中高年のためのパソコン
パソコンとの戦い
メデア論
ニフティの問題など
ないがしろにされた個人の権利
パソコンの恐怖(デ−タ−が消える)
(私のパソコントラブル史)
ホ−ムペ−ジ作りの半年
再びパソコンの故障

  パソコンとの戦い

◎まず安全なものを

パソコンは三年前にwin95 が出た時にテレビが見られるというパソコンを試しに通信で買った、これにはひどいめにあった、しょっちゅうフリ−ズになり再インスト−ルの繰り返しであった、その再インスト−ルが一日がかりのめんどうなものだった、こういうふうにフリ−ズになるのはいいが
再インスト−ルとなるともう一回すべての周辺機器の設定をやり直すことになり大変なのだ、今使っているアプティバはフリ−ズした時自動的に修復するようになっているので安全である、実際このように安全に使えるものが第一条件なのだ


◎最初のつまづき(ロ−マ字入力)

最初のつまづきはやはりロ−マ字入力が主なのでこれはやりづらくていやになる、というのはパソコンでも一番使うのは文章を作ることだからである、長い文章でなくてもしょっちゅう短い文を書くのがパソコンである、それでロ−マ字入力だ
とめんどうくさくていらいらしてくるのだ:私はワ−プロはオワシスを使っていてどうしても親指シフトから離れられなくなっていた、文章をスム−ズに作れないことは致命的なのだ、ここが最初のつまづきになりやすい、いろいろなつまづきが次から次と出てくるのがパソコンだがこのロ−マ字入力はいらいらして今では親指シフトで打てるキ−ポ−ドを買った
これも英語を打つ時不便だがやはり文章を作るのには便利なのだ

◎パソコンは普通の機械とは違うことを知れ

パソコンは今までの機械とは違う、使いこなすことがとてもやっかいな代物なのだ、だから初心者はまず電話でいつでも相談できるクラブとか通信教育に入るべきだ、今はメ−カ−とかプロバイダ−でも電話はつながらないし聞くところがないし電話でないとパソコンのことはわからない,何故ならパソコンの画面をみて電話で指示されるとわかるからだ、パソコンは機械に使う金より教えてもらうソフトの方に金がかかると思うべきでこれをケチしたらとんだ遠回りをしていやになる、最初全然わからずに教えてもらうのにも金がかかるのかと思っていたが今になると全くそうではない、教えてもらうことにケチったらパソコンはまず使いこなせない、中高年の場合には特に近くに教えてくれる便利な人がいないのが普通だから教えてもらうことに金を払うほかないしパソコンはそういうものだと認識すべし、パソコンを習得している人はそれなりに高いコストをかけて長年経験して使えるようになっているから簡単に教えることには抵抗あるのかも、ただ経験談はどこでも書いてあるからそれを参考にしたりいろいろ試行錯誤を繰り返す他ない簡単に教えてもらうという虫のいい考え方はやめた方がいい

◎パソコンの最終目的

パソコンの最終目的はホ−ムペ−ジを持つことである、これは驚くほどカラフルに自分を表現できる機能を持っている、雑誌のようなものが自分で作れるのは魅力だ、リンク機能があるので非常に効率的に情報を管理できるまた自分一人で掲示板やらメッセ−ジボ−ドを運営できるようになっている
これは今までは大きなプロバイダ−が管理してやっていた、ニフティなどそうであるがそれで問題もおきた、というのはその頃そうしたところでしか発言できない時代だったから、そういう場所ではより多くの人がアクセスさせるためにニフティの運営者が管理していたのである、何故なら一分間いくらとなってをりそこにアクセスする人が増えると金になる仕組みになっていたからだ、それが今や一人でニフティの運営者のようなことができるから驚きである、だから今ニフティのフォ−ラムは衰退している、これも時代だ、何か思想的に主張する場合でもニフティのような所では発言は控えめにするべきである、最初にホ−ムペ−ジで自分の主張を立場を説明してそれから対話すべきなのだ
突然割り込んで会話しても混乱するばかりである、今ではホ−ムペ−ジを持っていてその関連で議論していることが多い、これはわかりやすくなる、なぜならフォ−ラムでは長い発言やまとまった文はのせられないしそういう場ではなかったからだ、だからどうしてもこれからは自分のホ−ムペ−ジはもつべきなのだ、そうすると自分の主張を存分に展開できるしその上で議論に参加するといいのだ
とにかく通信の世界での会話とか議論とかもなかなか今までにないことなので理解しにくい、これは今までにない文化なのだ、でもこのちょっとした気のきいたコメントとか会話が通信では面白いし今までにないコミニケ−ショウなのである。
もう一つ見逃せないことは通信の世界はリアルタイムで進行するので刻々その時々のことを伝えられること、これは魅力である、俳句などは日々の季節の変化がテ−マだからインタ−ネットにむいている、一つの花が庭に開きまた別な花が開きそれをホ−ムペ−ジにのせる、日々の変化をホ−ムペ−ジを通じて知らせることができるのだ、ともかく何かを発言、表現したい人は苦しくてもホ−ムペ−ジを持つべきである。

◎パソコンは使い安くする知恵が必要

パソコンは今までの機械と違うのは自分なり使い安くしてゆくこと、いろいろな周辺機器がありソフトがあるが自分なりに使い安いようにしてゆくことである、それでないと長く続かない、だからいろんな試行錯誤が必要となるのだ、私が使っているイメ−ジパッドというペンで押してパソコンを操作するものは欠かせない、マウスでいちいちおしているとこれもいらいらして疲れるのだ、こうしてスム−ズに使えないとパソコンはいやになるのだ、それからパソコンの字は小さいのでこれも疲れる、便利なものを発見した、字を大きく見る大きなる画面の拡大鏡である、アメリカンエクスプレスの関係で買ったからアメリカの製品かもしれない、これをパソコンの画面の前に置くと字が大きく見えるのでいい、このようにそれぞれがパソコンを使えやすくする方法を知恵を持たないとパソコンは使いこなせない、何か便利なソフトがあるのだがわからない面もあるし使いないのも多いが試行錯誤して使い安くする他ないのだ、しかしやっぱりバソコンは疲れる、ホ−ムペ−ジ作りで鼻血出て熱が出て一日寝た、とにかく聞く人がいないと皆目見当つかない、パニックになる、常に電話で相談できる所を持つ必要があるがやはり自分なり悪戦苦闘する他ないのがパソコンなのかもしれない、、、

