遍路の魅力(文明を離れ人間臭いものを求める旅)(小林勇一)
遍路行く足どり確か春の日や碑一つ古りて昔を語る
遍路いうものこれも全く未知の世界だった。だから正直これが何を意味しているのか書くことはむずかしい。今回経験したことはこれを現代的情報的なものとして見るのも一つの見方である。遍路は一つ一つの寺を回ってゆく、一つ一つ回って札を打つことによって何か願いをかなえる。現代的なものにするとスタンプラリ-になる。しかしここには重厚な歴史があり人間の負の歴史でもあるがその足下に辺土(遍路)に捨てられた人々の屍が骨が埋まっている道でもあるのだ。そこが遍路というのが不気味なものとして地元の人に見られていたのだ。遍路は姥捨山として故郷から追われた人々から始まった歴史がある。忘れられているが姥捨山は各地にあった。阿武隈の川俣町の口太山は朽ちる山、人が朽ちてゆく、姥捨山だった。今回のショックは光貞町の山の「捨子谷」だった。明らかに子供を口減らしのために捨てる歴史があった。遍路はまずそういう人達から始まった歴史なのである。そこに遍路の歴史的重みがあるのだ。その歴史をふりかえりふまえないで遍路にはでていけないものなのだ。そういう不幸な人達の供養も遍路として勤めであることなのだ。
そういう重い歴史があるのだが現代的な遍路の意味はまた違っている。寺というのは江戸時代は戸籍係とか旅行手形を発行するとか役所の代わりになっていた。侍の菩提寺であり今でも各地の寺町には大きな立派な武家や殿様の墓がある。寺は封建時代はその土地土地に従属した役所の役割を果たしていた。そして封建時代はその土地に縛りつけられていたのだ。だから旅行したい、脱出願望が強かった。それができたのが伊勢参りとか各地の遍路だったのだ。遍路は東京では秩父があり東北では出羽三山とか他にもあったのである。遍路や巡礼の魅力はそうした土地にしばりつけられていた封建時代の唯一、脱出できる、解放感が味わえることだったのだ。
今でも一時的に社会から会社から脱出して別の異空間の世界を体験してリフレッシュする世界なのだ。旅自体そういうものだが遍路の場合、遍路の装束がありそれは江戸時代に帰るという不思議な経験することになる。遍路の歩く姿を見て江戸時代の浮世絵のようなものが蘇った感じがした。人間の歩く姿自体が絵になり詩になっている。実に頼もしいというか人間が道を歩く、大地をひたすら歩くという姿に感動したのである。これは四国で遍路だからありえた。他では歩いていてもこうは感じない、そういう歴史があり伝統があり歩くということが奇異にみられない世界だったのだ。今他では歩いていると犯罪者のようにさえ見られてしまうのだからある意味で異常である。
遍路の魅力は情報的分野から見ると寺がその土地土地で孤立しているのではなくネットワ-ク化されてつながりができて生きてくる。ちょうどコンビニのようにネットワ-クされているから奥山の寺まで生きてくるのだ。何番目の寺というのがあるが他に無住の御堂があり奥の院がある。それもまたネットワ-クの中に組み入れられて生きてくる。M寺とN寺と順番に回るのだがその間に「奥の院」がありこれも完全に結願するには回る必要があるのだ。M+(x)+N=M(x)Nとなり小さな御堂もネットワ-クの中に組み入れられて生きてくるのだ。これはパズルのようなものである。化学の分子記号のようなものでもある。奥の院も回り結願するのだ。
ネットワ-クはビジネスでも力を発揮するしネットワ-ク無しでは今や仕事にならない、東京のある会社では簡単な製本のサ-ビスをしていたがこれが東京都内だけで20くらい支店があった。ところが東京以外には一つもないのだ。東京という巨大都市の中でネットワ-ク化され仕事ができるようになっているから一極集中になるのだ。つまりこうしたネットワ-クの魅力が遍路にある。寺にもそれぞれ個性があり寺の瓦も全部違っていたことに驚いた。その手拭いを石手寺で買った。遍路の奇妙さは捨てられた小犬が遍路について行ったり遍路は今も幽霊となって四国をぐるぐる回っている。犬も遍路になる、幽霊も遍路になっているというからそれが歴史なのである。
私の場合は寺には一回もお参りしていないが遍路は信仰をぬきにしても旅をするものにとっては魅力あるものなのだ。情報というものもネットワ-ク化されるとつながりができて生きてくる。必ず欠けたものがありその欠けたものを補うものが必要になるのだ。封建時代は閉鎖的世界でありそれが実はいいじゃないかの騒ぎに見られるように御伊勢参りとかが明治維新への庶民のエネルギ-の爆発となった。人間の自由へのエネルギ-はおさえることができないものであり封建時代はいづれ自壊する運命にあったのだ。
|
|