小林勇一


箴言1−7
この世の中、無数の学問がありますます複雑化してきてとても超人でない限りもはやこの世を理解することは不可能である、理科系の人、一流の科学者でも医者でもすべての人にとって最初に必要なのは主、唯一の神への知識である、そうでないと専門的分野の極端な研究にしてもそれぞれが極端に分化して終始がつかなくなる。
現代はその危険性に常にさらされているのだ、オウムのように科学者でも主への聖書の知識が欠けている、宗教に対して無知なのである、偶像崇拝、形あるものを拝む、人物を神に祭りあげることは禁止されている、これは基本中の基本なのだ、しかし実際は偶像崇拝が根強く行われている、科学の過度なる依存も偶像崇拝の一種なのだ、キリスト教圏内、イスラム教ではそうしたことが基本として教えられるから宗教の基本は守られる、日本には未だこうした基本的なことさえ身についていないのだ、まず聖書の基本中の基本を身につけそこから各分野への探求と向かうべきである、知識のはじめは神に関する知識でありその次に様々な知識の涵養がある、根本的なことを見失うと土台をそこに据えないとすべてがもろくバベルの塔のように崩れてしまう、現実すべての神をないがしろにした文明は砂にうもれジャングルに埋もれ廃虚と化してしまったのである。現代文明もまた同じ運命をたどりつつあるのだ。宗教とは統べるもの宗はムネなるもの中心となるものの意である、それが現代では無力化して混沌を生み出している、2000年ルネッサンスはやはり基となるものを見直してそこからすべての一体化した再生がありうるのだ。

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友人と共に一つの部屋に宿泊していた、パリの学校のある学生が神の霊感を受けて修道院に入ろうと決意しし、その友人を誘ったそしたら、「友人はそれを拒みなお3年パリにいて教授資格をとり、それからモンペリエに逗留して医者の資格をとり、それからポロ−ニャに七年滞在して法律博士になるつもりだ。」と言った。
翌日の朝別れを告げようと友人のベッドのところにやってきたら友人が死んでいるのを発見した。かくもたくさん生きようとしたこの男は突然打ち倒されて死んだのである。

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これは実際あった話のような気がするのだ。余りにも生々しいのだ。伝説はなんらか事実をもとにしている。
若いときはいろんなことを計画するし学びたいし達成したい、しかしまず神のことを神についての知識が最初にあるのだ。この人は神をないがしろにした故神の怒りをかい死んだのだ。あれだこれだとこれだけ計画するだけですでにあっというまに時間がたってしまうのだ。とにかく若いときは計画だけが先行して実行がともなわず終わることが多いのだ。まず神の知識を基本的な知識を学んでおくことである。この他に恋だ、結婚だ、就職だ、それからとんでもないものにも、詐欺まがいの宗教団体にひきこまれたり、いろんな誘惑が一度におそいかかってくるのだ。こういうなかを突破してゆくのは容易でない。インタ−ネットなどでもその中に指針を見出すことはむずかしい。情報のカオスの中で溺れることもありうる。現代はなんらかの指針、指標を見出すのが最もむずかしい時代なのだ。マスコミで名のある人さえあてにならない、宗教を語る人間が一番かえって迷いに引き込む面があるのだ。ある意味で人間をもはや頼りにせず直接聖書に向かい救いを求める他ない時代である。


出エジプト20−4

あなたは自分のために刻んだ像を作ってはならない

出エジプト34−14

主はその名をを「ねたむ」と言って、ねたむ神だからである。


偶像崇拝を拒否することが宗教の始まりだった。一神教の始まりだった。神は世界中のどこでも無数にあったのだ。あらゆるものが神になった。石でも木でも雷でも山でもライオンでも馬でも狐で犬でも自然のありとあらゆるものが神となった。何故一神教が砂漠に生まれたかそれは偶像崇拝を否定し真実の神が何である人間に教える場として砂漠が神にとって必要だったのだ。
 
 ユダヤ教がキリスト教がモ−ゼの偶像崇拝の拒否から始まったことは確かである。エジプトもありとあらゆる神があり神々の博物館になっている。地域の神、その土地の神でも百もあり偶像に支配された世界だった。なぜエジプトをモ−ゼが脱出しなければならなかったのか。奴隷として使われることが過酷であったからか必ずしもそうともいえない。何故ならエジプトを脱出して荒野をさまよう方がとんでもなく大変なことだったからだ。偶像崇拝から脱出して真実の神を拝させるために荒野に導きだされたのだ。それはピュ−リタンが迫害されてアメリカに新天地を求めたように宗教的動機であって経済的動機とは思えないのだ。
 