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拡大鏡 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−イメ−ジバッド


メディア論
出版社と書店のない世界

今回実験的にホ−ムペ−ジ作ってみた、この世界最初は戸惑うことが多い、思ったより簡単にホ−ムペ−ジができたことは驚きであった、ただニフティの方で簡単に作る用意されたソフトではエラ−が出てうまくいかずプロバイダ−を移った、これだけのものが表現され簡単に通信で公表されることはやはりメディアの一大革命かもしれない、例えば本を作るとなると写真一枚のせるのに10万くらいかかる、それを流通させるのも個人ではできない仕組みになっている、つまり権力を持つものか大衆に売れるものを提供するものしか出せないのである。メディアは権力であるというのは確かである、メディアとは仲介するものなのだが実は仲介するものの方が権力を持っていた、実際作者より出版する方が権力を持って左右しているし、書店だって巨大な出版社からのものしか置かない、テレビだってメディアとして仲介者としての役目より巨大なメディアを持っている故巨大な権力なのである。どうしたって巨大な権力を持つものがその流通を握り一方通行にしてしまうのである。ファシズムがメディアを思いのままに操作して自由な言論を封じたのもそのためである。

個人がこれだけのものを簡単に作ることができるとなるとその意味は大きい、カラ−刷りのちょっとした雑誌を作った気分になった、インタ−ネットの凄いところは個人のメディアだということである。個人がメディアを手中にしたことは今までない、文であれ写真であれ音楽であれこれからは通信の世界で流通する、本は一つの石の碑文のようなものとして残されるかも知れないがその流通性の困難さコストの高さから特別のものとなってゆく、知的なものは探せば通信の世界で用が足りるようになる、巨大な生きた図書館にもなるしリンクをたどることで網の目のような知のネット−クが作られてゆく、例えば今回の旗のテ−マだがこれを調べたらイギリスの旗の成り立ちから日本の旗を桜を型どったものにした方がいいとしてそのデザインの絵も紹介している者や旗一つとってもかなりのリンクをたどることができる
いづれにしろ書店も消失の危機に立たされているのでは、余りにもそこには本が流通しない、知が流通しない世界になっている。

書店はプロバイダ−のような役目なのだが本は中央からマスコミを通じて流されるものしかおかないし、書店にとって売れないものはゴミなのであり知の仲介者とての役目は果たしていない、これから隠れた才能が見出され発揮できるかもしれない、その過渡期として膨大なゴミも生じることは確かだがそれも電子信号として消えるだけだから汚すことにも資源を無駄にすることもないのだからやむをえないことである。とにかく著作権にしても通信の世界は非常に活発なリアルタイムの交流となり絵にしても簡単に取り込むことができるし簡単に双方向のコミニケ−ションになるからいろいろ問題になることは確かである。自分も他人の壁紙など利用してしまった、相手に断り無く、また簡単に他人の作品であれ個人に対しても批判しやすい場なのでその辺の対処がむずかしい、でも仲間内だけでなくインタ−ネットでつながることは思いがけない反応がある場合がおこる、それは外国からのこともありうる、とにかく容易に批評しやすい、だから何かコメントしたくなる世界なのだ。通信の世界は完成したものでなく常に書き換えられてゆく変化の激しい世界なのだ。

とにかくこれから価値あるものは物ではなく心を反映したものであり事実win95の発売はそれを象徴したものだった、売れるのはソフトでありコンピュタ−は箱にすぎないということを証明したのである。
これからはまた大量規格生産の時代は終わり個人の時代となる、高度成長時代は同じ物を大量に供給していれば売れた、物が足りない時代はそうなるがこれからはそれぞれの要望にあったものを作らないと売れない、何事量より質が問われる時代である、大量消費の時代から質を求める時代になったのである、情報にしても今までは一極集中で上から下に流れていたがこれからは下から上に流れてゆく、下からの声がインタ−ネットには満ちているのだ。ということは何をか言いたい事が一杯あったのだがメディアは閉ざされていた、その個の発言は巨大な宗教団体とか政党、組織を通じてしか反映されなかったのである。

情報にしても大量に流通するものでないと本屋には出ない仕組みになっている、テレビにしても個人の意見を聞く個人が憚らず意見を述べることができない、そこでは一般的常識を逸脱してはならないし常に巨大な組織とかに気を配りして発言は抑えられている、だから本当のことはわからない面がある、個人の時代ということはとりもなおさず宗教とか芸術とか学芸の分野で力を発揮するものである、というのはここでは量より質が問題にされるからだ、インタ−ネットがあたかも知の博覧会のような様相を呈しているのは物の時代から心の時代に移ったことの現れでもある、一極大量支配が崩れることは民主主義の基本だからいいことである、それは矛盾があるにしろ時代の流れであり大量規格一極支配は民主主義に相反するのである,インタ−ネットのメディアが画期的なことは個人を結ぶのであり集団を形成するものではないことである。個人が一つの放送局を持つということは今までにはないことなのだからその影響力は大きいし一つの社会を変える力を秘めている、反面そこから悪の方面へ混乱も助長されることも否めない、どうしても人間の関係は直接に合わないと築かれない面があるしコンピュタ−がすべてとはなりえないことは変わらないからである。


確かに今までは情報というと本が中心であったし知識や教養も本から手に入れる他なかった、これからはメディアが多様化しデジタル放送やらインタ−ネットやらいろんな方面の情報にいながらにして摂取できるし地方からでも発信できる、本屋というのもマスコミの一端だったということである、マスコミから中央から流れる本、売れる本がなくてはやっていけない、それ故に常に芸能ニュ−スやマスコミに作られた人の本を宣伝し売ろうとしている、今不思議に思うことは本を出版社に直接注文したことである、これからはさらに出版社ではなく作者から直接にインタ−ネットを電子本として配布される、今現実にホ−ムペ−ジはそれをしているのだ、こうして作者と読者が直接つながる

