この道の行く人まれに白百合の咲いて静けき前日向かな
ここの八沢浦は相馬になっていた。鹿島町だと思っていたからだ。前日向という地名はまさに前がいつも日向になっているからだ。これに反して日影山とか日影とつく地名も多い、日本は山国だからそうなる。地名はその場所に行って納得するのが一番いい。地形とか日あたりなど関係しているからその場に立ってみないとわからないのだ。なんともない風景だったがいい場所だなと思った。というのはほとんど自動車が通らないこと見晴らしがいいことである。都会の団地などには住みたくない、田舎なんかつまらないと若いとき思う人がいるが田舍を愛さない人は平和も愛していないのではないか、自然とマッチして暮らす田舍を愛さない人は精神的にどこか欠落しているからだ。なんでもない風景だが画家なら一幅の絵としている。そこには実にのどかななごみがあった。都会にはなごみがない、都会には都会の良さはあるが都会を愛すという人はどうかしている。感覚的にもどうかしている。ただ京都などは違う、あそこには自然があり歴史と自然が日本の箱庭的風景を作っているから東京とは全然違うのだ。ただこんな所でも悪いことがあった。崖崩れの警告の注意板があった。どんな所にも何か悪いことあるものだとつくづく思った。理想的な住まいの確保はむずかしい。隣近所が犬を飼ったりいやな人の場合もあるしいろいろ必ず問題がある。山の中に住んでもままならぬのが人間である。自然−人−住居 これらがうまくかみ合わさったときそこは棲むにいい場所だがなかなかそういう場所はない。何かが必ず欠けているし不満足なものがでてくる。