小林勇一作
大坂城の花見客
花見客尽きず来たりぬ大阪城
夕日に映えて花は散りにき
やまず散りにき華やかに
ここに集まる人の波
我も交じりぬ
大阪城は一場の浪速の夢や
黄金の茶室に醍醐の花見
その夢は壮麗にして
一大の絵巻物
人々に花は映えて散りにき
ああ 花はやまず散りにき
信長の華麗なる安土城
秀吉の夢は狂気や
アジアへの遠征と制覇の夢
さにあらず日本のアジアへの夢は
その見果てぬ夢に数百万の命失う
秀吉の狂気の夢は歴史は続きぬ
秀吉の夢は一代に終わりて
堅実なる質素なる家康は国を治む
国を治むは家康に習うべしや
狂気の夢は真ならざるもの
多くのアジアの民はその夢に
狂気の夢に席巻されて苦しみぬ
ああ 大坂城は浪速の夢の城
真ならぬ壮大な夢の跡
一時万朶の花は咲き
一朝にして花は散りにき
花見の宴の後宴の後
徳川幕府三百年堅実に続きしも
秀吉は一代の壮麗な夢とついいぬ
その子も戦乱の炎に消え
戦国の女性の激しい執念は残るや
花咲く時にしばしまた一時現れて
昔の栄華を偲びてまた消えぬ
春爛漫青葉城
春爛漫幾度登る青葉城
山頂に今し花咲き満ちて
さえずる鳥に天翔ける鳥
眼下に広瀬川の瀬走る流れ
一望千里見晴らしてここに
雄図の船出は計られたり
しかし冬の時代は来たりて
携えし政宗の親書にバチカンの
ロ−マ法王謁見の成るも虚し
地下に葬られ圧政は続きぬ
そして今残されしは寄港せし
異国より手に入れし彫りも見事な
短剣、ロ−マの市民公認証など
ああ なお残雪にま白き峰や
みちのくの覇王は威を正して見つめ
残る石垣峻厳に英傑の夢ここにあり
大洋ははるけく開け春日照らしぬ
(その昔大洋渡る船のいず月浦淋し春の日の暮る)
雪残る白石城
堀の水清く流れて城下町の細道
静かなれや誰か棲む松に香る梅
石垣に雪の残りて白石城や
質実なる武士(もののふ)の跡こそ良しも
ここに自ずと人格は陶冶されしや
朝の残雪の蔵王を天主閣に望む
上田城跡
坂を上りて上田城跡
城の櫓の古りしかも
真田石残りてここに
大軍の徳川軍を追い払う
六文銭の旗印その誇り
大阪城の攻防にもはためけり
春の日に旅人訪ぬ
四方を山に囲みし
残雪の峰を仰ぎて
山椒と梅のにおうや
六文銭の旗印
意地と誇りに伝えける
今は仰ぐ天守もなし
小さきその城跡の堀
それが故に大軍の
徳川軍を追い払うは
誠に偉業なるかな
その誇りここに伝えぬ
春爛漫小田原城
小田原の城下に桜望む海
春の潮のひびきよせ
伊豆半島も弓なりに
丹沢の峰箱根の嶺険しく迫り
お堀に鯉の跳ねて
関東の覇者の城にあれ
東海道の随一の宿場町
堅固な城門なるも
今宵は春の月光り
遠来の客招き入れるべし
陸奥の老松
陸奥の城跡に老松よ
風雪に耐えたる老松よ
今もなお城を守りて立つ老松よ
晩秋の灯のともり旅人よ
この陸奥の老松にこそよれ
その老松の昔を語り
その言葉に偽りなきを
その老松により
耳側立てて残る虫の声聞く
城の美学
徹底的に無駄を省いた造型
簡素簡潔の極みの美
潔白の四面の白壁
忠誠の主君の天主閣
質実の土台の石垣
貧しさの中の無駄のない美
武士道の結晶の美
身を律して静粛なり
冬樹のように張りつめて
ここに自ずと人格は陶冶され
一本筋の通りぬ
城下町の細い道
身を引き締めて
侍の威を正し歩む