ということはその仲介者たる出版社や本屋もいらないことになる、これらのものに私が反発を感じたのはどうしても売ることを中心に考えざるをえないからマスコミ主導になり少数者は排除されるということである、今までのテレビも新聞も出版もマスコミ主導であった、本屋もその末端としての機能を果たしていたのだ、マスコミの報道で注意すべきはそれはマスコミによって作り上げられたものでマスコミに宣伝され売り込まれているものが価値あるものとは限らないということである。本の価値が売れることだけにおいたらどうしても大衆向きの本のみが出回ることになるのだから、本屋は電子本を流すの端末になるとか、これも無味乾燥なことといえるがしかし本を流通する作るコストがかからないということは本屋がプラバイダ−のようになるということかもしれない、本屋は本というものを置かねばならないとなると本屋にしてみればそのスペ−スを確保したり手間がかかるから売れない本は置いておきたくないのだ、なるべく売れる本だけを置いておいたい、でも電子本になると本という物を管理するのではないから本を置くのではないから少数のものでもかまわないし何が売れるかというのも関係なくなる、それは読者が選ぶのであり何が売れるかなど本屋が考えることもないし少数者しか読まない本でも売れるわけになる。これは本だけではない物の流通の一部がこのように変化することがありうる、生産者と消費者が直接結びつく世界ができるのである、今そうした変化の中に戸惑う時である。

インタ−ネットはこの世の少数者とか異端者にとってはいいものなのである。インタ−ネット自体にそうした思想とかを土台にして作られた、危機があった場合、どこかの線が切断されてもまた別な所から蜘蛛の巣のように回線が張り巡らされ通信できる、危機管理の一環としてアメリカ軍が考えたシステムであった、だからインタ−ネットは今までのマスコミ主導と中央集権と違って統制しにくいのである、ある一部の細胞が死滅してもまた別な細胞が増殖し神経はネットワ−クのように結ばれて交信できるようになっている。今までのピラミッド型の中央集権的マスコミ指導とは違うのである。この中央集権的システムは実に20世紀まで続いたのだからこれはかなり人類にとって大きな変化ではないか、メディアももまた権力であり情報は権力者が握っていたのだからこの変化は大きい、しかし一方マイナス面としては世界がアナキ−無政府状態になってしまうのではないかという危惧である、現実に日々膨大に増殖するホ−ムペ−ジのどこに価値あるものがあるのかわからなくなっているからkだ、誰がその価値を判断してゆくのか日々アナキ−に制限なく放出されるていることである。

奇妙なことは本は売れなくなった、読む人が少なくなったのに書く人はホ−ムペ−ジを通じて凄い数で増えている、読む人より書く人が増えているのだ、それはなぜかと考えると書くという行為は何かしら自分を知ってもらいたいという願いがあるのだ、どんな人でも人は結局自分自身に関心があり自分のことを書きたいのである、読む読まれないにしろ他人のことを読むより自分のことを書いている方が楽しいのである、こうして今やホ−ムペ−ジでみんな日記を書き続けることになる、そして他人のものは読まないという奇妙な現象が生まれている、おそらく優れた作家のものよりへたなものでも自分のことを書いていれば満足なことになる、そんなもの今まで誰も読まないし公表もできないものだったのだがホ−ムペ−ジのおかけで書くことができるようになったのだ。しかしこうなると各自がそれぞれの個の中にこもってしまう膨大な個々人の閉塞状態に陥る危険性も出てくる、しかしどうしようもないのではないか、なぜなら人間は自分自身に一番関心がありそんなものくだらないから書くなといったところで書きつづけるものは書きつづける、しかし情報がふえればふえるほど情報を選び時間を無駄にしない方法が必要になる、やはりどこの世界でも選ばれたものが必要だというのは確かである、本当に選ばれるものがマスコミの世界には必ずしもなかったがやはり本にはこんなに多くの人が書くことはないし不必要なものはないのである。


私の著作権の考え方(転載は不可)

著作権についてどう対処するのかむずかしい、しかし著作権はあるものには重みがある、ホ−ムペ−ジには作品として未熟なものが余りに多い、それでも勝手に利用してはならないのが著作権である、写真でも絵でも学問的業績でも文章でも読み応えあるものは長年の経験からこつこつとした研究から経験から生まれたものがある。血のにじみでるような努力から生み出したものがあるかもしれない、それをないがしろにすることはできない、おそらく書店などに置かれるプロの作品はその資材でも何十万円の高価なカメラを買い:、長年の努力でセンスを磨きとっているとすると簡単に利用できないものかもしれない、だから著作権を問題とする時はそうしたプロの秀作が問題だったのである。
なぜ他に転載したりコピ−してはならないかというとその本人が生みだしたものはその本人が作った本なりホ−ムペ−ジで読むべきであるし本人の創作や経験は本人の長い経験から生まれたものがあるから本人の功績としたいのである。

それはパソコンの使い方のようなものでもいろいろな経験の結果゛努力の結果から使いやすい知恵を生みだしているしその経験を書くことは貴重であり著作権がある、つまりその本人のものを買うなりその本人の努力を認めてもらいたいのだ
それが著作権の権利なのだ、ホ−ムペ−ジでも多くアクセスする所はそれなりに努力している所だしアクセスが多いということがそのホ−ムペ−ジには見るべきものがあるということにもなる、

