行合道

これと対象的なのが追分である。追分は昔の街道に名づけられた。道が分かれる、それになぜ追うがついたのか、誰かが別れ道で何かに追われるように別れてゆくからなのか、つまりなぜ昔の人がそうした名前をつけたのかよくよく考えるとわかっていなことなのだ。一方行合道というのも結構多い。霊山に出る所が行合道になっている。これは別れる道ではなく、ここで出会うことが多いから出会うことに重きをおいて名付けられたのだ。これは村の人がここで出会うという生活から生まれた。ここで別れることはない、村は狭いのだから出会う道であって別れてしまうことはないのだ。追分の方は永遠に別れて出会うこともないことがあった。歩く旅は簡単に出会うことはむずかしいのだ。だから追分には昔の人が記憶する場所となったのだ。そこに人々の思いが集まるところだから地名としていたるところにあるのだ。つまり地名は人々の生活する中できってもきれない故に地名が残っているのだ。今ならなんだただ出会う道か、別れる道かしか道に対する思いがなくなっているのだ。道の重要性が生活の中でうすれたのだ。歩く感覚の中で出会う道と自動車で走る道は全然違った感覚なのだ。自動車だと高速道路のインタ−などが交叉する出会う道となるが歩く感覚でつけられた地域と密着した地名とは根本的に違うのである。行合という地名も全国に多い。

江戸時代『飛騨西街道』「濃州徇行記」

 行合組、家80戸、男女473人、馬25匹。この村は、郡上街道より東に当り、半道ほど奥山間にあり、耕夫多き所ゆえ山かせぎ、または関、上有知への出荷歩行持ち、駄賃付などをして助力とする山、小百姓ばかりなり。また、この辺りにおいては子馬を郡上や飛騨から買ってきて、2、3才まで育てて売ることもある。
 出郷を庄合という。民戸あり。本郷より、東にあたれり、この所に抜荷守番所あり

 この中に出てくる、【庄合】は、現在の少合のことと考えられる。
 少合…行合本郷の出郷である。少合は少郷であって、何時の頃からか少合と転化されたものであろう。



出郷とは小出町とかあるように離れて小屋などを作り耕作した地である。小出谷と浪江の葛尾にあるがこれは小出屋である。遠くに出て耕作して小屋を建てた場所が地名化したのだ。それがなぜ大切かというとそこから分家して小屋だけでなくそこで暮らす家も建っていったからだろう。

 行合峠を越えて通ったでね。あそこの道も治った。昔は、全然下の方の道やったでね。あれこそ。自動車も何も通らへん山道やったで。田尻というところがあるわねこの、少合の集落を越えた向こうに、その子んたは、峠を越えて少合まで来て、今この家の上に橋があるけど、この下の山道を越えて、みんなこれしかなかったで。今は5軒か6軒あるは。田尻っていう洞は。今は神淵へ抜ける道ができたけど、車も通れるけど、元は何もあらへん、この山道をあよんでみんな通われた。田尻の子んたは、少合口へ出て行合小学校へ通いないたな。うちがお店やっとる時まで買物にきないたな。

ここには行合橋とか行合峠があった。頻繁に馬で荷物を運んだから馬が坂から転んで死んで馬頭観世音をたてたという記録がある。地名というのはこのようにその土地のことをイメ−ジさせる。なかなかここに旅してしもこうしたことがわからない、また旅したときはここまで観察できないのだ。これはここに住んでいる人でないとわからないからだ。
 
http://www.gifukoku.go.jp/mino/touge/052/index.htm



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