山陰の二つの石
その山陰の道は通る人は本当にまれだった。その道に二つの石があった。冷たい風がひゅ−ひゅ−その石に吹きつけた。辺りにはまだ雪が残っていました。二つの石は何かささやいていた。その声は普通の人には聞き取れない、ささやくような声だった。ここはいつもしんとして淋しい場所だった。何故なら山陰になっているから日がかげりやすいのだ。聞こえるのは清らかな流れの音と風の音だけだった。
「風がつめたいな」
「ああ 春はまだだな」
「う−ん また寒のもどりだ」
「しんぼうだよ」
「そうだな 桃栗三年、柿八年、実になるには時間がかかる
急いでも実らん、しんぼうがないと実らん」
「ああ こんなところで何の実りがあるかというがよ、神様はどんな場所でもそれなりの実りの場所として与えてくださっているんだ神様が作った所には無駄な場所はないはずなんだよ」
「そうだよな、不満を言ってもどうにもならんよ、しんぼうが大事なんだよ、しんぼうすればいつか花も咲き実もみのる」
「う−ん 俺達はもうここをどれだけの歳月ここを動かないでいるか、それをつまらんと自由に飛ぶカケスが言っていたけどな、動かないでもここはいいところだな」
「う−ん 何より静かなことがいいな、今の世の中騒々しすぎる」「そうだな、ここの静けさは乱されたくない」
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ここで話はしばしとぎれてまた二つの石は黙ってしまいました。風はまたひゅ−ひゅ−と吹きつけ辺りには人影もありません。石は確かに黙ることが得意です。神様から黙ること沈黙することを言いつけられたようにその長−い長−い歳月をほとんど沈黙していたのです。こうしてまたささやくように聞き取れないような声で二つの石は話始めました。
「大事なことは口をつぐむことだ、無駄なことをぺらぺらしゃべってはならん」
「ああ 人間はしゃべりすぎるんだ、口から生れたようにしゃべりすぎるんだ」
「ああ 口は一番の災いの元だ、口をつつしむこと沈黙することは実にいいことなのだ それだけでこの世は平和になるんだ 」
「まったく 人間がくるとうるさいんだよな 人間がしゃべると空気さえ汚れるんだよ」
「う−ん まったくだ ここにさえづる小鳥の声は美しくひびく、ここにはそれしか聞こえてこない、なぜか俺達はかたく口を閉ざして沈黙しているからその小鳥の声も一段と美しく聞こえるんだ、人間が来たら騒々しくて小鳥の声もだいなしだ」
「ああ まったくだ 山でも木でもみな沈黙している 人間だけだ、あんなに騒々しいのはな」
「口をつつしむ 黙ることは偉いことなんだ 無駄なことを言わないから賢くなり偉くなるんだ 馬鹿でも黙っていると偉そうに見えるようにな これが簡単なようでむずかしいんだ」
「ああ 人間で嘘つかない人がいないように 嘘つかないで沈黙していたらその人は聖者だ」
「そうだ 俺達はいつも口をつぐみ不満や愚痴も言わない、嘘もつかないから聖者だ というよりは沈黙の修行者だ
」
しんぼうの木に花が咲き実がみのる
しんぼうのあとに喜びがくる
しんぼうするのは日々のつとめ
それぞれしんぼうして花が咲き実がみのる
こうしてまた二つの石は黙ってしまいました。その山道を今日通ったのは二人だけでした。この山に住んでいる人でした。あとそこに聞こえるのは清らかな流れの音と風の音と小鳥の鳴く声だけでした。そしてまたささやく声がしました。湖小手は大きな声をあげることははばかられるようにささやくことしかできないように静かな所だったのです。
「しんぼうだよ、まもなく春はくる、しんぼうしたらいつか実りもある」
「ああ しんぼうだ、しんぼうがなければ何もならん 災いはしんぼうしないから起こるんだ しんぼうすればいつか開ける道もだいしにしてしまうんだ 災いはみんなしんぼうしないからだ」
「一年くらいで金持ちになれるか、偉くなれるか、何物かになれるか とうてい無理だよ」
「ああ 俺達はどれくらいここに黙る修行しているか それを考えてみろ」
「まったく しんぼうせずに実る物はねえよな 一攫千金などこの世にはねえ ここに金を求めてきてもなにもねえがな」
「清らかな水の流れの音、小鳥の歌、そして春には花が咲く・・・」「それで十分だな」
「でもここにも自動車通るようになるんだってよ」
「ああ もう工事はじまったよ」
「ここもうるさくなるのか 自動車はいやだよ」
「あれは便利な物だがどこでも沈黙を壊してしまうんだ」
「ここの沈黙も壊されるのか 人間はどなんところにも所かまわず騒音をふりまき神聖な世界を壊してしまうんだ」
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その二つの石には冬の薄い午後の日がさし人影もよらずまた黙ってしまいました。春も近く一時あたたかい風が吹くことがありましたがこの山陰の道はかなり高い所にあり寒いのでした。さえ返る月が山に光っていました。
それからようやく春がやってきました。その二つの石のかたわらにはまるで残雪のようなキクザキイチゲの白い花がよりそうように咲いていました。二つの石は幸福そうにやはり黙っていました。すると盛んに小鳥がその石にとまり春の歌を声の限り歌いはじめました。石は気持ちよさそうにその歌に耳を傾けていました。清らかな流れも気持ちよくひびいていました。
そして真っ白にコブシの花が咲き風にゆれていました。その花やがてはその二つの石のところに散るのでした。二つの石は沈黙して花をながめ小鳥の声を聞き清らかな流の水の音を聞き黙っているのでした。沈黙しているから花も一段と美しく小鳥の声も美しく聞こえるのでした。ここは神の棲む場だから乱してはいけないのでした。人間は余りにも神の棲む場を乱して汚してしまったのです。いづれ神の怒りはきます。神聖な場を汚しつづけてきた人間は神聖な場から追放されるのです。この石には神が座りここは神が歩み通る神聖な場所だったのです。
ここに変わらず
声もなく
まことの契りを
交わすごとく
ここにありしを
残る雪
清らかにして
さえずりの音に
ひびく流れや
また訪ねきて
心鎮まる
この山蔭に
世の喧騒を知らず
声をひそめて
また暮れぬ