 とにかく日本でも八百万の神がいたしインドでも神々に満ちていたしギリシャでも様々な神々の世界でありロ−マも万神殿があったように様々な神が祭られていたのだ。ギリシャの彫刻がアレキサンダ−のヘレニズム文化の伝播で仏像を作った。仏像の起源もギリシャだった。そこにはどうしても美に対する崇拝があった。つまり偶像崇拝があったのだ。この点イスラム教は徹底して偶像を拒否するからモ−ゼの教えを一番受け継いでいるといえる。イスラム教はアラビヤ文字を崇拝するがこれは日蓮宗や真宗などが拝む字の神格化でありこれとて厳密に言えば偶像崇拝になる。何故ならその字に神があるなど神の力が宿るなどありえないからだ。だからバ−ミヤンの仏像は破壊され曼陀羅であれ題目であれ破り捨てられることにもなる。自分も破り捨てたのである。

 偶像崇拝からの脱出、これが宗教の命題であることは現代でも変わりないのだ。どんな宗教団体でも偶像崇拝に陥りやすいのだ。団体とか組織はBODYで表されるごと肉であり霊の団体ではないのだ。団体化組織化したときBODY化したのであり霊の団体とは違うものとなる。そこで満たすのはBODYの要求、つまり飲み食いとか衣食住のことかBODYの問題が最優先ささることになる。それが極端な形になったのが創価学会などである。完全に肉のBODYの要求を満たすだけの政治団体、経済要求団体と化しているからだ。キリスト教会はどうなのかというとそれもやはり団体、組織化している以上、霊の団体とは違う。本当のクリスチャンの団体などこの世にありえないのだ。本当の霊の世界は霊の団体は天にしかないのだ。そうした宗教団体に入るのが危険なのは宗教をもって権威となるものがいることなのだ。宗教団体であれキリスト教会であれ牧師とか監督がまるで天国や極楽への切符をもっていてそれで信者を獲得し勢力をもつことになる。その極端な形がカトリックの免罪符を売買することであった。罪を免除することが教会という団体にできるとなったのだ。

それほど教会とか団体の力は宗教の名の元にこの世の権力も手中にすることができるのだ。内村鑑三の無教会主義はそういう危険を回避するためのものだった。この世の権力を得るために例えば戦争の時で神は利用される。タリバンでも北部同盟でもどっちもアラ−の神に祈って戦っていたのだ。イラン、イラク戦争の時もそうである。キリス教徒もキリスト教徒同士が神に祈り戦っていたことがあった。天皇も我が国の神は戦いの神ではないと遂に言って戦いをやめた。つまり人間の欲や都合で神が祭り上げられ利用されるのだ。神がそんな人間の一方的祈りを聞くはずがないのだ。

 偶像崇拝の脱出が今でもむずかしいのか。一端宗教団体に入ったものはなかなか呪縛されてぬけられない。現実オ−ムでは殺されたから抜け出すことは命懸けになるのだ。それでなくしても宗教的呪縛から抜け出すことは容易でない。モ−ゼの出エジプトは現代の問題でもあるのだ。いづれにしろ偶像崇拝から脱出しない限り神を見ることは神に会うことはできない。神を見るのはまさに偶像から脱出した時でありいかに偶像崇拝の拒否が宗教の要かわかる。自分も偶像崇拝から神ならざるものを拝んでいてそれを脱出した時神にめぐりあえたのだ。祝福があったのだ。神は現代でも活ける神なのだ。神なんかどこにあるのかというけど神は目に見えないけど実在している。なぜなら自分の経験では「神は妬む神である」というのが本当だったからだ。

ある時一天才を師と仰ぎ遂には神として崇拝するにいたった。天才とは常人とは違う並外れた能力の持ち主でありニ−チェのように自分自身神になるほかない存在なのだ。しかし神は妬む神である。決して他者を偶像を神とすることを許さないないのだ。それで偶像から引き離すのだ。そこに神の力が実際に働くのだ。妬む神という時、神も人間的感情をもっているのだ。神自身を崇拝しない者は妬むのである。もし神が人間に無関心だったら妬むことなどないし何があれ放置している。しかし神は人間に関心をもっている。関心を持つのは神自身が存在し神に眼を向けさせるためである。神自身も人間に近いものとして目に見えないが確かに存在するものなのだ。神が存在しないとするならモ−ゼは出エジプトできなかったことは確かなのだ。
 主はその名を「ねたみ」と言って、ねたむ神だからである。
その名にねたむをつけるほどねたむ神なのである。他のものを神として拝むことは許されないのだ。ある意味で仏教もその対象になる。それは学ぶにしても下位の神である。何故なら釈迦は偉大でもやはり死んだ、キリストのように蘇った不死の者でではなく死んだのである。死ぬものは神ではないのだ。