相馬の製鉄遺跡群(飯村均)を読んで(小林勇一)
(南相馬市の金沢製鉄遺跡の土器にあった「今」の陰刻の謎)

●今来は渡来人の神−平野神社の由来

今木神の今木は今来のことで、渡来人を意味する。平城京時代に田村後宮にあった今木大神は高野新笠と山部親王が祭祀していたことが判明している。

大枝陵は高野新笠の御陵のことです。高野新笠の父は百済の武寧王の後裔と伝えられる和乙継,母は土師真妹といわれています。高野新笠は光仁天皇夫人で,桓武天皇や早良親王の母です。789年没。790年に皇太后,806年に太皇太后を追贈されました

延暦13年(794年)、桓武天皇による平安京遷都にともない、
平城京で祀られていた
今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。
元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀られるようになったものである。
『文徳天皇実録』によれば、仁寿元年(851年)、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。
源氏、平氏、大江氏、菅原氏などの公家の氏神にもなった。

早良親王を祀る崇道神社が、この地に建てられた時期は不明である。また、なぜこの地に建てられたのか、そのいきさつもはっきりしていない。ただ、祟道神社は高野神社と呼ばれていた時期があったらしい。そうであれば、桓武天皇や早良親王の母である高野新笠(たかのにいがさ)に関係があるかもしれない。近くを流れる川は高野川であり、神社のある町名は現在も上高野(かみたかの)である。

平安京が作られた頃に建てられた神社とされます。御祭神は主祭神の今木神
(いまきがみ)と、対になる久度神(くどがみ)、久度神と常に並んで扱わ
れる古開神(ふるあきがみ)、そして後に加わった
比羊()神(ひめがみ)
の四柱になっています。

今木とは「今来」で新しい渡来氏族の神。奈良県に今来郡があったように百済系の氏神様、久度神はそれより少し古いやはり百済系の氏神様であろうと推定されます。古開神は名前
からしてその祖神と考えられ、比羊神はこの神社に関わる高野新笠(桓武天皇の生母)を祭ったものではないかともいわれています。新笠の父は和乙継という百済系の渡来人でしたので、そもそもこの神社の御祭神はその新笠の祖先神を祀ったものなのでしょう。

 桓武天皇の母・高野新笠の諡号は
「天高知日之子姫尊」。新笠の遠祖は百済の都慕王;とぼおう。この王は川の神の女が日精に感じて産める御子という。新笠の諡号は都慕王の伝承に依る。京・上高野では新笠をこの地の出という。その由をもって、上高野の人は、祖先を百済人とする。

京都市内の西、旧山陰街道沿いの大枝(おおえ)の集落には、史跡がたくさん残っています。桓武天皇の夫人・藤原旅子の宇波多陵、母・高野新笠の大江陵、児子神社、大枝神社があります。


今来は平城宮にあり渡来人の神だった。今と書かれたものは今来としか考えられないのだ。そして高野郷というのが白河郡にあり磐城郡に和郷があるのは明らかに高野新笠の人名が郷名化したのである。人名が郷名化したものが古代にはかなり多い。人名は一族の姓である。大伴氏は平城宮の万葉時代からでありそのあとに小野、高野、大江・・も人名なのである。
そもそも高野という名字は渡来人と日本人の合成した姓だった。本来は高(タカ)の一字が姓でありそれに日本語の野が合体したのである。金や星は渡来系でありこれに金田とか星田をつけると日本名になり朴も明確に韓国名であり朴沢となると日本名になる。タカとは非常に古い渡来系の言葉であり高と接頭語につく言葉が非常に多いのだ。多賀もタカであり高萩でも高が基であり高は高麗のことであり高句麗のことだというのもわかる。

栃木県南部でタカアシを(高足=竹馬)をタカハシというのと同じくa-haで高来(タカギ)がタカアギからタカハギに転じた−

高萩には駒形山弥勒寺があったしここを中心とした一体を高麗原(こまはら)と称していた。(常陸国風土記と古代地名−鈴木健)


遠妻し にありせば知らずとも 手綱の浜の尋ね来なまし

万葉集では高萩ではない高の一字であり萩は明らかにあとからつけられたのである。高麗原があれば草原(かやはら)はかや原−カヤ(伽耶)の国の原でも不自然ではないのだ。草原は萱が繁っている原でないことは明らかである。小さな地域でも高麗原となる、そこに渡来人の高麗の人が住んだからである。駒ヶ峰なども渡来人が名づけたとなると古代からの地名になる。駒も馬ではなく高麗が起源になっていたのである。



●真野明神の祭る草野姫(かやのひめ)の謎

比羊神はこの神社に関わる高野新笠(桓武皇の生母)を祭ったものではないかともいわれています。新笠の父は和乙継という百済系の渡来人でしたので、そもそもこの神社の御祭神はその新笠の祖先神を祀ったものなのでしょう。

比羊(ひめ)神は姫神にもなる。なぜ真野明神に草野姫を祀っているのか?草野もカヤと野が合体したものであり比羊(ひめ)=姫となる。高野新笠の諡号は「天高知日之子姫尊」でありここに高と姫がでてくる。草野姫というのもここに関連づけすることもできる。笠とつくのは渡来系である。

