になるならこういう現場で働く人達も危険も知らないから賛成なのである。ただ知識人の罪の方が大きいことは確かである。ブル-カラ-の人は設計者の命令に従い働く人達であり原子力を設計して安全だとする方により重い責任があからだ。だからこそ東電は社会を支配することまでできたのである。確かに南相馬市が合併するとき小高の原発建てることで契約していることを問題にして合併をしないということもありえた。小高だったら確実に南相馬市は20キロ圏内になる。そういう危険なものを南相馬市が容認することになったのである。今回の事故で原発は広範囲に被害を与えるのだからとても一地域の問題ではない、日本全国の問題でもあり実際はグロ-バルな問題であり一国ですら決められない重大なものだった。へたすると人類が滅亡するかもしれない危険なものだった。そういうことを先進国で決められるのかとなる。
原子力の技術で日本は遅れをとってはならないというとき、原子力の問題は世界的問題であることを示してる。経済的な面から遅れをとってはならないという面からだけ考えられているのも問題なのである。
オウムに集った人達と他の宗教団体は違っている。創価などはエリ-トではない、泥臭い人達が集まっているからむずかしい話しはしない、これも原発建つと金になるよくらいしかない、すべてが現世利益であれ貧乏な人達の集まりからはじまったからこれも拝めば金も入ってくる、商売も繁盛する、偉くもなれる,地位も得られる、政治家にもなれる。やがて日本を支配するようになれば会員は指導層の仲間、エリ-トの仲間になる。そういうことをたきつけている。他の宗教団体もにたりよったりだろう。会長は世界中から勲章を集めているのだからそれに習うのは当然である。それでなければそんなに宗教が大衆化するはずがない、人間の欲を肯定して一切禁欲などは説かない、ただ人数を集めて権益を要求するだけだとなる。でも集った人達は泥臭い庶民であっても目的はオウムともにていた。オウム王国、創価王国を作ることだった。結局人間の欲望は深くその欲望の達成のためには協力して徒党を組むということである。漁業でも漁業権がありそれで東電から相当な金をもらっていたのである。つまり原発には利権がかかわる、膨大な利権を生むものだった。だから国から官僚から学者から検察までも金を生むということで推進したのである。そもそもこの世の中は欲の世界である。聖書がこの世は「欲で滅びる」と書いてある。根本をたどれば人間の限りない欲につきあたる。人間の欲は物質的なうまいものを食いたいということから金持ちになりたい偉くなりたい・・・無限にある。
その欲を満たすのなら手段も選ばない、戦争も辞さないとなる。それは日本だけではない、世界の国がそうなっているのだから日本ばかり攻めることはできない、そういう欲望がぶつかりあい資源戦争でもしのぎをけずりあい、実際に戦争になっているのが現実である。原発もその人間の欲の象徴だった。 人間はそうしたこの世の欲を否定することが一番むずかしい、いくら車が交通事故を起こして危険だからと言っても一人一台もってその一台も減らすことができない、それと同じように便利なものを覚えたらそれをやめることができないのだ。その欲が危険なものも生みだす、原発を生み出したのである。
●批判がタブ-化される危険
オウム問題も一見小さな集団とみていたけど暴力組織であり恐ろしい集団だった。だからマスコミでも批判できなくなっていた。サリン製造機が隠されていた。いつのまにかタブ-化される間に危険なものが醸成されていた。その隠れ蓑にしたのが宗教だった。戦後は民主主義で宗教思想の自由が盛んに言われた結果、信教の自由を楯に危険なものが歯止めなく増殖した。
宗教弾圧だとなり立ち入ることもできないままに危険なものが増殖していた。そうしたタブ-化されるとそこにさらに危険なものが育まれてもとめることはできない、規制できなくなる。戦後雨後の竹の子のように増殖したカルト宗教団体もそうである。創価なども完全にタブ-化されて誰も批判できない、特に政治を動かすようになると特にそうなった。一切の批判は抑えられる。
それが今回の原発事故と何の関係あるのかというとやはり安全神話によって東電への批判がタブ-化されることとにていたのである。政府も一体となっているのだからこれももう批判はできない、検察も警察も東電の見方であり一体化していた。完全にタブ-化された存在でありその批判できないタブ-化されたなかで原発の危険性は全く語られなくなったのである。
一見民主主義に自由があるように見えてないのである。巨大化した組織集団はタブ-化される。巨大でないにしろオウムのような存在でもタブ-化される。その時すでに危険なものが隠されそれか遂に表に露出する。タブ-化されることは別にカルト宗教団体だけではない、医学界や検察界や権力を握る所に起きやすい、結局それも専門家集団のタブ-化ともいえる。カルト宗教団体は宗教の専門家としてカトリックのようにタブ-化して権力をもつ、官僚は官僚で政治家にはしりえない情報をもちタブ-化して政治家も立ち入ることはできない、なぜタブ-化するのかというと専門家集団にもはや素人とかは立ち入ることができない、誰も批判できないチェックできないからである。原子力の専門家集団に素人が何か言うこともできない、医学の専門家集団にも何も言うことはできない、法律の専門家集団にも何も言うことはできない、結局お前らは庶民には何もわからない、俺たちのみが知っていて俺たちの命令に従えばいいのだで終わりである。そういう過去の聖職者に変わって現代の聖職者となった専門家が支配する時代が現代だったのである。