私も一冊本を出したことがあるが全然売れていない、そして本屋にも置いてもらえなかったし、自分の町の公的な場所にも個人で団体を誹謗しているからと置くのを断られたりした、しかし自分の価値あるものだし著作権は侵害できないのだ。つまり自分が著作権を持っているかぎり無断で転載したりコピ−は認められないだから自分としては自分の許可がない限り転載は認めないのだ、他の人についても同じ意見となるかもしれない、あの本を書くにしたって
何百冊の本を読んで調べているし努力していたからだ、50年後まで著作者の権利はあるのだ、それほど著作者の権利は重いものなのだ。全部は全部といえないまでもその人がそう信じる限りそうなるのだ。団体は常に権利を主張しやすいが個人は権利を主張できないというのは民主主義社会ではない、問題はそれでは知的流通は制限されて創造が活発化しなくなるということだ、それは自分も写真など利用できなくて困っているそれでも本人がその写真を利用してはならないと言われたらそうする他ない気軽に会社や出版社や書店や公的機関があたかも自分達が力あるごとく自分が頼みに行った時は断っていたのに平気で転載することはできないのである。著作者の本は買って読むべきだしその本人に権利があるのだ。
ホ−ムペ−ジに公表したのはそのホ−ムペ−ジで読めばいいのであって他で読む必要はないリンクはその人の独立性が維持されるから問題ないのかもしれない、しかしリンクする方が主になりリンクされる方が従になるのは問題があるかもそのホ−ムペ−ジを作った人に権利があるのがインタ−ネットの世界である。本を買うこともなく金も払わないので見るのだからホ−ムペ−ジの著作権はかえって金を払って見るより尊重せねばならないものかもしれない。今までは媒介する人達の方がいろんな面で力を持っていたしその人達を通さないと公化されなかったのである。とにかく簡単に転載することはその本人の業績から離れて転載した媒介者が得する面が出てくるから許可なしの転載は倫理に反するのである。おそらくソフトを開発したりいろいろなものを作り生み出す側になると著作権には重みがあるしないがしろにできないのである。
他者からみてどんなつまらないものでも本人が貴重と思う限り著作権はある。
だから許可なしで転載はできないのである。

ニフティの問題など

インタ−ネット時代の著作権とかまだ確立されていないしシステム化していない、今までは出版社がありそこに著作者が著作権のコピ−を許可していた
法律ではそうなっているが実の所は出版社が一手に著作者を選び出版社の方が実質は著作者を監督下に置いていたのである。出版は大変金のかかるもので個人では不可能である。出版社であれテレビ局であれ新聞であれメディアはすでに大きな権力を有していてこれを通さなければ公にできない面があった。出版社にしてもテレビ局にしてもやはり金のかかるものだから売れるものを優先的にすることを考える、となると常に大きな組織とか団体のバックがないと出版はむずかしい、なぜか地方の都市の本屋の一番目立つ所にいくつかの宗教団体の本がうずたかく積まれていた?なぜか売れるからである、宗教団体の場合、権力を持っているし信者は強制的に買わされたりしているからだ、書店の側に立てば売れなきゃやっていけないのであり売れない本を置く義務もないのである、公共の図書館でもないのだから、

こうなると書店はこれからそうした巨大な権力ある組織の出張店のようになってしまうかもしれない、雑誌はコンビニで買いばいいしあと専門書はインタ−ネットの通販になってしまう、つまり出版社⇒流通会社⇒書店というふうにこれは一本に組み込まれているからである。書店には何の権力もない、ただ中央集権的流通の末端にしかすぎない、売れないものや大きな組織に逆らうものや販売に障害となるものは排除さるのである。自費出版などはおそらく金にもならないしめんどうなのである。書店に置くことさいやがられるしわずかの金で手をわずらわすから頼む方も遠慮するようになる。しかしその結果として本屋にはもはや良書はなく雑誌とあとはその時々の消費される、芸能本などが並ぶだけになるかもしれない、現実は地方ではなっているのでは、・・・・・

ニフティはかつてパソコン通信を一手に引き受けていた、ニフティのフォ−ラムにはシスオペという管理者がいたしニフティで全部ではないにしろ監視していたのだ、例えばA社B社C社と出版社とかがあるとする、その雑誌にのせられるものはその出版社に選ばれたもので勝手にのせてくれといってもマスコミはのせてくれない,メディアの方が選択権があり著作者を選定することができる、ニフティのBBSは確かに書き込み自由だしかなりの自由度はあった、でもあそこに書き込んだらその著作権はニフティに帰属する面があった、通信の世界での著作権は今までにない世界だからル−ルがないのだ、この世界では容易に会話がされる、例えはあるBBSで対話がされたとする、
それが何人かに及んだ場合、一体誰がその著作権者になるのかというと明らかにその掲示板やメッセ−ジボ−ドを提供したものになる面がある、全部ではないにしてもその権利を有することは確かである、だからそこではその内容を無断で転載禁止にしている、ホ−ムペ−ジを持っていない場合、個人の著作権はないのである、俳句を例にとるとある作者の俳句を手直ししたら添削したら見違えるように良くなる場合がある、良くなるのは最初のオリジナル作品のアイディアや着想がいい場合だが表現の仕方がまずいので直したら良くなったのである、この時著作権はどちらにあるかというと共同作品となったということになる、実のある会話が続く場合それは共同の作品となる、それはニフティのような出版社や雑誌社のようなその場を提供して管理したものにも著作権が生まれる、本の世界ではその著作権を有しているのは出版社や雑誌社の方なのだ
著作者は著作料をもらってその著作権を譲り渡したことになるのかもしれない、もし出版社が介入しなければ自分だけで発表して収入にてればその必要はないからである、インタ−ネットの不思議は一個人の表現されるものには限界があるがリンクをたどるとすでに雑誌のように写真や音楽や様々な表現者と結ばれていることである。それは出版社や雑誌社によって結ばれたものではなく個々人が自由に結ばれたものなのだ、プロバイダ−はただ通信手段を提供しているだけである。

