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子規の鶏頭の句について(デジカメと俳句は相性がいい)小林勇一

●鶏頭の十四五本もありぬべし(子規)

誠実の証しや鶏頭五六本

鶏頭の赤さを増して十数本


この句に対して書いたものだがこれもふりかえると俳句としていいかどうかは疑問になった。俳句を今日の一首一句で作りつづけてわかったことはこの子規の鶏頭の句がいい悪いではなく芸術的価値があるかどうかではなく写生の最大の問題提起の句になったことがわかったのである。この句に芸術的価値があるかどうかは問題ではない、写生というものを進めてゆくと極端であるがこうなることがありうることなのだ。写生だから花が何輪咲いているとか、樹が何本立っているとか家が何軒あるとか石が何個あるとか数が必ず問題になってくる。実際数によって印象がかなり違ってくる。私も薔薇の句で作った様に一輪の薔薇と三輪の薔薇と五輪の薔薇と十輪の薔薇は印象が違ったものになる。一輪は淋しいし十輪は華やかに感じるのである。その数の写生によってその花の雰囲気を示しているのだ。だから子規が十四五本という数にこだわったことがわかったのである。一輪だから淋しいとか十輪咲いているから華やかだとかなるべく形容詞を入れず写生によってその物を示すのが写生の真髄である。だから見たままを俳句にすることが最も大事な俳句の基本である。三輪しか薔薇が咲いていないのにわざと薔薇を多く咲いているように作るのは良くないのだ。写生というのに子規がどうしてこだわったのか?おそらく西洋芸術で写真とか絵を見たからかもしれない、西洋絵画では見たままを写真のように描く絵が多かったからである。そこから俳句も写生だとなってのかもしれない、そもそも詩を書くとき写生するとつまらないから空想的にそこにありもしないものを誇大化したり過剰に装飾したりして描くのが詩を作る人には多い、詩の場合は字数が制限されていないから空想的に作るのが多い、そこに感情的なものも過剰なくらいに書くことができる。俳句は字数が極めて制限されているのだから詩のように作ることはできないのだ。だから常にありのままを写してそれを簡潔な言葉にすることが必要になってくるのだ。simple is bestにする必要がでてくる。これは茶室にも通じる極めて日本的芸術の結晶化したものなのである。極力無駄を省くことが要求されるのである。

●デジカメと俳句は相性がいい

薊を例にすると



のびのびと十輪ほどの薊かな

十数本薊鮮やか野に映えぬ

秋風に農婦目立たず花薊
(
野良に出る農婦目立たず秋薊)

秋風や残る薊の十数輪

稲刈られ鴉三羽に薊かな




薊というと夏の季語だがデジカメで何となく写真にとったとき、とった写真に触発されてそれに句をそえたのである。写真が先ということは写真の眼の方がより写生に忠実だったのである。人間の眼は良く見ていない、人間は見るべきものを良く見ていない、見過ごすことがいくらでもしるというのが人間である。人間は目立つことに常に注目する。何か頭の中で目立つものが脳裏に反射して記憶になるのである。ニュ-スにしてもそうである。テレビで取り上げ騒ぐものは注目され万民に記録されるが他にもニュ-スがあっても取り上げないものは目立たないから多数のものはそんな事件があったことさえ知ることさえできないのである。これと同じように人間の眼も写生には向いていなかったのだ。デジカメの方が写生に向いている、忠実なのである。



この写真で気づいてのは一枚の落葉があったことなのだ。薊を見ていたのだがこの一枚の落葉に気づいていなかった。これはデジカメでとったものあとから見て気づいたのだ。つまり薊というのが十輪くらい咲いていたので注目したのだがこの枯葉一枚に気づいていなかったのだ。だから身近なものでもデジカメでとってそれを良く見ることは写生の訓練になるのだ。子規は写生のために対象物を絵に描いていた。今は即座に写真にとる必要がある。それをあとで見て句作することもかなり有効である。薊は秋薊とか秋の季語としてもあったが秋になると薊も枯れてくるからあえて秋薊という季語は使わず野に残る薊としたのである。

よく見れば枯葉一枚に薊かな

良く見ればナヅナ花咲く垣根かな(芭蕉)これも良く見ていたらああ、ナヅナが咲いているなと気づいたのである。人間はその身近なものを常に見過ごしているのだ。貴重なものを見過ごしている。デシガメに関しては大きな景色は向いていない、細かい細部をとるのにデジカメは向いているのだ。細かいものは見過ごしやすいからだ。なづなはペンペン草のことだからそした野花に余り注目する人がいない、それをあえて句にしたのだろう。
ともかく子規が言っているように「空想より得たる句は最美ならざれば最拙なり」というように一見いいようで俳句的にはつまらないものとなっている。空想的とかあとで作るのは詩の方が向いているのである。写生は青年でもできるが青年の場合、誇張したり空想的になりやすいのだ。写生という地味なことより大言壮語的になるからだめなのである。物の真髄、美の真髄は意外とシンプルな平凡な日常的なものにありそこに普遍的な人間の真理もある。奇を求めることはないのである。平凡な生活にも詩も俳句もある。ただ結局デジカメでとった写真を見て気づいたように人間は良く見ていない、観察していないのだ。俳句でも短歌でも天才でなくてもこの写生に励んで数をふやしていけばそれなりのものができてくる。私の場合も青年時代は俳句でも短歌でもうまく作れない、才能がないといえばそれまでだがやはり積み重ねていけばそれなりのものになるのが人間である。写生がなぜ大事がというと写生は地味なようで長続きする。そのせいかどうか最近は短歌は余り作っていない、短歌は感情的感傷的になりやすいから写生的でなくなるから写生に向いているのは俳句なのである。写生はだからデジカメで写真にとるようにその細部にこだわり日本人に向いているものなのだ。デジカメによって俳句が盛んになることはありうる。これだけ写真を簡単に出せるというのも俳句を興隆させることになる。デジカメと俳句というのが相性がいいのである。絵が描けなくてもデジカメは簡単にとれるからいいのだ。何枚でもとって見比べるのもいい、そこからいいのを選び俳句にするのもいいしその写真をじっくり鑑賞するのもいいのである。

花の写真と俳句
http://www.geocities.co.jp/Milkyway/7108/index.html

このサイトは写真は一級品なのだがそれにそえた俳句は五流品になっている。「誇るごと十月桜空に澄む」誇るごとというのがすべてを台無しにしたのである。こういう俳句が意外と多いのだ。ここは写真だけで物足りないから添え書きのように入れただけの感じである。「二輪ほど十月桜や空澄みぬ」とかにする。二輪というのが写生でありそれだけでも俳句になりうるのだ。結局写生の訓練をしていないからただ説明のようになってしまっている。説明と写生はまた違っているのだ。ともかく写生は誰ででもできるからこれを訓練する必要がある。写真がこれほどうまくとれるならそれに準じて俳句もいいものができるのが写生なのである。


●反省点

ここの薊の句は写生にしても良くなかった。文章は良かったのだが俳句自体は良くなかった。というのは薊は夏の季語であり季語が二つ入っていて俳句になっていなかった。プログの方が秋薊とかでずいぶん作ったからそっちの方が薊の俳句としては良かったのでプログの方で再検討してください。俳句などもあとから自分の作ったものを再読すると自分でもつまらないものとわかることがある。やはり時間がたってより客観的になるからである。自分に対しても客観的評価ができるからだ。

今日のの一句一首

http://musubu.sblo.jp

テジカメは写生俳句の必需品 (インタ−ネットで解放された知の世界)

http://musubu.sblo.jp/article/6717810.html