建築はただの建物ではない。物質ではない。確かにそこには精神が外に現れた具象化であり建築を見るとその時代が凝集して現れている。日本の城もそれは美を意図して作られたものではない。あくまでもその時代の実用のために戦いに備えるために効率を第一に造られたのである。美を意識して作られたわけではない。後の世にそれが美として認識することになった。日本の城は本当に寸分の無駄もない。貧しかったので無駄ができなかったのだ。それは茶室にも通じるものである。日本という狭い国土ではすべて無駄ができないのだ。ヨーロッパには無駄と思える贅沢な建築がある。装飾過剰と思えるバロック建築などである。ヨーロッパには日本にはない贅沢な建築がある。それはとりもなおさずヨーロッパには日本にない富の蓄積があったからだ。日本にはそうした富の蓄積がない故無駄を徹底的に省く建築が志向された。日本の城は大きい城より小さい城に本来の姿があるのかもしれない。地方の多くの城は小さい城だったからだ。とにかく侍はいなくなっても城は侍の精神の結晶として残り確かにその城から侍が出てくるのだ。
一方現代の建築の貧困は大きいばかりでそこに精神の表象化したものが感じられない。単に効率化でありビジネスと事務のための箱に過ぎず精神がない、ただ利益を追求するためのもので精神を感じられないのだ。建築からみると現代は貧困である。これほどの建物がひしめきあっているのにどれも個性もなく一様である。そこからでてくる人間もまた精神なきロボットのような画一化された人間と化す。現代の文明の問題は余りの精神の貧困なのである。マスコミは決してモラル鼓舞しない、大衆マスにこびるものしか提供しない。マスコミとはコマシャーリズムと一体でありモラルはそこにないのである。テレビとか商業出版にはそうしたものは期待できない、モラルは売れるもの金になる大衆にこびるものとは根本的に違うからである。ホームページは金をかけずに発表したりモラルを説くこともできるからコマーシャイズムとは違うものが出てくる可能性があるのだ。一人一人がテレビ局となる時代は何を意味するのか明らかにマスコミの崩壊でありコマーシャリズムの崩壊でもある。
ともかく建築と人間は不可分に存在していたのだ。建築は精神の象徴なのだ。イギリスのビッグベンはイギリスを象徴だしイスラムのモスクもそうだしエジプトのピラミッドも単なる石の堆積ではなく精神の表象なのだ。キリスト教の多くの建築もそうである。人間が万物の霊長という時自然もすべて精神の表象である。現代文明はこの精神の表象たるものがないのである。日々一喜一憂するのが株の上げ下げであり経済的なもの物質的なものだけであるからだ。現代の人間が精神を道徳を形成されないというのも当然ではないか、精神の表象たるもの日々接する建築に精神の作用がないからだ。
何故ルネサンスが起こったかというと古代の建築や精神の復興として起こった。つまり模範とすべき精神の土台となる古代が存在したのである。ここに古代の歴史の重要性があるのだ。過去と切り離して全く新しい創造などできないのである。文学においても絵画においてもみんなそうなのだ。現代の芸術が貧困なのはまったく現代だけの新しいものを創造しようとしているからだ。過去と切り離されて現代だけがあるからである。武士はいないし武士道は確かに死んだ。でも城は武士道を示す具象化された精神なのだ。城下町の魅力を今回再発見したのである。そして明治時代がなぜ偉大であったのか、それは以前として日本を指導する武士が庶民を導く、そのなかに武士道精神が引き継がれ生かされていた。
民主主義の実践といっても日本人には法を守るとか民主主義の歴史をもっていないのだ。ただ言葉だけの民主主義であり精神ではない。武士道は精神だが民主主義は精神でも道徳にもなっていない。ただそれぞれ自分の欲望を主張するためのもので数の論理が支配する規制のないものなのだ。モラルとは倫理とは自らを厳しく規制するものなのだ。城は如実にそれを示しているのだ。正に城と武士道は一体化したものなのだ。武士は絶えず身を律することを心がけた。ソクラテスが節制を心がけたごとく内面から律するものを持つこと心がけることが哲学であり宗教なのだ。それは苦しいというだけでなく喜びまるのだ。法はあくまでも外部から規制するもので宗教、哲学は内部から自律的に規制するものなのだ。