著作権には創造性、オリジナル性がある場合なのである、誰がそのオリジナルを作ったのかそれが問題なのだ、エジプトのピラミッドが王の墓だと言った人は誰なのか、根拠はどこにあるのか、実際ははっきりしていないのである、オリジナルなものがわからないのである。
しかし今こうして個人が自由に自分の作品を発表できるとなると今までの出版社とかそうした通信の主催者の役目は限りなく小さくなる、写真家にしても自分の写真を雑誌社にもっていってこれはつまらないから採用しないと言われても、その人がそれをホ−ムペ−ジやインタ−ネットを通じて出したらそれを認める人が出てくるかもしれない、ただ金にはならないから問題はある、つまり写真家にしてもその写真を提供した著作者よりそれを出して金をくれる出版社の方が力がありそれに頼る他自分の作品を活かす方法がないことなのだ、もしインタ−ネットを通じてでも自分の作品が評価され金がもらえれば出版社から独立して写真の世界を追及できるいい写真が一杯あるのだがでは一体その写真をのせていいかという許可をどこに得るのか、その本人はわからないしその著作権は出版社が保有しているその出版社に頼むのかそれにしても金額が少なければだめだとなるかもしれないしそうしたシステムがないのが現状なのだ。
別に出版社やマスコミを通じてでてくても個人が伝えるものあれば伝えるとなると今までの世界とはかなり違ったものとなる、なぜなら今までの権威は出版社によってマスコミによって作られたものであった。
マスコミによって発言を許されたものが発言力を持ったのでありメディアの方が力があったのだ。
発言する者よりメデアを持っているものの方が力があり発言者はそのメディアに従う人形のような面さえあった。
メディアの所有者たちはいつでも大衆の望むものを与えようと努力してきた、なぜならば自分達の力がメッセ−ジ、フログラムによるのではなくメディア自体にあると気づいていたからである」マクルハ−ン
まさにメディア操る快感を今インタ−ネットを通じて個人が所有する時代になった。メディアというのがいかに社会に大きな力を持つか今また新しい実験が始まった。

ニフティのフォ−ラムの問題はほんの断片的な個人の一部しか表現できなかったことである、だからあそこは非常に問題がおきた、ちょっとした断片的発言が極大化され誤解され問題がおきた、私の見解ではニフティでの発言は責任を持つ必要はないし発言はなかったことにもできるし発言者は存在しなかったともいえる、あまりにも断片的発言が多く匿名でもあるし混乱する異常な世界だったのだ、だからあの世界のことは自分ではそんな人はいなかったし発言に責任をとる必要もないのだ、みんな言いたいことをいい誰かわからない世界だからだ、そんなところでの発言は何を言おうが責任などとる必要がない、相手が存在するかしないのかもわからないのだ、発言はどんな過激でもそれは架空のパ−チャル空間のやりとりで現実とは違うのである。バ−チャル空間だからこその本音の過激な議論でありそれを現実の世界にするのはをかしいのである。

誰かわからないものが勝手に人の揚げ足をとり人をこきおろし人を侮辱して喜んでいる異常な暗黒の世界である、あんな所に真面目に発言するものは通信のことを何も知らない馬鹿だったとしかいいようがない、あそこはリンチと追及のある意味で恐ろしい場所である、狼が相手をおとしいれるために待っている場所なのだ、今でも同じだが発言する人も極端に少なくなったらしい、それも当然である、どんな人も狼の餌食になるだけだから、発言の自由だというが個人は断片的なものとしてしか表現できなかったしそこは誤解の渦になる、不用意に言った一言が百倍にも増大してやり玉にあげられ、またそれが面白くてやっているという異常なリンチの場所なのだ、ちょうど赤軍が総括といって仲間を殺した、ある意味でそういう場所なのだ、議論によって何か真に追及するような紳士的な場所ではない、目的はどんな人でもこきおろし血祭りにあげるリンチの場所なのだ、それが楽しいのだから驚く、真面目に議論するような所ではないのだ、誰か目に見えない匿名の人々が罠にはまる人を待っているのだ。そして血祭りにあげては喜んでいる、楽しんでいるのである、あそこにいる異常な人々がいまだに自己を正当化しているのも全然反省していないし社会に正当性を主張しているのも理解できないのである。通信の世界がこうした暗黒の世界を作り出した事件として記念されるのもまたこの通信の一面だった。とにかくニフティにあんな世界があるのは例外的なのだが今でも同じであるがいづれ消滅するみたいだからほっとした、一日も早く消滅すべきである。

ニフティあんなフォ−ラムがあるのを許していたこと自体実に不思議なことである、何故なら他のフォ−ラムでは全くそういうことがないしちょっとでも人を傷つけるようなことを言ったら大変なことになるしそんな雰囲気は全然ないからである。反面そういうわけで発言は自由でない面はあるし今は全然発言はしない、あの世界だけは自由といっても常識の世界をはずれた異常な世界のできごとでありそこには何も存在しないとしたい、事実そう言える架空の世界のことなのだ。だからニフティの管理者にも明らかに責任があったのだ、そんなものをほっておくということ自体,他のフォ−ラムのこと考えるとありえないことだから。そのキャップがあまりに大きすぎるのだ、他のフォ−ラムでは普通の社会より人を傷付けるようなこといったら大騒ぎになるし正当な批評のようなことも一切できないのである。確かに全部ではないにしてもほとんどはそうである、そのギャップが余りにも大きいし発言ができなくなったのである。一方で個性的な発言する人はみんなHP作って発言している、これも当然である。あまりにもニフティは創作者にとって個性的な人には発言しにくいところだったのだ。


ないがしろにされてきた個人の権利

著作権を研究しているHPで地図にも著作権があり勝手に借用できないとある、こうなると利用するものが限られてくるので厳しい、地図はちっと加工すると別なものになるしわからなくなる、創造的とは必ずしも言えないように素人には見えるのだ,ところが素人はどうして地図を作り出しているとか野菜一つどうして作っているかということがわからないのである。金で買えば簡単に手に入るものだから生産者のことを考えないのである。これは知的生産についても同じではないか、自分自身も余り考えなかった、だからちょっとくらい利用してもへるものでもないからいいと考えていた、ということは雑誌など自分で作ったこともないし写真のことなどそれを作った人のことなど余り考えなかった、自分が雑誌の編集者のようなものになると思っていなかった、でも今みんながこんな手軽にHPをもてることは編集者や出版社の持っている問題に直面することになる、今まではとにかく個人の権利というのは全く無視されてきた、マスメディアであれ出版であれ個人はその中で原稿を一部提供してのせてもらう小さな存在にすぎず簡単に無視されてきたのである。