此地(ここ)は韓国に向ひ 笠紗(かささ)の御前(みさき)にま来通りて朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地(ここ)ぞいと吉き地(ところ)

ニニギは「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真っ直ぐに道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。


加佐は韓国に地名が多いことは驚きである。これを調べた人がいた。(兵庫の地名、落合信彦)



笠はかぶる笠とは何の関係もない、この加佐からきていたのだ。

真野の草原とは金銅双魚杯が発見された古墳のすぐ近くの地点が草原なのだろうか?。ではそこが笠女郎が面影に見るほどに美しい地域だったのか?確かに見晴らしがいい、真野川も一望できる。でも一方で真野の入江というのもありここも草原だということもいえる。真野郷の中にどちらも入っている。面影に見るほどに美しいとなると真野の入江になるかもしれないが草野姫神社が祀られているとなるとそこが草原の地点だったとなる。真野郷という地域は郡からすれは狭い地域でありさらに狭い一地点が草原なのだ。そういう狭い一地点が特別な地域、面影に見るほどになったのか?これが最大の謎なのである。高野新笠に関係した真野となると平安京であり陸奥の真野が歌われたのは平城宮で古いというのも時代的に合わないとなる。平安京時代に歌われたものなら納得がいくが平城宮時代の古い時代になぜいち早く陸奥の真野が知られたのかが明確にならない。それでも高野新笠関係が資料として文書として残されたものと一致してくる。磐城郡に和郷とあるのも高野新笠の明確な系統になっている。大江郷というのも高野新笠系統であり祖先を同じくしている。これは川のことではなく人名である。高野新笠が大江という地に移り大江という姓になったのだから高野=大江(大枝)なのである。和とか高野新笠と名づけられた郷名は古く大江は新しいとなる。これは別々のものではない高野新笠と同じなのである。郷名の新旧もあったのだ。

●渡来系製鉄集団の移動

平城宮から平安京時代まで蝦夷への進攻はつづいていてそれは国家指導の大がかりなものでありその最終の拠点となったのが多賀城だった。時代的に笠女郎が歌にしたのが750年頃だとすると真野郷が奈良に知られたのは早すぎる感じがする。本格的には平安京になってから金沢での製鉄事業が最盛期を迎えたからである。ただ平城宮時代にすでに今来神がありそれが平安京に移動したのだからその由来は平城宮から始まりすでに百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく, 697年 - 766年)は日本に亡命した百済王族の子孫であり749年陸奥守在任時に陸奥国の小田郡から黄金が発見されたことで知られる。百済系統の一群の人々が連続して氏神を祀り伝えたのかもしれない、ともかく渡来系統が深くかかわって陸奥真野の草原もあったのだ。おそらく真吹郷というのが他にない特殊なものだからここが特別鉄の生産場となったので郷名となった。そして環境が破壊されるほど鉄作りが金沢地域から拡散したということでも真野郷が一大鉄の生産場となったのである。仏教の梵鐘、羽釜などの仏具がここで生産されたのも唐神という地名が唐(韓)の神−仏だからこの地名も古代のものなのである。陸奥の真野の草原とは渡来人の技術者が中心になって製鉄事業にたずさわった一地点だというのが有力である。真野郷の中でも鉄のとれる場所は限られているからそこが特別な地点となった。

この製鉄技術は滋賀県の野路小野山遺跡などに類似してさらに北九州の福岡県の元岡遺跡などを経由して朝鮮半島の南部に求められ百済、高句麗の滅亡により技術者の渡来が関係していると推測される。(律令国家の対蝦夷政策)

百済−高句麗の渡来人の一群が太平洋沿いに移動して製鉄事業にたづさわった。それも官営だから大規模に組織的になったのである。滋賀県の野路小野山が関係するとなると小野山は小野氏と関係してそこですでに鉄の採掘が行われた。小野真野という人がいて国司として下総に派遣されている 「今」「常」「下今」という字の発見も常→常陸であり下今は下総の今来となる。今来の神がそこに祀られたのかもしれない、平野神社の祭神と同じなのである。平野神社の近くに宇田川というのもあり行方郡があり宇多郡と関係しているかもしれない、地名は移動しやすいからである。南相馬市の原町区の泉廃寺跡に運河があり「津」の施設が発見されたとあるのは大船迫−船沢という地名がり船の入る入江があった。低地になっている部分は入江になっていたのだ。そこに船が入ってきたから船の地名がついた。太平洋岸沿いに渡来系の技術者が移動したことは船も利用した、船で百済からカヤから渡ってきたとすると船の技術ももっていたからである。なぜ船や馬を描いた装飾古墳が茨城や福島県に多いのかというとこれも渡来系の技術者集団が馬を操り船を操る集団だったからだとなる。装飾古墳は年代的に古いから平城宮−奈良時代に陸奥の地域に侵入していたのである。前に考察した白人と記された人も渡来人だった。渡来人の技術者集団を先頭にして蝦夷への移住が征服が行われたのだ。


高野新笠系統の古代郷名の謎



今来とありここに茅原とあるが草原ともなり単なる、茅が繁っている原とも違うのではないか?いつ名づけられたかわからないが伽耶(かや)の当て字かもしれない、茅に原がつく地名は茅が繁っているのとは違っている。萱場とかあるがこれは萱をとる場所である。原はあまりつかない地名なのである。