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九州の旅から小林勇一


@遠の朝廷−春の都府楼(太宰府)跡




遠の朝廷−春の都府楼(太宰府)跡



天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも
阿倍仲麻呂

遣唐使の三笠の山の月の望郷にたくしたときから確かに唐ははるかに遠く海は危険だった。しかしその前に中国は韓半島経由で身近であった。この三笠の山は九州の三笠であり奈良ではないという説もある。九州と奈良の地名に同一の地名がかなりある。九州から地名の移動があったのか、九州王朝説、邪馬台国論争は尽きないのも有力な物証がそれなりにあり魏志倭人伝の史書も裏付けしているからである。

草枕 旅を苦しみ 恋ひ 居 ( を ) れば 可也 ( かや ) の山辺に さを鹿鳴くも

可也−伽耶山があるとき伽耶から移住した人々がここに住んだことは明確である。それは単なる伝説ではない、明確な移住の証として残した記録である。九州は韓半島を通じて海が障害となっても堅く結ばれていた。一本の通路であった。中国の長安はさらにはるかであるが船も遭難したとしてもすでに海を通じてその絆は結ばれていた。日本に帰れず無念を残して死んだとしてもすでに唐と日本の結びつきは紐帯は歴史に深く織り込まれていた。

遠江 白羽の磯と 贄の浦とあいてしあれば 言も通わね 万葉集巻20-4324

この歌のごとく人間は海であれ山であれ障壁となるものがあって言は心は通わないと嘆くのはわかる。交通が発達しない古代では特にそうである。交通が発達すればこういうことは感じないのだ。外国だって飛行機ですぐに行けるからである。これはそうした交通の発達しない時の切実な願いがこの歌を作らせた。しかしこのように離れた地を結び付けるまでもなく人の心は通いはじめる。それが歴史なのである。確かにはるかかなたの唐の国から海を望み日本を偲んで帰れぬ人となったとしてもその時からすでに心は文化は通じ合うものとなっいたのが歴史である。離れた場所をあわせることはできないのは確かであるが心は文化を伝い通じ合うのが人間の歴史だった。

九州は遣唐使の時代から唐の国からの風、伽耶や百済や新羅からの風、そしてオランダからヨ−ロッパの風が吹いてきた。そこに濃厚な想像ではないエキゾシムの文化が貯えられた。みちのくにも確かに伽耶や百済や新羅からのちには宋などから平泉へほんの一部の文化が物としてもたらされたがそれはほんの一部にすぎなかった。韓半島でも唐でも宋でも靺鞨でも遠い異国であり幻として浮かぶ国である。しかし九州では博多では人との具体的な交流もあり貿易もありその結びつきは現実なのである。海は隔てるものではない、一本の明確な交通路として海がある。シルクロ−ドの砂漠にしても一本の通路として西と東を結ぶものとしてあった。海に砂漠にさえぎられたとしても西と東は一本の通路として歴史的に結ばれていたのである。言は文化は通う道となっていたのだ。
万葉集にしても梅を歌ったが梅は唐からもたらされたものであり太宰府の梅花の宴の歌があるように異国の花でありその花の香り、文化に酔っていたのである。その後も博多は外国の文化の窓口となった。

しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ 沙弥満誓

これは新羅から入った綿だとか筑紫には韓半島を通じて物産が入ってきたし生産もされていたのだ。この人は位が高くてもこの綿を着れなかったのだから相当な高級品だったのだ。

白梅や墨芳しき鴻臚館  蕪村

梅の香りが紙に書かれた墨に匂う、それは具体的な貿易としての実りを示した一句だった。蕪村は詩的空想ではない、実際に農民となり商人となり貿易商となり遊興人となり隠者となり官吏となったように句を作っている不思議さがある。芭蕉は聖人のような俳句の求道者だったが蕪村は俗に交じり世情にも通じている多面的な人間でありそこが魅力となっているし謎が多すぎるのである。鴻臚館は難波(大阪)・平安京(京都)にもあったが福岡が一番ふさわしい。一番古いのは博多の鴻臚館 でありそこには唐や宋や古代の韓半島の風が吹き現実に物がもたらされた地域だかである。





春の山礎石大きく都府楼跡

若草や都府楼跡の礎石かな

都府楼跡礎石いくつも春の雨




鶯や都府楼跡の礎石踏み休みて長き日を過ごすかな

いつしかに歳月流る春の日や都府楼にみちのくの人

春日さし礎石のみかな我が歩み遠の朝廷の跡慕うかな

都府楼の礎石踏みつつ春の日や観世音寺にも我が寄りしかな

伽耶国の幻さまよう大和なれその跡と訪いて春の日暮れぬ