でもそうして専門家集団がタブ-化したとき危険なものが醸成されて露出したのが原発事故だった。今になり原子力の専門家集団が事故への想定が甘かったというが外部からチェックする機能が失っていたのである。
要するに外部からチェックするにもチェックできない、タブ-化されたものは暴走して破滅してゆく。国家でもそのタブ-化したものをとめることはできない、何故なら東電の方が国より力が上であり制御できない、国というときこれもあいまいであり何が国なのかとなるとわかりにくい、国とは最大の権力をもつもののように見えてもそうでもない、権力を構成するものによって作られるとしたらトヨタや電力会社が国を指導するものとなる。カルト宗教団体でもオウムがオウム王国を夢見たように創価王国を作ることもできる。それが国になるのだ。ナチスもそうなった。国は別に公正なものとして何か変わらぬものとしてあるわけでもない、時の権力を握ったものが国の支配者になるだけである。だからオウムが国になりトヨタが東電か国になっても不思議はない、創価も国になっても不思議ではない、国は何なのかということ自体問われている。 だから管首相の人間そのものに問題あっても原発をなくすという判断をして解散することは正しいかもしれない、なぜなら誰が判断して決めるのか?それを決めるのは誰なのか?となるからだ。だからイタリアでは国民投票で決めた。日本では解散総選挙で決めるというのも一つの民主主義の手段である。民主主義社会だったらそういう結論になってしまうだろう。限界があるにしろその他に方法がないからだ。
専門家は神である
科学者、法律家、医学者、官僚、・・・は神にならぶものである
この人たちへの批判は一切許されない
あなたたちは何の能力もない、専門家に従うだけである
今回の原発事故はこういう文明を構成する支配者たちの崩壊だった。それは巨大津浪によってもたらされたのである。文明も自然の力で神の力で一撃で崩壊する、それをまざまざと見たのである。安全神話を作り上げた専門家たちはただ無力感に陥るだけだった。
そして「私たち科学者はもっと核のことを恐れるべきだった」と言って反省している。結局今回の津浪といい原発事故といい神への自然への畏れをなくした結果だったともいえる。自然界のことであり何であれわからないことがいろいろあり核でもそうだしそうしたものにタブ-に挑戦した結果として罰が与えられたのである。
科学者と専門家は神を装う現代の偶像だった。科学者でも医者でも神のごとき存在になっていた。法律家も法律という一般人は近づけなもので支配するから同じである。その偶像も津浪の一撃で倒された。人間は神と自然の前には無力なのである。自分たちは核を操れるということから慢心が生まれてそれが打ち砕かれたのである。要するに人間の築き上げた文明など神の一撃で崩壊する、偶像は倒される。人間は戦争でもそうだったように犯罪者集団だったのである。それは日本だけではない他の国も同じである。犯罪者集団から必ず神により罰せられるのである。ただこういう人達は罰せられないとその罪も自覚できない、専門家でも当然の地位でありそれに見合う待遇があってしかるべきであり何ら罪など責任も自覚しない、それが今回はその大きな責任と罪を自覚させられたのである。
そして人類自体が個々人であれ集団であれどこの国であれ犯罪集団である。地球は犯罪者の巣窟だった。だからこそ最後の審判が来る。個々人もそうだが集団もすべて神によって裁かれる。罪の総決算がくる。それが最後の審判である。過去に生き残ったのは方舟を作ったノアの子孫だけだった。神の系譜に連ならないものは滅びる運命にある。残ったのはノア一人だった。そういうことがありうる。全部総決算の日、最後の審判の日にそうなる。なぜなら人類とは犯罪者であり犯罪集団であった。それを罰するものはいない、検察も安全神話の戦争の加担者であり裁かれる方にあった。でも裁かれないから神が裁くのである。国も裁くことができない、人類も裁くことができないからこそ最後に神が裁く日が来るのである。このまま犯罪者を放置することはできない、神の我慢ももう限界に来ている。その兆候の一つが今回の大津波だったのである。
現代の聖職者(科学者)の権威の象徴の
原発は無惨に崩れさった
放射能の積もった瓦礫が散乱した
聖職者は今盛んに言われる
お前たちの責任だから
瓦礫を拾ってこい
放射能をたっぷりあびてこい
それがお前たち聖職者の仕事だ
お前たちの知識はもう何の役にもたたない
その権威の象徴はもろくも崩れさった
お前たちの権威はもう何もない
何の誉れもないし厚遇もない
ただ一労働者として瓦礫をかたづけてこい
それがお前たちの仕事だ