それは何度も言うように出版や放送にはコストがかかりすぎたのだ、マスコミではテレビでもコマ−シャルを流している企業の悪いことは言えずいいことばかり言うようになる、ところが物にはいいことだけでなく悪いこともありその両面を言ってもらわないと消費者には困るのだ、ソフトにしてもいいことばかり本の宣伝に書いてあっても難しくて使いなかったりすることが多い、簡単に飛びついて買って損したことが何回もある、今消費者がいろいろインタ−ネットで言っていることはその企業に特別反感があるわけでもなく利益が関係していないから正直に使った感想を言っているだけなのである。そうしたことが今までになく余りに一方的な企業の宣伝にのせられてきたのである。それに対して言う場所も極端に限られていた、本に投稿するにしても結局は本自体が企業の宣伝媒体のような所があり端の方に申し訳のようにのせられていたのである。

戦争中でもメディアは完全に掌握され日本が負けているのに勝ったとういう有利な報道しかしなかった、巨大な団体はみんなどこも自分達の悪い面は言わずいい面だけを宣伝する、マスメディアはまたそうした巨大な団体には弱くいいことしか言わないようになる、そうして真実は隠され暗黒の世界が作り出されてきた。いづれにしろいかに個人が軽くあしらわれてきたかを知れば民主主義など全然存在しなかったことがわかる。個人の尊厳などなかった、表現する場さえ与えられなかったことが如実にそのことを物語っている。自分の言いたい場すら与えられないとしたら民主主義も言論の自由も何もないのである。

情報の伝達を考えると竹簡や木簡などに書いていた時代があり紙に書かれたことは画期的なことだった、しかしその紙に書かれた時代から本の時代から2000年くらい変わらなかった、情報の伝達はすでに電気の時代に変わっていたが文章とかまとまったものはやはり紙にかかれ本というのが大きな役目を果たしていたのだ。本というのは昔なら職人の印刷工が活字を一つ一つ拾って作っていたしその行程を考えると大変な作業なのだ、だから巨大な出版社がまるで中世の城のようにがっちりとその城壁はぶ厚い本で固められていた、その支店として出城として全国の本屋があった、これはゆるぎないものだったのだ、本というのには今までそれだけの権威があったのだ、本を出すというだけでそれはすでに権威ある人と認られたのだ、だから個人ではとてもこの中世的封建制の支配には立ち打ちできなかったのだ、だから一見言論の自由の世界だと思っていたのが実はそうでなかったのだ、マスコミ支配だったのである。

バソコンの恐怖

パソコンが壊れても誰もメ−カ−も電気店も誰もパソコンのトラブルについては保証しない、今やバソコンは人間の体と同じである。人間の体の全部を知る人は誰もいない、どこが原因で悪いのか人間は一部が悪ければ体全体が悪くなるし全体が影響する。パソコンのどこが悪いのか判断することは非常にむずかしい、結局どこに相談してもバソコンはわからない、パソコンについてのトラブルは結局自己責任になる。トラブルでデ−タ−が消えても誰も保証しない、そしてパソコンは必ず突然に故障する、その時たいがいデ−タ−も消えるし修復できないのが普通である。だからパソコンはデ−タ−だけは別に保存する手をうっておかないと大変なことになる。バソコンのデ−タ−は読み出せなくなることもあるのでどれも安全とはいえない、大事なものは紙に印刷しておくほかないかもしれない、紙は保存にはパソコンより優れている。
電子メディアは一瞬にしてすべて消えることがありうる。その点紙や本は容易に消えないし消すということも労力がいる、ましてや石に刻んだものは千年も万年も消えないものとなるから歴史の保存になる。

電子メディアは保存という点では非常に危ういものである。インタ−ネットの情報でもそれは絶えず変化し電光板の文字のように現れては消えてゆく、本のように何回も熟読するメディアとは違った感じがする。膨大な情報が日々流れそれを追っていることは大変である。石碑は歴史の保存でありよくよくその刻まれた文字を探ると遠い日の記憶が発見されることがある。電子メディアには何かそうした記録、歴史の重みが見出せない面がある。だから気楽な面もある。やはり本に書きそれを公表することはインパクトが大きい、自分も思いののままに出版社を通さないで自費出版したのでそのインパクトは感じている、つまり一旦文字にして書いたものは消えないしその人の証文のよになってしまうことである。

焚書坑儒とかの始皇帝が儒者、知識人を嫌い本を焼いたことは本というのは消すことも難しいことを物語っている。また本は民衆が読めないものだった、分厚い聖書には鍵がかけられ聖職者だけが読んでいたし、民衆は読めないことは聖書を持っている聖職者が権威者となっていたのだ。まさに本そのものが権威化していた時代がった。ルタ−は聖書をドイツ語に翻訳し民衆にもよめるものにしたこと自体がメディア革命だったのだ。為政者にとって情報を独占することが支配することだから本は為政者に反対する本は抹殺する燃やす対象になった。本を全部燃やしてしまうという映画があった、本というのは一面反体制的な抵抗するものでもあったのだ。だからインタ−ネットの世界も規制されたり為政者が統制しようとすることはありうる。とにかくメディアの支配はファシズム勢力、権力支配を目指すものにとってはかかせないものなのだ。だから宗教団体では一元的、一方的情報しか与えないし自分たちの都合のいいことしか書かないのである。

とにかくパソコンのデ−タ−は消えやすいので各自入念に保存する手をうっておく必要がある。今回自分はインタ−ネットとメ−ルの情報が消えた、インタ−ネットのホ−ムベ−ジはプロバイダ−に保存したものからなんとか復元した、メ−ルは保存していなかったので全部消えた、プロバイダ−とはいえ保存は保証できないのが電子メディアである。それからwin95 から98にしたらいろいろ不都合な点が出てきたし前と同じ環境にすることが難しくなった面があった。それでわかったことはバソコンは一年くらいで買い変えることである。なんの原因かわからないがハ−ドディスクでも中身もいたむ、消耗するみたいでそうなると壊れやすくなる。一年をめどに変えかえるのが無難である。つまり長く使うものでないのがバソコンである。その時はめんどうでもデ−タ−さえ移せばいいものが使えるようになるのだからあきらめるほかない、バソコンは実にやっかいな機械なのである。バソコンについてはこのことだけは頭に入れていた方がよかった。むずかしいこと詳しいことは知らなくてもデ−タ−の管理には最善を尽くしておくことである。つまりそれが自己責任なのだ。誰も機械については保証してくれない、だからこそデ−タ−は自分で安全策をとり万全を期して必要がある。

