嵯峨野の寺
嵯峨野なる
とある寺かな
雨しとど
我が雨宿りしぬ
その門に
天皇の菊の門
この寺の古りぬ
晩秋の京の日
紅葉はしとど
雨に濡るるも
ゆかしきものの
ここに眠るかも
京都詩集-嵯峨野の寺-小林勇一
檀林皇后の寺
大和の南西部を中心として蟠踞した諸豪族がいる。葛城、平群、蘇我、許勢、羽多、紀などである。田口氏もそうした豪族の一つで、大和国高市郡田口(現在の吉野郡大淀町田口)に住んで「田口氏」を称したが、奈良時代の初め頃、田口益人の時、河内国山田郷に移ったものと云われている。檀林皇后を生んだ田口氏の女と云うのは、この益人の娘もしくは孫娘であろうか。枚方市域にある「田の口」という地名は、この田口氏の居住地であることによって名付けられたのだ。
奈良から大阪に移住した一族が田口氏でありそれが嵯峨天皇の寵愛を受ける檀林皇后(橘嘉智子)になった。田の口は氏族の移住名だった。これはよくあることであり混同すやすいのだ。ここで奈良から大阪へ京都へ歴史が拡大してゆくのが系図をたどりわかる。奈良から京都や大阪へ都が移される過程が良くわからない、地理がわからないから何か具体的に想像できないのだ。ここでは具体的に土地からわかってくる。枚方市には淀川が流れている。
枚方市の枚方は淀川とともに栄えてきたまちで、船とは深いつながりがあります。かたかなの「ヒ」「ラ」と漢字の「方」を組み合わせて、三十石船を型どっています。
ここから大阪まで舟で通じていたことがわからない、大阪は大きいからわからないのだ。かえってこうしてインタ-ネットでバ-チャルな旅をしているとわかりやすい。川というのは必ず上流があるものだが川をたどる旅をしていないからわからないのだ。電車とか自動車は昔の歴史をたどるには向いていない、川というのがヨ-ロッパでも交通の要になっていたように大阪でも江戸でもそうだった。川に関しても道でも歴史をたどることが今はむずかしい、特に都会はビルと自動車に埋もれてしまったから余計にわからなくなっている。川の交通の重要性が埋没しているのだ。芭蕉の句の「川上とこの川下や月の友 」こうした生活実感がわからなくなっている。川の上と下は生活で密接につながっていたのだ。文明がナイルとかチグリスユ-フラテスなどから生まれたように川は最初の交通路であった。アイヌはまた違うが川を遡ることが生活の基本であり川は下るものではない遡るものだから川の口は川の尻と名づけた。口ではないのだ。日本の川は大陸と違い細く短いのだが舟がそれなりに利用されていた。その歴史が文明化のなかで忘れられてしまったのだ。つくづく地理はわからない、旅しても今は地理がわからないから歴史もわからないのだ。電車の旅は歴史的塵を全く無視しているからだ。二本松に行くのに岩沼から電車で行くが昔はそんなことありえないと同じであり実にありえざる行路をとるからわからないのである。淀川を舟でずっとさかのぼればなるほどなとなるがそれがないから全くわからなくなる。バ-チャルな旅の方が昔をたどれるという不思議である。
言繁(ことしげ)ししばしは立てれ宵の間におけらん露はいでてはらはむ(後撰1080)
【通釈】人の噂が煩わしく存じます。しばらく曹司に入らず外でお立ちになってお待ち下さい。宵の間に御衣に置いた露は、私が後ほど出てお払い致しましょう。
【補記】立后する以前、女御たちが嫉妬して煩く噂することを厭い、みかど(嵯峨天皇)のお忍びの訪問を謝絶した際の歌。
これは源氏物語の藤壺の巻にでてくるのと同じである。誰かが常に見ていたしねたみは宮廷には満ちていたし権力争いもあった。だから源氏物語はそうした実在の人をモデルにしたのだ。
みかどに奉り給ひける
うつろはぬ心の深くありければここらちる花春にあへるごと(後撰1156)
【通釈】帝はたやすく移らないお心をしっかりお持ちでいらっしゃいますので、ひどく花の散るような私でも、春の盛りに逢ったかのような思いでおります。
嵯峨天皇御寵愛の妃にあれや
みちのくの我は知らじも
その女の眠れる嵯峨や
その寺の門に我はしばしありて
今その物語を偲べばあわれ
古の日のここにかさなりつ
嵯峨野の雨にぬれたる紅葉を踏みつ
我は遠きみちのくに帰るかな