この句に対して書いたものだがこれもふりかえると俳句としていいかどうかは疑問になった。俳句を今日の一首一句で作りつづけてわかったことはこの子規の鶏頭の句がいい悪いではなく芸術的価値があるかどうかではなく写生の最大の問題提起の句になったことがわかったのである。この句に芸術的価値があるかどうかは問題ではない、写生というものを進めてゆくと極端であるがこうなることがありうることなのだ。写生だから花が何輪咲いているとか、樹が何本立っているとか家が何軒あるとか石が何個あるとか数が必ず問題になってくる。実際数によって印象がかなり違ってくる。私も薔薇の句で作った様に一輪の薔薇と三輪の薔薇と五輪の薔薇と十輪の薔薇は印象が違ったものになる。一輪は淋しいし十輪は華やかに感じるのである。その数の写生によってその花の雰囲気を示しているのだ。だから子規が十四五本という数にこだわったことがわかったのである。一輪だから淋しいとか十輪咲いているから華やかだとかなるべく形容詞を入れず写生によってその物を示すのが写生の真髄である。だから見たままを俳句にすることが最も大事な俳句の基本である。三輪しか薔薇が咲いていないのにわざと薔薇を多く咲いているように作るのは良くないのだ。写生というのに子規がどうしてこだわったのか?おそらく西洋芸術で写真とか絵を見たからかもしれない、西洋絵画では見たままを写真のように描く絵が多かったからである。そこから俳句も写生だとなってのかもしれない、そもそも詩を書くとき写生するとつまらないから空想的にそこにありもしないものを誇大化したり過剰に装飾したりして描くのが詩を作る人には多い、詩の場合は字数が制限されていないから空想的に作るのが多い、そこに感情的なものも過剰なくらいに書くことができる。俳句は字数が極めて制限されているのだから詩のように作ることはできないのだ。だから常にありのままを写してそれを簡潔な言葉にすることが必要になってくるのだ。simple
is bestにする必要がでてくる。これは茶室にも通じる極めて日本的芸術の結晶化したものなのである。極力無駄を省くことが要求されるのである。