今回の自分の失敗は1年半も再インスト−ルもしないで安全に使えたので油断していたことである。コンコルドも20年目にして事故が起きたし事故は必ず起きる、それは何十年後かもしれないが必ず起こるものである。その事故はとりかえしつかないものとなる。それゆえ事故は怖いのである。100パ−セントの保証はない、1ハ−セントでもその1ハ−セントが命取りになるのが事故の怖さである。これを身にしみて感じたパソコンの教訓であった。


私のパソコントラブル史

メモリ−の意味も知らなかった

3年前くらいにパナソニックのテレビ付ハソコン購入これはニフティの売り買いの掲示板で買った
この買った相手が親切で得した、パソコンを全然知らずに買ったのだがそのあといろいろメ−ルで教えてくれたのだ
最大の問題はハ−ドディスクが500mbしかなかったのだ。こんなものでテレビ付の動画を記録することをしていたのだから無知は恐ろしい これの再インスト−ルは実にめんどうなものだった、これはすぐになにかあると
フリ−ズし再インスト−ルしか直す方法がなかった、dosコマンドを使って再インスト−ルだからいやになった。

スキャ−ナ−が使えない

次に苦しんだのがスキャナ−がつながらない、使えないという問題だった
5万したのでなんとか使うために奈良まで電話して大変な目にあった
どうしてもわからず新しいハソコンでアプティバを買った時、電気店の人に
みてもらったらなんとスカ−ジ−につなぐ線が悪かったのだ、線に問題があったのだ
あの頃は線までみんな別な会社で作り問題だったのだ

使えないソフトを大量に買う

いろいろソフトが使えると思い1万近くのソフトを何本も買ったが使えない
のが多かった,一番馬鹿げていたのはテレビ付パソコン時代のニュ−トンとか
いうハソコンを故障から守るソフトである。あれはハソコンを使いこなす人しか
使えない、パソコンを安定的に使おうとしてかえって不安定にするものでもあるらしい、パソコンの世界のわけわからなさはこんなところにある。
ソフトは使い慣れたらそれを限定的に使いあまり他のものは使わない方がいい
なんとか使い安いように金をかけても無駄になる場合があるのだ。
パソコンではワ−フロソフトなどあまり使わないのにオワシスが必要と思い
2万で買った、パソコンはエディタで文を書くということがワ−プロを使っていたものには理解できないことだった,
そもそもエディタって何かもわからなかったのだ。
こうしうて労力と金の無駄が続くのがパソコンであった、
前はパソコンの実験をさせられていたようなものだからもっとひどかった。

パソコンは安全に使う工夫が必要

スカ−ジ−でいろいろつないだりビデオカ−ドなど入れるとパソコンは不安定になるし
ソフトの入れすぎもおかしくなる、ビデオカ−ドのソフトのインスト−ルは簡単に一発でできていたのにかえってむずかしく考えて失敗した、メ−カ−の人に直接メ−ルで聞くことができたのだがそれがかえって混乱しむずかしく考えすぎて失敗したのだ。
ビデオカ−ドはハソコンを不安定にするような気がする。
ビデオカ−ドがメ−カ−にセットされているものがいいのかもしれない
こうして今回のパソコンの全面的故障でデ−タ−が消えたのである。
ただ内臓の外付けのハ−ドディスクの記録は残った、しかし一部は読み出せなくなった 
ワ−ド97の一部だがこれは消えるとか何か問題があるみたいだ。
テキストファイルは安全だがワ−ドは保存形式が違うので危険だし他のワ−プロソフトもそうである。
テキストファイルだったら安全である
パソコンのデ−タ−はインタ−ネットであれどこであれ保証などない、
どこかに書きこんでもそれらは消え安いし消され安いのである
例えば雑誌でも本のメディアは本が朽ちるまで保存し残しているがこの電子メディアはどこも消えやすい、
保存されにくいのだ。インタ−ネットにしても固定した世界ではなくめまぐるしく変わっていてすぐになくなってしまったりどこにあったかわからなくなる。

ホ−ムペ−ジ作りの半年

ホ−ムペ−ジは手間隙かかる、まずそこにアップする内容を考えるのに見せるものを作るのに手間がかかりプロバイダ−にアップするのにも時間がかかる、絶えず更新してゆくことは手間暇かかる時間の食う仕事になっている。だからよそのホ−ムペ−ジを見る暇がなくなっている。自分のホ−ムペ−ジ作りで精一杯になっていて他人のホ−ムペ−ジの鑑賞まで手がまわらなくなっている。バソコン通信は相手が常に存在しての発言だったがホ−ムペ−ジは他人と関係無くただ自分自身を自分の作品を出してゆくことになる。つまりモノロ−グの世界にもなってしまう。ここで問題はホ−ムペ−ジにアクセスされるかであるがアクセスされない場合本当にモノロ−グの世界になってしまう。インタ−ネットはアクセスすることはクリックするという行為が参加することになる。広告のバナ−をクリックしてください、広告費でやっているのでというホ−ムペ−ジ紹介の所があったが確かにそれは人間的なこものを感じた。インタ−ネットの今までにないことは無料の世界になっていることなのだ。金がかからないということは金を使うマスコミとは違い権力に左右されないメディアであり少数者に有利な世界なのだ。パソコン一つで放送局を作れることは今までにないことなのである。

