相馬焼の歴史(小林勇一)






芋の葉や大堀の里に畑仕事

窯元の軒を並べて秋日和

窯元や孟宗竹に柿なりぬ

晩菊や窯元古りぬ相馬焼



由緒ある場所は何かしら歴史を知らないつまらないものになる。大堀がなぜ相馬焼きの中心地になったかくらいの歴史を知らないと俳句などでもいい句はできないだろう。畑仕事している老婆がいた。ここは窯元と言っても農業もやっていた。そもそも農家が副業として焼き物をはじめたのだ。副業といえば農家の自給自足から様々な職業が生まれたのである。郷士とか・・・も侍と農業の兼業だったのである。公務員と農業をやっているのと同じである。味噌作りだって農家で作っていたし今でも自家用の味噌を作っている家がある。ただ焼き物は相馬藩で技術を輸入して独自の製法を産み出した。藩が主導して最初は藩の御用窯としてあり次に民衆の窯へと発展した。明治維新で特許争いが生じたのもそのためである。焼き物は藩主導で行われていたのが多かったのだ。その歴史を知ると大堀がいかにも民衆へと広まったことがこの土地に来て意識されたのだ。それが秋日和のなか畑仕事していた老婆だったのである。その後相馬焼きは他の藩のものとかが習いにくる場所になった。相馬焼きは意外と各地で知られていたのだ。

相馬焼は磐城焼ともよんでいるが田代五郎左衛門が起こした窯である。五郎左衛門は京都にゆき仁清について修行し仁清の清の字をもらい名を清治右衛門と改め慶応元年(1648)相馬の中村に窯を築いた。相馬焼に飛馬を描いたものが多いが狩野探幽の弟の自適斎尚信が藩主から頼まれて下絵を描いたのが起源である。

。磐城太田というのも古代国の磐城がありそれと原町の太田神社は相馬氏が移り本拠として祀った神社だから磐城太田という駅名にも歴史があるのだ。磐城太田から太田神社が近いのである。ここで面白いのは他から来た絵師が飛馬を描いたというから絵師というのも諸国を回り仕事していた。今日のように通信がない時代だから諸国を回る人が多かった。芸能人でも旅回りの役者が多かったからだ。

焼き物にはどこでも長い歴史がありその歴史とともにあるしその土地独自のものとして作られた。お土産というときまさにその土の産が陶器なのである。その流通にも興味深いものがある。伊万里焼が会津まで入ってきた。その径路は日本海をわたり阿賀野川 を運ばれてもたらされた。するとそこに会津商人がかかわったかもしれない、会津商人は長崎まで会津で作られた会津人参を運んだからだ。そして長崎に会津の商人が眠る墓があるのもそのためである。会津藩は大きいからそうなった。相馬ではこの相馬焼がかなり広範囲に流通した。他は全国規模で流通し知られたものはないだろう。



三河の常滑(常滑)の甕が関東へ入ってきた。その甕が欲しいということで東北でも甕を焼く工夫がなされた。わずかに甕を焼いていたのが相馬焼きなのです。技術的に劣っていたのです。
一方狭山で茶が作られるようになると茶壺は近江の信楽から宇治の茶をつめて江戸へ送ったのは信楽の茶壺だった。茶業が発達して茶壺がたりなくなり信楽の職人が関東へやってきて関東の土を見て歩き焼き物をはじめたのが笠間なのです。その笠間の職人が後に飯能へ移ってきます。それが飯能焼きになるのです。そして笠間にきた時に土の関係で相馬焼きの技術が取り入れられたのが益子焼きであり益子焼は新しいのです。
今度はは北へ移り仙台の堤焼きになりこれは厚手のものがおおく持ち運びに困った。次に本郷焼きになりこれは技術的に高い物だった。それから山形の平清水焼きになったのです。旅人たちの歴史3−宮本常一

これだけの技術の伝播がありその過程で独自のものが作られてきた。この陶器の歴史は奥深いしロマンあく歴史となっている。つまり歴史は受験勉強のように学ぶと面白くない、事実の羅列が歴史ではない、教科書的歴史は歴史の興味を失わせるのだ。伊万里焼をたとってゆくとこれはトルコの方までオランダにも輸出されたから世界的な広がりがあったのである。日本の技術が外国に取り入れられたし技術はいやおうなく国境を越えて伝播してゆくものでありとめることができない、江戸時代は藩で独り占めしようとしても明治維新で民衆に相馬焼きも製造販売が自由になったように経済は自由を求めて国境を越えて広がってゆくのだ。ここでまた興味深いのは土を求めて移動したということがある。陶器の制作者は土が大事だと言っていた。土を求めて放浪するということもあった。土はやはり陶器作りの基本だからいい土を求めるということになる。ともかくこれでわかるように相馬焼き東北では一番古いということがわかる。

陶器は地名をとって茄子川焼として世に知られた。特にその作風は奥州の相馬焼きに似ているため、一般に茄子川相馬と呼ばれたという

http://www.enasan-net.ne.jp/rekishi/nakasendo/03/p28-29.html

相良氏は、何度かの失敗の後、相馬(福島県)へ赴き、相馬焼きの製陶法を修得して地元に戻り米沢の成島にて窯を築き日用品の器を焼いた。(成島焼)

関連陶磁器は越州窯青磁(灰釉陶・緑釉陶)から日本に伝わった(平泉の繁栄は交通の発達にあった)

焼き物にはどこでも長い歴史がありその歴史とともにあるしその土地独自のものとして作られた。お土産というときまさにその土の産が陶器なのである。その流通にも興味深いものがある。伊万里焼が会津まで入ってきた。その径路は日本海をわたり阿賀野川を運ばれてもたらされた。するとそこに会津商人がかかわったかもしれない、会津商人は長崎まで会津で作られた会津人参を運んだからだ。そして長崎に会津の商人が眠る墓があるのもそのためである。会津藩は大きいからそうなった。相馬ではこの相馬焼きがかなり広範囲に流通した。他は全国規模で流通し知られたものはないだろう。野馬追いは能代の方まで広まった。同じような野馬を追うことを・・真澄が書いてあるからだ。




幸田露伴 「遊行雑記」の相馬の部を読む