相馬まで自転車で(5月5日)
この社には気づかなかった。近くでも気づかないものがあるのだ。これが何の神社かわからないが九曜の紋は北斗七星で妙見神社であり相馬藩の紋である。これは日本に広くあり祀られている。これるル−ツは中国でありさらに中近東までさかのぼる。星は砂漠や平原の遊牧民の文化から生まれたものだからである。
相馬藩の紋をあしらっているから相馬藩と関係しているのか良くわからないが社に紋があるのはそんなにない、ここは注目すべきである。
八沢浦の社
気づかざる社一つや余花ひそか
タンポポの綿毛飛びきてサイクル車
夏の海漁船と走るサイクル車
大橋を渡るや夏の海と山
菜の花や相馬に一つ道の駅
神苑の静かなるかも夕日さし相馬神社に八重桜散る
誰か棲むシャガの花にさす夕日かな相馬の城下の古りて静まる
相馬に自転車で行ってきた。海から回って行った。相馬市というのはなんか原町市とは違いもの淋しい感じがいつもする。城下町という雰囲気は何もないのだが細い道があり曲がりくねってあるのは城下町の名残りだろう。
敵をふせぐために城下町では細い町割りになった。しかしなぜ城のすぐ側なのに田町となっているのか?そこは田があったから田町なのだ。つまりそんなに広い城下町ではない、六万石だから侍屋敷というのはわずかでありあとは在郷給人が土地を与えられ農民の統制にあたらせた。800人もいたとういから藩士は少なく農家と侍が一緒になった中世的支配であった。だから野馬追いに出る人は農家から多いのだ。そこには武士としての身分があったから野馬追いに出る資格かあったのである。相馬市に城があったといってもかなり小さなものである。いづれにしろ地名というのはやはり当時の地形や町の状態を示す貴重な歴史的財産である。田町は通りを新しくしたがもう一つ活気がみられない、どうしてもス−パ−で買い物するから町中には活気がないのだ。ただ相馬市はなんか沈んだ感じになる。
それがまたいいという面もある。原町市には城もなかったし原町というごとく
雲雀が原というごとく原っぱが多かったのかもしれない、相馬市は古いが原町市は新しい街なのだ。いづれにしろ相馬神社前は中村神社でも静まりかえっている。それがあそこにはふさわしいともいえる。それぞれの町や村や市でも個性はあるが今の時代一様化して同じように見えるのだ。
今度道の駅というものができたがこれも余り買うものはない、おみやげはたいがい高くなる。そして意外とどこでもいいものはないのだ。道の駅としては曲がり屋風にいやあれは曲がり屋とは関係ないが落ち着いていい感じだがそれほど売るものは置いてない、なかなか売るものを作ることはむずかしいのだ。とにかくインタ−ネットのいい面は何度も言っているが常に体験したらすぐ書くことである。あとになっては書けなくなる。ライブ感覚で体験したことをとにかくホームページにアップすることなのだ。