ただインタ−ネットの世界のウィ−クポイントはアクセスの問題である。どこに自分の探すべきものがあるのか探すのに大変な労力が必要とされる。くだらないものも多いためいちいちクリックしていたらその時間の無駄は大変なものである。しかしクリックするということは金を出して買わないにしてもそこに参加するものがあり意味がある。特になんであれ同じ人が何回もアクセスされるホ−ムペ−ジは読むべきものがあるということである。面白くなかったら更新されないホ−ムペ−ジは何回も訪れはしないからだ。とにかくこの世界いくらいいホ−ムペ−ジを作ってもアクセスされないことは十分にありうる。つまらないものでもアクセスされることも実際にある。置く場所とか宣伝の効果でそうなったりする。サ−チェンジにしてもなかなかアクセスされなくなっている。余りにも数が多いからだ。そして中味を知ろうとしてもクリックすること見ることは手間隙かかることと金もかかる。それで今度ISDNで通信を早くすることを試みたいと思う、市内のフロバイダ−に入っていないのでテレホ−ダイが使えないので電話代が大変だからだ。電話代がやはりインタ−ネット普及の最大の障害だろう。

もう一つこの世界は時間をかけないと覚えられないことなのだ。一つのことがわからないと解決つかないと大変な手間暇がかかったりする。ホ−ムペ−ジで馬鹿見たのはプロバイダ−で用意された自動的に作るホ−ムペ−ジはかえって時間のかかるめんどうなものだった。知らない人は簡単だからとやってみるわけだが実際は作られたものだから自分でソフトを買い自分なりのホ−ムペ−ジを作った方がよかったのだ。これはそれほどむずかしいものではなかったのだ。これも近くに聞く人もいないので遠回りしてしまった。用意されたニフティのサクサク君がエラ−になり何十回もこころみてもできず大変な時間と通信費のロスだった。とにかくこの世界は時間がかかるもので暇人?しかできない代物のような気もするのである。

いづれにしろ家族の病気で3ケ月ブランクを作ったことがかなりアクセスにひびいた。更新がないホ−ムペ−ジは一回限りのものになってしまう。しかし更新されているホ−ムペ−ジは少ない、ただ大勢の参加型のコンテンツを持っているホ−ムペ−ジは個人のパホ−マンスがなくてもアクセス数は多くなっている、しかしホ−ムペ−ジは個性を出すものだから大衆向きにするのとは反することにもなる。要するにこの世界はまだ未知の領域でしり社会化された訳でもない、その証拠にインタ−ネットで有名になると本を出して売ろうとしていることである。本の方が社会的認知度は高いし金になる世界なのだ。でもインタ−ネットを普及するには本のメディアからのマスコミからの脱出というメディアの情報の革命でありそのために無料情報の交換と個人の権利を個人の創造のルネッサンス(再生)という意味があるのでそうした思想活動として位置づけるとどうも本にして売り金にするという行為はネット社会に反するのではなかろうか。本の宣伝だけしているホ−ムペ−ジも多いのだ。せっかくアクセスしたのに本を買って読めではアクセスした意味がないのである。

インタ−ネットで情報はすべて流通する世界を構築することをビジョンとしている目的があるのだから本の世界にこだわるのは流れに反するのでは。そんな硬いことばかりの世界ではないのもインタ−ネットであり娯楽としても普及すればインタ−ネットの世界の場合、少数者にもメディアは個人のものとして開かれているので平等の権利があるともいえる。
ただそんな高邁な思想のみで社会が変わった訳でもない、事実東ドイツの崩壊は西からのテレビ放送を見てバナナを食いたいというそんなことで社会主義体制が崩壊したのだから、インタ−ネットの普及も別に高邁な思想に基づくものでなくても大勢の人がアクセスし社会化し当たり前となる時社会的に認知されたことになるのだ。

  再びパソコンの故障

今回の故障はセーフモードではやれたから前の故障よりはよかった、記録したものも残っている、しかし肝心な親指シフトのキーボードが使い;えない、これは直しようがない:なおすためにはパソコンは全部振り出しにもどすほかないのだ、スカジーとか周辺危機をとりつけているからこれもはずさないと元にもどらない、だから分解とか組み立てのようなこともやらないといけない、人に頼っていたのでは自分で直せないから不便になる、パソコンはここまで自分でしなければならない、今までの機械とは性格が違う、積極的にかかわることが要求されるのだ、だからこれからとりつけたものをとりはずしまたとりつけソフトをインストールしないといけない、これが大変なのだ、なぜならいろいろ設定も複雑であり忘れているものもありもとにもどすことがものすごく大変なのだ、WIN95から98にして不安定になった:
このパソコンを買った時モデムがおかしく再インストールした、それは富士通のサポートに電話がつながりやっとできたのだ:今はどうやったのか全く忘れた、いずれにしろパソコンは誰も保証してくれないし誰も頼りにならない:自分で
解決方法を見出せないと使いない代物なのだ、結局できないのは自分が悪いということになる、これでは普及するのはまだまだむずかしい、特に中高年にはつらい機械だ:ローマ字入力が苦手だから困る、思考の流れが中断されるから困るのだ:自分にとってこれが一番の問題であり音声入力なども試してみたがうまくいかない、いろいろつまずきはあるがやはりキーボードの問題が一番入りにくくしている:今回はノートパソコンも買った:LOOXというPHSでつしんできるものだがこれができるかどうか疑問だ:遠方から俳句など自分のホ−ムペ−ジにアップしたら面白いと思ったからだ:やはりこのパソコンの醍醐味は通信にありリアルタイムの報告ができると実況中継できるとすごいのだ
パソコンはもう一つ小型のも買った:パソコンは三台くらい必要なのだ、故障が多いから故障したらもう一台で代わりにすることが必要である、金もかかるが放送局を個人で作れるのだからしかたがない、自前のメデアを
手に入れることはすごいことなのだ。今はまだその端緒についたばかりなのである・これから自分の場合100mbのホ−ムペ−ジは必要である、すでに30mbくらいになっている、そこでどこで100mbのホ−ムペ−ジを作るか問題なのだ、いずれにしろこのパソコンの世界は通信の世界は始まったばかりなのである、さらに拡大できいろいろできる世界なのだ、発展性があるのだ、だから苦しくともやる必要がある・


俳句、文章は無断転載禁止・・・・・絵は写真などの加工で一部借用なので著作権の問題ありか?ただ今検討中
壁紙はほとんど借用

作者 小林勇一

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